昔話と、最後の『私』の話
「シスター!アリスさん!!」
部屋の扉に体当たりするように転がり込んできた黒髪の少年に、シスターは顔をしかめた。
「何です、ディラル。今はアリス様と大事なお話を……」
「それどころじゃない!!」
言葉を遮って叫ぶ少年に、アリス・サーは傍らの大太刀を手にした。
このマエストーソ聖堂が兼営している孤児院は、他と比べても環境が良い。
元メヌエット国の首都だった事も関係しているのだろう。
先の大戦で溢れかえった戦災孤児たちへの支援や教育は、かなり質が高い。国営の学校とも遜色ないと言っても良い。
この少年ディラルは、7歳頃にここへ来たと言う。
年齢が高くなればなるほど、里親から選ばれる確率は低い。彼は既に16歳であり、あと2年もすれば孤児院から社会へ出なければならない。
聖堂の教育もしているシスターらもわかっている。
常識のみならず礼儀作法は、厳しくも丁寧に教え込まれているのを、アリスは知っていた。
その彼が、シスターからの苦言を遮ってまで訴えてきた。
何かがあったに違いない。
もしやと思い、大太刀を取ったが、何の反応もない。
天使信仰やその『主導者』が来た訳ではないだろう。
考えている内に、ディラルがアリスの手を取った。
「早く!もうヴィスタークも来てやってるんだ!」
さらに飛び出してきた名前に、アリスは面食らった。
あれが動くなど、考えられない。
嫌な予感が増す。
シスターもそれを感じ取ったらしい。
アリスはディラルに引かれるまま廊下へ出た。
手を離して先行して走る少年の後を追いかける。
裏口の方向だ。
走り出して数秒、アリスは持ってきた大太刀が、ほんのりと温かみを帯び始めた事に気付き、ゾッとした。
まさか。
バン!と裏口の扉が弾かれたように開け放たれる。
そこには。
「くそっ……!」
見た事もない苦々しい表情をして、しゃがみ込んでいる1人の男。
長身に赤毛、黒いコートという目立つ姿を丸め、必死に地面に横たわるものに何かをしている。
大太刀が熱くなる。
アリスは息を飲んで近付いた。
そして、絶句した。
そこに横たわっていたのは、死にかけの少女だった。
歳の頃は、そこで立ち尽くしているディラルとそう変わらない。
土と埃にまみれながらも、星々のように輝く銀色の髪の、汚れていても美しい少女。
血に汚れた聖衣に、焼け焦げたカーテンを引きちぎったような布を巻かれている。
その銀の髪を持つ者が、何者なのか。
この聖堂にいる者、軍警に所属する者ならば、必ず知っている。
その人物が、どれほど重要人物であるのかも。
その顔は、ほとんど血の気がなかった。
青白い肌。
瞼は緩く閉じ、唇は乾いて薄く開いているだけ。
「戻れ……戻れ!」
男は、必死に彼女の腹に手をあてていた。
そこでアリスは、彼が高度な治癒の魔術を施しているのだと気付く。
気付くのが遅れてしまったのは、この男が手練の魔術師である事を知っているからだ。
アリスは魔術師ではないが、知識はある。
聖堂守護者という立場と、この『大太刀』を持つ以上、必要と思った知識は全て頭に叩き込んだ。
だからこそ、治癒の魔術がどれほど高度なものかも知っている。
比較的レベルの低い、対象の体細胞の活性化を促すだけのものでも、火を灯すだけの魔術と比べて難易度は桁外れだ。
高難易度になると、空気中の魔力を対象の各種細胞へ置換・活性化までさせる。
この男が本気でかける治癒の魔術は、後者のものだった。
どんな大怪我でもたちどころに塞ぎ、後遺症すらないほど正確無比なのを、何度も見てきたし、アリスも体感した事がある。
しかし、目の前の少女の様子は変わらない。
もうどんなに回復力を高めても、細胞を置き換えても、根源となる生命力が尽きているのだ。
「……レイビィ」
その少女の横で、その少女の手を握りしめている少年がいた。
その少年を見て、アリスはまたもギョッとした。
こちらの少年も、歳はディラルと少女とそう変わらない。
特に珍しくもない鳶色の髪に、ボロボロの浮浪児のような姿。
