昔話と、『世界』の話
中央街道に出てすぐ、ラインは背負った剣を下ろした。
誰も何もいない、それでもいつ馬車が通るかもわからない往来で、だ。
トゥシャルレイがギョッとしているのにも構わず、ラインは剣に巻き付けてあったボロ布を乱暴に剥ぎ取った。
「ちょっと、何してんの?」
さすがに意味がわからなすぎて、そう尋ねるしか出来ない。
ラインはそのボロ布を、破れるのも構わずに爪を立てて剥いでいき、完全に抜き身の状態にした。
眉を一瞬しかめたものの、フーッと息を吐いて、そのまま手に持ってぶら下げる。
「ここからはこの方が良い」
「何でよ。軍警に捕まったら他人のフリして逃げるからね?」
中央街道は、大陸で最も長く大きく、そして歴史が古い。
何でも最初に敷かれた道だとか。
なので主要な交通路でもある。軍警察は定期的に巡回しているはずだ。
大戦後の武器類の規制は厳しい。
トゥシャルレイが護身用に持っている短刀も、許可証やら誓約書やら何やら書かされて、数ヶ月掛かって手元にきたくらいだ。
曖昧な記憶の中、確か持ち歩く際には必ず鞘に該当する物で収納する事、という記載があった。
なので、ラインがしている事はれっきとした犯罪行為だ。
……先ほどまで犯罪集団に襲われていたので、今さらという気もしなくもないが。
「なぁ」
「んぇ?」
唐突に話しかけられ、変な声で返してしまった。
昔からの癖で、考え事や集中している時に話しかけられると、自分でも引くほど変なリアクションをしてしまう。
学校の友人は、それが面白いと何度も繰り返してきてはゲラゲラと笑われたものだ。
だから当然からかわれる、と思った。
が、ラインは特に気にしていなかった。
「何ともないよな?」
「は?……何の話?」
「………………悪い、何でもない」
「はぁ?」
意味がわからない。
先ほどから何だと言うのだろうか。
「もしかして馬鹿にしてる?」
友人とは違うタイプの揶揄かと、トゥシャルレイは眉を寄せて口を曲げた。
彼女は気付いていないが、子猫の威嚇程度にしか見えない。
ラインは数秒それを見下ろし、親指をトゥシャルレイの眉間に押し当てた。
グリグリとシワを伸ばすようにして、息をつく。
「息苦しいとか体が重いとか、そういうのがなければいいって意味だ」
「別にそんなのはないけど?」
ラインの手を押しのけ、伸ばされた眉間を隠す。
気のせいだろうか?トゥシャルレイにはラインのその仕草が、妙に手慣れているように見えた。
「行くぞ」
短く告げて、本当にそのまま歩き出した。
本当に軍警察の巡回に出会したら、どう言い訳するつもりなのだろう?
トゥシャルレイのそんな心配をよそに、ラインはズカズカと歩いて行く。
幸い今は通行人も乗り合い馬車も通っていないが、いつ道の向こうから来るかわからないと言うのに。
小走りで背後に追いつく。
ラインは元々剣を背負うために袈裟懸けに掛けていたベルトに、そのまま抜き身の剣を適当に引っ掛けている。
剥ぎ取った布は捨てずにポケットに押し込んだようだ。
しかしどう見ても職質される格好だ。
不審そうな視線を感じ、ラインはわずかに顔を後ろに傾けて口を開いた。
「一般人ならギョッとするだろうが、軍警だったら二、三質問されて答えれば何ともない」
「嘘言わないでよ。大戦後からそりゃあもう厳しく取り締まってるんですーって、ウチの執事の人が言ってたもの」
「あぁ、ナギさんな。あの人は大変だろうが、コレは問題ないよ」
あまりにも自信ーーーというより、当然の事だとばかりの言い方に、トゥシャルレイはますます混乱した。
何やら気になる事もチラッと言っていたが、それよりも目の前の事を問いただす事にする。
「どうしてよ?教えてくれないとニメートルくらい離れて歩くからね」
ラインが振り返る。
鋭い紅い目が、呆れを滲ませていた。
ハァ、と一つ息を吐いて、降参だ、とでも言うように手を上げた。
「わかった。掻い摘んで話すから、横に来い」
「ごまかしたりしないでよね」
「する訳ないだろ」
トゥシャルレイが速度を上げて、彼の隣に並ぶ。
それを横目で見て、ラインはベルトの胸元を撫でた。
「『ルシフェル』は知ってるよな?」
「大昔に人間を助けてくれた天使でしょ?大陸に他の天使が入れないように、結界を作ってくれたっていう」
「ザックリ言うとな。で、さっき襲ってきた天使信仰の奴らと、アイツらを動かしてるネフィリムは、その大昔からいたんだよ。
天使信仰の人間はどうとでも出来るんだが、ネフィリムはどうにも出来ない」
気のせいか?
