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朝倉詩音の怪異録〜大学編〜  作者: ゆるっとおやじ


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26/31

白い人形が動いた夜③ 大学の隅にいた人

翌朝、目が覚めてすぐに人形を確認した。

まだ大学の方角を向いていた。

変わっていなかった。

朝倉にメッセージを送った。

人形、同じ方角を向いている。大学だ

分かった。今日、大学を歩いてみよう。人形を持って

何時に来られる

十時には行ける。一限の授業が終わってから

待ってる


十時に朝倉が来た。

俺は人形を鞄の外ポケットに入れた。

布に包んだまま、でも取り出しやすい場所に。

「どこから回る」と俺は聞いた。

「人形の向きを見ながら、動こう」朝倉は言った。「大学の正門から入って、反応が変わったら止まる」

「探偵の真似事だな」

「そうかもしれない。でも——人形が反応すれば、分かる」

「俺には見えないけどな」

「私が見る。変化があったら教える」


正門から入った。

朝倉が人形をそっと確認した。

「変わらない。大学の中心部を向いている」

「まっすぐ進もう」

メインの通路を歩いた。

学生が行き交っていた。

授業に向かう人、食堂に向かう人、芝生に座っている人。


普通の大学の朝だった。

図書館の前を通り過ぎた。

「変化は」と俺は聞いた。

「まだない」

中庭に入った。

銀杏の木が、春の光を受けていた。

朝倉が人形を確認した。

「少し変わった」

「どっちに向いた」

「右だ。三号館の方向」

「また三号館か」

「そうだな」朝倉は三号館を見た。「でも——図書館地下じゃない気がする。違う場所だ」


三号館に向かった。

一階の廊下を歩いた。

「変化は」

「変わらない。三号館の中を向いている」

二階に上がった。

「変化は」

「変わらない。もっと奥だ」

三階に上がった。

「変化は」

「変化——ある」朝倉は足を止めた。「三階で、強くなった」

「どっちだ」

端の方だ。廊下の突き当たり」

廊下の突き当たりに向かった。


突き当たりには、小さな窓があった。

窓の下に、ソファが一つ置いてあった。

休憩スペースらしかった。

そのソファに、一人の人間が座っていた。

二十代前半に見えた。

薄いジャケットを着ていた。

鞄を膝の上に置いて、俯いていた。

眠っているのか、それとも——ただ俯いているのか、分からなかった。


朝倉が俺の腕を軽く叩いた。

「人形が、あの人の方を向いた」朝倉は小声で言った。

「あの人が、遥介さんか」

「分からない。でも——人形が向いている」

俺は近づいた。

声をかけることを、少し躊躇した。

でも人形が向いている。

それだけで十分だった。

「すみません」俺は言った。

男性が顔を上げた。

目が赤かった。

眠っていたんじゃなかった。泣いていたのかもしれなかった。


顔を見て、俺は少し息を呑んだ。

加瀬光雄さんに、少し似ていた。

目の形が。

「はい」男性は言った。掠れた声だった。

「加瀬遥介さんですか」

男性の目が、大きくなった。

「……なんで、俺の名前を」

三人で、三号館の廊下の端に座った。

遥介さんは最初、警戒していた。

当然だった。

突然、知らない二人に名前を呼ばれたのだから。

俺は正直に話した。

メゾン桐が丘に引っ越してきて、押し入れに人形があったこと。神社に行って、神職の方から加瀬光雄さんのことを聞いたこと。光雄さんに会ったこと。光雄さんが孫を心配していること。


遥介さんは黙って聞いていた。

途中から、目が潤んできた。

最後まで聞いてから、遥介さんは言った。

「じいちゃんが——心配していたんですか」

「しています。あなたに連絡が取れなくて、ずっと心配していました」

「そうか」遥介さんは膝の上の鞄を見た。「連絡できなかった。連絡する気力が、なかった」

「何があったんですか」と朝倉が静かに言った。

遥介さんが話し始めた。


去年の春、転職した。

新しい会社だった。

仕事が楽しくて、頑張っていた。

でも夏に、会社が突然倒産した。

「倒産の前日まで、普通に仕事していたんです。翌日、会社に行ったら——鍵が開かなくて、倒産したと知った」遥介さんは静かに言った。「給料も、三ヶ月分未払いのまま。アパートも会社の近くに引っ越していたから——そのまま家賃が払えなくなって」

