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朝倉詩音の怪異録〜大学編〜  作者: ゆるっとおやじ


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旧閲覧室の鏡

翌朝、俺たちは守衛室に向かった。

昨日と同じ守衛さんだった。六十代くらいの、白髪の男性。朝倉が三号館のことを聞いたときに、妙な顔をした人だ。


朝倉が声をかけた。

「昨日、三号館のことを聞いた者です」

守衛さんは俺たちを見た。少し警戒した顔だった。

「何か」

「旧閲覧室のことを、もう少し教えてもらえますか」朝倉は静かに言った。「立入禁止になった本当の理由を」

守衛さんは周りを確認した。他に誰もいないのを確かめてから、小声で言った。

「なんで学生さんが、そんなことを」

「気になることがあって」

「老朽化です。それだけですよ」

「扉の向こうから、音がしていました」朝倉は言った。「昨日、聞こえました」


守衛さんの顔が変わった。

隠しきれない、という顔だった。

「……少し待ってください」守衛さんは守衛室の中に入った。しばらくして、一枚の紙を持って出てきた。「これを見せていいかどうか分からないんですが」守衛さんは言った。「でも——あなたたちなら、何か分かるかもしれない」

紙は古い報告書だった。

十年前、大学の施設管理部が作成したものだった。


朝倉が読んだ。

「三号館四階旧閲覧室において、異音が確認された。調査の結果、構造的な問題は見当たらなかった。しかし室内の状況が通常と異なるため、当面立入禁止とする——」朝倉は続きを読んだ。「室内には古い鏡が一面あり、撤去を試みたが——」

朝倉の手が止まった。


「撤去を試みたが、何が書いてあるんだ」と俺は聞いた。

「撤去を試みた作業員三名が、翌日から体調不良を訴えた。原因不明のため、鏡はそのままとする」朝倉は紙を守衛さんに返した。「今も、鏡はあるんですね」

「あると思います」守衛さんは言った。「誰も入っていないから」

「体調不良になった三名は、今どうですか」

「二名は回復しました。でも一名は——」守衛さんは言いにくそうにした。「今も、記憶に問題があると聞いています」


朝倉が俺を見た。

俺も朝倉を見た。

記憶に問題がある。

木下さんのことを思い出した。

「鏡に近づくと、記憶に影響が出る」朝倉は図書館に戻りながら言った。

「高校の音楽室の鏡と、似てるな」

「似てるけど——違う」朝倉は歩きながらノートにメモした。「音楽室の鏡は、御神体として機能していた。この鏡は——何かを閉じ込めている気がする」


「閉じ込めてる?」

「扉の向こうにいるものが、鏡に関係しているとしたら——鏡の中に、何かが閉じ込められているのかもしれない」朝倉は立ち止まった。「閉じ込められているから、出られない。出ようとするから、音がする」

