『今』の話と、『いつか』の話
「旦那様」
執事からの呼びかけに、レイクは「ん?」と新聞から顔を上げた。
黒髪に片眼鏡、燕尾服というステレオタイプな執事服姿だが、纏う空気はどちらかと言うと軍人である。
そんな執事は、困惑した表情をしていた。
その原因は、間違いなく彼の手にした紙だ。
四つ折りにされていた物を、検閲のために開いて読んだら予想外の文言だった、といったところか。
苦虫を噛み潰したような顔で、こめかみに指を当てる。
「……メッセージセンターから通知が来ておりまして、その……差出人が、ライン・ウィスカニアでして」
「うん」
「このままお渡しするのも、要約してお伝えしても、旦那様に対して失礼極まりない言葉になってしまうのですが……」
「そうだろうねぇ」
カラカラと笑う主人に、執事は肩を落とした。
「何故あいつに行かせたのですか?トゥシャルレイお嬢様を連れ戻すのでしたら、私かロベルタでも」
「十年」
突然、レイクは新聞をテーブルに置いて両手を広げて見せた。
「十年経った。十年も、だ。
会わせたいと思うのは、身勝手かもしれないが……どうしてもね」
手を引いて寂しげに笑うレイクに、執事は視線を逸らすしかなかった。
「ナギ君も執事が板についた」
「……恐れ入ります」
「それで彼は何て?そのまま読んでくれないかい?」
言われ、執事は逡巡した。
十年。
そう十年だ。
慣れない貴族の執事という布を被り続けてきた。
ようやく慣れたのに。
「……『ふざけるな、ひと言くらい言え、バカ親野郎』…………だそうです」
絞り出して言うと、主人は大笑いした。
「わざわざメッセージセンターを使ってそんな事を伝えてくる人間なんて、彼くらいだろうねぇ」
「笑い事ではありませんが」
「ロベルタが見る前に燃やしておこうか」
「……それは的確な判断で」
ほぼやけくそで、執事、ではなくナギとしてため息をついた。
「何故このお屋敷の人間は全員、私の胃を攻撃するのでしょうかね」
グシャグシャと手紙を手の中で丸め、掌を広げる。
一秒後、手紙だった紙屑の端に、ボッ、と唐突に火が灯る。
焼かれていく手紙を見つめ、もう一度思う。
十年。
十年も経った。
「あれから、十年経ったというのに……」
その言葉にレイクは笑う。
今度は悲しげに。
「彼は本当に一途だ」
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「大陸を囲んだ事で、結界内に充満したルシフェルの力の粒子、魔力は、本来は猛毒だ。
酸素と同じだな。空気中の成分は約78%が窒素、酸素は21%で、必要不可欠だがこのバランスが崩れると悪影響を及ぼす。少なくても多くてもだ」
街道沿いの小さな宿場、その安宿の一部屋。
そこに燃えるランプを挟んで机につく二人。
トゥシャルレイはチロチロと揺れる火を見つめてディラルの言葉を聞いていた。
「空気中の魔力も同じなんだ。
火種がなくても灯りをつけられる、空も飛べる、色んな事象を起こす事が出来るが、内外のバランスが崩れれば……」
ディラルは頬杖をついて、呆れ気味に指を差した。
指先の向かう先は、部屋の出入り口のドア。
その扉を背もたれに、鞘に収まった剣を抱えて床に座り込む、ライン。
時折、彼の方からパリパリ、パキパキ、と何か薄い物が割れて剥がれる音がする。
実際そうなのだ。
その音の後、ラインの露出している部分の肌から、薄い石膏のような欠片が落ちていく。
「……あの馬鹿みたいになる」
「で、でも、そんな空気中の物のバランスなんで簡単に変わらないでしょ?」
「普通はな。
ただあの馬鹿は、『ルシフェルの剣』を剥き出しも同然で持ち歩いてた。鞘を俺に預けて」
ディラルは指を引っ込め、ランプのガラス部分を爪で弾いた。
「『ルシフェルの剣』はルシフェルの断片って言われてる。空気中の魔力と同じ性質の魔力を常に放出してる。
それを封じるのが鞘なんだがな」
「何でそんな事……」
「嬢ちゃんを探すため」
はっきり言われた言葉が理解出来ず、トゥシャルレイはキョトンとした。
「コウモリなんかが、音波を飛ばして跳ね返りを感知するって知ってるか?
