それまでの話と、これからの話
「旦那様」
窓から庭を眺めていた壮年の男に、執事服姿の男が声を掛けた。
振り向く。
執事の姿の、長身の男。胸に手をあてて頭を下げたまま、微動だにせず佇んでいる。
十年以上経つというのに、あまり外見が変わらないその執事に苦笑する。
何年経とうとやはり彼は、慇懃に腰を曲げて礼をするよりは、垂直に背筋を伸ばした敬礼の方が似合うのではないだろうか、と。
「ロベルタから、お嬢様が首都に入ったと報告がありました」
「ああ、ならもうすぐ着くね」
「はい」
もう一度、窓の外を見る。
広い庭の中には、子供たちとその親たちが思い思いに過ごしていた。
楽しげにしている様子を見て、少し罪悪感がわく。
「すぐに庭園の閉鎖を頼むよ、ナギ」
「かしこまりました」
「ロベルタは戻っているかい?」
「はい」
「そうか、なら……」
フフ、と小さな笑い声をこぼす。
「いつも通り、トゥシャルレイは彼女に任せよう」
「はーなーしーてぇー!ロベルター!!」
「駄目です、お嬢様」
オーソドックスな姿のメイドが、少女を小脇に抱えてスタスタと歩いていくーーーという光景は、なかなかシュールだ。
ラインはそう思いながら、わちゃわちゃと暴れるトゥシャルレイと、それをものともせずに歩くメイドの女の後ろをついていた。
メイドは、やや吊り目ではあるが見た目は本当に普通だ。
ただ、首都の正門に入った瞬間、トゥシャルレイを猫の子のように掴んで「お待ちしておりました」と抑揚もない声で告げてきたのには、さすがに度肝を抜かれた。
ロベルタと名乗った女は、そのまま『お嬢様』であるトゥシャルレイを荷物のように抱えた。
正門の守衛が苦笑していたのを見るに、大して珍しくもないようだ。それにも驚く。
迷いなく歩くロベルタの後ろ姿を観察し、ラインはなるほど、と思った。
格好は普通の、誰もが『メイド』と聞いて思い浮かべるものだが、細かい箇所に違和感がある。
長袖の肘部分が、妙に固く盛り上がっている。下にプロテクターを付けているのだろう。
手袋は白でなく黒で、左手の手の甲と指の関節にガード用のパットが仕込まれている。
トゥシャルレイを抱え込んでいる右手にはそれがない。
そして歩く時、無意識なのか癖なのか、左足に重心を傾けがちに歩いている。軸足を決めて動いているのだ。
極め付けは、歩く時に揺れるスカート。
太もも部分にいびつな膨らみがある。
警棒かナイフか、何か仕込んでいるのは間違いない。
護衛も兼ねたメイド。
彼女が出迎えに来た理由がわかった。
「お嬢様」
先ほどまでの抑揚のない声とは少し異なり、やや感情が入った声だった。
怒りの。
「私は前回、申し上げたはずです。
次に家出なさった時は、ご容赦しません、と」
「家出じゃないってば!」
「休学手続きを勝手に済ませて、しかも首都から離れて、苦言だけで済ませるはずがないとわかりませんか?」
ロベルタはチラリとラインを見た。
「しかも、危険極まりない、無頼漢共と遭遇なさったと。叱られないとお思いで?」
無頼漢。
随分と古風な言い回しをする。
そこまで眺めて、ラインは唐突に納得した。
クティルナード家に仕える『執事』に、そっくりな言い回しをする慇懃な男がいると。
そして、先ほどから見えるこのロベルタというメイドの所作や、服の下に仕込んでいるらしき『得物』の事を考えるに、おそらくその男に師事しているのだろう、とも予想できた。
なるほど、それならばご息女の護衛兼お目付け役として、このメイドが抜擢されており、さらにこれほど手慣れた様子なのも納得である。
早歩きで、ツカツカと進んでいくロベルタの後ろをついて行く内に、柵で区切られた庭園脇の道に差し掛かる。
同じ意匠の鉄柵が、目視可能な先までずらりと並んでおり、隙間からは丁寧に整えられた庭木が見える。
計算的に配置された木々は、景観の良しだけではない。
庭園の中を、威圧感を与えない程度に見えにくくしている。隙間からわずかに見えるが、その隙間を横切ったのは大人か子供かすらわからない程だ。
加えてーーー
ラインは柵の上を見た。
