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剣と魔術と 天使 の世界で  作者: hisa
出会いと再会
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3/12

おとぎ話と、『彼』との話

「美味し!?」


 皿に盛られた料理を一口含み、トゥシャルレイは感嘆の声を上げた。


 バディヌリー聖堂へ行く、と決まってから、念のため彼女が御者に絡まれていた道を外れて進み、しばらく。


 周囲に宿屋どころか農地すらない場所で、夕暮れになってしまった。


 こういう事があるので、普通は護衛のついた乗り合い馬車を利用し、明かりと簡素な食事を取り、旅行者は安心して眠れるのだ。


 これが単独の旅となれば簡単にはいかない。


 自分で火を用意し、携帯してきた保存食をかじり、野生の獣や夜盗に襲われないよう警戒しながら休まなければならない。


 乾パンとビスケットとジャーキーしか持っていなかったトゥシャルレイとしては、辟易するしかないところだったのだが……


 ラインはまず、その辺りに転がっている石を集めてかまどを作り、魔術で火を灯した。


 そして、やたらと大きなバックパックから、小鍋を一つ取り出した。

 さらに出てくるのは、保存の効く芋等の根菜、調味料各種。

 一番驚いたのは、缶詰めのベーコンが出てきた事だった。


 先の大戦で開発されたとは聞いていたが、市場に出回ってまだ日が浅く、彼女が持っていたジャーキーの数倍の値段はする物だ。

 それを何でもないと言うように出し、迷う事なくナイフで蓋を開けた。


 その後は、まさしくあっという間。


 川から汲んだ水を煮沸。

 その水の一部を分けておく。

 慣れた手つきで芋と人参を洗って、ナイフで皮剥き。

 缶詰めのベーコンと、その脂を使って鍋の中で具材を炒めつつ、塩と胡椒とスパイスを数種類加える。


 そしてバッグから何かの小瓶を取り出す。

 牛乳瓶のようだが、ガッチリと栓がされており、密閉されているようだった。

 そして中身は、濃厚なチョコレートを溶かしたように、トロリとしたもの。


 ラインが蓋を開けた瞬間に、ふわりと香りが鼻腔をくすぐる。


 ここでもトゥシャルレイは驚いた。

 それは屋敷のディナーでも時折出される、ビーフシチューと同じ、上質なデミグラスソースの香りだった。


 煮沸して分けておいた水を鍋の中へ。

 クツクツと煮え始めてきたところで、綺麗に洗って拭いたナイフの先で、ソースをかき出し、鍋の中へ。


 もうその瞬間から、既に『野宿』の『質素で粗末な食事』ではなくなった事が、ハッキリ理解出来た。


 期待の眼差ししかしていないトゥシャルレイを尻目に、ラインは鍋に蓋をして手をかざした。


 一瞬、シン……と静まってから、ポコ、コトコト、と明らかに先ほどとは異なる音が鍋の中から聞こえてくる。

 そして、わずかに空いた蓋の隙間から、蒸気が勢いよく噴き上がる。


 トゥシャルレイは知らなかったが、これらは圧力鍋でシチューを作った時に起こるものだった。


 ラインが蓋を開けると、芳醇な香りと共に白い蒸気がブワッと立ち上り、腹を刺激して仕方ない香りが辺りに広がった。


「うわぁ……」


 もうそれしか言えないトゥシャルレイに、ラインは口の端だけで小さく微笑し、木を削り出して作られた簡素な器にシチューを注いだ。


