白い人形が動いた夜編① 平和な五月
大学編第ニ章
五月になった。
連休が終わって、キャンパスに日常が戻った。
中庭の銀杏の木が、青々と葉を広げていた。
図書館の地下は静かだった。
守衛さんが言うには、霧はあの日以来、完全に消えたままだと言っていた。
記憶を失いかけた学生は、全員記憶を取り戻した。
昨日まで大騒ぎだったのが嘘みたいに、キャンパスは普通の春に戻っていた。
朝倉の記憶も完全に戻っていた。
図書館で向かい合って座ると、朝倉はいつもと変わらない顔をしていた。
「今朝のこと、覚えているか」と俺は聞いた。
「覚えている。おにぎりを食べた。昨日のより美味しかった」
「具は何だった」
「明太子」
「正解だ」
「もう確認しなくていい」朝倉は静かに言った。「完全に戻った。一ヶ月前から、ぼんやりすることが一度もなくなった」
「よかった」
「でも——」朝倉は少し間を置いた。「湊が毎朝確認してくれることが、習慣になっていた。なくなると、少し物足りない」
「物足りないのか」
「少しだけ」朝倉は前を向いた。「確認しなくていいことは、いいことだ。分かっている」
「でも続けようか。毎朝の確認」
「必要ないだろ」
「必要かどうかじゃなく、続けたいから続ける」
朝倉はノートを開いたまま、少し間を置いた。
「……そうしてくれると、嬉しい」
「分かった。続ける」
連休中、凛から散発的にメッセージが来ていた。
模試の結果が来ました。E判定でした
めげるな
めげていません。でも怖いです
怖いのは当然だ。でも向き合え
朝倉先輩みたいなことを言いますね
そうか?
言葉が似てきています。移っているんですかね
悪くないな
いいことだと思います。おやすみなさい、先輩
朝倉にその会話を見せた。
「言葉が似てきているらしいぞ」と俺は言った。
「そうか」朝倉は少し考えた。「でも湊が最初に言い始めたことが多い。私が湊から移されたのかもしれない」
「どっちでもいい」
「そうだね。どっちでもいい」
五月の第二週の夜、変なことが起きた。
夜の十一時頃、俺は課題をやっていた。
本棚の端の白い人形が、視界の隅に入っていた。
いつもの場所にいた。
いつもの笑顔だった。
でも——ふと気づいた。
向きが、変わっていた。
昨日まで、人形は部屋の中央を向いていた。
でも今は、窓を向いていた。
俺は人形を見た。
「動いたのか」と俺は言った。
返事はなかった。
でも——確かに向きが違った。
昨日まで窓は向いていなかった。
俺は人形を手に取った。
温かかった。
いつもより、温かかった。
窓の外を見た。
春の夜の街が広がっていた。
特に何もなかった。
でも人形は、この方向を向いていた。
理由がある気がした。
朝倉に送った。
人形の向きが変わっていた
どっちを向いていた
窓の方角だ
少し間があった。
窓の外は何がある
普通の住宅街だ。でも——少し遠くに、古い神社がある
どんな神社だ
初詣に行ったところだ。守り続けている存在がいた神社
また間があった。
何かを教えようとしているのかもしれない
人形が?
そうだ。あの人形——ただの記憶の残滓じゃないかもしれない
どういう意味だ
一章が終わってから、存在感が増していると言っていた。それと同時期に、向きが変わった。偶然じゃない気がする
明日、神社に行ってみるか
行こう。でも——湊、一つ聞いていいか
何だ
人形を持って、神社に行ってみてほしい
人形を持って?