ラインがかすかに歯噛みしたようだった。
しかしすぐに続けた。
「で、天使信仰じゃない、人間側はどう対抗したか。特に聖堂側は。
……それがコレだ」
言って、ラインは剣を指した。
「え?何?暴力?」
「違う。剣だ、剣。『ルシフェルの剣と鞘』。
賢者セトが晩年に、ネフィリムに対抗するために造ったんだよ」
トゥシャルレイがキョトンとする。
半歩後ろへ下がって、ラインの背中の剣を、改めてまじまじと見る。
全くと言っていいほど、飾り気のない無骨そのもののような剣。
握りにも鍔にも何もない。
刀身におかしな文字が刻まれている以外、何の装飾もない。
極端に言えば、極端に短い棒と極端に長い棒をクロスさせただけに見える。
ルシフェルの剣。
つまり、天使の剣。
頭の中で反芻して、見る。
「嘘だぁ」
トゥシャルレイは、苦笑いと言うより引き笑いした。
イメージにそぐわな過ぎる。
「天使の剣って言うならもっと、こう、鍔が翼の形とか模様とか」
「残念ながらこれは実用性重視な、かなり初期に造られたやつだからな。後半に造られた銘の物なんかは、普通に飾っても良いレベルらしい」
「え?いくつもあるの?天使の剣が?」
さらに胡散臭そうに見てくるトゥシャルレイに、ラインは『まぁな』と普通に返した。
「大きめの聖堂には、大抵あるくらいに数がある。種類は違うが」
「何それ、何種類もあるの?」
「現存して確認されてるのは七種類。で、コイツは初期型で数が多い。確か……十近くあるんだったか」
「……『伝説の剣』みたいなものじゃないんだ」
「言っただろ」
グッと、ラインは胸元のベルトを握った。
「迷子札みたいなモンだって」
そう言えば、とトゥシャルレイは思い出した。
言われた時は何の事だかさっぱりだったが……いや、今でもさっぱりなのは変わらない。
天使の剣、もそうだが、この無骨過ぎる長剣に『迷子札』はミスマッチ過ぎる。
そう思って、そう言おうとした時。
ギリ、と何か引き締めるような音がした。
見ると、ラインが胸元に触れている右手とは反対の左手を、やたらと強く握りしめていた。
それで革製のグローブが立てた音だと勘付く。爪まで食い込ませているのではないかと思う程、強く拳を固めている。
「それで、どうして軍警に会っても大丈夫なわけ?」
ひとまずトゥシャルレイは、最も気になっている方を優先して尋ねる事にした。
「天使信仰はルシフェルを『堕天使』だの『悪魔』だの『魔王』だの言って毛嫌いしてる。
で、軍警の仕事の中でも、最優先されてる任務は聖堂の守護・有事の際の防衛。
それでコイツは、聖堂が管理している事が多い『ルシフェルの剣』だ。他の身分証なんかよりも軍警にとって信頼が保証されてる。わかったか?」
「……ふぅん」
気のない返事を一つして、トゥシャルレイはピッと人差し指を立てた。
「大嫌いな相手が嫌ってる物を持ってる貴方は、とりあえず大嫌いな相手の仲間じゃないって事ね?」
「……かなり噛み砕いたな……まぁ、そんなとこだ」
苦々しいながらも頷かれて、トゥシャルレイはふふん、と自慢げに鼻を鳴らした。
そんな彼女を、ラインは横目だけで様子を伺う。
数十秒。
十歩分くらいか。それだけ間が空いて、彼女がそれ以上問いかけてくる様子がなさそうだと見て、こっそり息を吐いた。
そして周囲を見る。
まだ近くに気配はない。
この布を取ったのだ。気付かれてもおかしくないが、勘付いてくれる事は間違いない。
あの時、鞘を受け取っておくべきだったか、と少し後悔した。
「あ!」
トゥシャルレイが声を上げてハッとする。
見ると、彼女は前方の緩やかな坂道を指差していた。
