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朝倉詩音の怪異録〜大学編〜  作者: ゆるっとおやじ


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31/31

雪の夜の存在しない駅編① 終電の一つ先

雪の夜には怪異が起こりやすい

詩音と湊もまた怪異に導かれる

十二月になった。

キャンパスの銀杏は、すっかり裸になっていた。

朝の空気が硬くて、息が白かった。後期の授業も大詰めで、期末試験の気配が学食にまで漂っていた。


凛からは、毎晩のようにメッセージが来た。

共通テストまで、あと四十三日です

数えているのか

数えないと怖いので、数えています

数えるのはいいが、数えすぎるな

朝倉先輩にも同じことを言われました。二人とも同じ返事で笑いました

受験生は大変だった。


それでも、凛の文面は明るかった。

三浦蓮と話したのは、その週の木曜日だった。

同じ学部の、同じ授業を取っている男だった。話したことは数回しかなかった。

その三浦が、学食で俺の向かいに座った。

トレーを置いたまま、箸をつけなかった。

「桐島、ちょっといいか」

「何だ」

「お前、変な話に詳しいって聞いた」


隣で朝倉が、静かに味噌汁を置いた。

「誰から聞いたんですか」

「桜田さん。バレンタインのときに助けてもらったって」

桜田さんの口の軽さは、悪意がなかった。だから怒る気にもなれなかった。

「聞くだけ聞く」と俺は言った。


三浦は、しばらく黙っていた。

目の下に、濃い隈があった。

「先週の金曜の夜、終電に乗ったんだ」

三浦の話は、こうだった。

サークルの飲み会の帰りだった。大学前の駅から、各駅停車の終電に乗った。


酒が入っていて、座った途端に眠ってしまった。

目が覚めたとき、電車は止まっていた。

ドアが開いている

窓の外は、雪だった。

「おかしいだろ」三浦は言った。「その日、雪なんて降ってなかった。街は乾いていた」

「降っていたのは、その駅だけか」と朝倉が聞いた。

「分からない。外に出たわけじゃないから。ホームに降りただけで」

「降りたのか」

「降りた。降りてしまった」三浦は両手を握った。「アナウンスが、聞こえたんだ。お忘れ物のないよう、お降りください、って」


俺は、箸を置いた。

「電車の中は、誰もいなかったんだな」

「誰もいなかった。俺一人だけ」

三浦は、言葉を選ぶように続けた。

「ホームには、白い電灯が並んでいた。時計があって、針が止まっていた。駅名の看板は、真っ白で、何も書いてなかった」

「駅員は」

「いなかった。誰も。ただ——ホームの端に、小さな待合室があった」


三浦の声が、少し低くなった。

「ガラス戸が開いていて、中が見えた。壁に、ずらっとコートが掛かっていた」

「コート?」と俺は言った。

「何十着も。男物も女物も、子ども用のもあった。古いのも、新しいのも。どれも、肩のところに、小さな札が付いていた」

「札には、何が書いてあったんですか」と朝倉が聞いた。

「名前だ」三浦は言った。「手書きの、名前」

「持ち主の名前ですね」

「たぶん。全部、知らない名前だった」

三浦は、そこで言葉を止めた。


学食のざわめきが、遠くに聞こえた。

朝倉が、静かに促した。

「知らない名前の中に、知っている名前があった」

三浦は、朝倉を見た。

「どうして分かるんだ」

「顔に書いてあります」

三浦は、少し笑った。笑いかけて、うまくいかなかった。

「一着だけ、新しいコートがあった。紺色で、まだ畳んだ皺が残っているような。札に、俺の名前が書いてあった」

「三浦蓮と」

「そう。自分の字で。俺の字で」


俺は、背中が冷えるのを感じた。


「それで?」

「怖くなって、走った。電車に戻ろうとして。ドアは、まだ開いていた。飛び乗ったら、すぐに閉まって、動き出して——気づいたら、大学前の駅の、始発待ちのベンチで目が覚めた」

