開かずの部屋⑤ 記憶は還る場所を知っている
一週間が経った。
その七日間は、今まで生きてきた中で、最も密度の高い一週間だった。
毎朝、目が覚めると朝倉に記録を送った。
毎晩、今日あったことをまとめて送った。
毎日、二人で会った。
朝倉は毎日、図書館の地下に降りた。
扉の前に立って、記憶を語りかけた。
毎日、違う記憶を語った。
橘さんを送った日のこと。
白哉さんが光の中に消えた日のこと。
広斗くんが山道を走っていった日のこと。
九州で荒海神社の扉の前に立った日のこと。
京都の縁側で、二人で庭を見た夜のこと。
どれも、本当にあったことだった。
どれも、消えない記憶だった。
七日目の朝。
朝倉から連絡が来た。
おはよう。記録を読んだ。今日——菊池さんが来る
菊池さん。
岩手の集落から来る、記憶神社の元宮司の孫だった。
今日、全部終わるかもしれない
そうだな。詩音、記憶の状態はどうだ
一週間、毎日語りかけてきた。霧は一定の量で抑えられている。でも今日の朝のことは——また少しぼんやりしている
コンビニのおにぎりを食べたか
食べた。昨日の夜、明日は絶対に食べると決めたから、覚えていた
それは正しい方法だな
前日に決めておけば、翌朝忘れない。一週間で学んだ
賢いな
必要に迫られた
午前十一時、大学の正門前で待ち合わせた。
俺と朝倉と、もう一人。
凛が来ていた。
「凛、来たのか」と俺は言った。
「受験勉強は今日だけ休みます」凛は言った。「こういうときに来ないでどうするんですか」
「高校三年生だぞ」
「だから一日だけです。でも——来なければならないと思った」
「なぜ」
「水無瀬家の血を引く私が、いた方がいい気がしたから」凛はまっすぐ言った。「御神体を扱う場に、水無瀬家の人間がいることは——意味がある気がします」
朝倉が凛を見た。
「来てくれてよかった」
「そう言ってもらえると、来た甲斐があります」
菊池さんは、時間通りに来た。
五十代くらいの、白髪交じりの女性だった。
小柄で、静かな目をしていた。
古い風呂敷包みを持っていた。
「朝倉さんですね」菊池さんは朝倉に頭を下げた。「メールをいただいて、ありがとうございました。長年、探していました」
「こちらこそ、来ていただいてありがとうございます」
「御神体のことを、よく調べてくださいました。私の祖父が書き残した記録でも、戦時中にどこへ持ち去られたか分からなかったので——」菊池さんは少し目を細めた。「この方たちは?」
「桐島湊です。一緒に調べました」俺は言った。
「水無瀬凛です」凛も言った。
菊池さんが凛の名前を聞いて、表情が変わった。
「水無瀬家の方ですか」
「はい。傍系ですが」
「そうですか」菊池さんは少し考えた。「水無瀬家とは、昔から縁がありました。記憶神社の御神体を守る家と、水無瀬家は——互いに関わりがあったと、祖父の記録に書いてありました」
「そうだったのですか」凛は少し驚いた顔をした。
「あなたが来てくれたのは、偶然ではないかもしれない」菊池さんは静かに言った。「行きましょう」
四人で図書館に向かった。
守衛さんに事情を話した。
守衛さんは一年前とは別の人間だったが、快く協力してくれた。
地下への鍵と、開かずの部屋の鍵を貸してくれた。
「鍵を使ったことは、一度もないんです」守衛さんは言った。「代々、使わないようにと引き継がれてきた鍵でしたが——今日、使う日が来たんですね」
「来ました」朝倉は言った。
地下に降りた。
霧は昨日より薄かった。
一週間、毎日語りかけてきたことで、御神体が少し落ち着いていた。
でも完全にはなくならなかった。
開かずの扉の前に来た。
菊池さんが扉を見た。
しばらく黙っていた。
「七十年以上ぶりですね」菊池さんは静かに言った。「祖父は、御神体を取り返しに来て、記憶を失いました。そのことをずっと後悔していたと、祖父の遺品の中にありました」
「祖父さんが記憶を失ったんですか」と俺は聞いた。