「あそこを登った先から見えるわよね!?バディヌリーの町!」
ラインは肩を落とした。
「あぁ……そうだった」
坂を登ると、ちょっとした高台にくる。
その下に広がる町が一望出来る
ーーーであったはずの場所。
眼下に広がる光景に、トゥシャルレイは絶句していた。
ほとんど信じていなかったのだ。
自分を連れ帰るための方便だと。
仮に本当だったとしても、見下ろせるのは活気溢れる町。そう思っていた。
高台からは町の全容が見えた。
民家が並びに、中央には商店の並ぶ大通り、その先に聖堂があるというのは地図で見たので、イメージ出来ていた。
多少の誤差はある、程度は想定していた。
だが。
眼下に広がる光景は、全ての想定を粉々にした。
民家や商店は、原型こそ残っているが全てが黒焦げになっている。
大通りには、この高台からでもわかるほど、人々が倒れ伏して動くものはない。
そして聖堂はーーー文字通り消失していた。
業火で丸一日焼かれたとしても、多少の残骸はあるだろう。
しかしそれすらなかった。
聖堂があっただろう場所は、真っ平でその地面は汚泥のようになっている。
どうしたらこんな事になるのかわからない。
トゥシャルレイは口を押さえた。
ジワ、と胃の奥から何か込み上げてくる。
離れているので、臭いどころか遺体の様子などはっきりわからない。
だが、あまりにも異質で異様な、『一つの町の消滅』という事実に吐き気がした。
グイッと腕を掴まれ、後ろへ退がれさせられる。
代わりにラインが前へ出た。
すれ違いざまに見た彼の横顔は、険しいを通り越して、憎しみすら浮かべているような気がした。
ラインの背中に回り、トゥシャルレイは吐き気に耐えた。
風が吹く。
肌がチリチリと痛いような気がした。
ラインは廃墟と化した町を、無言で見つめた。
遠くからでも凄惨な光景の中を、何かを探るように。
ややあって、ラインは肩を落としながら振り向き、掌を額に押し付けるようにして、前髪の付け根をガシガシとかいた。
変な癖だな、とトゥシャルレイが思っていると、ラインは横目でチラリと町を見て口を開いた。
「もう行く気はないだろうが……こっから先、絶対に町に近付くな、とだけ言っておくぞ」
「ぅえ、な、なに?」
「空気が毒化してる」
言って、ラインは顔をしかめて鼻を擦った。
「毒化……?」
「町の方は、生物へのシンプルな気体性の致死毒だな。火事は人が使いっぱなしだったやつか、火付けでもしたか、両方か。
聖堂の方は、建物までまるごと完全に溶解させてる」
ラインの口調は淡々としたものだったが、町をジッと見据えつつも、手は固く固く握り締められていた。
「……まったく、相変わらず反吐が出るほど念入りな」
まだ衝撃から頭が混乱したまま、トゥシャルレイは自分の両肩をさすった。
「ま……魔術って……こんな事も出来るの?」
「出来る訳ないだろ。天変地異のレベルだぞ。
とにかく離れる。気分悪いんだろ」
踵を返し、ラインはまたトゥシャルレイの手首を掴んで、町とは反対方向へ早足で歩き出した。
ここから離れるのは大いに賛成だ。
だが、どうしても気になる。
何十年か前に起きたという、大陸上最大の大戦。
当然のように、魔術だけでなく科学・化学も進化させた。
デマか陰謀論者の戯言か、それら全てを組み合わせた『新兵器』の開発・研究まであったとか。
それはともかく。
先ほどの光景は、到底人知の及ばない厄災にしか見えなかった。
「ねぇ、魔術じゃないなら、なに?」
「魔法」
あっさりと、しかしトンチンカンな答えを出され、トゥシャルレイはポカンとしてしまった。
「魔術じゃないんじゃなかったの?」
「魔術じゃない。魔法だ」
「……からかってる?」