「夢だったと思わなかったのか」

「思った。思おうとした」三浦は、鞄から何かを取り出した。「でも、これがあった」

テーブルの上に置かれたのは、小さな紙切れだった。


それは札だった。

手のひらに収まるくらいの、古い厚紙の札。

麻の紐が付いている。

墨で、名前が書いてあった。

三浦 蓮

朝倉が、札を手に取った。

目を閉じた。

十秒ほど、そのまま動かなかった。

やがて、目を開けた。


「古い。でも、書かれた日付は新しい」

「どういう意味だ」と三浦が言った。

「札の紙は、何十年も前のものです。でも、墨は、先週書かれたもの」

「俺は書いていない」

「分かっています」朝倉は札を、そっとテーブルに戻した。「書いたのは、あなたじゃない。駅の方です」

「駅の方って、何だ」

「分かりません。でも」朝倉は三浦を見た。「あなたは、あの駅の待合室に、コートを掛けられかけている」

三浦の顔から、血の気が引いた。

「掛けられかけている、って」

「札が付いたコートは、持ち主の帰る場所を決めてしまう、という話があります」朝倉は静かに言った。「ここではなく、あちらに」

「ちょっと待て、そんな」三浦は声を荒げかけて、周りを気にして抑えた。「じゃあ、俺は」

「まだ間に合います。あなたはコートを着ていない。着る前に、札を取り戻しに来た」

「どうすればいい」

「その前に」朝倉は、俺を見た。「湊、もう一つ確認させてほしい」

「何だ」

「三浦さん。さっき、あなたは『知っている名前もあった』と、言いかけた。あれは、あなたの名前のことだけじゃない気がする」


三浦は、唇を噛んだ。

それから、ゆっくりと、俺の方を向いた。

「桐島」

「何だ」

「お前には、言うべきか迷っていた」

嫌な予感が、背筋を這い上がった。

「言ってくれ」

「俺の隣に、もう一着、コートが掛かっていたんだ。男物の、黒っぽいやつ。肩の札に、書いてあった」


三浦は、すっと息を吸った。

「桐島、湊って」

学食の喧騒が、一瞬、遠のいた気がした。

朝倉の手が、テーブルの下で、俺の手首を掴んだ。

強い力だった。

「……俺の名前が」

「俺の隣に、並んで掛かっていた」

「間違いないんですね」と朝倉が言った。声が、いつもより硬かった。

「間違いない。見間違えるわけがない。桐島の名前は、授業の名簿で、毎回見ているから」

「他に、見ましたか」

「もう一着、あった気がする。でも、そっちは、怖くて、確認できなかった。女物の、深い緑色のコートだった」


朝倉の指に、力がこもった。

俺は、何も言えなかった。

三浦が、頭を下げた。

「ごめん。巻き込むつもりじゃなかった。でも、誰に言えばいいか分からなくて。桐島の名前を見たから、言わなきゃと思って」

「言ってくれて、助かった」俺は、ようやく声を出した。

「本当か」

「本当だ。黙っていられる方が、困る」


朝倉が、ゆっくり、手を離した。

それから、深く息を吸った。

「三浦さん。その札は、私が預かります。いいですか」

「持っていてくれるなら、助かる」

「それと」朝倉は、真っ直ぐに三浦を見た。「今夜から、一人で電車に乗らないでください。終電は特に」

「分かった」

「もう一つ。何か、変わったことがあったら、すぐに連絡を」

「何かって」

「夜中に、駅のアナウンスが聞こえるとか」

三浦の顔が、白くなった。

「……聞こえた」

「いつ」

「昨日の夜。部屋で。小さく、ラジオみたいな音で」

「何と言っていましたか」


三浦は、掠れた声で言った。

「まもなく、一番線に、最後の電車が参ります。お忘れ物のないよう——」

三浦と別れてから、二人で図書館の前のベンチに座った。


十二月の風が、冷たかった。

朝倉は、膝の上で、あの札を握っていた。

俺は、何を話すべきか、分からなかった。

朝倉が、先に口を開いた。

「湊」

「何だ」

「怖いか」

「……怖い」

「私も、怖い」

朝倉の声は、小さかった。

でも、震えてはいなかった。


「自分の名前が、知らない場所で、札になっているのは、怖い」

「そうだな」

「でも、それとは別に」朝倉は言った。「今、一番怖いのは、別のことだ」

「何だ」

「三浦さんが言いかけた、女物の、深い緑のコート」

俺は、はっとした。

去年の元日

神社に初詣に行った日。

朝倉が着ていた着物は、深い緑色だった。

「詩音」

「札を、確認できなかったから、私のものかどうかは、分からない」朝倉は札を見つめた。「でも、緑のコートが掛かっている可能性は、否定できない」

「あれが、詩音のものとは限らない」

「限らない。でも」朝倉は顔を上げて、俺を見た。「湊と、並んで掛かっていたなら——もし、私が、ならば」


朝倉は、一度、言葉を切った。

「一緒に、掛けられているのかもしれない」

俺は、無意識に、朝倉の手を握っていた。

冷たい手だった。


「行かせない」

「うん」

「どこにも、行かせない」

「うん」朝倉は、握り返した。「分かっている。でも」

「でも?」

「湊が、私を連れて行かせないのと同じくらい」朝倉は、ゆっくり言った。「私も、湊を、連れて行かせない」


風が吹いた。

裸の銀杏の枝が、ざわりと鳴った。

俺は、朝倉の手を握ったまま、空を見上げた。

灰色の雲が、低く垂れ込めていた。

雪が降りそうな空だった。


その夜、スマホに、朝倉からメッセージが来た。

札を、机の上に置いている。字が、少しずつ変わっていく

変わる?

最初は、三浦さんの名前だけだった。さっき、見たら、もう一つ増えていた


少し間があった。

小さく、二行目に

何と書いてある

まだ、読めない。滲んでいる

今から行く

来なくていい。外は、雪が降り始めている

俺は、窓の外を見た。

確かに、白いものが、ちらちらと舞っていた。

今年初めての雪だった。


雪が降っているから、行く

何を言っているんだ

終電は、もう過ぎている。雪の夜に、一人でいさせるな

しばらく、返信がなかった。

やがて、一行だけ、来た。

……待っている

上着を羽織って、部屋を出た。

アパートの階段を降りる途中、ふと、気づいた。

遠くの方から、微かに、電車の走る音がした。

終電は、とうに過ぎている時間だった。

それなのに、線路の方から、一定のリズムで、車輪の音が、近づいてきていた。


雪の中を、誰も乗せていない電車が、ゆっくりと、こちらに向かっている気がした。

背筋が、凍った。

俺は、走った。

朝倉のアパートまで、徒歩八分。

その間、ずっと、後ろから、アナウンスの声が、追ってくるような気がした。


まもなく——

お忘れ物の——


それでも振り返らなかった。

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