五月の雨の日に
五月の終わりは、雨が多かった。
梅雨には早いのに、毎日のように雨が降った。
大学のキャンパスが、雨に濡れていた。中庭の銀杏の木が、雨粒を受けて光っていた。
図書館の窓から、雨を見ていた。
向かいに朝倉が座っていた。
ノートを広げていた。今日は怪異の記録じゃなく、授業のノートだった。
普通の昼休みだった。
「湊」朝倉が言った。
「何だ」
「田村先生から連絡が来た」
「何て」
「この辺りに来るから、会いたいと言っていた」朝倉はノートから目を上げた。「北川さんと木下さんも一緒に」
「三人で来るのか」
「そう。先生、北川さんとよく会ってるみたいだって凛が言ってたよ」朝倉は少し笑った。「よかった」
「先生、変わったな」俺は言った。
「変わった。でも——先生らしさは変わってない」朝倉はペンを置いた。「あの人は、ずっとまっすぐだったから」
「そうだな」
週末の土曜日、四人で会った。
大学の近くの、小さな喫茶店だった。
田村先生は私服だった。セーターにジャケット。学校の先生じゃなく、ただの中年男性に見えた。
でも目が、前より穏やかだった。
北川さくらさんは、出版社のときと変わらない格好だった。眼鏡をかけて、静かな目をしていた。
木下透さんは、少し緊張した様子だった。でも朝倉を見て、深く頭を下げた。
「先日は——ありがとうございました」
「お礼はいいです」朝倉は言った。「木下さんが自分で決めたことだから」
「それでも」木下さんは顔を上げた。「あなたたちがいなければ、私は今もあのままだった」
コーヒーを飲みながら、近況を話した。
先生は高校でまだ担任をしていた。
「今年も、変なクラスで」先生は苦笑いした。
「変なクラスって」と俺は言った。
「やたら鋭い生徒がいる。授業中に、廊下の向こうを気にする。怪異を感じているのかもしれない」
「この学校にも、まだ何かいるんですか」と朝倉が言った。
「たぶん。でも——お前たちが解決してくれた後、大きいものは出なくなった。小さい気配はある」先生はコーヒーを飲んだ。「その生徒が気になっている。放っておいてもいいか、関わった方がいいか」
「関わった方がいいと思います」朝倉は言った。「気づいている人間が一人でいると、怖い。誰かが隣にいた方がいい」
先生は少し頷いた。
「そうだな。声をかけてみる」
北川さんが俺たちを見て言った。
「大学生活、どうですか」
「楽しいです」と朝倉が言った。「怪異も出ましたが」
「もう出たんですか」北川さんは苦笑いした。
「着いて二週間で出た」と俺は言った。
「早いな」先生は言った。「でも解決できたんだろ」
「しました」
「そうか」先生は少し目を細めた。「お前たち、逞しくなったな」
「先生のおかげです」と朝倉は言った。
「私は何もしていない」
「してます。ずっと、後ろにいてくれた」
先生は少し黙った。
「後ろにいるだけで、役に立てたなら——よかった」
木下さんが、静かに言った。
「一つ、話していいですか」
「どうぞ」と朝倉が言った。
「私が水無瀬家の記録を持ち出してから、ずっと気になっていたことがある」木下さんは手を見た。「記録を戻したい。凛さんに、返したい」
「記録のページを?」と朝倉が言った。
「切り取ってしまったから、元通りにはならない。でも——コピーでも、内容を書き写したものでも、凛さんに渡したい」木下さんは顔を上げた。「内容は覚えている。全部、頭に入っている」
「それは——」朝倉は少し考えた。「凛に伝えます。凛が決めることだから」
「そうですね」木下さんは頷いた。「凛さんの判断に従います」
喫茶店を出た後、先生が俺を呼び止めた。
朝倉と北川さんと木下さんが先に歩いていく中、俺と先生は少し後ろを歩いた。
「湊」先生は言った。
「はい」
「詩音は、どうだ」
「元気です」
「地下のものの記憶は——」先生は言いにくそうにした。「重くなってないか」
俺は少し考えた。
「重い日もあると言っています。でも——最近は、落ち着いてきた気がします」
「そうか」先生は前を歩く朝倉を見た。「大学に来てから、少し顔が柔らかくなった気がする」
「そうですか」
「高校のとき、詩音は——いつも少し張り詰めていた。でも今は、少し緩んでいる」先生は俺を見た。「お前のおかげだ」
「俺は何もしていません」