眉を寄せて睨んでくるトゥシャルレイを、ラインは上から下まで見てから、息をついた。
周囲を見渡し、出来るだけ街道にすぐ戻れて、しかし他者からはすぐに見つけられないような木々の間に入り込む。
「魔術と魔法は完全に別物だ。
あと童話に出てくるような『魔法』なんてのとも違う。アレはあくまで空想だ」
適当な小枝を拾い、土の上に大陸の形を大まかに描く。
そしてそれを円で囲う。
「魔術は元になるものが存在する。
この大陸を囲んでる『ルシフェルの結界』から流れてくる、分子レベルの物質。
それと、本来異物だったそれに、人間の体が適応するために作るようになった物質」
円の内側から大陸へ、流れる粒を描き足し、さらにシンプルな輪郭の人の形と別の粒を描く。
「それが俗に『魔力』って呼ばれてるもので、魔術師はその二つを感知して操作、組み換えをして魔術を成り立たせている」
ラインはトゥシャルレイを見た。
じっくりと地面の図を見て、ポツリと呟く。
「……絵は下手なんだ」
「うるさい、改めて言うな。大体わかればいいだろ」
痛いところを突かれ、ラインは枝を放り捨て、ブーツの裏で描いたものをかき消した。
「学校の化学の授業で、分子構造のモデルとか見た事あるだろ?」
「あー……あの、丸いのがグチャグチャ繋がってるやつ……」
嫌そうな顔をするトゥシャルレイ。
苦手な科目に対する反応だった。
それを見て、ラインは身も蓋もない言い方で説明する事にした。
「その丸が流れてくる魔力、丸を繋げてる線だか棒だかが人間が体内で作る魔力。
2種類をブロックみたいに組み合わせて、色んな形に作れるのが魔術師だ」
「急にわかりやすくなった」
途端に目を輝かせるトゥシャルレイに、ラインはやや呆れながら苦笑した。
「体内魔力の生成能力は生まれつきの素質だから、君には無理だぞ」
「えっ?少ないって事?」
「違う。君は……ーーー…………てか、少ないと死ぬぞ」
「死っ……!?」
「言っただろ、流れてくる魔力は本来異物だって。
中和するために、人間が世代交代する内に身に付けたものなんだよ。
たまに先祖返りして、体内魔力が極端に少ないか無い奴もいる。特別な措置をしない限り短命だ」
トゥシャルレイは呆気に取られながら、自分の胸元に手をあてた。
体内のどこで、どんな器官がどういった原理で、空気中に漂う異物に適応するための物質を作っているのかーーー
人間の身体の詳しい部分は、未だ解明出来ていないという。
自身の身体の事ながら、不明点が多いのは何とも不気味ではある。
だが、それよりも不気味で不可解で、そして理不尽な存在がある前では、そんなものは霞む。
「魔術と全く違う理屈……ってよりも、究極の理不尽で使われるのが、魔法だ」
「究極の理不尽?」
おうむ返しに聞くトゥシャルレイに、ラインはやや瞼を伏せた。
先ほどの壊滅した町、汚泥に沈んだ聖堂、そしてーーー
「物理法則も何もかも無視して、際限なく理不尽を叩き込んでくるのが『魔法』。
……使えるのは、『ネフィリム』」
言葉を止める。
数秒の逡巡。
先ほど乱雑に消した、地面に描いた図は、一部分だけ残っていた。
簡単なシルエットの人の半身。
それと、大陸の外の円の一部とそこから溢れる粒。
「…………それと『賢者セトの血族』の内の、」
ーーー【聖女】。
トゥシャルレイは、無言で首を傾げた。
聞いた事がない、というふうに。
ラインは密かに安堵した。
「……行くぞ」
「え?あ、うん」
トゥシャルレイは、急に話が終わった事に戸惑いながらも、歩き出したラインの後を追った。
相変わらず、剥き出しのまま握りしめられている長剣。
気のせいだろうか?
