地下に家があった
翌朝、守衛さんに頼んだ。
三号館の地下倉庫に入りたい、と言うと、守衛さんは昨日より素直に頷いた。
「旧閲覧室のことを調べているんですね」守衛さんは言った。
「はい」と朝倉が言った。
「十年間、誰も解決できなかった。あなたたちに何かできるとは思えないけど——」守衛さんは鍵束を取り出した。「止める理由もない」
地下への鍵と、旧閲覧室の鍵を、また貸してくれた。
「気をつけてください」守衛さんは言った。「地下は暗くて、足元が悪い。それと——」
「それと?」と俺は聞いた。
「地下に降りると、妙に静かになります。外の音が全部消えたみたいに」守衛さんは少し声を落とした。「昔からそういう場所で、大学が建つ前からそうだったと聞いています」
三号館の地下への入り口は、一階の隅にある重い扉だった。
鍵を開けて、中に入った。
コンクリートの階段が、暗い下に続いていた。
スマホのライトをつけた。
二人で降りていった。
守衛さんの言う通り、降りるにつれて静かになった。外の音が消えて、自分たちの足音だけが響いた。
「静かだな」と俺は言った。
「静かだね」朝倉は言った。「でも——高校の地下と違う。怖い静かさじゃない。むしろ」
「むしろ?」
「守られてる感じ」
地下は広かった。
倉庫として使われているらしく、段ボールや古い机が積まれていた。でも奥に進むほど、荷物が減っていった。
一番奥に、空間があった。
何も置かれていない、小さな空間。コンクリートの床に、何かの跡があった。木の枠が嵌められていた跡。四角い、小さな跡。
「祠があった場所だ」と朝倉が言った。
「今はどこにあるんだ」
朝倉がライトで周りを照らした。
壁際に、布が被せてあるものがあった。
近づいて、布を取った。
祠だった。
写真で見たものより、小さかった。でも状態は悪くなかった。木が少し乾燥しているけど、壊れていない。扉に、鏡と同じ文様が彫ってあった。
「これだ」朝倉は祠の前にしゃがんだ。「丁寧に作られてる。誰かが大切にしていた」
「扉を開けていいか」と俺は聞いた。
「開けよう」
朝倉が扉を開けた。
中は空だった。
何も置かれていない、小さな空間。
「御神体が外に出されたから、空になったんだ」と俺は言った。
「そう。鏡がここに戻れば——」朝倉は立ち上がった。「女の子の家が、戻る」
問題は、鏡を動かすことだった。
旧閲覧室の鏡は大きくて重い。それに触れると、記憶に影響が出る可能性がある。
「どうやって運ぶんだ」と俺は言った。
「触れなければいい」朝倉は考えながら言った。「布で包めば、直接触れなくて済む」
「でも鏡を動かした瞬間、女の子が反応するかもしれない」
「反応するのは想定内だ。でも——私が先に話せば、怒らないと思う」朝倉は旧閲覧室の方向を見た。「あの子は怒っていない。ただ困っている。説明すれば、分かってくれると思う」
「確信はあるか」
「ない」朝倉は正直に言った。「でも——お前が隣にいるから、大丈夫だと思う」
「根拠が俺なのか」
「一番確かな根拠だ」
俺は何も言えなかった。
四階に上がった。
旧閲覧室の前に立った。
鍵を開けた。
扉を開けた。
薄暗い部屋。埃。大きな鏡。
鏡の中の女の子が、すぐに現れた。
俺たちを見た。昨日より、近くに来ていた。鏡の奥ではなく、鏡の表面近くに立っていた。
朝倉が前に出た。
「昨日、約束した通り来ました」朝倉は静かに言った。「あなたの家を、見つけた」
女の子の目が、変わった。
「地下にある。祠が、まだある。傷んでいない。あなたを待っていたみたいに」
女の子は動かなかった。
「この鏡を、祠のそばに運びたい。一緒に帰れるように」朝倉は続けた。「少し動かすとき、怖いかもしれない。でも——捨てるわけじゃない。家に連れて行く。
女の子は少し考えるように、首を傾けた。