「何もしていない人間が、あんなに変えられるわけがない」先生は言った。「隣にいるだけで、変えられることがある。お前はそれをやっている」
俺は何も言えなかった。
「これからも頼む」先生は言った。「詩音の隣に、いてやれ」
「います」俺は言った。「どこにでも」
先生は満足そうに頷いた。
「そうか。なら安心した」
帰り道、朝倉と二人になった。
先生たちとは駅で別れた。
「先生、元気そうだったな」と俺は言った。
「うん」朝倉は言った。「目が、変わった。前より——軽い目になってた」
「二十五年分の重さが、消えたから」
「そうだと思う」朝倉は空を見た。「よかった。先生が前に進めて」
「詩音は?」
「私は?」
「前に進めてるか」
朝倉は少し考えた。
「進めてると思う。地下のものの記憶が重い日もある。でも——」朝倉は俺を見た。「進めてる。湊がいるから」
「また俺のせいにする」
「せいにしてない。おかげにしてる」
「どっちも同じだろ」
「違う」朝倉は真剣な顔で言った。「せいは責任。おかげは感謝だ」
俺は少し笑った。
「詩音らしい区別だな」
「当然の区別だ」
雨が、また降り始めた。
俺は鞄から折り畳み傘を出した。
朝倉は傘を持っていなかった。
「傘、持ってないのか」
「忘れた」朝倉は空を見た。「降るとは思わなかった」
「入れ」俺は傘を広げた。
二人で一つの傘に入った。
少し狭かった。肩が触れた。
朝倉は何も言わなかった。
でも少し、俺の方に近づいた。
雨の中を、並んで歩いた。
大学の近くまで来た頃、朝倉が言った。
「湊、一つ聞いていいかな」
「何だ」
「来年、大学の近くに引っ越すって言ってたけど——本当に来るのか」
「本当だ。祖母も、そろそろ一人でいいと言ってるから」
「そうか」朝倉は前を向いた。「近くなるね」
「ああ」
「どのくらい近くなるんだ」
「まだ決めてない。物件を探してみないと」俺は言った。「詩音のアパートの近くがいいとは思ってる」
「近くがいい、のか」
「何かあったとき、すぐ行けるから」
「怪異のためか」
「それだけじゃない」
朝倉は少し黙った。
「そうか」朝倉は小さな声で言った。「なら——近くに来たらいい」
「ありがとう」
「礼はいい」朝倉は前を向いた。「来るなら来い。それだけだ」
でも耳が赤かった。
朝倉のアパートの前で、別れた。
「傘、持っていけ」俺は傘を渡した。
「でも湊が濡れる」
「走って駅まで行く。大丈夫だ」
「距離があるのに」
「大丈夫だ」
朝倉は傘を受け取った。でも心配そうな顔をしていた。
「待って」朝倉は部屋に戻った。
しばらくして、傘を持って戻ってきた。別の傘だった。
「これを使って」朝倉は俺に渡した。「予備がある」
「そうか。ありがとう」
「返さなくていい。その傘、あまり使っていないから」
「じゃあもらう」
朝倉は頷いた。
「気をつけて帰って」
「ああ」俺は歩き出した。
「湊」
振り返った。
朝倉は傘を持って、雨の中に立っていた。
「今日、来てくれてよかった」
「先生たちに会えてよかったな」
「それも。でも——湊と一緒に来られてよかった」朝倉は静かに言った。「一人だと、先生の変化に気づけなかったかもしれない。湊が一緒だから、余裕を持って見られた」
「一人でも気づけたと思うけどな」
「そうかもしれない。でも——一緒の方がよかった」朝倉は傘を少し傾けた。「それだけだ」
「そうか」俺は言った。「俺も、一緒の方がよかった」
朝倉は小さく頷いた。
「おやすみ、湊」
「おやすみ、詩音」
電車の中、俺は朝倉からもらった傘を持っていた。
濃い紺色の傘だった。朝倉らしい色だった。
スマホが鳴った。
無事に電車乗れた?
乗れた
よかった
傘、ありがとう。朝倉らしい色だな
そう?自分では分からない
紺だ。似合ってる
傘が似合うって、どういう意味だ
持ち主に似てるってこと
しばらく間があった。
……なんで、そういうことをさらっと言えるんだ
本当のことだから
毎回それだ
毎回本当のことだから
もう。おやすみ
おやすみ、詩音
電車の窓に、雨粒が流れていった。
五月の雨だった。
朝倉が好きだと言っていた、五月の雨。
土と草と雨が混じった匂いが好きだと言っていた。
この傘を持って、また雨の日に会いに行こう、と俺は思った。
来年、近くに引っ越したら——雨の日にも、すぐ会いに行ける。
それが今から、少し楽しみだった。




