開かずの部屋④ 記憶を渡す
翌朝、目が覚めてすぐ朝倉にメッセージを送った。
おはよう。昨日の記録を送る
メモアプリの内容を全部コピーして送った。
返信が来るまで、少し時間がかかった。
おはよう。読んだ。今朝は——昨日よりぼんやりしている
何が分からなくなっている
昨日の午後、史料室に行ったことは覚えている。でも——朝のことが、ほとんど消えている。朝食を食べたかどうかも分からない
食べていない。昨日の朝も食べていないと言っていた
そうか。食べよう
先に食べろ。それから来い
分かった
少し間があって、また来た。
湊、昨日の夜——何か思いついたと言っていたか
言っていない。でも思いついたことがある。会ってから話す
急ぎそうな話か
急ぐ。でも食べてから来い
朝倉が来たのは、三十分後だった。
俺のアパートの前で待っていた。
「食べたか」と俺は言った。
「食べた。コンビニのおにぎり」
「それでいい。入れ」
朝倉が部屋に入った。
本棚の端の白い人形を見た。
「まだいるんだな」朝倉は言った。
「いる。ここにいていいと言ったから」
「そうか」朝倉は人形を見た。「この人形、今日は少し違う気がする」
「どう違う」
「昨日より——存在感がある気がする」朝倉は首を傾けた。「でも気のせいかもしれない。記憶がぼんやりしているから、感覚も少しズレているかもしれない」
「座れ。話す」
二人でテーブルを挟んで座った。
俺は昨日の夜考えたことを話した。
「記憶を司る神の依代、という説明があった。本来の場所では、人々が自分の記憶を供えていた。死んだ人の記憶を、御神体に収めていたと書いてあった」
「そうだ」
「つまり——御神体は、本来、受け取るべき記憶がある状態で機能していた。受け取る記憶がなくなったから、近づく人間の記憶を無差別に吸い込んでいる」
「そう考えられる」
「ならば——扉を開けずに、外から記憶を渡せないか」
朝倉が俺を見た。
「記憶を、渡す?」
「御神体に向かって、記憶を供える。扉の外から。そうすれば——無差別に記憶を奪う必要がなくなる。霧が収まるかもしれない」
朝倉はしばらく黙っていた。
「理屈は分かる。でも——記憶をどうやって渡すんだ。物理的に渡せるものじゃない」
「詩音に聞きたかったのはそこだ。地下のものの記憶を持つ詩音なら——記憶を渡す方法を知っているかもしれない」
朝倉は目を閉じた。
地下のものの記憶を辿っているのが分かった。
しばらくして、目を開けた。
「ある」朝倉は静かに言った。
「方法があるのか」
「地下のものの記憶に——古い儀式の記録がある。各地の神社で、記憶を収める儀式をしていた時代の記録が。その中に——記憶神社と同じ種類の神社の儀式が残っている」
「どんな儀式だ」
「言葉を使う。記憶を言葉にして、御神体に向かって語りかける。言葉に変換することで、記憶が御神体に届く」朝倉はノートを開いた。「ただの言葉じゃない。その人間にとって、本当に大切な記憶でなければならない。形式的な言葉では届かない」
「大切な記憶を、言葉にして語りかける」
「そうだ。そしてその言葉が届いたとき——御神体が満たされれば、記憶を奪う動きが止まる。少なくとも、しばらくは」
「しばらくは、か」
「永続的な解決には、元の場所に帰すことが必要だ。でも——記憶を渡すことで、一時的に落ち着かせることはできると思う。その間に、岩手の神社と連絡を取る」
「昨日、集落に連絡先を見つけた。連絡したのか」
「今朝、メールを送った。まだ返信はない」
「記憶を言葉にして語りかける」俺は繰り返した。「それは——誰がやるんだ」
「私がやる方が、確実だ。地下のものの記憶があるから——記憶を言葉に変換することに、慣れている」
「でも詩音は今、記憶が薄れている。今日の朝のことが消えかけている状態で——大切な記憶を語れるか」
朝倉は少し間を置いた。
「古い記憶は残っている。橘さんのことも、白哉さんのことも、凛の儀式のことも——高校からの記憶は消えていない。だから語れる」
「高校からの記憶を語るのか」
「それが一番、深い場所にある。核に近い場所にある」朝倉は俺を見た。「湊のことも含めて」
俺は朝倉を見た。
「詩音の大切な記憶に、俺のことが入っているのか」
「入っている」朝倉はあっさり言った。「当たり前だ。一番深い場所にある」
俺は何も言えなかった。
「そういう顔をするな」朝倉は少し笑った。「今は怪異の話をしている」
「分かった」俺は気持ちを整えた。「詩音が語る。俺は後ろにいる」