何かを示そうとしているなら、神社で反応するかもしれない
分かった。持っていく
おやすみ、湊
おやすみ、詩音。今朝は何を食べた
もう確認しなくていいと言った
続けると言ったのは俺だ
少し間があった。
……卵かけご飯を食べた
よかった。ちゃんと食べている
うるさい。おやすみ
翌朝、朝倉が来た。
俺は人形を小さな布に包んで、鞄に入れた。
「どっちを向いているか、また確認したか」朝倉は言った。
「確認した。また向きが変わっていた」
「どっちに」
「神社の方角じゃなくなっていた。別の方角を向いていた」
「どの方角だ」
「大学の方角だ」
朝倉は少し考えた。
「大学に、何かあるのか」
「分からない。でも——人形が大学の方を向いているなら、大学が関係しているのかもしれない」
「第一章は、大学の図書館地下だった。まだ終わっていない何かが、大学にあるのかもしれない」
「そう思うか」
「思う」朝倉は静かに言った。「でも今日は——神社に行こう。人形を持って。人形がどう反応するか見てから、考える」
二人で神社に向かった。
初詣のときに来た、古い神社だった。
参道を歩いた。
鳥居をくぐった。
境内に入った。
春の境内は、静かだった。
参拝客はいなかった。
本殿の前に立った。
俺は鞄から、布に包んだ人形を取り出した。
「ここで出してみるか」と俺は言った。
「出してみよう」
布を開いた。
人形が現れた。
白い布に、赤い糸の顔。
その瞬間——人形が、本殿の方を向いた。
「動いた」俺は言った。
「動いた」朝倉は人形を見た。「でも——怪異の気配じゃない。もっと穏やかな感じだ」
「神社に反応しているのか」
「そうだと思う。でも——ただ反応しているんじゃない」朝倉は目を閉じた。「感じる。地下のものの記憶の端に——この人形と似た何かがある」
「似た何かとは」
「子どもの気配だ。この人形を大切にしていた子どもの気配が——この神社の記憶にも、ある」
「どういうことだ」
「この神社に——昔、この人形を持っていた子どもが来たことがある」朝倉は目を開けた。「この神社に関係のある子どもが、この人形を持っていた」
本殿の脇に、社務所があった。
声をかけると、初詣のときに会った神職の方が出てきた。
「また来てくれましたか」神職の方は言った。
「少し聞きたいことがあります」朝倉は言った。「この神社に、昔から関わっていた家がありますか。子どもを連れて、よく来ていた家が」
「たくさんいますよ。氏子の家は代々来ていますから」神職の方は少し考えた。「でも——特別に縁が深い家、ということであれば、一軒だけ思い当たります」
「どんな家ですか」
「昔、この神社の近くに住んでいた家です。戦後に引っ越してしまって、今はいませんが——その家の子どもが、よく一人でここに来ていました。小学生くらいの子どもが」
「その子どもが持っていた人形はありますか」
神職の方が、俺の手元の人形を見た。
表情が変わった。
「……その人形を、どこで見つけましたか」
「私のアパートの押し入れです」俺は言った。「今年の春に引っ越してきて、押し入れの奥に入っていました」
「そうですか」神職の方は人形を見た。「その人形——私が子どもの頃、境内でよく見かけました。あの子が、いつも持っていた人形です」
「あの子、というのは誰ですか」と朝倉が聞いた。
「氏子の家の子でした。加瀬 光雄くん、といいます。今は六十代のはずです」神職の方は続けた。
「あの子は——不思議な子どもでした。境内にいると、よく見えないものと話しているようなそぶりをしていた。私の父が、あの子には何かが見えているんだろうと言っていました」
「引っ越してしまったと言っていました。なぜ引っ越したんですか」
「家庭の事情で。高校生のときに、この町を離れました。その後は——あまり連絡がないまま、時間が経って」神職の方は人形を見た。「でも——その人形をここに残していったことは、知っていました」
「残していった?」と俺は言った。
「引っ越す日の朝、境内に一人で来ていました。本殿の前で長い間、手を合わせていました。でも人形は——境内に置いていきませんでした。持って帰っていた」神職の方は首を傾けた。「だからその人形が、なぜあなたのアパートにあったのかが、不思議です」
神社を出た。
参道を歩きながら、朝倉が言った。
「加瀬光雄さん、か」
「探せるか」と俺は言った。
「名前と、この町に住んでいたということが分かっているから——調べられるかもしれない」朝倉はノートにメモした。「でも——なぜ人形が俺のアパートにあったのかが気になる」
「俺もそれが引っかかっている。加瀬さんが持って帰った人形が、なぜ俺のアパートの押し入れにあったのか」
「俺のアパートに、加瀬さんが住んでいたことがあるのかもしれない」
「築十五年のアパートだ。加瀬さんが六十代なら——年代が合わない気がするが」
「加瀬さん自身じゃなくて——加瀬さんの子どもか、孫かもしれない」朝倉は静かに言った。「人形が代々受け継がれていたなら、次の世代が俺のアパートに住んでいた可能性がある」
