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朝倉詩音の怪異録〜大学編〜  作者: ゆるっとおやじ


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名前を知らなくても

翌日の昼休み、二人で地下に降りた。

今日は守衛さんに事前に話してあった。

「また行くんですか」守衛さんは言った。

「挨拶をしたくて」と朝倉が言った。

「挨拶」守衛さんは少し考えてから、頷いた。「そうですね。私も一緒に行っていいですか」

朝倉は少し驚いた顔をした。

「もちろんです」


三人で地下に降りた。

守衛さんは小さな花束を持っていた。

「花屋に寄ってきました」守衛さんは少し恥ずかしそうに言った。「何を供えればいいか分からなくて、白い花にしました」

「きれいです」朝倉は言った。

「十年間、気になっていたのに何もできなかった」守衛さんは俯いた。「せめて、花くらいは」


地下の奥に着いた。

昨日と変わらない場所だった。

でも何かが違った。

昨日まであった、低い振動が完全になかった。

静かだった。

でも怖い静かさじゃなかった。穏やかな静かさだった。


守衛さんが祠の前に花を供えた。

深く頭を下げた。

「長い間、一人にしてごめんなさい」守衛さんは静かに言った。「やっと、気づいてくれる人が来てくれました」

地下が、温かくなった気がした。

朝倉も頭を下げた。


「名前を聞けなかった。でも——ここにいたことを、覚えています。これからも覚えています」

俺も頭を下げた。

何を言えばいいか、少し考えた。

「帰れてよかった」と俺は言った。「ずっと待っていたんだろう。お疲れさまでした」


三人で地下を出た。

中庭に出ると、春の光が眩しかった。

守衛さんが空を見上げた。

「なんか、すっとしました」守衛さんは言った。

「それが伝わったんだと思います」と朝倉は言った。

「あなたたち、すごいね」守衛さんは俺たちを見た。「学生さんで、こんなことができるなんて」

「高校のときから、ずっとやってきたので」と俺は言った。

「高校でも?」

「いろいろありました」

守衛さんは少し笑った。

「この大学に来てくれてよかった。本当に」


守衛さんと別れて、二人で中庭を歩いた。

銀杏の木の前で、朝倉が止まった。

木を見上げた。

「何か見えるか」と俺は聞いた。

「見える」朝倉は静かに言った。「木の記憶が、少し変わった。女の子が、祠に帰った後の記憶がある」

「どんな記憶だ」

「嬉しそうだった」朝倉は木から目を離さずに言った。「祠の中に入って——ようやく休める、という感じだった」

「よかったな」

「うん」朝倉は木に手を触れた。「この木にも、伝わっている。長い友だちが、ちゃんと帰れたと」


風が吹いた。

銀杏の若葉が、揺れた。

まるで頷くように。

授業に向かう途中、朝倉が言った。

「湊、一つ聞いていいか」

「何だ」

「この大学で——また怪異に出会うと思う。これからも」

「そうだろうな」

「嫌じゃないか」朝倉は俺を見た。「大学に来ても、また怪異と関わって——普通の大学生活じゃなくて」

俺は少し考えた。


「普通の大学生活って、何だ」

「友達と飲みに行くとか、サークルで遊ぶとか」

「それもできるだろ。怪異と並行して」

「できるかな」

「高校のときも、授業しながら怪異を解決してた。できないことはない」俺は朝倉を見た。「それより——詩音は嫌じゃないのか。大学でも怪異に巻き込まれることが」

朝倉は少し考えた。


「嫌じゃない」朝倉は静かに言った。「帰れない者を送ってあげることが——私の一部になっているから。やめようとは思えない」

「地下のものの記憶があるから?」

「それもある。でも——それより」朝倉は俺を見た。「湊と一緒にやれるから」

俺は朝倉を見た。

「詩音と一緒だから、俺もやれる」

「お互い様だな」

「そうだ」

朝倉は少し笑った。

「じゃあ——この大学でも、また何か出たら一緒に調べよう」

「当たり前だ」

「約束」

「約束だ」


昼過ぎ、図書館で授業の予習をしていた。

朝倉が向かいに座って、ノートを広げていた。

授業の内容を書いているのか、怪異の記録を書いているのか、俺には分からなかった。

「何書いてるんだ」と俺は聞いた。

「両方」朝倉は言った。

「授業と怪異を、同じノートに書くのか」

「違うページに書いてる」朝倉はノートを見せた。「こっちが授業。こっちが怪異の記録」


授業のノートはきれいで整然としていた。怪異の記録は、細かい文字がびっしりと並んでいた。

「怪異の方が、文字が多いな」

「授業は先生が話すから、後で整理できる。怪異は——忘れる前に全部書いておかないといけない」朝倉はノートを閉じた。「地下のものの記憶と混ざって、どれが今起きていることか分からなくなることがあるから」