ただ、その無造作に伸びた髪の下の、瞳。
真紅の、瞳。
アリスは少女を見た。
死にかけている。
いや、おそらく、もうすぐにでも死んでしまう。
それでも、アリスは男に尋ねた。
「……ヴィスターク、その方は……」
「…………」
無言。
彼が彼女の言葉に無言で返す事など、今までなかった。
だが、それは何よりも明確な答えだった。
戸惑ってオロオロするばかりのディラルに、口許に人差し指をあてて沈黙するよう促した。
アリスは唇を噛み締めた。
まだ成人すらしていない、少女。
その肩にのし掛かった責務と、そして最後の役割を、その細い身体で成し遂げた。
ハッキリとわかった。
大太刀を地面に置き、少女の傍らに膝をつく。
「……聖女殿。お役目、ご苦労様でごさいました」
そう言った瞬間、鳶色の髪の少年が飛びかかってくる。
「アンタ、何を言ってんだ!?レイビィは生きてる!まだ、生きてる!生きるに決まってるだろ!」
少年は、泣いてはいなかった。
ただ強く、アリスの軍服の襟を掴んでゆすってくる。
「生きて、生きて!それから……もっと、たくさん」
「無理だ」
続けようとする少年の言葉を切り、ヴィスタークは少女から手を離した。
「……手遅れだ」
「そんな、ことっ……だって!アンタたちは最強の聖堂守護者で!それで!」
「この傷を塞いで、ここまで保たせたのは、お前の精神力の賜物と」
ヴィスタークは少年の瞳を真っ直ぐ見た。
「彼女から託された、その目のお陰でしかない。これ以上は……どこの誰がどうやったって、どうにもならねぇよ」
少年は言葉を失った。
手で顔を……いや、その真紅に染まった目を覆い、奥歯をギリギリと噛み締めていた。
「……どうして……っ!」
絞り出すように、とは、まさにこの事か。
そう思える声だった。
「……本当に最後の手段として、聖女と守護者に伝わっている方法なんです。世界のための」
「そんなんじゃないっ!」
少年が叫ぶ。
「レイビィは!シチューが好きなのに、自分じゃ作れなくて!すぐ鍋を焦がしたりひっくり返したりして!
算術が苦手で!シスターたちも驚くようなお転婆やらかすじゃじゃ馬で……」
少年は泣かなかった。
「聖衣のままで走り回って、芝生の上を犬か猫みたいに転げ回って、木のぼりして……
それで叱られてもコッソリ舌を出してる」
しかし、泣いているように見えた。
「そんな、ただの女の子なのに!」
少年は、少女を見下ろした。
「大人にも……なってないのに!」
少年は、指の間から絶望した紅の目を覗かせた。
「何でこんなふうに、殺されなきゃならないんだ!!」
絶叫し、アリスを、ヴィスタークを押し除け、少女の腹に手をあてがった。
何も出来ない。
何も言えない。
名も知らぬ彼の主張は、当然の事だった。
しかしそれが起こってしまう事もまた、この世界では当然の事だった。
それを知っている、熟知しているから、何も言えない。
その場にいる全員がそうだった。
普段、あんなふうに押し除けられもしたら、即座に文句を言って食ってかかるヴィスタークですら、何も言わずに少年を見ていた。
無駄だと、もう一度言えなかった。
おそらく、彼は理解している。
レイビィと言う『聖女』が、どうして最後の、しかも成功例もほとんど聞かない、最後の手段に出たか。
彼のボロボロの姿を見ればわかる。
彼もまた、死にかけていたのだろう。
だから、賭けに出た。
彼を、生かすために。
少年は顔を上げた。
強く少女の手を両手で握り締め、歯を食いしばる。
彼もまた、治癒の魔術を試そうとしていた。
諦めずに。
だが、やはり錯乱しているせいで、魔力の組み方がぐちゃぐちゃになってしまっている。
これでは何もーーー
起きるはずがない、とアリスが思うと同時に、
周囲の空間が、さざなみを立てた。
瞬間、それまで混乱して黙っていたディラルが、何かに気付いく。
首を傾げ、場違いに「あれ?」と声を上げた。
「なぁ、お前ーーー」
続く言葉は、
突如起こった爆発的な魔力の波に、掻き消された。
十年前。
私は死んだ。