「そしてその人が引っ越すときに、押し入れの奥に忘れていった」
「そうかもしれない」
アパートに戻った。
管理会社に電話して、以前の入居者について聞いた。
個人情報の観点から、名前は教えてもらえなかった。
でも一つだけ、教えてもらえたことがあった。
「以前の入居者は、二十代の方でした」管理会社の担当者は言った。「三年ほど住まれていて、去年の春に退去されています」
「退去した理由は」
「就職で、別の県に引っ越されると言っていました。急な決定だったようで、荷物の一部を置いていかれたと記録にあります。後で取りに来ると言っていましたが——その後、連絡が取れなくなったとも書いてあります」
「荷物はどこに」
「当社で保管しています。しばらく連絡がない場合は処分することになっていますが——まだ保管期間内です」
「その方のお名前は、もし差し支えなければ——」
「申し訳ございませんが、個人情報ですので」
「そうですよね。分かりました。ありがとうございました」
電話を切った。
朝倉に報告した。
「去年の春に退去した、二十代の人間が以前住んでいた。荷物を置いていって、連絡が取れなくなった」
「急いで退去したなら——人形を忘れていったことも、ありえる」朝倉は言った。「でも連絡が取れなくなった、というのが気になる」
「加瀬さんの孫なら、加瀬光雄さんに繋がるかもしれない」
「加瀬さんを探そう。名前と、この町の出身ということが手がかりになる」
「同窓会の記録とか、地域の記録に残っているかもしれない」
「そうだな」朝倉はノートを開いた。「でも今日はここまでにしよう。急ぐ案件じゃない気がする」
「そうか?」
「人形は穏やかだ。怒っていない。急いで解決しなければいけない怪異じゃない」朝倉は人形を見た。「ただ——何かを伝えようとしている。それが何かを、ゆっくり解き明かしていけばいい」
「また新しい謎が始まったな」と俺は言った。
「そうだな」朝倉は少し笑った。「でも——前の章みたいに、誰かの記憶が薄れていくわけじゃない。今度は——人の縁を辿る怪異だと思う」
「人の縁か」
「人形が神社を向いた。神社に子どもが来ていた。その子どもが加瀬光雄さんで、今六十代だ。その人と、俺たちが繋がっている何かがある」
「繋がっている理由が、まだ分からない」
「それを探すのが——次の章だ」朝倉はノートを閉じた。「でも今日は、平和な五月を楽しもう」
「そうするか」
「課題はあるか」
「ある」
「一緒にやろう。図書館で」
「地下には行かないぞ」
「行かない。一階の閲覧室で」朝倉は立ち上がった。「今日は怪異なしで、普通に課題をやる」
図書館の一階に入った。
窓際の席に座った。
二人で向かい合って、課題を広げた。
普通の昼下がりだった。
ペンが走る音がした。
外から鳥の声がした。
春の光が、窓から差し込んでいた。
「詩音」
「何?」朝倉は顔を上げた。
「今日は平和だな」
「そうだな」朝倉は少し笑った。「怪異のない日は、平和だ」
「大学一年が終わって——詩音の記憶が全部戻って、怪異がない日が続いている。それが普通のことなのに、少し特別に感じる」
「そうだね」朝倉はペンを置いた。「特別に感じるのは——失いかけたから」
「記憶を?」
「そうだ。失いかけたものが戻ると——ただそこにあったものが、大切に見える」朝倉は窓の外を見た。「今日の春の光も、去年より大切に見える気がする」
「そうか」
「記憶が薄れかけた一週間、一番怖かったのは——今日みたいな日を忘れてしまうことだった」
「今日みたいな日を?」
「怪異もなくて、ただ課題をやっている日。湊と向かい合っている日」朝倉はノートを見た。「こういう日を忘れたくなかった。だから——御神体に語りかけるとき、大切な記憶として語った」
「この日常を、語ったのか」
「そうだ。特別なことじゃない。ただの図書館の一景。でも——私にとっては、大切な記憶だ」
俺は少し間を置いた。
「詩音」
「何?」
「今日のこの日も、覚えておく。俺も」
「覚えておくのか、こんな普通の日を」
「普通の日だから、覚えておく。特別な日は自然に覚えられる。でも普通の日を覚えておけるのは——大切にしている証拠だと思うから」
朝倉は俺を見た。
少し、目が細くなった。
「……それは、朝倉詩音語録に追加されそうだ」
「俺が言ったんだぞ」
「でも私が言いそうな言葉だ」朝倉はノートを開いた。「やっぱり、移っている」
「どっちから移ったとしても、いいだろ」
「いい」朝倉は静かに言った。「悪くない」
課題を終えて、夕方になった。
二人で図書館を出た。
春の夕暮れが、キャンパスを照らしていた。
「今日、凛に連絡するか」と俺は言った。
「そうしよう。人形のことを伝えておいた方がいい。水無瀬家として、何か知っているかもしれない」
「受験勉強の邪魔にならないか」
「短いメッセージなら大丈夫だろ」
朝倉がメッセージを打った。
すぐに返信が来た。
人形が動いたんですか!?詳しく教えてください!