矢尻のようになった鉄の棒の先端。陽の光が当たるよう角度を調節して目を凝らすと、棒と棒の間に、わずかに光る、糸のようなものがある。
蜘蛛の糸ほどの細さだが、風が吹いても揺れる事はなく、ピンと張られている。
魔力を帯びた、極細の鋼線。
だが、トラップではない。『鈴』代わりだ。あれに触れれば、瞬時に魔力を張った本人が察知する。
植えられた樹木の中に、等間隔で木に見せかけた鉄製の柱もある。防壁の支柱になるのか、中に迎撃用の武器の類が収納されているのかまではわからないが。
一見シンプルな庭園に見えるが、もし襲撃を受けた際は、屋敷への侵入を徹底的に拒む鉄壁となるのだろう。
先を歩いていたロベルタが、足をピタリと止める。
抱えられたままのトゥシャルレイが、「うっ」と呻き声を上げた。
彼女たちの視線の先にいたのは、一人の執事。
ロベルタに負けず劣らず、オーソドックスな濃紺の燕尾服をキッチリと着込んだ、壮年をいくらか過ぎた男。
男は片眼鏡越しにトゥシャルレイを見て、そしてラインにも目を向けた。
そして、芝居かかった動作で一礼する。
後ろに撫でつけた黒髪は、そんなオーバーな動作でも一房たりとも落ちたりしなかった。
「お帰りなさいませ……おじょうさま?」
わざとらしくゆっくりとじわじわ言われ、トゥシャルレイももがくのをやめた。
「さて、本来ならば、先に旦那様と私共からのお説教の時間になるのですが、あいにく」
洗練された動きで、掌でラインを示す。
「そちらの方から報告を聞かなければなりません」
「えっ、じゃあ」
「ですので」
少し期待のこもった声を出すトゥシャルレイを、執事らしからぬ冷たい目で見下ろす。
「第三お勉強部屋へ直行して頂きます」
「いっ!?」
「ロベルタ、頼みます」
「かしこまりました」
どんな部屋なのか想像もつかないが、トゥシャルレイが絶句して全身脱力したところを見るに、ただ『お勉強』をするだけの部屋ではないのだろう。
ロベルタは大人しくなったトゥシャルレイを抱え、執事の横を通る間際に丁寧にお辞儀をして、庭園へ入っていった。
その場に残されたのは、執事の男と、ライン。
ラインは、ふーっ……と息をついてから、
その男に頭を下げた。
「……お久しぶりです。ナギ・ナイトブルー卿」
執事の顔から一変、皮肉げな笑みを作って見せる。
「今の私は、クティルナード家の執事兼防衛責任者だ。卿はいらない」
中へ、と促され、ラインも庭園へ足を踏み入れた。
「前に来た時より、随分と仕掛けが増えましたね」
「わかるか。聖堂守護者候補生だっただけある」
その言葉に、ラインは奥歯を噛んだ。
「嫌味で言ったのではない。聖堂守護者なら、ひと目で見分けが付けられて当然だからだ。
……どれだけやろうが、万全とは言えないが」
吐き捨てると、ナギは門に手を掛けた。
重々しい金属音をたて、身長の倍はある門扉が閉じられる。
頑丈な錠前で鍵も掛けてから、ナギは両手を広げた。
「【code:474a4d=inBk】+ 【code:fff7dc=sf-Y】」
呪文の直後、圧倒されるほどの魔力が眼前に広がる。
門とそこから並ぶ柵。そこに干渉遮断の魔術、同時に光の屈折率を変化させる魔術が重ねられた。
別々の魔術を同時に、しかもこれほど広範囲に行使する。
それがどれほど規格外な事か、魔術師ならすぐに理解出来る。
だが、ラインは驚いたりはしなかった。
ナギがどんな人物であるか、何故ナギがそうしたのか、わかっているからだ。
「……さて」
言いながら、ナギは執事の白手袋を自分の手から剥ぎ取り、燕尾服のポケットに雑に突っ込んだ。
「これで、門より外からは何もわからないし入れない。
お嬢様はロベルタが連れて行ったから、しばらくは外の様子に気付かない。
……覚悟は出来ているか?若造」
低く冷たい声と共に、ナギは燕尾服姿のまま格闘の構えを取った。
「がっ!?」
背中に強烈な肘打ちが入り、ラインは地面に手をついた。
「臨機応変に動くのは良いが」
数秒、呼吸が止まったラインの腹を、ナギは無造作に蹴り飛ばした。
