銀杏祭の一人多い客
十一月の初め、キャンパスの銀杏の木が黄色く染まった。
風が吹くたびに、葉が雨みたいに降ってきた。
中庭の石畳が、金色の絨毯になっていた。
大学祭の季節だった。
正式な名前は「銀杏祭」。三日間、キャンパス中が屋台と看板と音楽で埋まる。
二年生になった俺と朝倉も、なんとなく巻き込まれていた。
「お願いします。三号館の二階、手伝ってください」
桜田さんが、俺たちの前で頭を下げた。
バレンタインの怪異で出会った、あの桜田さんだった。田中先輩とは、あの後も続いているらしい。
「お化け屋敷をやることになったんです。サークルの出し物で」桜田さんは言った。「でも、人手が足りなくて」
「お化け屋敷か」と俺は言った。
「怪異に詳しい先輩たちなら、怖がらせるコツを知っているかと思って」
「コツは知らない」朝倉は即答した。
「本物を知っていますよね」
「本物は、驚かせようとしない」
「……それが一番怖いかもしれません」
結局、俺たちは裏方として手伝うことになった。
朝倉は少し渋い顔をしていた。でも、準備の日には誰よりも真面目に働いた。
会場は、三号館二階の空き教室だった。
黒い布で窓を覆って、段ボールで通路を作った。
朝倉は懐中電灯の配置を考える係だった。
「この角度だと、影が長くなる」朝倉は壁を指した。「ここに置けば、人の形に見える」
「詳しいな」
「本物の影を、たくさん見てきたから」
「本物は驚かせようとしないんじゃなかったか」
「だから、作り物の方で工夫している」
桜田さんが、感心した顔で聞いていた。
準備は夜まで続いた。
最後に、全員で通しのリハーサルをした。
十人のスタッフが、順番に通路を歩いて、仕掛けを確認する。
終わって、廊下に出たときだった。
桜田さんが、不思議そうに首を傾げた。
「あれ。何人でしたっけ」
「十人だろ」と部長が言った。
「いえ、通路の中で数えたんです。さっき、十一人いた気がして」
「気のせいだろ」
「そうですよね」
桜田さんは笑った。
でも、笑い方が少しぎこちなかった。
朝倉が、俺の袖を軽く引いた。
「湊」
「何だ」
「私も数えた。十一人いた」
「……そうなのか」
「でも、怖くなかった。一人多い分だけ、通路が少し温かかった」
大学祭の初日は、朝から晴れていた。
正門に、大きなアーチが立った。
焼きそばの匂いと、ステージの音楽が混ざって、キャンパスに満ちた。
お化け屋敷は、午前中から行列ができた。
俺は受付係、朝倉は照明係だった。
中から、悲鳴と笑い声が聞こえてきた。
昼過ぎに、凛が来た。
制服姿で、リュックを背負っていた。
「先輩たち!」
「凛、勉強はどうした」と俺は言った。
「今日だけ、二時間だけです。母に許可をもらいました」凛は指を二本立てた。「受験生にも息抜きは必要ですから」
「息抜きの場所がここでいいのか」
「ここがいいんです」
凛は校舎を見上げた。「お化け屋敷、やっているんですよね。入ってもいいですか」
「いいけど、本物は出ないぞ」
「それが、ちょっと違う気がします」
凛は真顔になった。
「入る前から感じます。この教室、誰かが楽しそうにしています」
凛が、お化け屋敷に入った。
俺は受付で待った。
三分ほどして、凛が出てきた。
悲鳴は上げていなかった。
目が、少し潤んでいた。
「先輩」凛は小声で言った。「いました」
「何が」
「女の子です。小さな。通路の隅で、ずっとお客さんを見ていました」
受付の机の向こうで、朝倉が顔を上げた。
「見えたのか」
「はっきりとは。でも——」凛は少し考えた。「着物の袖が見えました。それから、お客さんが笑うたびに、一緒に笑っていました」
朝倉と俺は、顔を見合わせた。
「旧閲覧室の、あの子だ」と俺は言った。
「たぶん」朝倉は静かに言った。「三号館の地下の祠から、来ている」
「なぜ急に」
「お祭りだから」凛は言った。「あの子、ずっと見ていたんだと思います。百年、このお祭りを、遠くから」
夕方、お化け屋敷の営業が終わった。
スタッフが片付けを始める中、俺と朝倉と凛は、通路の奥に残った。
黒い布の隅に、小さな気配がいた。
朝倉が、そっとしゃがんだ。
「怖がらなくていい」朝倉は静かに言った。「来てくれて、ありがとう」
空気が、ふわりと揺れた。
凛が、朝倉の隣にしゃがんだ。
「見えます」凛は言った。「でも、恥ずかしがっています」
「恥ずかしがる?」と俺は言った。
「お化け屋敷のお客さんに、混ざってしまったから。怒られると思っているみたいです」
