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朝倉詩音の怪異録〜大学編〜  作者: ゆるっとおやじ


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6/33

五月の雨の日に

五月の終わりは、雨が多かった。

梅雨には早いのに、毎日のように雨が降った。

大学のキャンパスが、雨に濡れていた。中庭の銀杏の木が、雨粒を受けて光っていた。


図書館の窓から、雨を見ていた。

向かいに朝倉が座っていた。

ノートを広げていた。今日は怪異の記録じゃなく、授業のノートだった。

普通の昼休みだった。

「湊」朝倉が言った。

「何だ」

「田村先生から連絡が来た」

「何て」

「この辺りに来るから、会いたいと言っていた」朝倉はノートから目を上げた。「北川さんと木下さんも一緒に」

「三人で来るのか」

「そう。先生、北川さんとよく会ってるみたいだって凛が言ってたよ」朝倉は少し笑った。「よかった」

「先生、変わったな」俺は言った。

「変わった。でも——先生らしさは変わってない」朝倉はペンを置いた。「あの人は、ずっとまっすぐだったから」

「そうだな」


週末の土曜日、四人で会った。

大学の近くの、小さな喫茶店だった。

田村先生は私服だった。セーターにジャケット。学校の先生じゃなく、ただの中年男性に見えた。

でも目が、前より穏やかだった。


北川さくらさんは、出版社のときと変わらない格好だった。眼鏡をかけて、静かな目をしていた。

木下透さんは、少し緊張した様子だった。でも朝倉を見て、深く頭を下げた。

「先日は——ありがとうございました」

「お礼はいいです」朝倉は言った。「木下さんが自分で決めたことだから」

「それでも」木下さんは顔を上げた。「あなたたちがいなければ、私は今もあのままだった」


コーヒーを飲みながら、近況を話した。

先生は高校でまだ担任をしていた。

「今年も、変なクラスで」先生は苦笑いした。

「変なクラスって」と俺は言った。

「やたら鋭い生徒がいる。授業中に、廊下の向こうを気にする。怪異を感じているのかもしれない」

「この学校にも、まだ何かいるんですか」と朝倉が言った。

「たぶん。でも——お前たちが解決してくれた後、大きいものは出なくなった。小さい気配はある」先生はコーヒーを飲んだ。「その生徒が気になっている。放っておいてもいいか、関わった方がいいか」

「関わった方がいいと思います」朝倉は言った。「気づいている人間が一人でいると、怖い。誰かが隣にいた方がいい」

先生は少し頷いた。


「そうだな。声をかけてみる」

北川さんが俺たちを見て言った。

「大学生活、どうですか」

「楽しいです」と朝倉が言った。「怪異も出ましたが」

「もう出たんですか」北川さんは苦笑いした。

「着いて二週間で出た」と俺は言った。

「早いな」先生は言った。「でも解決できたんだろ」

「しました」

「そうか」先生は少し目を細めた。「お前たち、逞しくなったな」

「先生のおかげです」と朝倉は言った。

「私は何もしていない」

「してます。ずっと、後ろにいてくれた」

先生は少し黙った。


「後ろにいるだけで、役に立てたなら——よかった」

木下さんが、静かに言った。

「一つ、話していいですか」

「どうぞ」と朝倉が言った。

「私が水無瀬家の記録を持ち出してから、ずっと気になっていたことがある」木下さんは手を見た。「記録を戻したい。凛さんに、返したい」

「記録のページを?」と朝倉が言った。

「切り取ってしまったから、元通りにはならない。でも——コピーでも、内容を書き写したものでも、凛さんに渡したい」木下さんは顔を上げた。「内容は覚えている。全部、頭に入っている」