「それは大変だな」

「慣れた」朝倉は少し考えた。「でも——たまに、混乱する」

「混乱したら、俺に言え」

「なんで湊に言うんだ」

「声が聞こえると、戻ってこられると言ってたから。以前」


朝倉は目を伏せた。

「覚えてた」

「覚えてる。全部」

朝倉は少し潤んだ目で俺を見た。

「湊は、ずるい」

「ずるくない」

「さらっとそういうことを言う。ずるい」

「本当のことだから仕方ない」

朝倉は鞄からペンを取り出して、ノートを開いた。

「勉強する」

「ああ」


少し沈黙が続いた。

図書館の窓から、中庭が見えた。

銀杏の木が揺れていた。

夕方、二人で帰り道を歩いた。

電車の駅に向かう道は、住宅街を抜けていく。春の夕暮れに、民家の庭の花が咲いていた。

「なんか、高校の帰り道と似てるな」と俺は言った。

「似てるね」朝倉は言った。「でも違う」

「何が違う」

朝倉が俺の手を握った。

「これができる」

俺は朝倉の手を握り返した。

「毎回それを言うな」

「だって——毎回、実感するから」朝倉は繋いだ手を見た。「高校のとき、帰り道を一人で歩いてた。でも今は——」

「一人じゃない」

「一人じゃない」朝倉は前を向いた。「それが、まだ慣れない」

「慣れなくていい」

「なんで」

「慣れたら、気づかなくなる。気づき続けた方がいい」


朝倉はしばらく黙っていた。

「湊って、たまにすごく深いことを言うね」

「そうか?」

「そう」朝倉は少し笑った。「びっくりする」

「褒めてるのか」

「褒めてる」

駅の改札の前で、二人は止まった。

ここで別れる。朝倉のアパートは、大学の近くだ。俺は電車で祖母の家に帰る。

「また明日」と朝倉は言った。

「ああ」

「朝、正門で待ってる」

「分かった」

朝倉は改札の方に向かいかけて、止まった。

「湊」

「何だ」

「今日——地下に行って、よかった。名前は分からなくても、挨拶できて」

「そうだな」

「名前を知らなくても、覚えていられる」朝倉は静かに言った。「橘さんのことも、白哉さんのことも、広斗くんのことも——名前を知っているから覚えているんじゃなくて、会ったから覚えている」

「今日の女の子も、会ったから覚えている」

「そう」朝倉は微かに笑った。「だから——大丈夫だと思う。名前が分からなくても」

俺は頷いた。

「大丈夫だ」

「うん」朝倉は改札をくぐった。「おやすみ、湊」

「おやすみ、詩音」


電車の中、俺は窓の外を見ていた。

春の夕暮れが、どこまでも続いていた。

高校を卒業して、大学に来た。

新しい土地に、古いものがいた。

でも帰してあげられた。

次は何が出るか、分からない。

でも怖くない。

詩音がいる。

それだけで——十分だった。


スマホが鳴った。

朝倉からだった。

電車、乗れた?

乗れた

よかった。今日お疲れ様

詩音も

湊

何だ

大学生活、思ってたより悪くない

怪異が出てるのに?

怪異が出てるから、かもしれない

俺は少し笑った。

相変わらずお前らしい理由だな

褒めてる?

褒めてる

なら、いい


少し間があって、また来た。

湊

何だ

これからもよろしく

こちらこそ

何年でも?

俺は少し考えた。

何年でも

証拠は?

今日も、明日も、明後日も隣にいる。それが証拠だ


長い間があった。


……反則だ

何が

そういうことをさらっと言うのが

本当のことだから仕方ない

もう。おやすみ

おやすみ、詩音

スマホを置いた。

電車の窓に、夜の景色が流れていた。

大学生活が始まった。

怪異も始まった。

でも詩音がいる。

それで十分だ。

それ以上でも、それ以下でもない。

ただ——十分だった。

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