「豚のベーコンだから、あいにくビーフシチューじゃないが」


 そう皮肉りながらも、ラインはたっぷり注いだ器をトゥシャルレイに差し出した。


 湯気が上がり続けるそれを、トゥシャルレイは慎重に両手で受け取り、中をまじまじと見る。

 まるで二日煮込み続けたような、色と艶、香り。


「ほら」

「あ、ありがと」


 出されたスプーンを取りながらも、目線は器の中に釘付けだった。


 ゴクリ、と喉を鳴らし、スプーンでまずジャガイモに触れると、ホク、と割れた。

 次にベーコン。筋に沿ってスプーンの先を滑らせる。それだけで音もなく簡単に、二つに切れた。


 一口大になったそれをスプーンに乗せ、さらにシチューのスープも忘れずすくい、そっと口に。


 それで冒頭の驚嘆の声だった。


「何これ、本当に貴方が作ったの!?」

「見てただろ」

「だって……!だってさぁ!?」


 粗野な姿のラインを見て、穏やかな湯気を上げる鍋を見て、上品な香りを放ち続ける器を見て。

 トゥシャルレイはそれを何度も繰り返した。


 忙しいな、と思いながらも言わずに、自分も器を取る。


「いいから食べろ、冷める」


 パキッと乾パンをかじり、ラインもシチューを口に含んだ。

 トゥシャルレイは一口二口食べる都度、美味しい美味しいと感激している。


「……美味いなら良かったよ」

「だってこんな美味しいシチュー、家でも食べた事ないよ!?何で!?」

「何でって言われてもな」


 勢いに押されつつ、ラインは苦笑した。

 そして、燃えるかまどの炎を眺める。


「ロクなモンじゃなかったからな」

「え?」

「まぁ、訳あって猛練習したって事だ。……おかわりは?」

「いる!」


 突き出された器を取り、ラインは具をたっぷりと入れたシチューを注いだ。


 またそれを満面の笑みで頬張るトゥシャルレイ。

 半分ほど食べたところで、ふと気付く。


「ねぇ、寝る時どうするの?」

「君はどうするつもりだったんだよ」


 逆に尋ねるラインに、トゥシャルレイは待ってましたとばかりに得意気な顔をした。

 自身の鞄の中から水筒程度のサイズと形の、布の塊を出す。


「最新コンパクト寝袋!商店で取り寄せたんだから」


 ふふん、と鼻を鳴らしそうな程に自慢する彼女だったが、ラインは眉をひそめた。


「何でそこまで準備が出来て、肝心の馬車はハズレを引くんだ?」

「だっ……だから!バディヌリーの方に行くのが、アレくらいしかなかったの!

 それに」


 鞄に寝袋をしまい、残りのシチューをかき込んで水を飲み、ふぅ、と息をつく。


「前はそんな事なかったし」

「…………前?」


 ラインの目が、さらにキツくなる。

 まさか前にも家出をしたのか?


 そんな視線にも気付かないのか、トゥシャルレイは腕を上に上げて大きく伸びをした。


「小さい頃なんだけど、何かで何日も歩きで旅行した事あるの」

「何だ、何かって。まさか親父のレイクさんとか?」

「覚えてないし、多分、父さんじゃない。誰だったかな」


 あっけらかんと答えるトゥシャルレイに、ラインは唖然とした。


「あんまり覚えてないのよね。ぼんやりしてて。

 ただ、すーっごく優しかったの。疲れたらおんぶもしてくれて……あ、でも」


 空の器を見て、付け加える。


「食べ物は、何て言うの?現地調達?木苺だとかの木の実?そういうのを食べさせてくれてね?