「鏡を割れば出られるのか」

「割ったら、どうなるか分からない」朝倉は慎重に言った。「まず、何が閉じ込められているかを知らないといけない」

「どうやって知る」

「入るしかない」朝倉は俺を見た。

「旧閲覧室に?」

「うん。守衛さんに頼んで、鍵を借りられるか聞いてみる」

「体調不良になるかもしれないぞ」

「なるかもしれない」朝倉は静かに言った。「でも作業員の人たちは、何も知らずに入った。私たちは——準備して入る」

「準備って」

「地下のものの記憶を使う。鏡に触れる前に、何が閉じ込められているかを確かめる」朝倉はノートを閉じた。「触れさえしなければ、影響は出ないはずだ」


守衛さんに頼んだ。

最初は渋られた。でも朝倉が静かに、でも真剣に話すと、守衛さんは根負けした。

「何かあっても、大学は責任を取れませんよ」守衛さんは言った。

「分かっています」朝倉は言った。

「鍵は、今日の夕方に貸します。でも必ず、日が落ちる前に出てきてください」

「約束します」

守衛さんは重い鍵を一本、朝倉に渡した。


「気をつけてください」守衛さんは小声で言った。「十年前に入った作業員の人たちは——入った瞬間から、妙な感じがしたと言っていました。引き込まれる感じ、と」

夕方、三号館に向かった。

四階へのロープをくぐった。

旧閲覧室の扉の前に立った。

昼間より、音が大きかった。低い振動が、扉越しに伝わってきた。

朝倉が鍵を鍵穴に差し込んだ。


「入ったら、私が指示するまで何にも触れるな」朝倉は言った。

「分かった」

「鏡を見ても、目を逸らすな。でも引き込まれる感じがしたら、すぐ声をかけて」

「お前は大丈夫なのか」

「地下のものの記憶があるから、たぶん引き込まれない。でも確信はない」朝倉は俺を見た。「怖かったら、言って」

「怖くない」

「嘘をつくな」

「少し怖い。でも入る」

朝倉は少し笑った。


「正直な方がいい」

鍵を回した。

扉が、重い音を立てて開いた。

中は薄暗かった。

窓に厚いカーテンがかかっていて、光がほとんど入らなかった。スマホのライトで照らした。


埃が積もっていた。床に、棚に、机に。十年間、誰も入っていない部屋だった。

壁の一面に、鏡があった。

縦が二メートル近い、大きな鏡だった。縁が黒い木で作られていて、複雑な文様が彫ってあった。

俺たちが入った瞬間、音が止まった。

静寂が来た。

鏡が、俺たちを映していた。

おかしかった。

俺と朝倉が映っていた。でも鏡の中の景色が、部屋と少し違った。


埃がなかった。棚が整然としていた。本が並んでいた。

「気づいてるか」と俺は小声で聞いた。

「気づいてる」朝倉も小声で返した。「鏡の中は、昔の部屋だ。十年前じゃない。もっと昔の」

「いつ頃の」

「大正か昭和の初めか」朝倉は鏡に近づいた。近づきすぎない距離で、止まった。「鏡の中に——誰かいる」


俺は目を凝らした。

鏡の奥、棚の陰に——人影があった。

小さかった。子どもくらいの大きさ。でも子どもじゃない気がした。

「何だ、あれは」

「分からない。でも——」朝倉は目を閉じた。地下のものの記憶を探っているのが分かった。「この鏡、この土地にずっとあったものじゃない」

「どこから来たんだ」

「遠い場所から来た。でも遠い国じゃない。この国の、別の土地から」朝倉は目を開けた。「この鏡、もともとは別の神社にあったものだ。でも——その神社が壊されたとき、鏡だけがここに流れ着いた」