「終戦後、この大学に来て、扉を開けようとした。その瞬間、その場で意識を失って——目が覚めたとき、なぜここに来たかを覚えていなかった。御神体のことも、神社のことも、全部忘れていた」菊池さんは手に持った風呂敷包みを見た。「後から少しずつ、断片的に思い出したそうです。そのときの記録を、書き残しておいてくれた」
「作法が書いてあると言っていたな」と朝倉が言った。
「そうです。記憶を失いながらも、なぜ失ったかは分かった。御神体に近づく者の記憶を、御神体が吸い込むから——受け取る権限を持つ者でも、準備なしに扉を開けると記憶を失う。でも——御神体を迎える作法を先に行えば、記憶を失わずに扉を開けられると書いてありました」
「その作法を、今日行うのか」
「そうです」菊池さんは風呂敷包みを開いた。「祖父が書き残した作法の手順と——御神体を迎えるための道具が入っています。祖父が使っていたものです」
菊池さんが準備を始めた。
扉の前に、小さな布を敷いた。
小さな器を出した。
乾いた草を入れて、火をつけた。
煙が上がった。
穏やかな匂いがした。
朝倉が俺の隣に来た。
「どんな匂いだ」と俺は小声で聞いた。
「草の匂い。でも——山の匂いがする。記憶神社がある山の匂いかもしれない」朝倉は静かに言った。「地下のものの記憶に——似た匂いがある。この土地の昔の匂いと、重なる部分がある」
「記憶の匂いなのか」
「そうかもしれない」
菊池さんが、言葉を唱え始めた。
古い日本語だった。
朝倉が耳を澄ませた。
「読めるか」と俺は小声で聞いた。
「少し分かる。御神体に語りかけている。帰る場所があること。待っている人間がいること。連れて帰りに来たこと」朝倉は静かに言った。「一週間、私が語りかけてきた言葉と——同じことを、言っている」
「そうか」
「この作法は——御神体に、帰る準備をさせる儀式だと思う。急に扉を開けるんじゃなく、帰る時間が来たと、先に伝える」
三分ほど、菊池さんの言葉が続いた。
霧が、また薄くなった。
今度は昨日より、さらに薄くなった。
菊池さんが言葉を止めた。
立ち上がった。
「準備ができました」菊池さんは鍵を受け取った。「扉を開けます。皆さんは——少し後ろに下がっていてください。扉を開けた瞬間、強く出てくる可能性があります」
「私は近くにいます」朝倉は言った。
「朝倉さんは、一週間語りかけてくださった。御神体は朝倉さんを、もう知っている。近くにいても大丈夫だと思います」菊池さんは凛を見た。「水無瀬家の方も、近くにいてください。水無瀬家と記憶神社の縁が——助けてくれるかもしれない」
「分かりました」凛は前に出た。
「桐島さんは——」菊池さんは俺を見た。「少し後ろで待っていてください」
「分かりました」
朝倉が俺を見た。
「後ろにいてくれ」朝倉は言った。
「いる」
「何があっても」
「何があっても」
菊池さんが鍵を鍵穴に差し込んだ。
ゆっくりと、回した。
重い音がした。
百年近く動いていなかった鍵が、回った。
扉が、開いた。
光が来た。
暗い部屋の奥から、白い光が溢れてきた。
霧じゃなかった。
光だった。
温かくて、静かな光だった。
俺は後ろで、その光を見ていた。
目が痛くなるような光じゃなかった。
夜明けの光みたいだった。
朝倉が、光の中を見た。
「見えるか」と俺は声をかけた。
「見える」朝倉は静かに言った。「奥に——小さなものがある。台座の上に乗っている。木で作られた、小さな像だ」
「御神体か」
「そうだと思う。白哉さんが守っていた御神体たちと、雰囲気が違う。もっと古い。でも——穏やかだ。怒っていない」
「一週間、語りかけてきたから」
「そうだと思う」朝倉は微かに笑った。
菊池さんが、部屋の中に入った。
ゆっくりと歩いた。
奥の台座の前に立った。
深く頭を下げた。
「長い間、ここに置かせてしまいました。申し訳ありませんでした」菊池さんは静かに言った。「今日、お迎えに来ました。帰りましょう。神社が、待っています」
光が強くなった。
台座の上の像が、光を放った。
その光が、部屋から廊下に広がった。
俺のいる場所まで届いた。
温かかった。
怒りじゃなかった。
怖くなかった。
ただ——温かかった。
