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朝倉詩音の怪異録〜大学編〜  作者: ゆるっとおやじ


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27/31

白い人形が動いた夜④ 六十年前の子どもが笑った

翌朝、遥介さんが目を覚ましたとき、俺はすでに起きていた。

コンビニで買ってきたおにぎりと、インスタントの味噌汁を出した。

遥介さんは少し驚いた顔をした。

「……ありがとうございます」

「食べてください。じいちゃんに会いに行く前に」

「はい」


遥介さんが食べ始めた。

俺も向かいに座って食べた。

しばらく黙っていた。

「昨日、よく眠れましたか」と俺は言った。

「久しぶりにちゃんと眠れました」遥介さんは言った。「三日間、大学の廊下では——浅い眠りしかできなくて」

「そうでしょうね」

「でも——この部屋で眠ったら、すぐに深く眠れた。不思議だな、と思いながら眠りました」

「昔、あなたが住んでいた部屋だから、かもしれません」

「そうかもしれない」遥介さんは部屋を見回した。「変わったようで——変わっていないな、と思います。窓の位置も、壁の色も同じだ」

「引っ越してきたとき、前の住人の気配が残っていると思っていました」俺は言った。「それが遥介さんの気配だったんですね」

「そうか」遥介さは押し入れを見た。「あの押し入れに、人形を忘れていった」

「奥の方に入っていました」

「急いで荷物を出したから、気づかなかった。でも——忘れてよかったのかもしれない」遥介さんは静かに言った。「あなたが見つけてくれたから」


十時に、朝倉が来た。

遥介さんと初めてちゃんと話した。

昨日は俺が話す場面が多かったが、今日は朝倉が静かに遥介さんに話しかけた。

「昨日、よく眠れましたか」

「おかげさまで。ありがとうございました」

「今日、おじいさんに会いに行きます。緊張しますか」

「緊張します」遥介さんは正直に言った。「情けない姿を見せることになる」

「情けなくないと思いますよ」朝倉は静かに言った。

「そうですか」

「一人で抱えていた。それは情けなくない。ただ——一人だったから、限界が来た。それだけだと思います」

「でも連絡できなかった。心配させた」

「心配させてしまったことは、ちゃんと謝ればいい。それだけです」朝倉は遥介さんを見た。「謝った後のことは、おじいさんが決める。あなたが決めることじゃない」


遥介さんは朝倉を見た。

「なんで、そんなにはっきり言えるんですか」

「経験があるから」朝倉は静かに言った。「一人で抱えていた時間が、私にもあった。誰かに話せたとき——思ったより怒られなかった。思ったより、受け入れてもらえた」

「そうですか」

「そうだった」朝倉は言った。「行きましょう。おじいさんが待っています」


三人で、加瀬光雄さんの家に向かった。

春の道を歩いた。

遥介さんは無言だった。

俯き気味に歩いていた。

俺は隣を歩きながら、何かを言うべきか迷った。

でも、何も言わなかった。

朝倉も何も言わなかった。

三人で、ただ歩いた。

神社の前を通り過ぎた。

遥介さんが、神社を見た。


「じいちゃんと、よく来ていました」遥介さんは静かに言った。「小学生のとき。じいちゃんに連れられて、初詣に来ていた」

「そうだったんですね」と俺は言った。

「じいちゃんは、この神社が好きで。毎年必ず来ていた。俺も好きだった。境内に入ると、なんか——落ち着くんです」

「じいちゃんも、子どもの頃から来ていたから。この土地に、深い縁があるんだと思います」

「縁、か」遥介さんは神社を見た。「縁があるから——あなたたちと出会えたのかもしれない」

「そうだと思います」

 加瀬光雄さんの家に着いた。

 玄関の前で、遥介さんが立ち止まった。

「少し——待ってください」遥介さんは言った。

「大丈夫です。待ちます」朝倉は言った。


遥介さんは深く息を吸った。

一度、二度。

それから、ゆっくりと息を吐いた。

「行きます」

ドアのチャイムを押した。

しばらくして、扉が開いた。

幸子さんが出てきた。

遥介さんを見た瞬間、目が潤んだ。

「遥介くん——」

「幸子おばさん。ご心配をおかけしました」

「入りなさい。お兄ちゃんが待っているから」


居間に通された。

光雄さんが、椅子に座っていた。