「それは——」朝倉は少し考えた。「凛に伝えます。凛が決めることだから」

「そうですね」木下さんは頷いた。「凛さんの判断に従います」


喫茶店を出た後、先生が俺を呼び止めた。

朝倉と北川さんと木下さんが先に歩いていく中、俺と先生は少し後ろを歩いた。

「湊」先生は言った。

「はい」

「詩音は、どうだ」

「元気です」

「地下のものの記憶は——」先生は言いにくそうにした。「重くなってないか」


俺は少し考えた。

「重い日もあると言っています。でも——最近は、落ち着いてきた気がします」

「そうか」先生は前を歩く朝倉を見た。「大学に来てから、少し顔が柔らかくなった気がする」

「そうですか」

「高校のとき、詩音は——いつも少し張り詰めていた。でも今は、少し緩んでいる」先生は俺を見た。「お前のおかげだ」

「俺は何もしていません」

「何もしていない人間が、あんなに変えられるわけがない」先生は言った。「隣にいるだけで、変えられることがある。お前はそれをやっている」

俺は何も言えなかった。


「これからも頼む」先生は言った。「詩音の隣に、いてやれ」

「います」俺は言った。「どこにでも」

先生は満足そうに頷いた。

「そうか。なら安心した」


帰り道、朝倉と二人になった。

先生たちとは駅で別れた。

「先生、元気そうだったな」と俺は言った。

「うん」朝倉は言った。「目が、変わった。前より——軽い目になってた」

「二十五年分の重さが、消えたから」

「そうだと思う」朝倉は空を見た。「よかった。先生が前に進めて」

「詩音は?」

「私は?」

「前に進めてるか」

朝倉は少し考えた。


「進めてると思う。地下のものの記憶が重い日もある。でも——」朝倉は俺を見た。「進めてる。湊がいるから」

「また俺のせいにする」

「せいにしてない。おかげにしてる」

「どっちも同じだろ」

「違う」朝倉は真剣な顔で言った。「せいは責任。おかげは感謝だ」

俺は少し笑った。


「詩音らしい区別だな」

「当然の区別だ」

雨が、また降り始めた。

俺は鞄から折り畳み傘を出した。

朝倉は傘を持っていなかった。

「傘、持ってないのか」

「忘れた」朝倉は空を見た。「降るとは思わなかった」

「入れ」俺は傘を広げた。

二人で一つの傘に入った。


少し狭かった。肩が触れた。

朝倉は何も言わなかった。

でも少し、俺の方に近づいた。

雨の中を、並んで歩いた。

大学の近くまで来た頃、朝倉が言った。

「湊、一つ聞いていいかな」

「何だ」

「来年、大学の近くに引っ越すって言ってたけど——本当に来るのか」

「本当だ。祖母も、そろそろ一人でいいと言ってるから」

「そうか」朝倉は前を向いた。「近くなるね」

「ああ」

「どのくらい近くなるんだ」

「まだ決めてない。物件を探してみないと」俺は言った。「詩音のアパートの近くがいいとは思ってる」

「近くがいい、のか」

「何かあったとき、すぐ行けるから」

「怪異のためか」

「それだけじゃない」


朝倉は少し黙った。

「そうか」朝倉は小さな声で言った。「なら——近くに来たらいい」

「ありがとう」

「礼はいい」朝倉は前を向いた。「来るなら来い。それだけだ」

でも耳が赤かった。


朝倉のアパートの前で、別れた。

「傘、持っていけ」俺は傘を渡した。

「でも湊が濡れる」

「走って駅まで行く。大丈夫だ」

「距離があるのに」

「大丈夫だ」

朝倉は傘を受け取った。でも心配そうな顔をしていた。

「待って」朝倉は部屋に戻った。

しばらくして、傘を持って戻ってきた。別の傘だった。

「これを使って」朝倉は俺に渡した。「予備がある」

「そうか。ありがとう」

「返さなくていい。その傘、あまり使っていないから」

「じゃあもらう」

朝倉は頷いた。


「気をつけて帰って」

「ああ」俺は歩き出した。


「湊」

振り返った。

朝倉は傘を持って、雨の中に立っていた。

「今日、来てくれてよかった」

「先生たちに会えてよかったな」

「それも。でも——湊と一緒に来られてよかった」朝倉は静かに言った。「一人だと、先生の変化に気づけなかったかもしれない。湊が一緒だから、余裕を持って見られた」

「一人でも気づけたと思うけどな」

「そうかもしれない。でも——一緒の方がよかった」朝倉は傘を少し傾けた。「それだけだ」

「そうか」俺は言った。「俺も、一緒の方がよかった」

朝倉は小さく頷いた。


「おやすみ、湊」

「おやすみ、詩音」

電車の中、俺は朝倉からもらった傘を持っていた。

濃い紺色の傘だった。朝倉らしい色だった。

スマホが鳴った。

無事に電車乗れた?

乗れた

よかった

傘、ありがとう。朝倉らしい色だな

そう?自分では分からない

紺だ。似合ってる

傘が似合うって、どういう意味だ

持ち主に似てるってこと

しばらく間があった。


……なんで、そういうことをさらっと言えるんだ

本当のことだから

毎回それだ

毎回本当のことだから

もう。おやすみ

おやすみ、詩音


電車の窓に、雨粒が流れていった。

五月の雨だった。

朝倉が好きだと言っていた、五月の雨。

土と草と雨が混じった匂いが好きだと言っていた。


この傘を持って、また雨の日に会いに行こう、と俺は思った。

来年、近くに引っ越したら——雨の日にも、すぐ会いに行ける。

それが今から、少し楽しみだった。

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