彼に、真紅の瞳を託して。
周りから、何が起きても決して死んではならないと、言いつけられてきた私が死んだ。
自分で、いつ死んでも構わないと言っていた彼が生きた。
それは私の選択だった。
私の勝手な選択だった。
惨い事を彼にしてしまった。
酷いものを彼に課してしまった。
それでも生きてほしくて、ただのエゴでそれらを彼に背負わせた。
彼の声が聞こえる。
名前を呼ばれている気がする。
でももう、声が出ない。
あなたの名前を呼べない。
私があなたに渡した名前なのに。
恐ろしさはない。
ただ後悔だけはある。
一言、謝りたかった。
でもそれももう出来ない。
それだけがただ心残り。
何も聞こえなくなる。
意識が、切れる。
寸前、何かーーー
温かいものに引き寄せられた気がした。
========
「俺は、何も出来なかった」
ーーーそれは仕方ない事だ。
「俺は、何も守れなかった」
ーーーそれは私たちにも言える事です。
「俺には、何もない」
ーーー託された【もの】ならある。
「…………」
「だから」
「血反吐を吐いたって良い」
「何をしても構わない」
「何をされても構わない」
「俺の全てを犠牲にしていい」
「どれだけ汚れてもいい」
「どんな泥でも被ってやる」
「腕の一本でも、内臓ひとつでもなくなったって、動ければどうでもいい」
「何だってやる」
「だから」
「俺に、俺が使えるものを全部、叩き込んでくれ」
「今度こそ」
……その子は、『彼女』ではありません。
「わかっている」
代わりとか言うつもりか?
「違う」
「レイビィは死んだ。もう、どこにも居ない。
俺が弱かったから、何も出来なかったからだ」
「もっとずっと長く生きて、幸せになるはずだったのを、俺が何も出来なかったせいで」
「そういう事が、この世界では『よくある』事なんだろう?」
……そうだな。
「それが許せない」
「わかるんだ。なんとなく。
彼女の中に『聖女』なんて縛りの残りカスが残ってる。
いつかまた、アイツらが殺そうと来るだろ?」
……そうだろうな。
「許さない」
「偶然でも何でもいい。
今、俺の前に現れてくれた。それだけでいいんだ」
「それだけなんだ」
「そんな真似するヤツを、俺は許さない」
「彼女は聖女じゃない。
なら尚更、普通に生きて、好きになった誰かと一緒になって、家族と共に老いていって、誰にも邪魔されずに幸せに死ぬべきだろう?」
「彼女のこれからを壊そうとするヤツは、片っ端から俺が潰す」
彼はそう言って、また歩き出した。
今度は小さな、幼いその子を背負って。
その子が幸せになれる場所へ。
尋ねられた。
お前がその子を幸せにするのではないのか、と。
彼はすぐに返した。
不思議そうに。
当然のように。
「どうして俺が決めるんだ?
幸せになるのは彼女なのに」
それから、彼はがむしゃらにもがいた。
実戦さながらの戦闘訓練を受け、傷と痣だらけになって。
多人数対自分一人という戦況を乗り切るために、何度も打撲や骨折をして。
魔術の熟度・精度を上げる訓練では、体内魔術がほとんど空になって失神して。
毒物の味や臭いを叩き込まれ、数日間は中毒症状でのたうち回って。
人体の急所、破壊方法、吐き気もする拷問のやり方も学んで。
どうすれば人を殺せるか。
ネフィリムを迅速に無力化させられるか。
初期の欠陥品と言われもする、『スペルビアの長剣』をどこまで扱えるか。
どんな状況下でも、【守る存在】に傷一つ付けずにするにはどうするか。
私が彼に託したものを、どう扱うか。
十年。
そう。
彼は十年間を、それに掛けた。
私の時に心に刻んでしまったあの悔恨を、もう二度としないために。
私もラインにそうしてほしくはなかったから、ずっと見てきた。
触れられるほどに傍にいても、無色無力な私には何も出来ない。ただ見ているだけ。
けれど、全てに目を逸らさずにしてきた。
十年。
少年だった貴方は、青年になった。
幼く小さなあの子は、少女になった。
そうして、彼は。
ラインは、今。
その子と『再会』していた。