遥介さんが入ってきた瞬間、光雄さんは顔を上げた。


しばらく、二人は動かなかった。

俺と朝倉は、部屋の端に立っていた。

光雄さんが、立ち上がった。

ゆっくりと、杖をついて。

遥介さんの方に歩いた。

「じいちゃん——」

「来たか」光雄さんは言った。穏やかな声だった。

「ごめん。心配させた」

「ここに来い」


光雄さんが、手を広げた。

遥介さんが、光雄さんに近づいた。

光雄さんが、遥介さんを抱いた。

六十代の祖父と、二十三歳の孫が、抱き合っていた。

遥介さんが、声を上げて泣いた。

今日は、昨日みたいに声を殺していなかった。

ちゃんと、声を出して泣いた。

光雄さんは何も言わなかった。

ただ、遥介さんの背中を叩き続けた。


幸子さんが、台所に引っ込んだ。

泣き声が聞こえた。

しばらくして、二人は離れた。

遥介さんが目を拭いた。

光雄さんが、俺たちを見た。

「昨日、電話をくれた方ですね」光雄さんは言った。


「桐島湊です。ご連絡できてよかったです」

「ありがとう。遥介を見つけてくれて」光雄さんは遥介さんを見た。「メゾン桐が丘に住んでいるんですね。遥介が住んでいたアパートに」

「そうです」

「縁があったんですね」光雄さんは静かに言った。「あのアパートに、ちゃんとした人が来てくれた」

「人形が案内してくれました」

「人形が」光雄さんは少し目を細めた。「そうか。あの人形は——ちゃんと仕事をしてくれた」

「光雄さんが渡したものだから、ちゃんと仕事をしたんだと思います」


幸子さんがお茶を出してくれた。

五人で、テーブルを囲んだ。

遥介さんが、一年間のことを話した。

会社が倒産したこと。仕事が見つからなかったこと。貯金が尽きてきたこと。誰にも言えなかったこと。


光雄さんは黙って聞いていた。

怒らなかった。

責めなかった。

ただ、聞いていた。

全部話し終わったとき、光雄さんは言った。

「なぜ言えなかったんだ」

「心配させたくなかった。じいちゃんが歳を取ってきて——健康のことも心配だったから、余計な心配をかけたくなかった」

「お前が心配だから、私の方が余計なことを考えてしまっていた」光雄さんは静かに言った。「最近、何かを忘れているような気がしていた。何かが足りない気がしていた。それがお前のことだったと、昨日電話が来て分かった」


「ごめん」

「謝らなくていい。でも——一つだけ言う」

「何だ」

「困ったとき、一人で抱えるな。それだけだ」

 遥介さんが、また目を赤くした。

「分かった」

「分かればいい」光雄さんは頷いた。「さて。今後のことを考えないといけない」


光雄さんと幸子さんが、遥介さんの今後について話し合い始めた。

当面は光雄さんの家に住む。

仕事は、まず幸子さんの知り合いに当たってみる。

遥介さんは最初、遠慮していた。

でも光雄さんが一言言った。


「お前が来てくれた方が、私も助かる。一人でいると、足腰が弱るから」

それで遥介さんは頷いた。

俺は少し笑った。

朝倉も隣で、微かに笑っていた。

お茶を飲み終わって、俺たちは帰り支度をした。

玄関で、光雄さんが人形を出してきた。

「この人形、返してもらえますか」遥介さんが光雄さんに言った。「じいちゃんのものだから」

「お前に持っていてほしい」光雄さんは言った。

「でも——」

「一度渡したものだ。お前が持っていていい。ただ——」光雄さんは人形を遥介さんに渡した。「今度は忘れるな」

「忘れない」遥介さんは人形を受け取った。「絶対に忘れない」

「それでいい」


光雄さんが俺を見た。

「桐島さん、一つ聞いていいですか」

「何でしょう」

「あなたは——どうして遥介のために、ここまで動いてくれたんですか」

俺は少し考えた。

「人形が俺を選んだから、と昨日も言いました。でも——もう一つ理由があります」

「何ですか」

「俺も、転校生として知らない土地に来て——一人だった時期があります。誰かが隣にいてくれたことで、ここが自分の場所になった。遥介さんも、一人だったから——誰かが隣にいれば変わると思いました」


光雄さんは俺を見た。

それから、朝倉を見た。

「隣にいてくれた人ですか」光雄さんは朝倉に言った。

「そうです」朝倉は静かに言った。

「そうですか」光雄さんは微かに笑った。「子どもの頃、神社で光が見えていました。その光が、いつも誰かと誰かを繋いでいるように見えた。今も——そういうものが続いているんだなと思います」