咳き込むラインを冷静に見下ろし、手袋を付け直す。
「まだ、甘い」
「ッ……アンタがバケモノなんだよっ……」
口から溢れてしまった唾液を拭いながら、ラインは吐き捨てた。
「本職は槍なくせに、徒手で、魔術を維持させたままここまでやれるかよ……」
「これくらい、お前の師匠も楽々やってみせる事だが?」
「師匠もアンタらもデタラメなんだよ、どいつもこいつも」
まだ痛む背中と腹に力を入れて起き上がる。
ナギはフン、と鼻を鳴らした。
「お嬢様にスペルビアの長剣を触れさせた罰なら、これくらいだな」
「……家出なんてさせたアンタは、何か罰は受けたのかよ」
「コクトに剣で殴られた」
「げ」
あっさり告げられ、ラインは顔を引きつらせた。
「骨折は治したが、アザがまだ消えん。服で隠れる場所で良かった」
「……本当に、どいつもこいつも」
ナギの言葉に、痛みだけで済んだ、と思ってしまう。
「接触した天使信仰らとネフィリムは処理した、間違いないな?」
「……ああ。別部隊もなかった」
膝にちぎれた芝生の草が付いているのを見つけ、払いながら答える。
「……なら、下位部隊による『いつもの』しらみ潰しか」
ナギは口元に手をあて、眉をしかめて言った。
『いつもの』。
その短い単語に、ラインは密かに奥歯を噛み締めた。
「接触したネフィリムの魔法も、気体の『変質』くらいだったのなら、まず序列は下の方だろう」
「……それでも街ひとつ死んだ」
「ネフィリムはそういうもの、お前が一番よくわかってるはずだ」
「…………」
「その聖女からの預かり物の目で睨むな」
瞬間、ラインは飛び出していた。
ナギの襟首を掴みながら、足を払って体を地面に叩きつける。
膝を踏み付け、鼻先へ真っ直ぐ拳を突き下ろしたーーーところで、ナギの手が寸前でラインの拳を掴んだ。
「人間、激昂すると動きが読みやすくなるものだが、相変わらずお前は鋭くなるな」
「……試したのか」
拳に力を入れたまま、ラインはチラリと屋敷の方を見た。
「トゥシャルレイお嬢様なら、あと一時間は部屋から出てこられない」
見透かしたように言うナギを見下ろし、ラインは手を離した。
何事もなく起き上がって燕尾服に付いたわずかな汚れを払い、ナギはポケットに入れたままだった手袋をはめ直した。
「お前は手合わせよりも、より本能的に立ち回る状況の方が本領発揮するからな。
……聖女の事を出したのは悪かった」
ナギは懐中時計を取り出した。
時間を確認しながら、息をつく。
「あれから十年か……お嬢様は何事もないが」
「妹がいる事を覚えてる」
「そこは、仕方がないだろう?」
弱々しく風が吹く。
「十年前のあの時のお前の暴走で、七歳まで『再生』された。妹君とは二歳差なのだろう?記憶に残っていてもおかしくはない。
……まぁ、探しに家出なさるというのは、予想外だったが」
「印象で決めつけんな、同一人物じゃないんだ」
「同一人物じゃない、か」
じっと見据えてくるナギを、ラインもまた睨み返した。
ナギは軽く肩を落とした。
そして、パン!と両手を合わせる。
門扉と柵にまとわりついていた魔術が、一瞬で霧散した。同時に、外からの音も聞こえてくる。
「ディラルと言ったか?向かいの家の屋根からこちらを伺っているようだが、呼ばなくて良いのか?」
「ああ。見張りを頼んでる」
「そうか」
ナギは胸ポケットから単眼鏡を取り出して、右目にかけた。
手合わせ時とは一転、オーソドックスな執事となる。
今さら、慇懃に礼をする。
「請負人ライン・ウィスカニア様。
当家の主人がお待ちですので、ご案内致します」
この屋敷は、貴族の本邸でありながら装飾品の類が極端に少ない。
骨董品の一つすら、壁に絵画の一枚すら飾られていない。廊下に絨毯も敷かれていない。
どれだけ押し殺そうと、足音が端の端まで届く。
壁に反響するその音は、脈拍のようにも聞こえる。
ナギが足を止める。
重厚な扉。これも装飾はない、だが見ただけで相当な厚みがある事がわかる。
貴族連盟に名を連ねる、首都に居を構える名家クティルナードの屋敷は、屋敷に見せ掛けた要塞だった。