何か、喉を通る空気に清涼感が増しているような。
だが、おかげで吐き気はおさまった。
町から離れて、木々の中の空気を吸ったからだろうか?
==========
差し伸べられた手。
細くて白い指。華奢な手首。
対して、自分の手は泥と血で汚れ、傷だらけで節張っていた。
どうしてこんな手なのか、自分でもわからない。
手を取る。
思った通りに、柔らかく温かい。
触ってしまうのが申し訳ないほどだった。
気がついたら歩いていた。
腹が減ったら、適当に食べられそうな草や木の根でしのぎ、喉が渇いたら川や池の水を飲んだ。
何故歩いているのか、自分がどこから来てどこに向かっているのか、それは全くわからなかった。
ただただ、生存本能だけで彷徨っていた。
そして辿り着いたのは……厳重に柵で取り囲まれた、広大な敷地の中にある妙な形の建物。
三角錐状の屋根が三つ、四つ、中央には遠目に見ても巨大な鐘のある塔がそびえ立つ。
歩き続ける中で、人里に立ち寄る事もあったが、皆一様に自分を見ると顔を歪ませて足早に去っていった。
わずかに腐敗臭のする箱を開けて中を漁る姿に、顔をしかめるも何も言われなかったので、彼もまたそれらを無視した。
漁っていると時折、まだどうにか食べられそうな物があった。
その箱があるのは決まって、ある程度大きな建物の裏側、陰った場所だった。
稀に自分と似たような子供が数人、先客として陣取っている事があった。
睨まれるだけなら良いが、有無を言わさず襲いかかってくる事が何度もあった。
それをどうしたか、それもまた覚えていない。
気が付けば、また歩いていた。
大きな道を歩くのが、何故だか恐ろしいと感じてしまい、歩くのは大抵、森林の浅い場所だった。
足を前に出しにくくなった時は、木の幹に背中を預けて目を閉じれば良い。
木々の間を進んでいくと、大きな建物が見えた。
だから近寄った。
しかし、どう足掻いても抜ける事も登る事も出来そうにない柵に阻まれてしまい、期待した分余計に動けなくなってしまった。
そうしている内に、彼女と会った。
手を伸ばしてきた。
今まで気にしていなかった傷や汚れを、洗い流してくれた。
カビていない、柔らかいパンを渡された。
泥の混じっていない、透明な水を渡された。
腐りかけていない肉や野菜も渡された。
何と言うのか知らないが、塩気があり風味豊かな、見た事もない具が入った汁も渡された。
後に『シチュー』という名前だと聞かされた。
いつ生まれたのか、どこから来たのか、名前は何だったのか。
全てわからないと言うと、悲しそうにされた。
そうしていく日か、屋根の下で過ごしている内。
また手を引かれた。
重かった足はいつの間にか軽く動くようになっていた。
連れて行かれたのは、建物の中だった。
まさか入る事になるとは思わないでいたので、呆気に取られていると、身に纏っていた物を剥ぎ取られて、全く別の服を渡された。
ここで見かける大人が着ている服を小さくした物で、星の刺繍が入ったケープまであった。
そして、真っ赤で丸い、ほのかに甘い香りがする果物を渡された。
リンゴと言うらしい。
匂いに負けてそのまま齧り付くと、彼女は嬉しそうにした。
どうしてなのかはわからない。
やがて見かけない大人が二人、やってきた。
背丈が自分の二倍はあるのではないかと思うほど高く、濃い紺色の眼鏡をかけた黒い服に赤い髪の男。
重々しい服装を難なく着こなし、彼に渡された服にある星と、剣が二刀交差した盾の刺繍が入ったケープを纏い、腰に大きな太刀を提げた黒髪の女。
その二人は自分をじっくりと観察してから、よくわからない質問をすると、すぐに去って行った。
去って行った後、彼女が駆け寄ってきて、何やら嬉しそうに自分の両手を握ってブンブンと振ってきたのには困惑した。
そして。
「ライン」
彼女は自分をそう呼ぶようになった。
銀色のサラサラとした髪に、真紅の瞳。