 ほんとーに優しかったの。誰かと大違い」


 ジロッとトゥシャルレイはラインを据わった目で見つめた。

 ラインは、瞼をわずかに伏せた。


「そうか、良かったな」

「そー?靴がボロになっちゃったら、布を巻いてくれたり。夜になったら、上着でくるんでくれたり。

 ほんっとーに優しかったの」


 自慢げに語り続け、しかしふと、何か思い出したように首を少し傾げた。


「……でも、何だかいつも謝ってたの。帰るまで、何度も」


 ラインは、何も言わなかった。


 パチン、とかまどの中の薪が、音を立てて火の粉を一つ舞わせた。











 腹がふくれ、しばらく少女特有の他愛もない話をつらつらと重ねてしばらく。


 トゥシャルレイは、ご自慢の携帯寝袋を広げてその中に入った。

 ラインはどうするのか、と一応聞いてきたが、仕事だからの一言で納得し、今は警戒一つなく眠っている。


 森林地帯と道の境。

 かまどの火は落とし、オイルランプの小さな灯火だけがポツンとある。


 雲が出てきたのか、空に星の光は少ない。

 半月と満月の間あたりの、半端に欠けた月だけが夜闇に浮かんで見えた。


 ラインは長剣を抱え込んで座り、ジッとランプの火を見ていた。


 音はほとんどない。

 一番聞こえてくるのは、トゥシャルレイの安らかな寝息。

 時折、弱い風に木々の葉が揺れる囁きが入る。それだけだった。


 動物のたてる物音も、虫が跳ねる音もしない。

 旅を熟知している者ならば、それがどれほど不自然なものなのかわかっただろう。


 それだけに、近付く者の音はすぐにわかった。

 カタ、と剣が震える。


 ラインは剣の柄には触れずに、ただ持ったまま立ち上がった。

 腰のベルトからナイフを抜き、音と気配の方向へ身体を向け、腰を落として構える。


 ランプの火が、揺れる。


「ライン」


 闇の中から、男の声が響く。

 それでもラインは体勢を変えなかった。


 無遠慮な足音が近付く。

 ある地点で止まり、男の声は魔術を唱えた。


「【code: d84550=PoR】」


 ぽっ、と明かりがもう一つ現れ、男の姿が露わになった。


「よぉ、元気か?」


 ざんばらな黒髪に黒い外套という、ラインよりも黒ずくめの男が、軽薄に片手を上げた。


 ラインはナイフから手を離して座り直すと、長い息を吐いた。


「……最悪だ」

「そりゃそうだ」


 さらに近付く男の腰には軍刀が下がっており、そして手には、長剣の鞘のみが握られていた。


「よく気が狂わないもんだよ。そいつを剥き出し同然で持ち歩いてて。

 コイツを持ってる俺は平気だけどよ。苦しくないのか?」

「慣れてる」

「慣れちゃ駄目だろ」


 呆れながら、男はラインの前に腰を下ろした。

 そして自分とラインとの間の地面に、手に持っていた鞘を置く。


 金属とも粘土とも異なる材質の、ただ無機質で装飾一つない鞘。

 ただ特徴的なのは、側面に三つの蝶つがいがあり、真横にパッカリと開く仕様になっている事だった。


 男は、眠っているトゥシャルレイを一瞥した。


「もう合流出来たんだ。返すぞ?」

「まだいい」

「何でだよ、ぶっ倒れるぞ?」

「バディヌリーに寄る事になった」

「は?」


 男の目が見開かれる。

 その反応は予想通りだったので、ラインはすぐに続けた。


「……この家出な、『妹』を探すためだったんだと」

「妹……って、おい!」


 慌てて声を上げる男に、ラインは自分の唇に人差し指をあてた。

 男は何度かパクパクと口を開閉した後、上半身だけをラインに近付けた。

 今度は声を最小まで落として尋ねてくる。


「まさか、覚えてるのか?」

「いや、違う。話を聞くに、トゥーシャとして、妹を探してる」

「何でわかるんだよ」

「……俺の事は、ほとんど覚えていなかった」


 男の顔が歪む。

 驚愕と、悲哀と、憐憫と、あと何か。

 様々なものが混じった表情だ。


 ラインは自嘲気味に笑んだ。


「お前っ…………、クソ」