「いてくれるか」
「どこにでもいる」
午後、二人で図書館の地下に向かった。
今日は長居しない。
扉の前に立って、語りかけて、すぐ出る。
そう決めていた。
階段を降りた。
昨日より霧が濃かった。
扉の下から漏れる霧が、資料室全体に薄く広がっていた。
「濃くなっている」と俺は言った。
「そうだな」朝倉は足を速めた。「急ごう」
奥の扉の前に立った。
霧が足元を這っていた。
朝倉が一歩前に出た。
「後ろにいてくれ」
「いる」
朝倉が扉に向かって、深く息を吸った。
語り始めた。
静かな声だった。
でも確かな声だった。
「聞こえているか。ここにいる者に、語りかける」
霧が揺れた。
「私の名前は朝倉詩音。この大学の二年生だ。あなたがここに連れてこられてから、八十年が経った。本来いるべき場所から、ずっと離されていた。それは——辛かっただろう」
資料室の空気が、変わった。
重くなった。でも怒りの重さじゃなかった。
何かが、聞いていた。
「大切な記憶を、あなたに渡したい。形式じゃなく、本当に大切だと思っている記憶を」朝倉は続けた。「高校二年生の放課後、一人で図書室にいた。調べ物をしていた。一年間、一人でいた。でもある日——転校生が来た」
俺は朝倉の後ろで、黙って聞いていた。
「その人と一緒に、怪異と向き合った。怖かった。でも——一人じゃなかった。その人が隣にいてくれたから、止まらないでいられた」
霧が、少し薄くなった気がした。
「帰れない者を送った。神社の御神体を返した。地下の神を封じた。旅人を故郷に帰した。全部、一緒にやった。全部——本当にあったことだ。消えない記憶だ」
朝倉の声が、続いた。
「一番大切な記憶を話す。去年の春、卒業式が終わった後——一人でいた詩音と呼んでくれた。初めて名前で呼ばれた日のことを、覚えている。怖かった怪異の後でも、普通に並んで帰った日のことを、覚えている。海で引き込まれかけたとき、手を引っ張ってくれたことを、覚えている」
霧が、確かに薄くなっていた。
「これが私の記憶だ。この人と一緒に生きてきた記憶だ。あなたに渡す。受け取ってほしい」
沈黙が来た。
完全な静けさが来た。
霧が止まった。
動かなくなった。
それから——ゆっくりと、扉の下に戻っていった。
薄くなっていった。
そして消えていった。
朝倉が振り返った。
顔が、少し青ざめていた。
「出よう」俺は朝倉の腕を掴んだ。
二人で資料室を出た。
階段を上がって、外に出た。
春の光の中に出た。
朝倉が深く息を吸った。
「大丈夫か」と俺は言った。
「大丈夫だ。ただ——疲れた」
「記憶を語るのは、体力を使うのか」
「使う。でも——届いた気がする」
「霧が引いていた」
「そうだな」朝倉は空を見た。「一時的だと思う。でも——少し時間ができた」
「その間に、岩手から返信を待つ」
「そうだ」
俺はベンチに朝倉を座らせて隣に座った。
「詩音」
「何?」
「さっき語っていた記憶の中に、俺が出てきた」
「出てきた」朝倉は前を向いたまま言った。「それが問題か」
「問題じゃない。ただ——聞いていて」
「何だ」
「詩音の大切な記憶の中に、俺がいる。それが——嬉しかった」
朝倉は少し間を置いた。
「当然だろ」
「当然か」
「当然だ」朝倉は俺を見た。「あなたがいなかったら、話せる記憶がなかった。一番大切な記憶が、あなたと一緒にある。それは——当然のことだ」
「そうか」
「そうだ」朝倉は前を向いた。「うるさい」
「何も言っていない」
「顔が語っている」
「そうか」俺は少し笑った。「詩音も顔が語っているぞ」
「うるさい」朝倉は耳を赤くした。
夕方、朝倉のスマホに通知が来た。
「メールだ」朝倉はスマホを見た。「岩手の集落から、返信が来た」
「何と書いてあった」
朝倉がメールを読んだ。
表情が変わった。
「どうした」と俺は聞いた。
「集落の自治会長から来た」朝倉は静かに読み上げた。「メールを受け取りました。記憶神社のことをご存知の方がいるとは、驚きました。神社は今も存在しています。ただ——七十年以上、御神体が戻っていません。神社の建物は残っていますが、中は空のままです。もし御神体の在り処をご存知であれば、ぜひ教えていただきたい」
「神社が残っていた」と俺は言った。
「残っていた。空のままで、ずっと待っていた」朝倉はスマホを握った。「七十年以上——御神体が戻るのを、待っていた」
「返事を書くか」
「今すぐ書く」
朝倉がメールを書いた。