「それで」と俺は言った。


「どうにかしようとしたんですが——うまくいかなくて。新しい仕事も見つからなくて。貯金が尽きてきて——誰にも言えなかった」

「じいちゃんに言えなかったのか」と俺は言った。

「言えなかった。じいちゃんは俺のことを、ちゃんとやれていると思っていたから。心配させたくなかった」遥介さんは目を伏せた。「でも連絡を返せない日が続いて——そのうち、連絡自体できなくなった」

「今は、どこに住んでいるんですか」と朝倉が聞いた。


遥介さんは少し間を置いた。

「ここ三日、ここにいます」

「大学に?」

「知り合いがここの学生で、泊めてもらっていたんですが——昨日、その人も都合が悪くなって。でも行く場所がなくて——大学の廊下なら、夜でも入れると思って」

朝倉が俺を見た。

俺も朝倉を見た。

「今夜、俺のアパートに来てください」俺は言った。


遥介さんが顔を上げた。

「……え?」

「俺が住んでいるアパートは、あなたが前に住んでいた部屋です。押し入れに人形があったのも、その部屋です。来ていい」

「でも——なぜ、そこまで」

「人形が俺を選んだから」

「人形が?」

「じいちゃんが、あなたを守ってほしくて渡した人形です。その人形が、俺のところに残っていた。それだけで十分な理由だと俺は思っています」

遥介さんは俺を見た。

しばらく黙っていた。

それから、目を伏せた。

「……ありがとうございます」


その夜、遥介さんを俺のアパートに連れてきた。

部屋に入った瞬間、遥介さんが立ち止まった。

本棚の端の人形を見ていた。

「これ——」遥介さんは言った。

「あなたが忘れていった人形です」

「ちゃんと、ここに——」遥介さんは人形を見た。「部屋が変わっていない。でも、ここが俺の部屋だった場所だ」

「そうです」

遥介さんは人形に近づいた。

そっと、手に取った。


「温かい」遥介さんは静かに言った。

「そうでしょう」

「なぜ温かいんですか」

「じいちゃんの気持ちが宿っているからだと思います」

遥介さんは人形を握りしめた。

しばらく、動かなかった。

それから、声が漏れた。

泣いていた。

声を出さないようにしながら、泣いていた。

俺は何も言わなかった。

朝倉も何も言わなかった。

ただ、そこにいた。


しばらくして、遥介さんが落ち着いた。

「じいちゃんに、連絡してやってください」俺は言った。「今日、ここにいると。元気だと」

「でも——情けない姿を見せたくない」

「心配している人間に、情けない姿を見せることの何が悪いんですか」朝倉が静かに言った。

遥介さんが朝倉を見た。

「情けない姿を見せたくないから、連絡できないと言いましたが——」朝倉は続けた。「心配している人間にとっては、情けない姿でも、元気でいてくれる方がずっといい。連絡が来ない方が、ずっと辛い」