魔術師ってのは、大前提として魔力を感知出来る人間なんだ。
剣からの大量の魔力を全方向へ飛ばして、跳ね返り方で嬢ちゃんを探してたんだ。じゃなきゃヒントもナシに、こんな辺鄙な所まで探しに来られない」
言われて、トゥシャルレイは思い出した。
ラインがしきりに、あの剣を『迷子札』と呼んでいた事を。
「一度な?鞘を返しに行ったんだ。
そしたらコイツ、まだいいってんだ。バディヌリーに行くっつってな。
そりゃ天使信仰教徒やネフィリムがうろついてるなら、警戒するに越した事はないがな。髪織布を巻き付けただけでまだいいって」
「はつしょくふ?」
聞き慣れない単語に、トゥシャルレイは眉をひそめる。
ディラルはポケットから、織り目がガタガタで向こう側が見えるほどに隙間だらけの、ハンカチ大の布を出した。
見覚えがある。
ラインが街道に出るまでに、剣に巻き付けていた布だ。
ただ、ディラルが出した物は若干色が異なる。
より色が濃いというか、混じっている繊維の色が違うようだった。
黒っぽく煤けて見える。
ラインの物はもう少し明るいが、やや焦げているような色合いだった。
「魔術師の髪の毛を織り込んだ布だ」
「か、髪の毛!?」
「気持ち悪いだろうが、これ割とレア物だぞ?なんせ布の面積分、魔術師の髪が必要になるからな。
こいつには、本当に微妙にだけど、空気中の魔力を中和する作用がある」
「じゃ、じゃあ……ラインが剣に巻いてたのは……?」
「アイツの髪。腰まであったのを、自分でナイフでザク切りしてた」
トゥシャルレイが絶句する。
「…………ディラル」
荒い呼吸混じりに、喋り続ける男の名が呼ばれる。
「お喋り好きも大概にしろ」
「じゃあ止めに来いよ、愚弟」
「……………………」
「高山病対策しねぇ登山家みてぇな真似しやがって。ちったぁ俺の好きにさせろ」
ディラルが子供のようにベエッと舌を出して挑発する。
それでもラインは動かなかった。
また肌の組織が剥がれ落ちる音がする。
その音を耳にする度に、ディラルは不機嫌そうになっていった。
「天使信仰の教徒が減らないのも、コレが原因だと思うと納得もするよな」
「コレ……って、ラインの?」
「アイツのは一時的に体内と体外の魔力量のバランスが崩れてるからあんなモンで済んでるんだ。
ただな、体内魔力にも個人差があってな」
ディラルはチラッとラインを見た。
案の定、ラインは無言で睨んできている。
「……空気中の魔力濃度が多少高くても平気なタイプがいる一方で、ほとんど耐性がない人間もいる。
そういう奴は短命な上に、常に苦痛を感じながら生きる事になる」
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天使ルシフェルは、同胞に背を向けて人間を庇護した。
人間が逃げ込んできた大陸の周囲の海に、自身の身体を分割して配置し、自らの権能である『断絶』『封印』の魔法で結界を作った。
人間たちが元いた場所と、逃げ込んできた場所。
天使の有無の影響は大きかった。
人間が呼吸して二酸化炭素を吐き出す事と同じように、天使の身体からは、極小の物質が常に放たれていた。
結界となったルシフェルの身体からも同様だった。
その物質は、元々は人間に合わないものだった。
それはそうだ。本来いた場所にはなかったものが、空気中に蔓延しているのだから、影響が出ないはずがない。
祖先らは、苦しめられただろう。
天使たちからの直接的な蹂躙からは逃れられたが、目に見えないものにジワジワと蝕まれていくのだから。
運良く適応出来る者、そうでない者。
持つ者と持たざる者。
明確な、残酷な差が出来てしまった。
直接干渉出来なくなった天使らは、その『持たざる者』に囁いた。
『天使の地を返し贖罪すれば、苦痛から解放される』
『持たざる者』たちには、それは十分過ぎる言葉だった。
天使信仰は、そうして原初の時代から連綿と続いてきた。
持たざる者。
持たざる者を愛する者。
元はなかった【差】を憎む者。
天使たちの言葉に畏怖し、かしずく者。
他にもそれぞれの理由を持って、天使信仰に入る者は、後を経たない。
かつて土地を治めた貴族を嫌悪した。
ルシフェルの恩恵を享受する他者を侮蔑した。
結界と、その結界を支える『聖堂』と『賢者セトの血族』、そして結界の主柱となっている『聖女』を、心の底から憎悪した。
そういう理由で。
そうして。
『私』は死んだ。
私に課せられたものを、彼に託して死んだ。
酷い事だとわかっていた。勝手な事だと知っていた。
けれど私は選択した。
彼に死んで欲しくなかったから。
その手段は、聖女と聖堂守護者でしか知り得ない、最期の手段。
それをして死んだ。
意識が消える間際に聞こえたのは、ここまで私をろくに休む事なくずっと運んできてくれた彼の叫び。
酷い事をしてごめんなさい。
謝れなくてごめんなさい。
さよならも言えなくてごめんなさい。
『私』は確かに死んだ。
『聖女』レイビィ・フォーワードとして死んだ。
最後の役目を果たしてから、死んだ。
その場に居合わせた者たち。
そして、その場まで彼女を背負って歩いてきた少年。
見た事もないほどに泣き叫び、情動を爆発させた彼に、申し訳なさが込み上げる。
でももう『私』には何も出来ない。
そこで、偶然が起きた。
いくつもの要素が絡み合って起きた、たった一つの偶然。
一つ一つは、小さな事だった。
そこに居合わせた人たち。
彼が持ち出した剣。
私がした事。
彼の激情。
彼自身。
だが揃った事とその状況が、本来ならあり得ない偶然を呼び込んだ。
誰も予想出来なかった『偶然』が、幾重にも積み重なって起きた。
それが、彼を救った。
そうして彼は、また歩き出した。
『少女』を背負って。