ナギが決められた回数ノックをする。
「旦那様、ライン・ウィスカニア様がご到着なさいました」
「……入りなさい」
返事を待ってから、ナギは襟に指を入れた。
襟の内側から紙ほどの薄さの刃を取り出すと、扉と壁の隙間に通してスッと上下させる。
耳をすまさなければわからない、プツン、と糸か何かが切れる音の後、扉が開く。
広い応接間。
客人を招く部屋であるにも関わらず、シンプルなソファとテーブルの他、ここにも装飾はほとんどない。
ただ、庭を臨む窓からは死角になる位置の壁に、大きな絵画が一枚だけ掛けられている。
『星灯の下、リンゴの木が植えられた丘』
周囲が殺風景な事も重なって、そこにもう一つ窓があり、別の空間が映されているかのようであった。
ラインはその絵を一瞥だけし、応接間の奥に立つ男を見た。
亜麻色の髪の、壮年の男。
ダークレッドの上等なビロードの上着を、当然のように着こなした姿は、誰が見ても上流の人間とわかる。
だが大小様々な皺に縁取られた青い目は、深い懺悔をたたえていた。
「苦労を掛けたね、ライン君」
「…………別に」
その視線から、ラインは目を逸らした。
このラインの物言いと態度は、普通は咎められるものだった。
だが共に入室したナギも、クティルナード家現当主レイク・D・クティルナードも、何も言いはしなかった。
それどころか、ソファを促してくる。
「メッセージを送ってから、何日で見つけられたんだい?」
レイクは、ラインに促した方とは向かい側のソファに腰掛けながら静かに問い掛けた。
ラインは背中の長剣を外して手に持ち、向かい合って座った。
「……三日も掛かった。悪かった」
「何を謝る?君は、大陸の反対側にいたのだろう?それを三日で」
ラインは片手を上げてレイクの言葉を制した。
「あと一日早ければ、天使信仰にかち合う事も、壊滅した街を見る事も、ましてやネフィリムに接触する事もなかっただろう」
「君は相変わらず、自分に厳しすぎる」
レイクは苦笑し、膝に肘をついてうつむいた。
「……あの子が、妹の事を覚えている事がわかったのは、三年ほど前でね」
ピクッと、ラインは眉間を寄せた。
「いや、それより前からも、何となくだが覚えているような素振りはあったんだが、確かめる事をためらってしまっていた」
「……そうだろうな」
「ある日、突然あの子が尋ねてきて、とっさに離れた場所で療養中だと言ってしまった。
それをどう思ったのか受け取ったのか……まさか探しに首都から出るまでするとは」
自嘲し、レイクは顔を上げてラインを見た。
「十年、何を見ていた、と君に責められても仕方ない」
「……いや」
肩を落として、ラインは持っていた長剣を抱えた。
鞘を撫で、目を細めて苦笑する。
「彼女もよく、俺が思いもしない飛び出し方をしていたよ」
「ライン君」
「トゥーシャは彼女の二、三倍は軽く超えてるけどな?ーーーまぁ」
ラインは剣を握りしめた。
「良かったと思う」
そう告げた瞬間、レイクは顔を歪めた。
悲しみを堪えるような、悔やむような、痛みを耐えるような。
目元の皺が深くなる。
「…………君の事は」
「覚えていないのは、知ってる。それも良かったと思ってる」
「いや、違う」
レイクは大きく首を振って否定した。
「幼い頃、誰かに助けられて背負われて、この屋敷まで来たと」
ラインは下を向いたまま、目を見開いた。
「はっきりとは覚えていないようで、『おうじさまに助けてもらった事がある』と」
「……おうじさま」
クッ、と低く笑う。
唇を噛む。
深く息を吸い込んで、吐く。
「子供にありがちな空想だ」
「しかし、それは」
「空想だ!」
この部屋に来て初めて、ラインは声を荒げた。
困惑するレイクを見据える。
「空想でいい。余計な事を思い出さなくて済む」
「……君は、本当にそれでいいのかい?」
「構わない」
断言し、レイクの目を真っ直ぐ見る。
「十年前から、俺はずっとそう決めている。
もし、またトゥーシャが何か言ったら、適当に流せばいい。いずれ忘れるだろうし、何とも思わなくなる」
「……そう、かな」