その姿はどこか夕暮れ時の空を思わせるのに、彼女は明るかった。
「レイビィ」
名前を呼ぶと嬉しがった。
その内、自分の前に彼女よりやや背の低い少女を強引に連れてきた。
彼女とは違う、金色の髪に青い瞳。
こちらは早朝のような印象を受けたが、いつもムスッと仏頂面をしていた。
ただ、彼を蔑んでいる訳ではないのはわかった。
妹。
彼女はその少女をそう呼んだ。
彼女と三つ歳下だと言う。
そして彼女は自分に告げた。
「ラインは、私より歳下で、 よりは歳上ね」
勝手だと思ったが、わからないのだから仕方ない。
甘んじて了解した。
幾日か、幾月か経って、その建物が『聖堂』と呼ばれている場所だと知った。
そこで働く大人たちは、シスターや神父と呼ばれていた。
併設されている平家には、年齢も顔立ちもバラバラな子供らも暮らしており、彼らは『孤児』と呼ばれていて、平家は『孤児院』と呼ばれているのも知った。
そして自分も、その『孤児』だと知った。
その中でも『戦災孤児』という部類であるのも知った。
本来ならば、自分もその孤児院で生活すべきだとも。
だと言うのに、彼女は自分を『聖堂』の方に引っ張って来た。
一緒に勉強をしてくれ、と言う。
文字が羅列した本を開き、その内容を理解する。
数字を足したり引いたりして、正解を導き出す。
火はどうして燃えるのか、水を湯にするにはどうするのか。
何が正しい行いで、何が悪い行いなのか。
そして、魔術。
自分は、小さな火を灯すだけの、初歩の術だというものを、難なく出来るようになった。
だが彼女は出来ないらしい。
それまでの学問は、自分と同じか少し劣るくらいだったのに、魔術だけは彼女は全く出来なかった。
一年経って、何故なのか教えられた。
彼女は『聖女』だからなのだと。
最初は何の事か、さっぱりわからなかった。
単なる肩書きか何かと思ったが、違うらしい。
「私はね、ちょっと……全然、違うの」
言いたくないなら言わなくて良い、と言った。
彼女は眉の端を下げて、困ったように笑った。
初めて、そんな彼女の顔は見たくないと思った。
だから何でもやった。
身体を鍛える事は勿論、聖堂にある蔵書を片っ端から読んで知識を叩き込んだ。
魔術を活かすためには、様々な化学反応の原理が必要となる。
ならば、出来うる限り覚えた。
もしもの時のための、応急手当てのやり方も、体と頭に刻みつけた。
魔術での治療には、人体を構成する物質に、骨格、臓器、細胞の働きを覚えなければならない。
ならば、全て飲み込んだ。
剣の才能がないとわかれば、体さばきに集中した。
あの時に会った赤毛の男と黒髪の女は、その後も何度か会った。
幸いにも、二人とも途方もない手練れで、手解きを受ける事が出来た。
男の方は、どうも遊びついでのような対応だったが。
彼女のために料理も覚えた。
彼女が好きな菓子作りも覚えた。
リンゴが大好きな彼女のために、様々なレシピを試し、アレンジにも手を出した。
中でもベイクド・アップルとワッフルは、とても気に入ってもらえた。
そうしている内に、時間は過ぎていった。
いつの間にか、声が低くなっていた。
いつの間にか、彼女の背を越えていた。
いつの間にか、魔術師と呼べる実力になっていた。
いつの間にか、組み手で大人も倒せるようになっていた。
いつの間にか、彼女を守りたいと思うようになっていた。
いつの間にか、彼女に喜んで欲しいと思っていた。
いつの間にか、彼女と生きたいと願っていた。
いつの間にか、彼女の幸せを祈っていた。
いつの間にか、彼女を愛していた。
彼女と出会う前の記憶など、どうでも良い。
そう思える穏やかな時間が過ぎて。
突然暗雲が立ち込めたのは、彼女が十九歳、彼がおそらく十七歳の時。
突如、神父が死んだ。
その頃には、その神父の他の肩書も知っていた。
聖堂守護者。
聖堂を守り、そして、何より聖女を守る者。
死因については誰も口にしなかった。
