隣の部屋の住人
五月になった。
大学生活が少し落ち着いてきた。
授業のリズムができて、図書館の使い方も分かって、学食のどのメニューが美味しいかも分かってきた。
普通の大学生活だった。
怪異がない日が、続いていた。
朝倉のアパートは、大学から歩いて七分の場所にある。
一人暮らしは初めてだと言っていた。
俺は祖母の家から通っていた。電車で三十分かかるけど、祖母が一人になるのが心配だった。
「祖母さんを心配してるのか」朝倉は言った。
「高校のときから世話になってたから」俺は言った。「急に一人にするのは、気が引ける」
「優しいな、湊は」
「そうでもない」
「そういうところが優しい」朝倉は静かに言った。「見えないところで、ちゃんと考えてる」
俺は何も言えなかった。
五月の第二週の水曜日、朝倉から昼前に連絡が来た。
今日、授業終わったら家に来られる?
アパートに?
うん。相談したいことがある
怪異か?
かもしれない。来てから話す
夕方、朝倉のアパートに向かった。
築二十年くらいの、普通の木造アパートだった。二階建てで、朝倉の部屋は二階の端だった。
ドアをノックすると、朝倉がすぐに出てきた。
「来てくれた」
「来ると言ったから」俺は言った。「何があった」
「入って」
部屋は思ったより整理されていた。
本棚に本がびっしり並んでいた。机の上にノートが開いていた。窓際に小さな観葉植物があった。
朝倉らしい部屋だった。
俺は部屋の真ん中に立った。
「どうした」
朝倉は壁を指した。
「隣の部屋から、声がする」
「隣人がうるさいのか」
「違う」朝倉は静かに言った。「隣の部屋、空き部屋なんだ」
管理会社に確認したら、隣の部屋は三ヶ月前から空き部屋だと言っていた。朝倉が引っ越してきた当初から、ずっと誰も住んでいない。
「でも声がする」朝倉は壁の前に立った。「最初は気のせいだと思った。でも——毎晩聞こえる」
「何時頃」
「深夜の一時から二時の間が多い。でも昨日は夕方にも聞こえた」
「どんな声だ」
「話し声だ。でも言葉が聞き取れない。複数人いる感じがする」朝倉は壁に手を触れた。「地下のものの記憶を使って調べてみたけど——このアパートに関する記憶は、まだ浅すぎて分からない」
「新しい建物だから?」
「そう。でも——土地の記憶は少しある」朝倉は手を離した。「このアパートが建つ前、ここに何があったか」
「何があったんだ」
「長屋だ。昭和の中頃まで、木造の長屋が建っていた」朝倉はノートを開いた。「長屋の記憶が、この土地に残っている。そこに住んでいた人たちの記憶が」
「長屋に住んでいた人が、今もいるのか」
「全員じゃない。でも——一人か二人、まだここにいる気がする」
「隣の部屋に入れないか」と俺は言った。
「管理会社に頼めば入れるかもしれない。でも——」朝倉は少し考えた。「まず、自分で確かめたいことがある」
「何を」
「声が何を言っているか。ちゃんと聞こえれば、何が起きているか分かる」朝倉は壁を見た。「深夜に聞こえるなら——今夜、ここで聞いていてもいいか」
俺は少し考えた。
「泊まるのか」
「泊まらなくていい。深夜一時まで待って、声が聞こえたら確認して——それから帰ってもいい」
「深夜一時まで待って、それから電車で帰るのか」
「終電があれば」
「ない」
朝倉は少し考えた。
「じゃあ——泊まってもいい」朝倉は少し顔を赤くした。「その、ソファがあるから。そこで寝られる」
「分かった」俺は言った。「泊まる」
夕飯を二人で作った。
朝倉が料理をするのは初めて見た。
手際が良かった。
「料理、できるんだな」と俺は言った。
「一人暮らしだから、やるしかない」朝倉は鍋をかき混ぜながら言った。「高校のときは祖母の家に住んでいたから、作ってもらっていた」
「俺も祖母の家だから、作ってもらってる」
「不公平だ」朝倉は言った。でも笑っていた。
「来年は一人暮らしを考えてる」
「そうなのか」
「祖母も、そろそろ出て行っていいと言ってるから」俺は言った。「来年、大学の近くに引っ越すかもしれない」