「神社が壊された?」

「戦争だと思う。空襲で焼けた神社の、御神体だったものが——疎開するように、ここに運ばれた」

「御神体が——鏡の中に閉じ込められたのか」

「そうじゃない」朝倉は鏡の中の人影を見た。「御神体を守っていたものが——一緒に来た。でもここでは、帰り方が分からなかった」


「帰り方?」

「もともとの神社に帰りたい。でも神社は焼けてしまった。帰る場所がなくて——ずっとここにいる」

鏡の中の人影が、動いた。

棚の陰から出てきた。

小さな女の子の形をしていた。でも人間じゃなかった。輪郭が少し揺れていた。目が大きくて、光を持っていた。

 俺たちを見た。

「怖くない」と朝倉が静かに言った。女の子に向けて言ったのか、俺に言ったのか、分からなかった。

女の子が口を動かした。

声は聞こえなかった。でも朝倉が息を呑んだ。


何て言ってるんだ」と俺は聞いた。

「帰りたい、と言ってる」朝倉は静かに言った。「でも——帰る場所がないと分かってる。だから悲しい」

「帰る場所、作れないのか」俺は言った。「神社が焼けたなら——別の場所でも、ちゃんと受け入れてくれる場所があれば」

朝倉は少し考えた。

「そういう考え方もできる」朝倉は女の子を見た。「元の神社に戻れなくても、ちゃんと祀ってくれる場所があれば——それが新しい帰る場所になる」

「この大学に、そういう場所はないのか」

「調べてみないと分からない。でも——」朝倉は中庭の方向を見た。「銀杏の木があった。大学より古い木が」

「あの木と、関係があるのか」

「もしかしたら」朝倉は鏡の女の子を見た。「調べる時間をくれ、と言っていいか」

女の子が頷いた。


部屋を出た。

扉を閉めると、また低い音が聞こえた。でも今度は、少し違った。怒っている音じゃなかった。

待っている音だった。

「急がないといけないな」と俺は言った。

「うん」朝倉はノートを開いた。「銀杏の木と、この鏡の関係を調べる。それと——この大学に、神社や祠がないか」

「大学に神社?」

「古い大学には、敷地内に小さな祠がある場合がある。大正時代の建物なら——可能性はある」

「調べ方は」

「大学の歴史資料室に行く。古い写真や図面が残っているはずだ」

朝倉は歩き出した。いつもの朝倉だ、と俺は思った。

怪異に出会うと、朝倉のスイッチが入る。高校のときと同じだ。


「詩音」

「何?」朝倉は振り返った。

「楽しそうだな」

朝倉は少し驚いた顔をした。それから、少し照れた顔をした。

「楽しくはない。真剣だ」

「真剣に楽しんでる」

「……黙って歩いて」

朝倉は前を向いた。

俺は笑いながら、朝倉の隣に並んだ。

歴史資料室は、図書館の地下にあった。

古い写真や文書が保管されていた。係の職員に事情を話すと、快く資料を出してくれた。

大正時代の、キャンパスの古い写真があった。

朝倉が一枚の写真で止まった。


「これ」

俺は覗き込んだ。

中庭の写真だった。銀杏の木が写っていた。今より細いけど、同じ木だった。

そして——木の根元に、小さな祠があった。

「今はないな」と俺は言った。

「移動したのか、壊したのか」朝倉は写真を見た。「でもあった。大学が設立した頃には、あった」

「今、どこにあるんだろう」

職員さんに聞いた。

職員さんは少し考えてから、言った。


「確か——三号館の地下に移したと聞いたことがあります。改修工事のときに」

「三号館の地下に、祠があるんですか」

「あると思います。でも誰も使っていないから、どんな状態か」

朝倉は俺を見た。

俺も朝倉を見た。

三号館の地下。

「また行くのか」と俺は言った。

「行く」朝倉はノートを閉じた。「でも今日はもう遅い。明日にしよう」

「そうだな」


外に出ると、夕暮れだった。

中庭の銀杏の木が、夕日を受けていた。

木の根元を見た。

今は何もなかった。

でも昔、あそこに祠があって——あの木が、鏡の中の女の子と一緒にいたのかもしれない。


帰り道、二人で歩いた。

「高校のときと似てるな」と俺は言った。

「そうだね」朝倉は言った。「でも一つだけ、全然違うことがある」

「何だ」

朝倉が俺の手を握った。

「これができる」

俺は朝倉の手を握り返した。

「それは大きな違いだな」

「大きな違い」朝倉は少し笑った。「怪異に向かうのに、手を繋いでいけるなんて——高校のときは思わなかった」

「俺もだ」

「湊が来てくれたから」朝倉は静かに言った。「この大学に来て——また怪異に出会ってしまったけど、怖くない」

「一緒だから?」

「一緒だから」


その夜、朝倉からメッセージが来た。

三号館の地下、調べた

何か分かったか

地下に倉庫がある。一般の学生は入れない。でも管理の人に許可を取れれば入れるかもしれない

守衛さんに頼むか

そう思う。でも——もう一つ気になることがあった

何だ

歴史資料室で、もう一枚写真を見つけた。祠の写真だった

どんな祠だった

小さくて、木で作られた祠。でも——扉に、文様が彫ってあった

どんな文様


返信が来るまで、少し間があった。

旧閲覧室の鏡の縁に彫ってあった文様と、同じだった

俺は起き上がった。

祠と鏡が、繋がってるのか

そう思う。もともとセットだったのかもしれない。鏡は御神体で、祠はその家だった

家が地下に移されて、御神体は部屋に置かれたまま——バラバラになったのか

そう。だから女の子が帰れない。家がなくなったから


俺は少し考えた。

家を返してあげれば、帰れるのか

返信が来るまで、また間があった。

そうだと思う。祠と鏡を、もう一度一緒にしてあげれば——女の子が帰れる場所ができる

明日、地下を調べよう

うん。でも湊

何だ

大学に来て、まだ二週間も経っていないのに——また怪異に巻き込まれてしまった

そうだな

後悔してる?

俺は少し笑った。

後悔するわけないだろ。お前と一緒なんだから

しばらく間があった。


……湊は、いつもそういうことを言う

本当のことだから

照れる

たまには照れろ、と言った

毎回言われたら、毎回照れる

それでいい

また間があった。


おやすみ、湊

おやすみ、詩音


スマホを置いた。

窓の外に、夜の大学が見えた。

三号館の暗い窓が見えた。

あの部屋に、女の子がいる。

帰る場所を、ずっと待っている。

明日、見つけてあげる。

そう思いながら、目を閉じた

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