 男は、ぐしゃぐしゃと前髪をかいた。


「口出し出来ねぇのわかってて……」

「悪い、ディラル」


 男の名と共に謝る。


「もう少し、預かっててくれ」


 言って、ラインは男ーーーディラルとほぼ中間の位置に置かれていた鞘を、彼の方へ押した。


 ラインの持つ長剣が、またもカタ、と音を立てる。

 それと同時に、ラインは奥歯を噛み締めた。


 苦痛を声に出さないように。


 それを見て、ディラルは長いため息をつきながら、鞘を取って肩に担いだ。


「無茶ばっかりしやがる弟を持つ、兄貴の気持ちを考えろよ」

「血は繋がってないんだ、もっと軽く考えれば良いだろ」

「出来るか、愚弟」


 吐き捨て、ディラルは不貞腐れて顔を逸らした。


 そしてその先に、火の消えたかまどにかけられたままの小鍋を見つける。


 途端に、ソワソワとし始める。


「……何か作ったのか?」

「シチュー。一食分残ってるぞ」

「食う」


 宣言するや否や、ディラルは鍋に飛びついた。


 レードルでそのままシチューを頬張り、咀嚼し、飲み込み、わざとらしくハァーッと言いながら拳を握る。


「相変わらず、うっめぇ」

「不味いと師匠に殴られたからな」

「お前のコレは度を越えてんだよ。食える物と、焼き加減と塩加減だけ覚えりゃ良かったってのに」


 ディラルは呆れながらもガツガツとたいらげてゆき、最後に鍋の底を指ですくって舐めた。


「料理だけのために、圧力を掛ける魔術まで編み出すなんて馬鹿、初めて見たって言われてたろ」

「忘れた」

「嘘つけ」






============







 彼は、私を背負ってずっと歩き続けていた。


 私から離れようとしない彼が、どうにか見つける事が出来たのは、数粒の黒スグリといくつかの野草、野生のハーブだった。


 私は凄い、と思ったのだけれど、彼はそうではなかったらしい。

 日に何度も何度も治癒の魔術を使って疲労も溜まっているだろうに、彼は決して諦めなかった。


 川辺を見つければ駆け寄って、私に水を飲ませようとする。

 飲む事すら出来ない私に、彼は自分の服の端を破いて洗い、それに水を浸して私の唇にあてた。

 少しずつ絞り、ポタリポタリと渇いた唇と舌をわずかに潤す。


 小鳥や野うさぎの影を見つければ、つたない魔術や拾った小石をあてようと奮闘する。


 私にはもう、噛む力もないと言うのに。


 今日見つけたその木の実も、ハーブも、私は口に突っ込まれるだけで、何も出来ない。

 力なく、ポトン、と黒い木の実が落ちてしまい、申し訳ない気持ちになる。


 彼は、その落ちた黒スグリを拾い上げて、泣きそうな顔をした。


 そんな顔をさせたい訳じゃないのに。

 謝る事すら出来ない。

 ただ息をして、遅い鼓動をたてて、ゆっくりとゆっくりと残りの時間を過ごしていくだけの身体。


 なのに、彼は諦めなかった。


 黒スグリを口に入れ、何度か噛み砕いてから川辺で汲んだ水を含んだ。

 一瞬躊躇した後、私の口に自分の口を押し付ける。


 柔らかい感触の後に、ツウ、と少し酸味のある水が、舌の上に溢れ落ちてくる。

 ジワリジワリと広がって、喉の奥にゆるりと滑ってゆく。


 ほんの少し、甘い気がした。


 閉じていた目を開ける。

 彼は、心底申し訳なさそうにしていた。


 微笑みたい。

 頬に触れたい。


 しかし、出来ない。


 どうにか私が出来たのは、ほんの少し、本当にほんの少しだけ、首を横に振るだけだった。


 彼の目がギュッとしぼめられ、また、唇があてがわれる。


 乾いた唇と、渇いた唇が、数秒だけ押し付けられる。

 そしてまた、酸っぱい雫が滲み出て口内に落ちる。




 今度は、ほんの少しだけ、塩辛い気がしたーーー








 彼は諦めなかった。


 私をおぶって歩いて。

 治癒の魔術を何度も施して。

 水を見つければ飲ませようとして。

 わずかな食べ物も、食べさせようとして。


 歩いて、歩いて、歩き続けて。


 決して諦めなかった。


 辿り着いて、その人たちから驚かれて。