「そう、ですか」


「そうです。あなたのじいちゃんは——あなたが連絡しない間、何かを忘れているような気持ちになっていた。何かが足りない気がして、ずっと落ち着かなかった」

「俺のことが、心のどこかで引っかかっていたということですか」

「そうだと思います。六十年、大切にした人形を持たせたくらい、あなたのことを大切に思っている人です。元気でいると知れれば——それだけで十分です」


遥介さんが、スマホを取り出した。

少し躊躇した。

それから、電話をかけた。

数コールで、繋がった。

「じいちゃん——俺だ。遥介だ」

電話の向こうで、声がした。

何を言っているか俺には聞こえなかった。

でも遥介さんの顔が、ゆっくりと崩れた。


「ごめん。連絡できなかった。でも——元気だ。今、知り合いのところにいる」

また声がした。

「うん。うん。心配させた。ごめん」

 遥介さんの目から、また涙が落ちた。

「人形、ちゃんとあった。その人が持っていてくれた」遥介さんは俺を見た。「ちゃんとした人が、見つけてくれた」

電話が終わった。

遥介さんは少し、呆然としていた。


「じいちゃん——泣いていた」遥介さんは言った。

「そうでしょう」と俺は言った。

「電話した瞬間に——最近、なんか気持ちが楽になった気がする、って言っていた」

「人形が戻ったからかもしれません」と朝倉が言った。

「人形が——じいちゃんに影響していたんですか」

「おじいさんが長年大切にした人形です。孫に渡してから、おじいさんは何かが足りない気がしていた。あなたが人形を持っていった日から、おじいさんの心のどこかが——空いていたんだと思います」

「そうか」遥介さんは人形を見た。「この人形、返した方がいいですか」

「どうしたいですか」と俺は聞いた。

「じいちゃんに返したい。でも——」遥介さんは少し考えた。「直接持っていきたい。自分で、じいちゃんに返したい」

「そうしなさい」と朝倉が言った。

「でも今の俺は——」

「今夜はここにいていい」俺は言った。「明日、一緒に加瀬さんのところに行きましょう。俺たちも一緒に行きます」

「なぜ、そこまでしてくれるんですか」

「人形が選んだから」俺は言った。「それだけです」


夜、遥介さんは眠った。

俺はソファで、朝倉と小声で話した。

「明日、光雄さんのところに連れていく」と俺は言った。

「そうだな。でも——それだけじゃなく、遥介さんの今後のことも考えないといけない」朝倉は静かに言った。「仕事も住む場所も、ない状態だ」

「一気に解決はできないけどな」

「でも——光雄さんに会えれば、幸子さんも来るかもしれない。家族がいれば、まず住む場所は何とかなる」

「そうだな」

「仕事は——遥介さん自身が動かないといけない。でも、一人じゃない状態で動く方が、ずっといい」

「一人じゃない状態、か」俺は言った。「詩音も、一人じゃなくなったことで変わったよな」

「そうだな」朝倉は静かに言った。「一人でいた図書室に、湊が来た。あの日から変わった」

「遥介さんにも、そういう日が来るといい」

「来ると思う」朝倉は人形を見た。「人形が選んだ人間が、ちゃんと動いたんだから」

 朝倉が帰った後、俺は遥介さんが眠っている部屋を見た。


静かだった。

人形は、遥介さんの枕元に置いてあった。

遥介さん自身が、そこに置いた。

人形の向きは——もう大学の方角を向いていなかった。

遥介さんの方を向いていた。

見守っていた。

六十年分の気持ちが宿った人形が、やっと会えた持ち主を見守っていた。

「よかったな」俺は人形に言った。


返事はなかった。

でも——人形の温かさが、今夜は一番強かった。

朝倉からメッセージが来た。

遥介さん、眠れていそうか

眠っている。穏やかに眠っている

よかった。三日間、大学の廊下にいたんだな

そうだ。しんどかったと思う

見つけられてよかった

人形が案内してくれなかったら、見つけられなかった

人形が選んだ人間が、ちゃんと動いた

詩音が言っていたことだな

そうだ。でも——本当にそう思う

湊に来てよかった。人形が

俺もそう思う


少し間があった。

湊

何だ

明日、光雄さんと遥介さんが会う。それが見られるのが——今から楽しみだ

俺も楽しみだ。六十年分の縁が繋がる

怪異が縁を作ることもあるんだな

そうだな。帰れない者を送るだけじゃない。縁を繋ぐこともある

高校のときから、ずっとそうだったのかもしれない

そうかもしれないな。橘さんとの縁も、鶴が繋いでくれた

最初の怪異から、ずっと続いてきた

ずっと続いてきた。これからも続く

うん。おやすみ、湊

おやすみ、詩音。明日もよろしく

よろしく。二人で、縁を届けよう

届ける


遥介さんが眠っていた。

人形が、遥介さんを見守っていた。

明日、光雄さんに会う。

六十年前に神社に通っていた子どもと、その孫が会う。

人形が繋いだ縁が、明日、形になる。

それが——今から楽しみだった。

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