それから、小さく頷いた。
布を用意していた。
朝倉が持ってきた、分厚い布だった。
「これで包めば、触れなくて済む」朝倉は言った。
「重さは大丈夫か」と俺は言った。
「二人でやれば」
俺たちは布を広げた。鏡の両端に回した。直接触れないように、慎重に。
持ち上げた。
重かった。でも持てた。
鏡を動かした瞬間——部屋の空気が変わった。
低い音が来た。昨日より大きかった。壁が振動した。
でも朝倉が言った。
「大丈夫。今連れて行く」
音が、収まった。
女の子が、鏡の中で俺たちについてくるように動いた。
階段を降りた。
重かった。腕が痛かった。でも止まれなかった。
地下に着いた。
奥の空間に向かった。
祠の前に、鏡を立てかけた。
ちょうど収まった。祠と鏡が、並んで立った。
同じ文様が、向かい合う。
その瞬間、光が来た。
地下なのに、光が来た。
どこからか分からない、温かい光。
祠の扉が、自然に開いた。
鏡の中の女の子が、光の方を向いた。
表情が変わった。
ずっと困っていた顔が——やっと、緩んだ。
朝倉が小声で言った。
「帰っていい。ここがあなたの家だから」
女の子が朝倉を見た。
それから、俺を見た。
口が動いた。
声は聞こえなかった。でも朝倉が言った。
「ありがとう、と言ってる」
女の子は祠の方を向いた。
一歩、踏み出した。
光の中に、入っていった。
鏡の表面が、一瞬だけ白く光って——
静かになった。
地下が、静かになった。
さっきまであった低い音が、完全に消えていた。
鏡を見た。
普通の鏡だった。
俺たちが映っていた。埃っぽい地下に立っている、二人の大学生が。
「終わったか」と俺は言った。
「終わった」朝倉は鏡を見た。「女の子が、祠に帰れた」
「神社が焼けてから、ずっと待ってたのか」
「そう思う。戦争が終わって、何十年も経って——やっと帰れた」朝倉は祠を見た。「遅くなってごめん、と言いたい」
「言えばいい」
「うん」朝倉は祠に向かって、小さく頭を下げた。「ごめんなさい。遅くなって」
地下が、温かくなった気がした。
守衛さんに報告した。
守衛さんは話を聞いて、しばらく黙っていた。
「信じてもらえなくてもいい」と朝倉は言った。
「信じますよ」守衛さんは静かに言った。「十年間、あの部屋の前を通るたびに——何かいると感じていた。でも何もできなかった」守衛さんは頭を下げた。「ありがとうございます」
「私たちじゃなく、あの子に言ってあげてください」朝倉は言った。「祠のそばに、鏡を置いてきました。このままにしておいてもらえますか」
「もちろんです」守衛さんは頷いた。「誰も触れないようにします」
「それと——できれば、たまに祠に花でも供えてあげてください。ここにいた証として」
守衛さんは目を潤ませた。
「分かりました。必ず」
外に出た。
中庭の銀杏の木の前で、二人は立ち止まった。
朝倉が木を見上げた。
「この木も、知ってたんだと思う」朝倉は言った。「あの子がずっと地下にいたことを」
「木の記憶に、何か見えるか」
「見える」朝倉は木に手を触れた。「この木の記憶に、あの子がいる。小さな祠の前に立って、この木を見上げていた記憶が」朝倉は微かに笑った。「仲良しだったんだと思う」
「木と怪異が?」
「変じゃない。長い時間を、同じ場所で過ごしてきたんだから」朝倉は手を離した。「これからも、この木が一緒にいてくれる」
風が吹いた。
銀杏の若葉が揺れた。
春の光が、キャンパスを照らした。
昼、二人で学食に行った。
普通の昼飯だった。
怪異の話もしなかった。授業の話をした。サークルの話をした。凛に連絡しようか、という話をした。
普通の大学生みたいだった。
「なんか、変な感じだな」と俺は言った。
「何が」朝倉はトレーを持ちながら言った。
「普通に昼飯を食べてる。さっきまで地下で怪異を解決してたのに」