 そして無理だと言われても。



「レイビィ」



 彼は諦めなかった。




「君を、死なせない」




 私が死んでも、諦めなかった。














 これはおとぎ話ではない。


 私は外に出てはいけない。

 そう言われてきた。


 その理由を知ったのは、私が七歳の時。


 それまでずっと不思議だった。

 両親とも妹とも、髪の色も瞳の色も違う事が。


 父様と母様が死んだ時も、何が起きたのか知らされなかった。

 それも、七歳のその時に知った。


 どうして外へ出ては行けないのかも。


 だけど、私は外へ行きたかった。

 すぐに連れ戻される事はわかっていたけれど。


 聖堂の敷地内だけであっても、外に出て空を見て木々を見て、駆け回りたかった。

 空を飛んでいく鳥に手を伸ばして、流れていく雲に目を細める。


 妹はそんな私を気遣ってくれた。

 二つ歳下の、可愛い妹。可愛くて、とても利発で優しい妹。


 私が勝手に外に出てはシスターたちと聖堂守護者の人に叱られてしまう時、必ず部屋の前で待っていてくれた。


 心配そうに見上げる蒼い瞳。

 それを可愛いと思いながらもーーーとても羨ましかった。


 その夏空のような、蒼玉のような瞳が。

 どこまでも広く、果てなど見えないものを思わせる、


 私とは正反対の色。


 どんなに叱られても、私は外へ出た。

 シスターや守護者の人がどんな対策をしたって抜け出して、束の間の外を楽しんだ。


 これはおとぎ話ではない。

 連れ出してくれる王子様なんか来ない。

 わかっていた。

 わかっていたけれど。


 私には越えられない柵の外まで、ずっとずっと先まで続いていく青空を、眺めたかった。









 『彼』と出会ったのも、そんなふうに外へ出た時だった。




 聖堂の裏手。

 高い鉄柵に阻まれて、そこから先の雑木林へは出る事は許されない。

 飛び越えるには魔術を使うしかないが、そうすれば魔力ですぐに気付かれて捕まえられる。


 だからそこへ行っても、木々のてっぺんの、葉の緑と空の青の境目を眺めるだけ。

 ぼんやりしたい時に、気まぐれで向かうだけの場所だった。


 その日もそう。

 ほんの気まぐれでそこへ行った時。


 『彼』はいた。


「…………」


 私と同い年か、少し上か下か。

 頭から足の先まで汚れ、見た事もない民族衣装のような服もボロボロで。

 そして何よりも、酷く痩せ細っていた。

 ボサボサの鳶色の髪の隙間から見える、暗い鳶色の目の下には、同じ年頃とは思えない隈までできていて。


 唇は乾いてひび割れていて、首には縄か何かかけられた痕。

 手首にも同じ痕と、乾ききった血の跡と、数える事もできない細かな傷。

 そして、それらをどうにか外そうとしたであろう、無数の爪痕。


 目が合う。


 私は、どうしたら良いのかわからなかった。


 この聖堂でも、他と同じように戦争で行き場を失くした子どもたちを受け入れているのは知っている。

 聖堂の中でも、外に出た時にも会う事がある。

 入って来たばかりの子と、挨拶をした事もある。


 光の消えた鋭い目が、じっと私を見る。


 動物に観察されているような気分がした。

 自分に害があるか、そうでないか。

 それを見定めているような。


 ややあって、彼は顔を逸らした。

 ズル、と滑るようによろけて、鉄柵にもたれて座り込む。


 そこで私は気付いた。

 彼の足が、他よりも怪我が酷い事に。

 裸足なのだ。


 それでどこを走ったのか。

 どこを彷徨ってきたのか。

 どれほど歩き続けたのか。


 どれだけの苦痛を引きずって、ここまできたのか。


 気付いた時には、裏手の井戸に走っていた。

 使った事はない。

 使っている人を見た事がある程度。


「うっ……くっ」


 だから知らなかった。

 水の入った桶が、こんなに重いなんて。

 何度かロープを握り締める事が出来ずに、井戸の中に水桶を戻してしまう。