「怒らない」朝倉は優しく言った。「楽しかったか」
空気が、大きく揺れた。
嬉しそうな揺れだった。
凛が、くすっと笑った。
「すごく楽しかったそうです。悲鳴が好きだったって」
「悲鳴が」
「声が、たくさん聞こえるのが。昔の神社のお祭りみたいで」
朝倉は、小さく息を吐いた。
「やっぱり。神社の子なんだ」
その夜、俺たちは三号館の地下に降りた。
守衛さんに、事情を話した。
守衛さんは、懐中電灯を持って先に立ってくれた。
「あの日から、毎週、花を供えているんです」守衛さんは階段を降りながら言った。「枯れないんですよ、不思議と」
地下の奥に、祠があった。
鏡が、その隣に立ちかけてあった。
祠の前には、白い花が、新しいまま供えてあった。
朝倉が、祠の前に立った。
「連れてきました」朝倉は小さく言った。
俺の鞄から、小さな像が、少し温かくなった気がした。
岩手でもらった、あの分身の像を、念のため持ってきていた。
祠の前の空気が、静かに揺れた。
凛が、目を細めた。
「ここにいます。祠の上に、座っています」
「戻ってきたのか」と俺は言った。
「楽しかったから、満足したみたいです」凛は微笑んだ。「お祭りが終わっても、ここにいてくれるって」
「よかった」
朝倉は、祠を見つめていた。
それから、ふと気づいたように言った。
「祠の裏に、何かある」
守衛さんが、懐中電灯で照らしてくれた。
祠の裏側の板に、小さな札が打ち付けてあった。
古い木の札だった。
墨で、一文字だけ書いてあった。
「澄」
「すみ、と読むんでしょうか」守衛さんが言った。
「たぶん」朝倉は札を見つめた。「この祠の、守り手の名前」
「あの子の名前ですか」と俺は言った。
「そうだと思う」
凛が、祠の上を見て、くすくす笑った。
「当たりだそうです。恥ずかしがっています」
「澄ちゃん」朝倉は、そっと呼んだ。
空気が、ふわりと明るくなった。
祠の前の花が、微かに揺れた。
「名前を知らなくても、覚えていられると思っていた」朝倉は静かに言った。「でも、知れてよかった。これからは、名前で呼べる」
地下が、温かくなった。
鏡の表面に、一瞬だけ、小さな女の子の笑顔が映った気がした。
守衛さんが、目を拭いた。
「また来ます。毎週」
「澄が喜びます」と凛が言った。
二日目は、俺と朝倉の自由時間だった。
お化け屋敷のシフトが午後からだったので、午前中は二人で屋台を回った。
焼き鳥を食べた。たこ焼きを食べた。わたあめを食べた。
「また食べているな」と俺は言った。
「文化祭は食べる場所だ」朝倉はわたあめを持った。
「高校の文化祭もそうだったな」
「あのときは、私服で会ってから、屋上に行った」
「覚えているのか」
「全部覚えている」朝倉は少し笑った。「湊が、きれいだと言ってくれたことも」
「それは夏祭りだ」
「そうだった。でも、高校の屋上でも、似たことを言ってくれた」
「言ったか」
「言った。似合っている、と」
「それは、言ったな」
「覚えているじゃないか」
わたあめの甘い匂いが、風に混ざった。
広場のステージで、軽音サークルが演奏していた。
二人で、ベンチに座って聴いた。
銀杏の葉が、肩に落ちてきた。
朝倉が、一枚、つまんで見つめた。
「去年の秋、この木の記憶を、少しだけ見た」
「どんな記憶だ」
「この木は、毎年この季節に、黄色くなる。その下を、たくさんの人が通る。何百年も、ずっと」
「今年の俺たちも、その記憶に入るんだな」
「入る」朝倉は葉を指で回した。「今日、この瞬間も」
俺は、少し間を置いた。
「詩音」
「何だ」
「来年の秋も、ここにいよう」
「来年の秋は、三年生だ」
「再来年の秋も」
「卒業した後の秋は」
「戻ってくる」
朝倉が、俺を見た。
「戻ってくるのか」
「毎年、ここの銀杏祭に来る。それで、ここのベンチに座る」
「それは、岩手のお祭りと同じだな」
「そうだな。毎年の約束が、また増える」
朝倉は、ふっと笑った。
「増えていくな。約束が」
「増えていい」
「忘れない自信があるのか」
「ある」
「なぜ」
「詩音が覚えているから」
「……私任せか」
「半分ずつだ」
朝倉は、銀杏の葉を、そっと俺の手のひらに乗せた。
「じゃあ、半分、預ける」
黄色い葉が、手のひらで、温かかった。
三日目の夜、後夜祭が始まった。
キャンパスの広場に、焚き火が焚かれた。
学生たちが、輪になって集まった。
歌う人。踊る人。ただ火を見つめる人。
俺と朝倉は、輪の外側で、並んで立っていた。
火の粉が、夜空に昇っていった。
その先に、星が見えた。