「そういうものだよ」朝倉は席に座った。「高校のときも、怪異が終わったら授業があった」
「そうだったな」
「怪異と普通の日常が、隣り合ってる。それがこの一年半だった」朝倉は定食の味噌汁を飲んだ。「大学でも同じだ」
「嫌じゃないのか」
「嫌じゃない」朝倉は俺を見た。「むしろ——好きかもしれない」
「怪異が?」
「怪異と普通が、混ざってるのが」朝倉は少し考えた。「帰れない者たちを送ってあげた後で、普通にご飯を食べる。それが——なんか、いいと思う」
俺は少し笑った。
「相変わらず、お前らしい感想だな」
「悪い?」
「悪くない。すごくお前らしい」
朝倉は少し照れた顔をした。
「食べよう」
「ああ」
その夜、凛に連絡した。
すぐに電話がかかってきた。
「先輩たち、元気ですか!」凛の声が弾んでいた。「大学生活、どうですか」
「普通だよ」と俺は言った。
「怪異は出ましたか」
俺と朝倉は顔を見合わせた。
「少し出た」と俺は言った。
「やっぱり!」凛は嬉しそうな声を出した。「先輩たちの周りには、絶対出ると思ってました」
「喜ぶな」
「解決できましたか」
「した」
「さすがです」凛はしみじみと言った。「私も早く大学生になって、一緒に調べたいです」
「お前が来たら、もっと大変になりそうだ」
「大変の方が楽しいじゃないですか」凛は笑った。「あと——田村先生から連絡来ましたか」
「来てない。どうかしたのか」
「先生、北川さんと仲良くなったみたいですよ。木下さんも交えて、三人でよく会ってるって」
「そうか」と朝倉が言った。「よかった」
「朝倉先輩の声だ!」凛は言った。「お二人、一緒にいるんですか」
「電話に出てもらってる」と俺は言った。
「仲良しですね」
「普通だ」と朝倉は言った。
「付き合ってるのに普通は変ですよ」凛は笑った。「幸せそうでよかったです。私も早くそういう人を見つけたい」
「見つかるといいな」と俺は言った。
「大学生になったら探します。ではまた連絡しますね。おやすみなさい!」
電話が切れた。
朝倉が言った。
「凛、変わらないな」
「変わらなくていい」俺は言った。「あのままの凛がいい」
「そうだね」朝倉は窓の外を見た。「また会いたいな」
「夏休みに会いに行けばいい」
「そうしよう」朝倉は微かに笑った。「凛に、大学の怪異の話をしたら——喜ぶだろうな」
「目を輝かせるだろうな」
「目を輝かせながら、なんで先輩たちの周りにはいつも怪異が出るんですか、って言うんだろうな」
「絶対言う」
二人で笑った。
その夜遅く、朝倉からメッセージが来た。
湊、一つ気になることがある
何だ
今日、地下でやったことを振り返ってた
どうした
鏡の中の女の子——名前を聞かなかった
俺は少し考えた。
聞けなかったな
帰る場所を返してあげたけど、名前も知らないまま送ってしまった
後悔してるのか
少し。でも——
でも?
地下の祠に、また行ってみようと思う。名前は分からなくても、ちゃんと挨拶したい。ここにいたことを、覚えていると伝えたい
俺は少し微笑んだ。
一緒に行く
分かってた
だろうな
湊
何だ
大学でも、隣にいてくれてありがとう
これからもいる
知ってる。でも言いたかった
俺も言う。詩音の隣にいられてよかった
しばらく間があった。
……大学でも、先が長いね
長い
また怪異が出るかもしれない
出るかもしれない
でも
でも?
一緒だから、大丈夫だ
俺はスマホを置いた。
窓の外に、夜の大学が見えた。
三号館は暗かった。でも地下に、温かい場所ができた。
女の子が帰れた。
祠と鏡が、また一緒になった。
銀杏の木が、また一緒にいてくれる。
この大学にも、古いものが積もっていた。
でも俺たちが来た。
それで、少し軽くなった。
次は何が出るか、分からない。
でも怖くない。
詩音がいるから。