 そうしながらも、私は必死だった。

 何度目かの挑戦で、ようやくボコボコにへこんだバケツに水を移す事が出来た。


 それを持って運ぶのも、これほど大変な事だとは知らなかった。

 大きなバケツなんかではないのに。


 少しこぼしてしまいながらも運んで、彼のすぐ側にバケツを置く。


 気絶でもしていたのか。

 彼は私がバケツを勢いよく置いた音で、ゆらりと顔を上げた。


「足、出して!」

「……?」

「足!洗うの!バイキンが入ったままだと、いけないの!」


 必死に訴えても、彼はボンヤリしていた。

 見た事もない民族衣装に、ハッとして、私は自分の足を叩いた。


「足!わかる?足をこっちに出して!」

「…………」


 彼はゆるゆると、自分の足と私の足を見比べた。


 夢から覚めたばかりのような遅さにじれったくなり、私は地面に膝をついて鉄柵の間から腕を出して、彼の足を掴んだ。


「っ!?」

「我慢して!」


 そこで彼は驚いてのけ反ろうとしたけれど、もう私は彼の足首を掴んで引っ張り込んでいた。


 こちら側に引き込んだ、血だらけで泥だらけの足に、両手ですくった水をかける。

 二度、三度、と繰り返して、落ちやすい汚れが落ちた後、私はポケットをまさぐった。


「ああ!もう!」


 こんな時に限って、ハンカチを忘れてきてしまった。


 面倒になった私は、自分のスカートの裾を引っ張ってバケツの水に浸し、それで彼の足を拭いた。


 慌てて引っ込めようとしたその足首をしっかり掴んで逃がさないようにして、とにかく汚れを落とした。

 傷をさらに広げるような事だけは注意しながら、とにかく綺麗に。


「………………き、み……は」


 続けていると不意に、斜め上から掠れた声がした。


 見上げると、鳶色の目が私を見つめていた。


「…………だれ、だ?」


 乾いた唇が小さく動く。


 私は彼の瞳を見つめ返した。

 暗かったが、綺麗な鳶色だった。


 私の真紅の瞳と、ほんの少し近い色。

 私の瞳に黒い絵の具を落とす事が出来たら、こんな色になるんじゃないか、と。


 その綺麗な鳶色を見つめて、私は答えた。


「私は、レイビィ」


 彼の鳶色の目と、私の真紅の目が交差する。


「レイビィ・フォーワード。

 あなたは、誰?」


 当たり前に返した。


 それなのに、彼は黙ってしまった。











 その後、シスターの所に駆け込んだ。


 当然ながら怒られた。

 けれど手を引っ張りながら彼の事を話したら、すぐに聖堂守護者の人と一緒に外に出て来てくれた。


 やっぱり私と同じで、彼の姿にビックリしてた。


 それと守護者の人が、「レクイエムの子だ」と言うと、シスターはさらに息を飲んでいた。


 その頃の私は、数年前に遠くで終わった戦争の事をぼんやりとしか聞いてなかったし、興味もなかった。




 数日間。




 彼には、聖堂とは別の場所で話を聞くと、シスターたちは立ち替わり入れ替わり外出する事が増えた。


 私はその間に、戦争の事を調べた。

 初めて自分から勉強した気がする。


 知らなかった事の連続だった。


 戦争の前にあった国、トロイメライ。

 今、私がいるこの聖堂の、元々の国の隣国。


 そしてそのトロイメライの、反対側の隣国。

 大陸の極東に、長年鎖国をしている国があった。

 それが『レクイエム』。


 二つの国の国境は、高くて長い壁でずっと隔てられていた。


 『レクイエムの壁』

 絶対不可侵を告げる壁。


 二つの国が衝突したのは、トロイメライ側で暴動が起こった事が始まり。

 1人の記者がレクイエムに密かに入り、レクイエムの中で処刑された。

 持ち物一つすら、返されなかったらしい。


 それが発端で暴動が起こった。

 そして壁の一部が、トロイメライ側から壊されて。


 レクイエムの子供が、犠牲になってしまった。


 それを火種に、2つの国は本格的に戦争になった。


 他の国は、口は出したり他の事で「やめろ」と警告を出していたようだけど止まらなくて。