知っているらしいものは、思い出すだけで吐きそうな顔をして口を押さえていたので、悲惨なものだったろう事だけは想像出来た。
『聖女』がいるのに、『守護者』が死んだ。
そして急遽、選抜が行われる事になった。
街の軍警察支部の中から数人と。
彼と、彼女の妹。
彼女の妹もまた、姉を守るために必死に努力してきていた。
徒手での組み手では、彼の方が上手だったが、剣の才能があるのは妹の方だった。
そこでやっと、時折この聖堂に訪ねて来ていた二人もまた、別の聖堂の守護者だったと知った。
『最強の聖堂守護者』だと。
急ぎでメッセージを飛ばし、特例で次の聖堂守護者が決定するまで常駐してもらう、という話だった。
その『守護者』がいない、ほんの隙間。
破滅は、その隙間を狙ってきた。
「俺は、何も出来なかった」
それまで身に付けてきたものは、一切何の役にも立たなかった。
「俺は、何も守れなかった」
逃げて隠して、見つからないでくれと祈る事しか出来なかった。
「俺には、何もない」
何もなかった自分に、手を差し伸べてくれたもの、全て消えた。
圧倒的な力で蹂躙され尽くした。
子供が虫をいたぶり弄び、好奇心のままに引きちぎり潰し踏みにじるように。
理不尽に。唐突に。
友も居場所も、消滅した。
一番大切なものだけは、と必死に足掻いた。
泥まみれになりながらも這い出て、彼女に応急処置を施して、背負って廃墟となり果てた街を出た。
見つからないように街道から離れながらも、覚えている限りの目印や地名で、方向を定めて歩いた。
弱々しく呼吸だけをする彼女を背負って、ただひたすら歩いた。
金など持っていなかったから、川の水を煮沸して飲ませて、どうにか見つけられた木苺などを食べさせようとした。
しかし、彼女はそれらの事も出来ないほどに、死にかけていた。
悔しくて。
悲しくて。
憎くて。
ただ謝る事しかできなかった。
木苺は潰して舌に塗りつけ、水は口移しで流し込むしか出来なかった。
あんなに必死に叩き込んだ治療のための魔術も、死にかけて体力も尽きかけている彼女には、ほとんど効果がなかった。
何度、唇を噛んだだろう。
何度、頭を掻きむしっただろう。
何が出来る事は全てやった、だ。
何が彼女のためにやってきた、だ。
何も出来ない。
悔しい。
悲しい。
憎い。
爪が割れるほどに地面を引っ掻いた。
わずかな休憩の時間は、彼にはただの悔恨の時間だった。
歩いて。
歩いて。
歩いて。
ただ歩いて、
助けを求めに行く事しか、出来なかった。
ようやく辿り着いても、彼女の側にいる事しか出来なかった。
赤毛の魔術師の、自分よりも遥かに高度な治癒魔術でも、尽き掛けた彼女の体力までは戻らなかった。
彼女が生きるはずだ。
自分ではない。
生きるのは彼女でなければならない。
何人もの大人たちが駆け回る中で、信じていた。信じていたかった。
そして、大太刀を携えた黒髪の女が、彼女の傍らに静かに膝をついて、頭を垂れた。
「……お役目、ご苦労様でございました」
その瞬間、今まで真っ白か真っ黒でしかなかった頭の中が、真っ赤に染まった。
女に掴み掛かって叫んだ。
何を言っているんだ。そんな訳がない。
そもそも役目とは何だ。彼女には役目なんてない。あるとしてもそれは生きる事だ。
彼女はただの女の子だ。十九歳になったばかりの、まだ大人にもなっていない少女だ。
生きるんだ。
生きて、生きて、生きて、幸せになって、それから、
それからーーー
ーーー『彼女』は、死んだ。
自分だけが残った。
生かされた。
どうして、と相手もいないのに問い掛ける。
生かされても、意味がないじゃないか、と奥歯を噛んだ。
そんな事をするんだったら、彼女が生きてほしかった。
どうして、俺なんだ。
何で、何もない俺なんだ。
どうして。
どうして。
『彼女』がいなくなる?
そんな事があるのか。
そんな事が。
そんな事は、許さない。