「そうしたら——」朝倉は少し間を置いた。「近くなるね」
「そうだな」
「……それは」朝倉は鍋から目を離さずに言った。「いいことだと思う」
「俺も思う」
夕飯を食べた後、二人でソファに座った。
テレビをつけた。
普通だった。怪異の話もしなかった。授業のこと、サークルのこと、凛のことを話した。
気づいたら、十一時を過ぎていた。
「眠くないか」と俺は言った。
「眠くない」朝倉は言った。「あと二時間くらい、待てる」
「じゃあ待とう」
テレビを消した。
部屋が静かになった。
二人で、壁の方を向いていた。
零時を過ぎた頃、朝倉がうとうとし始めた。
ソファの背もたれに頭を預けて、目が半分閉じていた。
「眠れ」と俺は言った。
「起こして。声がしたら」朝倉は言った。
「分かった」
朝倉は目を閉じた。
俺は壁を見ていた。
静かだった。
朝倉が寝息を立て始めた。
俺は朝倉の横顔を、少し見た。
眠っている朝倉は、怪異の儀式のときに眠っていた朝倉と似ていた。穏やかで、静かで。
でも今は、怪異じゃない。
ただ眠っている。
普通の夜に、普通に眠っている。
それが——なんか、いいと思った。
一時を少し過ぎた頃、壁から声がした。
低い声だった。
でも確かに、声だった。
「詩音」俺は朝倉を揺らした。
朝倉がすぐに目を開けた。
「聞こえた?」
「ああ」
朝倉は壁に近づいた。耳を当てた。
目を閉じた。
しばらくして、目を開けた。
「二人いる」朝倉は小声で言った。「男の人と、女の人。話している」
「何を話してるんだ」
「日常の話だ」朝倉は壁から耳を離した。「夕飯の話をしてる。今日、何を食べたかとか、明日は何にするかとか」
「怖い話じゃないのか」
「全然怖くない」朝倉は少し困った顔をした。「怪異というより——普通に話してる」
「帰れない者なのか」
「そうだと思う。でも——怒っているわけじゃない。悲しんでいるわけでもない。ただ、普通に話している」
「それが一番、どうしていいか分からないな」
「そう」朝倉はもう一度壁に耳を当てた。「でも——一つ分かった」
「何だ」
「この二人、夫婦だと思う。昔、ここの長屋に住んでいた夫婦」朝倉は静かに言った。「仲が、よかったんだと思う。会話が——温かい」
翌朝、朝倉は管理会社に電話した。
空き部屋に少し入らせてほしい、と頼んだ。理由を聞かれて、困っていた。
俺が代わりに電話を受け取った。
「部屋の状態を確認したいんです。入居を検討している友人がいて、一緒に見てもいいですか」
管理会社はあっさり承諾した。
朝倉が俺を見た。
「嘘をついた」
「方便だ」
「方便か」朝倉は少し考えた。「高校のときの田村先生みたいだ。うまく丸め込んでいた」
「先生を見習った」
「なるほど」朝倉は少し笑った。
昼過ぎ、管理会社の人が来て、隣の部屋を開けてくれた。
「十五分くらいなら大丈夫ですよ」と言って、廊下で待ってくれた。
中に入った。
6畳ほどの、普通の洋室だった。何も置かれていなかった。
でも温かかった。
部屋の温度が、廊下より高かった。
「感じるか」と俺は聞いた。
「感じる」朝倉は部屋の真ん中に立った。「ここにいる。でも——隠れてる」
「隠れてる?」
「私たちが来たから、静かにしてる」朝倉は部屋を見回した。「怖がってるのかもしれない」
「怖がってるのか。あっちが」
「帰れない者が全員、助けを求めているわけじゃない」朝倉は静かに言った。「この二人は——ここにいたい、のかもしれない」
「追い出すことはできない。でも——」俺は言った。「ここは空き部屋だ。誰かが入居したら、どうなる」
「それが問題だ」朝倉は床を見た。「新しい住人が来たとき、この二人がいたら——怖い思いをするかもしれない」
「誰かに迷惑をかけたいわけじゃないんだよな、たぶん。ただここにいたいだけで」
「そうだと思う」
俺は部屋の真ん中に立った。
「聞こえてるか」と俺は言った。誰もいない部屋に向かって。「迷惑をかけたいわけじゃないのは分かる。ただここにいたいのも、分かる」