「邪魔になっているな」と俺は言った。
「でも喜んでいる」
加瀬光雄さんのことは知らないですが——人形が神社を向いた、というのは面白いですね。水無瀬家の記録に、人形に宿る気配についての記述があった気がします。後で調べます
受験勉強はどうした
します!今日の分は終わったので!
終わったのか
終わりました。でも明日また頑張ります。人形の件、続報待っています!
「凛は相変わらずだな」と俺は言った。
「相変わらずだ」朝倉は笑った。「でも安心する。凛が元気だと」
「そうだな」
帰り道を、並んで歩いた。
俺のアパートに着いた。
「今日はここまでか」と俺は言った。
「うん」朝倉は言った。「新しい謎は始まったけど——今日はただの平和な一日だった」
「そうだな。怪異はあったけど、平和だった」
「矛盾しているな」
「怪異があっても、平和な日がある。それが俺たちの日常だ」
「そうだね」朝倉は空を見た。「これからも——こういう日が続くといい」
「続く」俺は言った。「怪異があってもなくても、平和な日が続く」
「確信があるか」
「ある」
「なぜ」
「詩音がいるから」
朝倉は少し間を置いた。
「……また、そういうことを言う」
「本当のことだから」
「毎回それだ」朝倉は俯いた。「おやすみ、湊」
「おやすみ、詩音」
「今夜、人形はどっちを向いているか教えてくれ」
「教える。寝る前に送る」
「ありがとう」朝倉は歩き出した。「また明日」
「また明日」
部屋に入った。
本棚の端の人形を見た。
向きが、また変わっていた。
今度は——俺の方を向いていた。
正面から、俺を見ていた。
赤い糸の顔が、笑っていた。
「何を見ているんだ」と俺は言った。
返事はなかった。
でも——温かかった。
今日より温かかった。
存在感が、また少し増していた。
朝倉に送った。
人形が俺の方を向いていた
すぐに返信が来た。
俺の方を、か
そうだ
それは——何かを見守っているのかもしれない
見守っている?
人形に宿っている気配が、強くなってきている。単純な記憶の残滓じゃなくて——もう少し意志を持った何かになってきている気がする
加瀬さんと、関係があるのか
そうだと思う。加瀬さんを探せば、分かる気がする
明日から探そう
うん。でも今夜は——平和な五月の夜だ
そうだな
人形に、おやすみと言っておいてくれ
俺は人形を見た。
「詩音が、おやすみと言っている」と人形に言った。
返事はなかった。
でも——部屋の空気が、温かくなった。
言った
どんな顔をしていた
笑っていた。いつもの顔だ
そうか。じゃあ機嫌がいいんだな
そうかもしれないな
おやすみ、湊
おやすみ、詩音。今日も平和だった
そうだね。明日も平和だといい
平和だ。絶対に
確信があるのか
ある
なぜ
詩音がいるから
また長い間があった。
……本当にずるい。おやすみ
スマホを置いた。
人形が、俺を向いていた。
窓の外に、春の夜が広がっていた。
新しい謎が始まった。
加瀬光雄さん。
この神社に来ていた子ども。
人形を大切にしていた子ども。
その子どもが六十代になった今、人形が俺のアパートにあって、動き始めている。
でも今夜は——それだけでいい。
平和な五月の夜が、続いていた。