「続いています」朝倉は言った。「この土地に、ずっと続いています」

「よかった」光雄さんは静かに言った。「この土地を離れずにいてよかった」


外に出た。

春の午後の光が、住宅街を照らしていた。

三人で歩いた。

遥介さんが、人形を鞄にしまいながら言った。

「本当にありがとうございました。なんでこんなに良くしてもらえるのか、まだよく分からないんですが」

「人形が選んだから、と何度も言っていますが——」俺は言った。「俺は人形の言う通りに動いただけです。感謝するなら、人形に」

「人形に感謝するんですか」

「そうです」


遥介さんは鞄を見た。

「……分かりました。人形に感謝します」

「それでいい」

「あなたたち、不思議な人たちですね」遥介さんは言った。「でも——不思議だけど、信頼できる感じがする。なんでかは分からないけど」

「経験値があるからだと思います」朝倉は静かに言った。

「経験値?」

「怪異に向き合ってきた経験値です」

「怪異——本当にいるんですか」

「います」俺は言った。「でも今日のはそういう話じゃない。ただの、人と人の話でした」

「そうですね」遥介さんは言った。「でも——人形が動いたのは、怪異ではないんですか」

「怪異かもしれません。でも——怖い怪異じゃなかった。心配している人間の、温かい気持ちが宿った怪異でした」


遥介さんは少し間を置いた。

「そういう怪異も、あるんですね」

「あります」朝倉は言った。「いろんな怪異がある。怖いものばかりじゃない」

神社の前まで来た。

遥介さんが足を止めた。

「少しだけ、寄っていいですか」

「もちろんです」


三人で鳥居をくぐった。

本殿の前に立った。

遥介さんが手を合わせた。

長い間、手を合わせていた。

俺たちは少し後ろで待った。

朝倉が小声で言った。


「旧本殿に、誰かがいる気がする」

「守り続けている存在か」と俺は小声で聞いた。

「そうだと思う。今日は——穏やかだ。いつもより穏やかだ」

「遥介さんが来たから?」

「そうかもしれない。光雄さんの孫が、久しぶりにここに来た。喜んでいるのかもしれない」

遥介さんが手を下ろした。

振り返った。


「すみません、長くなって」

「大丈夫です。何を願いましたか」

「じいちゃんが元気でいますように、と。それと——」遥介さんは少し考えた。「ちゃんとやっていける気がしてきた、ということを報告しました」

「報告したんですか、願い事じゃなくて」

「神社って、願い事だけじゃなくていいと思って。報告もしていい気がして」

「確かに」朝倉は静かに言った。「報告でも、神様は聞いてくれると思います」

「そうですよね」遥介さんは境内を見た。「この神社、子どもの頃から変わっていない。でも——来るたびに少し違う感じがする。今日は特に、温かい気がします」

「守り続けているものがいるからだと思います」と朝倉が言った。

「守り続けているもの、か」遥介さんは空を見た。「じいちゃんが子どもの頃から、ずっとここを守っているものが」

「そうです」

「そういうものがいるなら——この土地は、大丈夫ですね」遥介さんは言った。「じいちゃんが好きだった場所が、ちゃんと守られている」


鳥居を出た。

駅に向かう道で、遥介さんと別れた。

「また——会えますか」遥介さんは言った。

「会えます」と俺は言った。「この町にいるなら、また会いましょう」

「この町に、しばらくいます。じいちゃんのそばにいたい」

「それがいいと思います」

「あなたたちのこと、じいちゃんに話します。人形が案内してくれた人たちのことを」

「話してください。光雄さんも喜ぶと思います」


遥介さんは頭を下げた。

「本当にありがとうございました。人形を見つけてくれて、じいちゃんのところに連れていってくれて——一人じゃなくなった気がします」

「よかったです」朝倉は静かに言った。

「一人じゃなくなった、という感覚——もうしばらく忘れていました。この感覚が、一番大切なものだったんだな、と思いました」

「そうです」俺は言った。「一人じゃないことが、一番大切だと思います」


遥介さんが歩いていった。

途中で振り返って、小さく手を振った。

俺たちも手を振り返した。

二人になった。

春の午後の道を、並んで歩いた。


「よかったな」と俺は言った。

「よかった」朝倉は言った。「人形が案内した通りに動いて——ちゃんと繋がった」