部屋が、微かに揺れた気がした。
「でも——このまま続けると、次に来る住人が困る。それは、お前たちも嫌だろ」
朝倉が俺の隣に来た。
「別の場所なら、いられる」朝倉は続けた。「ここの土地に根ざしていられる場所が、あるかもしれない」
俺は外を見た。
窓から、中庭が見えた。
中庭に、小さな木があった。
「あの木はどうだ」と俺は朝倉に言った。「このアパートの中庭の木。あそこなら、土地に根ざしていられる」
朝倉は木を見た。
「いいかもしれない。木は長い間、この土地にいられる。一緒にいられる」朝倉は部屋に向かって言った。「どうですか。あの木のそばにいれば、この土地にいられます。新しい住人が来ても、ここにいられます」
部屋が、温かくなった。
同意してくれた気がした。
管理会社の人に感謝を言って、外に出た。
中庭の木の前に立った。
小さなケヤキの木だった。まだ若い木だけど、しっかりと根を張っていた。
朝倉が木に手を触れた。
「この木に、お願いがある」朝倉は言った。「隣に住んでいた夫婦が、あなたのそばにいたいと言っている。一緒にいてあげてもらえますか」
風が吹いた。
ケヤキの葉が揺れた。
頷いてくれた気がした。
朝倉が木から手を離した。
「これでいいと思う」
「二人は、ここにいられるのか」
「ここにいられる。木と一緒に、この土地にいられる」朝倉は木を見た。「追い出すんじゃなくて——居場所を変えてもらった」
「送ってあげるより、いい解決方法かもしれないな」
「そうだと思う」朝倉は静かに言った。「帰れない者が全員、帰りたいわけじゃない。ただ、安心できる場所が必要なだけのこともある」
「詩音」
「何?」
「この一年半で、いろんなことが分かったんだな」
朝倉は少し考えた。
「分かったというより——怪異と向き合うたびに、違うことを教えてもらった気がする」
「何を教えてもらった」
「帰りたい者もいれば、ここにいたい者もいる。助けを求めている者もいれば、ただ見守っていたい者もいる」朝倉はケヤキの木を見た。「全部、同じ方法で解決できるわけじゃない」
「そうだな」
「でも——向き合えば、分かる。何が必要かが」朝倉は俺を見た。「湊がいると、向き合いやすい」
「なんで」
「一人だと、焦る。でも湊がいると——落ち着いて考えられる」
俺は朝倉を見た。
「俺も同じだ。詩音がいると、怖くない」
朝倉は少し目を細めた。
「お互い様だな」
「そうだな」
その夜、朝倉からメッセージが来た。
壁から声がしなくなった
完全に?
完全に。静かだ
よかった
うん。でも——少し寂しい気もする
なんで
二人の会話、温かかったから。毎晩聞こえてたのに、なくなると——静かすぎる
俺は少し笑った。
中庭にいるんだろ。消えたわけじゃない
そうだね
窓から見えるか
見える。ケヤキの木が見える
あそこにいる
そう思うと——寂しくない
少し間があった。
湊
何だ
昨日、泊まってくれてありがとう
大したことしてない
大したことある。一人で深夜に聞いてたら、怖かったと思う
お前は怖がらないだろ
怖がる。一人のときは怖い
そうか
湊がいると怖くない、って言ったのは本当だよ
知ってる
知ってたのか
お前が嘘をつく人間じゃないのは、一年半で分かってる
長い間があった。
……ずるい
何が
また、そういうことをさらっと言う
本当のことだから
本当のことでも、照れる
照れていい
もう。おやすみ
おやすみ、詩音
スマホを置いた。
窓の外に、夜のアパートが見えた。
ケヤキの木が、暗い中に立っていた。
あの木のそばに、夫婦がいる。
仲の良かった夫婦が、ここにいる。
木と一緒に、この土地にいる。
それでいい、と俺は思った。
帰れなくても——いたい場所にいられるなら、それでいい。
詩音もそう言っていた。
全部、同じ方法で解決できるわけじゃない。
でも向き合えば、分かる。
詩音と一緒なら、向き合える。
電車の音が遠くに聞こえた。
夜が深くなっていった。