凛から、メッセージが来た。
今日も、勉強しています。窓から、大学の方の空が見えます。花火が見えました
花火は、後夜祭の最後に上がる
見えるといいなと思っていました。ちょうど、見えました
そうか
先輩たち、楽しんでいますか
楽しんでいる
よかったです。受験が終わったら、私も来年の銀杏祭に参加します
待っている
あと、澄ちゃんにも、よろしくお伝えください
伝えておく
朝倉が、横からそっと画面を覗いた。
「凛、元気そうだな」
「そうだな」
「澄ちゃんにも、後で伝えよう」
「今から、行くか」
「行こう。花火が上がる前に」
三号館の地下に降りた。
守衛さんが、気を利かせて、鍵を開けておいてくれた。
祠の前に、二人で立った。
朝倉が、小さな提灯を、鞄から出した。
「用意していたのか」
「昨日、屋台で買った」朝倉は少し照れた。「お祭りの提灯。持って帰ってきた」
提灯に、明かりを灯した。
赤くて、柔らかい光が、地下を照らした。
祠の前に、そっと置いた。
「澄ちゃん」朝倉は静かに言った。「これが、あなたのお祭りの灯りです」
地下の空気が、ふわりと揺れた。
提灯の光が、少しだけ大きくなった。
まるで、笑っているみたいに。
遠くから、花火の音がした。
地下まで、低く響いてきた。
一つ、二つ、三つ。
「花火だ」と俺は言った。
「聞こえるだけだけど」朝倉は天井を見上げた。「でも、澄ちゃんも、聞いている」
提灯が、揺れた。
それから、祠の前で、小さな光が一つ、ぽっと灯った。
提灯の火じゃなかった。
もう少し、柔らかい光だった。
「いる」朝倉は小声で言った。
「見えるのか」
「今日は、見える。笑っている」
朝倉は、光に向かって、そっと手を振った。
「また来年も、お祭りに来てね」
光が、ゆっくりと、上下に揺れた。
頷いているみたいだった。
地下を出た。
夜の中庭に、後夜祭の火の明かりが、遠く揺れていた。
銀杏の木が、闇の中で、うっすらと黄色く光っていた。
朝倉が、木の下で立ち止まった。
「湊」
「何だ」
「今日、思ったことがある」
「何だ」
「怪異と向き合ってきたのは、帰れない人を送るためだと思っていた」朝倉は木を見上げた。「でも、違うのかもしれない」
「何が違うんだ」
「向き合うのは、そこに居ていい場所を、作ってあげるためなのかもしれない」
俺は、少し考えた。
「澄ちゃんは、居場所があって、よかったな」
「うん。人形も、光雄さんの家に居場所ができた。ハツさんのご主人の記憶も、御神体の中に居場所があった」
「送ることも、居場所を作ることの一つか」
「そうかもしれない」朝倉は静かに言った。「帰る場所があることも、居場所があることも、同じくらい大切」
「詩音の居場所も、あるぞ」
朝倉が、俺を見た。
「私の居場所」
「ここだ」
俺は、自分の隣を指した。
朝倉は、一瞬、何も言わなかった。
それから、そっと、俺の隣に並んだ。
肩が触れた。
「……ここか」
「ここだ」
「悪くない」
「そうか」
「でも」朝倉は少し笑った。「湊の居場所も、ここだ」
朝倉が、自分の隣を指した。
俺は、少し笑った。
「知っている」
「知っているのか」
「毎日、そこにいる」
「……湊は」朝倉は、顔を背けて、でも口元を緩めた。「たまに、ずるくない言い方もする」
「ずるくない言い方が、あるのか」
「今のは、ずるくなかった。ただ、嬉しかった」
遠くで、最後の花火が上がった。
大きな音が、夜空いっぱいに響いた。
金色の光が、銀杏の木の上に、降り注いだ。
二人で、並んで、空を見上げた。
来年も、ここに来よう。
再来年も、その先も。
そう思いながら、花火が消えていくのを見ていた。
その夜、アパートに戻った。
本棚の、小さな像の前に、銀杏の葉を一枚、置いた。
朝倉から預かった、あの葉だった。
「半分、預かっている」と俺は像に言った。
返事はなかった。
でも、像が、仄かに温かくなった。
スマホが鳴った。
今日、ありがとう
毎回言うな
毎回ありがとうだから
澄ちゃん、喜んでいたな
喜んでいた。名前を知れてよかった
名前を知らなくても、覚えていられる。でも、知っていた方が、呼べる
そうだな
湊
何だ
明日も、呼んでくれるか。私の名前
呼ぶ
何回でも?
何回でも
……おやすみ、湊
おやすみ、詩音
窓の外に、秋の夜が広がっていた。
遠く、大学の方角に、まだ後夜祭の火の明かりが、うっすら見えた。
銀杏の葉が、風に吹かれて、窓ガラスにそっと当たった。
一枚、二枚。
まるで、おやすみ、と言っているみたいだった。