「光雄さんと遥介さんが抱き合っているのを見て——なんか、胸が痛かった」

「痛かった?」

「いい意味で。ああいう場面を見ると——大切な人に会いたくなる」

「誰に会いたくなるんだ」

「今、隣にいる人に」


朝倉が俺を見た。

少し、耳が赤くなった。

「……湊は、本当に」

「本当のことだ」

「うるさい」

「うるさくない」

「うるさい」朝倉は前を向いた。「でも——嬉しい」

「それでいい」


俺のアパートに戻った。

本棚の端を見た。

人形は、もういなかった。

遥介さんが持っていった。

空いた場所が、少し寂しかった。


「いなくなったな」朝倉は空いた場所を見た。

「そうだな。ここに来てから、ずっといてくれたのに」

「行くべき場所に行ったから」

「そうだな。遥介さんのそばにいてくれた方がいい」

「でも——この部屋に、人形がいた記憶は残る」朝倉は空いた場所を見た。「温かい記憶が、ここに積まれた。またこの部屋が、少し変わった気がする」

「そうだな。引っ越してきたとき、前の住人の気配が残っていると感じた。今度は——人形がいた気配が残る」

「そしてじいちゃんが孫を心配していた気持ちの気配も」

「全部、積まれていくんだな」

「この部屋に、ずっと積まれていく」朝倉は静かに言った。「記憶神社の御神体みたいに——大切なものを保存していく」

「この部屋が、御神体になるのか」

「そういう意味じゃなくて」朝倉は少し笑った。「でも——部屋に記憶が積まれていくのは、悪くないと思う」


その夜、凛からメッセージが来た。

遥介さん、見つかりましたか

見つかった。光雄さんとも会えた

よかった!!詳しく教えてください!!

受験勉強は

今日の分は終わりました!模試も少しよくなりました!

よかった。遥介さんの話は、また今度ゆっくりする

待っています。でも——人形はどうなったんですか

遥介さんが持って帰った

そうか。寂しいですね、湊先輩の部屋

少し寂しい

でも——ちゃんと帰るべき場所に帰ったんですね

そうだな

人形も、縁を繋いで、役目を果たしたんですね。よかった

よかった

先輩たち、すごいですね。怪異を解決するだけじゃなくて、人の縁も繋ぐ

人形が繋いでくれた。俺たちは動いただけだ

そういうところが、先輩たちらしいです

どういう意味だ

謙遜するところが

謙遜じゃなく本当のことだ

それも先輩たちらしい。おやすみなさい

おやすみ、凛。受験頑張れ

頑張ります!おやすみなさい!


朝倉からもメッセージが来た。

今日、光雄さんが言っていた。子どもの頃、神社の光が誰かと誰かを繋いでいるように見えた、と

そうだったな

今も続いているんだと思う。神社の守り続けているものが、この土地で縁を繋いでいる

俺たちが動くのも、その縁の一部なのかもしれないな


そうかもしれない。でも——縁を繋いでもらうだけじゃなくて、自分たちでも繋げるようになってきた気がする

そうだな。鶴の日から、ずっと続いてきた

続いてきた。これからも続く

詩音

何だ

一つ聞いていいか


何だ

今日、大切な人に会いたくなると言った。詩音は隣にいたけど——それでも、会いたいと思うことがあるか

少し間があった。

どういう意味だ

隣にいても、もっと近くにいたいと思うことがあるかという意味だ


また長い間があった。

……ある

そうか

毎日ある

そうか

湊は

俺も毎日ある

長い沈黙があった。

……それを聞いて、どうするつもりだ

どうもしない。ただ聞きたかった

なぜ

同じ気持ちだと分かると——今日みたいな日が、もっと大切に思えるから

また長い間があった。

……湊は、本当にずるい

ずるくない

ずるい。そういうことを言うから

本当のことだから

毎回それだ。おやすみ

おやすみ、詩音。今日もよかった

よかった。明日も、いい日になるといい

なる

確信があるか

ある。詩音がいるから

もう。おやすみ


スマホを置いた。

本棚の端の空いた場所を見た。

人形がいた場所。

温かい記憶が積まれた場所。

窓の外に、春の夜が広がっていた。

光雄さんと遥介さんが、今夜は同じ家で眠っている。


人形が繋いだ縁が、今日、形になった。

この土地が覚えていた縁が、届いた。

それが——今日一番、よかったことだった。

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