御神体がこの大学の図書館地下にあること。扉を開けた者が全ての記憶を失うこと。霧が漏れ始めて学生に影響が出ていること。一時的に抑えたが、早急に元の場所に戻す必要があること。
全部書いた。
送信した。
俺は朝倉を見た。
「返信が来たら、どうするんだ」
「向こうから、誰か来てもらえるか聞いた。御神体を受け取れる人間が必要だ。こちらから持っていくことは——扉を開ける必要があるから、難しい」
「向こうから来てもらって、開けてもらうのか」
「そうだ。神社の関係者なら——記憶を全て失うことはないかもしれない。本来の管理者だから」
「確信はあるか」
「ない」朝倉は正直に言った。「でも——論理的にはそう考えられる。御神体を扱う権限を持つ人間であれば、記憶を失わない可能性がある」
「可能性、か」
「確信がないのは分かっている。でも——今できる最善だ」
「そうだな」俺は言った。「返信を待とう」
帰り道、二人で並んで歩いた。
「今日の朝の記憶は、今はどうだ」と俺は聞いた。
「少し戻ってきた気がする」朝倉は言った。「朝食を食べたことが、うっすら思い出せる」
「コンビニのおにぎりを食べた」
「そうか。思い出せた」朝倉は少し笑った。「記憶を渡したことで、私の記憶も少し戻ったのかもしれない」
「御神体が落ち着いたから、吸い込む量が減った?」
「そうだと思う。一時的だけど——效果があった」
「よかった」
「でも——早く岩手から返信が来るといい。時間が経てば、また霧が濃くなる。永続的に記憶を語り続けることはできない」
「そうだな」
朝倉が少し立ち止まった。
「湊」
「何だ」
「さっき、記憶を語ったとき——怖かった」
「何が怖かった」
「大切な記憶を、外に出すことが怖かった。渡してしまったら、その記憶が薄れるんじゃないかと思って」
「薄れたか」
「薄れていない。ちゃんと残っている」朝倉は静かに言った。「渡しても、消えなかった。大切な記憶は——語っても、消えないんだと分かった」
「当然じゃないのか」
「怪異に関わる前の私なら、そう思っていた。でも記憶が薄れていく怪異に関わって——怖くなっていた。大切なものも、消えるんじゃないかと」
「消えない」俺は言った。「詩音の大切な記憶は、消えない。俺が覚えているから」
朝倉は俺を見た。
「……それは、ずるい言い方だ」
「ずるくない。本当のことだ」
「毎回それだ」朝倉は前を向いた。でも口の端が、少し上がっていた。
その夜、岩手の集落から返信が来た。
朝倉から転送されてきた。
メールを読みました。御神体がそちらにあると分かり、長年の謎が解けました。私は現在、集落に残っている数少ない住民の一人です。記憶神社の元宮司の孫にあたります。祖父から、いつか御神体が戻ってくると聞かされていました。こちらから伺います。ただ、一点確認させてください。御神体を扱ったことがある人間でなければ、扉を開けることができないと聞きましたが——私の祖父が書き残した記録に、御神体を受け取るための作法が書いてあります。その作法を使えば、記憶を失わずに扱える可能性があります。伺う前に、もう少し準備をさせてください。一週間ほど時間をいただけますか
朝倉からのメッセージが続いた。
一週間だ
一週間、詩音の記憶を守らないといけないな
そうだ。毎日、記憶を語り続ける必要があるかもしれない
大丈夫か
大丈夫だ。大切な記憶は、語るほど深くなる気がした。怖くなかった
そうか
でも——湊
何だ
一週間、毎朝記録を送ってくれるか
当然だ。毎朝送る
毎晩も送ってくれるか
送る
会って確認してくれるか
毎日会う
少し間があった。
……大丈夫だ。湊がいれば、一週間乗り越えられる
乗り越えられる。絶対に
約束か
約束だ
おやすみ、湊
おやすみ、詩音。明日の詩音に——今日の詩音は、怖いのに怖くないふりをしながら、ちゃんとやりきったと伝えておく
長い間があった。
……怖くないふりをしているのが、ばれていたか
最初からばれていた
そうか
でも、やりきった
やりきった。おやすみ
一週間。
詩音の記憶が、これ以上薄れないように。
毎朝、毎晩、記録を送る。
毎日会って、確認する。
本棚の端に、白い人形がいた。
今日は、確かに存在感があった。
さっきより、大きく感じた。
「お前も聞いていたのか」俺は人形に言った。
返事はなかった。
でも——今日の人形は、少し違って見えた。
さっきまでの笑顔が、応援しているように見えた。
気のせいかもしれなかった。
でも——悪くなかった。