長い間、一人でいた何かが、やっと帰れることを知ったときの温かさだった。
菊池さんが像を両手で持ち上げた。
抱きかかえるように、胸の前で持った。
光が、像に集まった。
そして——霧が、完全に消えた。
扉の下から漏れていた霧が、全部なくなった。
資料室の空気が、変わった。
重さが消えた。
ただの、古い資料室になった。
菊池さんが部屋を出た。
四人で、地下から出た。
外に出た瞬間、春の光が眩しかった。
朝倉が深く息を吸った。
「終わったな」と俺は言った。
「終わった」朝倉は言った。
「記憶は大丈夫か」
朝倉は少し考えた。
「今朝のことが——戻ってきた気がする。コンビニで買ったおにぎりの、包みの色まで思い出せる」
「よかった」
「うん」朝倉は空を見た。「よかった」
菊池さんが俺たちを見た。
「本当にありがとうございました」菊池さんは深く頭を下げた。「一週間、語りかけてくださったおかげで、御神体が落ち着いていた。あの状態でなければ、私も今日は扉を開けられなかったと思います」
「朝倉先輩が、毎日語りかけていました」凛は言った。
「そうですか」菊池さんは朝倉を見た。「どんな記憶を語ってくださったんですか」
「大切な記憶を」朝倉は静かに言った。「一番大切な記憶を、毎日」
「そうですか」菊池さんは微かに笑った。「御神体も、喜んでいたと思います。大切な記憶を受け取るのが、本来の役割ですから」
菊池さんが帰り支度をした。
「岩手まで、長い旅になりますね」と俺は言った。
「そうですね。でも——長く待たせてしまいましたから」菊池さんは像を大切そうに包み直した。「神社に戻ったら、ちゃんとした場所に安置します。また村の人たちが、大切な記憶を預けに来られるようになるといいと思って」
「神社が機能するようになるんですね」と凛が言った。
「そうなるといいと思っています」菊池さんは凛を見た。「水無瀬凛さん、一つお願いがあります」
「何ですか」
「いつか、神社に来てください。水無瀬家と記憶神社の縁を、次の世代に繋いでほしい」
凛は少し驚いた顔をした。
「私が、行っていいんですか」
「ぜひ来てください。あなたのような方に来ていただけると、神社も喜ぶと思います」
「……行きます。必ず」凛は頷いた。「受験が終わったら、行きます」
「待っています」
菊池さんが歩いていった。
正門を出て、バス停の方へ。
三人でその背中を見送った。
春の午後の光の中を、菊池さんが歩いていった。
胸に像を抱えて。
七十年分の重さを、持って帰っていった。
三人でベンチに座った。
凛が大きく息をついた。
「終わりましたね」
「終わった」と俺は言った。
「受験勉強を一日休んだ甲斐がありました」
「そうだな」
「来てよかったです。私が来るべきだったと思う」凛は菊池さんが去った方向を見た。「水無瀬家と記憶神社に縁があるとは、知らなかった。でも——なぜか、来なければならない気がしていた」
「水無瀬家の血だな」と朝倉が言った。
「そうかもしれません」凛は少し笑った。「先輩たちは、一週間大変でしたね」
「大変だった」朝倉は静かに言った。「でも——悪くなかった」
「悪くなかった?」
「毎日、大切な記憶を語りかけた。大切な記憶は、語るほど深くなった。忘れかけていた自分にとって——それは、大切なことだったと思う」
「記憶が薄れる怪異に、大切な記憶が守られたんですね」凛は静かに言った。
「そうだね。皮肉だけど——そうだ」
「受験、頑張れよ」と俺は言った。
「頑張ります。でも——また何かあったら、呼んでください」
「呼ぶ。でも受験が終わるまでは、呼ばない」
「約束ですか」
「約束だ」
「朝倉先輩も、約束してください」
「呼ばない。受験が終わるまで」朝倉は言った。
「よかった」凛は笑った。「じゃあまた、先輩たち。受験終わったら、一緒に記憶神社に行きましょう」
「行こう」俺は言った。
「楽しみにしています。おつかれさまでした」
凛が歩いていった。
二人になった。
中庭のベンチに座った。
銀杏の木が、春の光を受けていた。
朝倉が空を見上げた。
「一週間、毎朝記録を送ってくれた」朝倉は言った。