 そして、勝ったのはレクイエム。

 ずっと鎖国していたせいで、他の国も知らなかったのだけれど、とても強かったらしい。


 問題はその後だった。


 レクイエムは、負けたトロイメライをさらに攻めた。

 壊された建物をさらに壊して、畑を焼いて、人々をさらに…………。


 『虐殺』

 『蹂躙』


 そんな言葉が並んで書かれていた。


 今まで直接手出しをしなかった他の国も、何もせずにいられなくなって。


 そして、大戦。


 大陸全体に渡る戦争になった。


 そしてーーーレクイエム国は滅びた。


 王政だったレクイエムの王様が、共周り数人と一緒に処刑されて。


 大戦は終わった。


 残ったのは傷跡の残る激戦区の惨状。


 そして、多くの難民。

 その難民の中に、辛くもレクイエムから逃げ出して来た、たくさんの子供たちもいた。


 戦災孤児。


 その重い言葉を最後に、私は本を閉じた。


 そして、彼の姿を思い出す。


 見た事のない民族衣装。

 酷く痩せ細ってやつれていた。


 でも。


 それだけだと思った。


 私は髪の色も瞳の色も、他の子たちと違う。

 妹とすら違う。


 ただそれは理由があるのだけれど……。


 彼は、他の人と同じに見えた。

 鳶色の髪も目も、珍しくも何ともない。

 言葉も、少なかったけれど同じだった。









「あら、お勉強ですか?」


 本を前にした私に、シスター・ヨランダが声を掛けてきた。


 振り向いて、私は聞いた。


「シスター・ヨランダ。あの子は?」


 シスター・ヨランダの顔が、一瞬強張る。

 言わない言い訳を考えているんだと、すぐにわかった。


 私は椅子から立って、ジッと真っ直ぐ見つめて、もう一度聞いた。


「ヨランダ、答えて」


 シスター・ヨランダは「うっ……」と喉の奥を震わせて、修道服の胸元に刺繍された、暁の星の紋章の前で手を組んだ。


「……あの子は、何も覚えていないのです」

「何も?」

「はい。……どれほど辛い思いをしたのか、私たちにはわかりません。

 気が付いた時には、あの姿で、空腹で喉も渇いており、歩き回って食べ物や飲み物を探していた、としか……」

「…………そう」


 あの様子から、何となくだけど予想はついていた。


「ですので……守護者殿が仰ったように、本当にレクイエムの子であるのかも、他の子たちと同じなのかも、天使信仰の関係者なのかも、名前すらも、何もわからないのです」


 目を閉じて、唇を少し震わせて、シスター・ヨランダは答えた。


 私は窓の外を見た。


 とても綺麗な青空。

 白いパンをちぎってちらばしたような雲。


 高い場所に、鳥が一羽、飛んでいる。

 名前は知らない、鳶色の羽根の。


「あの子を、この聖堂に引き取るように言って」

「なっ!?」


 目を見開いて、シスター・ヨランダは組んでいた手をほどいた。


「言いましたでしょう!?出自がハッキリしないのです!そのような者を、貴女様の近くに置くなど……!」

「良いの」


 遮って、私は断言した。


「彼は大丈夫」


 言い切って、ふぅ、と息を吐いて、私は胸に手をあてて目を閉じた。

 暁に輝く星を模したロザリオが、シャラ、と綺麗な音を立てる。


 パッと顔を上げてシスター・ヨランダを見上げて、微笑む。


「あの子と妹と一緒なら、頑張れると思うの」


 ヨランダはしばらく黙っていた。


 そしてまた、聖衣の星の紋章の前で手を組み、私の前に膝をついた。


「御心のままに。……聖女様」






 これは、おとぎ話ではない。


 私は助けを待つお姫様ではない。

 助けてくれる王子様などいない。

 悪くて残酷な魔女もいやしない。

 恐ろしい怪物もどこにもいない。


 これは、おとぎ話ではない。

 これは、本当の話。


 私と貴方の出会いは、本当の話なのよね?

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