「送った」
「毎晩も送ってくれた」
「送った」
「毎日会って、確認してくれた」
「した」
「おかげで——一週間、記憶が保った」朝倉は俺を見た。「ありがとう、湊」
「どういたしまして」
「湊がいなかったら、どうなっていたか分からない」
「なんとかなっていたと思うぞ」
「そうかもしれない。でも——湊がいたことで、怖くなかった。記憶が薄れていく怖さが、半分になっていた」
「半分か」
「半分は私が持った。でも残り半分は——湊が持っていてくれた気がした」
俺は朝倉を見た。
「詩音の記憶は、俺も一緒に覚えている。それは今も変わらない」
「一週間分の記録、今も全部あるか」
「ある。消していない」
「消さないでくれるか」
「消さない。詩音が読み返したくなったとき、いつでも見られるように」
朝倉は俺を見た。
少し目が潤んでいた。
「……今、泣きそうだ」
「泣いていい」
「泣かない」
「なぜ」
「終わったから。終わったなら、泣かなくていい」
「終わったから、泣いていい」
「うるさい」朝倉は空を見た。「今日の空、きれいだな」
「そうだな」
「青い。記憶神社の山も、こういう空の下にあるんだろうな」
「そうかもしれないな。凛が受験終わったら、一緒に行こう」
「行く」朝倉は静かに言った。「菊池さんに会いにいく。御神体に、また語りかけに行く」
「何を語りかけるんだ」
「また一年分、大切な記憶が増えているから」朝倉は俺を見た。「今年の記憶を、語りかけに行く」
「来年の記憶も、再来年の記憶も、増えていくな」
「増えていく」朝倉は静かに言った。「毎年、増えていく。
その夜、朝倉からメッセージが来た。
今日の夜は、記録を送らなくてもいい
なぜ
今日のことは、全部覚えている。鮮明に覚えている。忘れない気がする
そうか
でも——一つだけ確認させてくれ
何だ
私の名前は何だ
俺は少し笑った。
朝倉詩音。詩音だ
そうか。ちゃんと呼んでくれた
何回でも呼ぶ
一週間、毎日呼んでくれた
呼んだ
毎朝、毎晩、会うたびに——私の名前を呼んでくれた
そうだな
なぜ毎回呼んでくれたんだ
俺は少し考えた。
詩音の名前を呼ぶと、詩音がこちらに戻ってくる気がしたから
長い間があった。
……そうか
そうだ
名前を呼ばれると、戻ってこられる、と言っていた。前に
言っていた
今も、そうだ。呼ばれると——ここに戻ってこられる
ならこれからも呼ぶ。ずっと
ずっと、か
そうだ
約束か
約束だ
また長い間があった。
湊
何だ
今週、大切な記憶を毎日語りかけた。大切な記憶は、語るほど深くなった、と言った
言っていた
一番深くなった記憶は——湊のことだ
俺は画面を見つめた。
一週間で、一番深くなったのか
そうだ。毎日語ったから。毎日、一番大切な記憶として語り続けたから
詩音
何だ
朝倉詩音
なんで名前で呼ぶんだ
呼ぶと戻ってくるから
今はどこにも行っていない
そうだな。でも——呼びたかった
また長い間があった。
……ずるい
ずるくない
ずるい。そういうことをするから
何かしたか
名前を呼ばれると、弱くなる
弱くなっていいだろ
よくない
なぜ
照れるから
俺は笑った。
照れていい
うるさい。おやすみ
おやすみ、詩音。今日もよく頑張った
今日の詩音に言ってくれるのか。もう今日は終わっている
今日の詩音に言う。よく頑張った
最後の返信が来た。
……ありがとう。おやすみ、湊
本棚の端の白い人形が、こちらを向いていた。
赤い糸の顔が、笑っていた。
一週間前より、確かに存在感があった。
「終わったぞ」俺は人形に言った。
返事はなかった。
でも——部屋の空気が、温かかった。
この部屋に大切な記憶が積まれていく。
毎日、毎晩、記録を書き続けた一週間で——この部屋に、詩音との記憶が積まれた。
記憶神社の御神体は、岩手に帰った。
帰るべき場所に帰った。
でも——この部屋には、記憶が残った。
これからも、積まれていく。
それでいい。
窓の外に、春の夜空が広がっていた。
星が出ていた。
岩手の山の上にも、同じ星が出ているだろう。
記憶神社に、御神体が戻った夜の星が。