複雑な微苦笑で、レイクは肩を落として両手の指を合わせた。
「君は……今回、私が君に連絡しなかったら、ずっとあの子に会おうとはしなかったかい?」
「さぁ?」
剣の鞘を撫で、ラインはわずかに首を振った。
「時々、遠くから顔だけ眺めに来ていたかもしれない」
「それは、会うとは言わないだろう?」
「何があるかわからない」
剣から離した手で、目元に触れる。
「今は俺が預かっているとは言っても、聖女の力を持っていたのは彼女だ。
その証拠に、この剣を軽々と持てていたし、抜き身状態の剣の傍にいても、平気な顔をしていた」
肌に爪を立てる。
「……俺がどれだけ別人だと言い張っても、どうしたってその事実は変わらない。
いつ何が起きて、何がきっかけで、誰が勘付くかわからないならーーー」
数秒、瞼を閉じる。
息を吸い込み、目を開けてレイクを真っ直ぐ見る。
彼は今にも泣きそうな顔をしていた。
=======
廊下を、先ほどとは逆方向へ進む。
来た時とはこれも逆に、ナギはラインの後ろからついて来ていた。
静かな怒りを背中に受けていたが、ラインは気にせず早足で出口に向かっていた。
怒りは感じるが、ナギはそれを言葉にしないとわかっていたからだ。
玄関につき、ドアノブに手をかける。
その時だ。
パタパタと軽い足音が聞こえてきた。
まさか、と思わず手も足も止まってしまう。
だがすぐにハッとして、ラインは慌ててドアを開けた。
「ちょっと待って!」
飛び込んできた、思った通りの少女の声。
無視して行くべきだとわかっていた。
しかし情けないかな、彼には出来なかった。
顔だけ振り向く。
驚いた顔のナギの横を走り抜け、すぐ真後ろで息を切らしたトゥシャルレイが見上げてきていた。
「ねぇ、前に私のワガママを二つ聞いてくれるって、言ってたわよね?」
「……そうだな」
「じゃあ、妹のカレンデュラを探して!」
ーーー予想は、していた。
だが、いざこうして本人の口で、声で言われると、こうも衝撃を受けるものかと、ラインは自身に驚いた。
トゥシャルレイはナギを見た。
「それなら良いでしょ?私は家にいるんだから!」
「しかし、妹君は」
焦るナギに、ラインは片手で制した。
「この大陸の、どの地方のどの辺りにいるのか、何の情報もないのはわかってるよな?」
「難しいってだけで、無理じゃないでしょ?」
「お嬢様っ!」
ナギが慌てた声を上げる。
珍しかったのか、トゥシャルレイはキョトンとした顔をした。
「なに?」
「いえ……ですから、妹君の事は……」
苦々しく言い淀むナギに、ラインは吹き出しそうになった。
これだけの手練れであっても、この少女には敵わないのだと、可笑しくなってしまう。
それは自分にも当てはまるのかもしれないが。
「わかった」
「は?!おまっ……ライン・ウィスカニア、何を!」
「本当?」
非難の声を上げるナギを遮り、トゥシャルレイが喜ぶ。
「定期的に調査報告はする、期間は未定。それでいいなら」
「いい!」
間髪入れず。
これも予想出来た。
むしろ、予想通りすぎて笑いそうになる。
トゥシャルレイの背後で、ナギが絶句している。
ラインとトゥシャルレイを交互に何度も見ながら、何も言えない、しかし到底納得出来ないと言いたげにしていた。
ラインは、今度こそ開けたドアから足を踏み出した。
「ただの口約束じゃなく、依頼として受ける。後で依頼書を送るから、サインしておいてくれ。
ーーーじゃあな」
ヒラ、と手を振り、ラインは外へ出て扉を閉めた。
だから、トゥシャルレイは目にしなかった。
彼が、懐かしげに目を細めていたのを。
ただ、疑問には思った。
妹の事は、名前しか告げていないのに、と。
=========
クティルナード邸から足早に出たラインに、向かいの民家の屋根から見つけたディラルは違和感を覚えた。
庭から完全に敷地外に出た瞬間だ。
遠目に見ても、様子がおかしくなった。
肩を震わせ、ろくに前も見ずに走り出す。しかも、その足取りもどこか不安定だ。
一歩を軽く出したかと思えば、次には舗装された道路を砕く勢いで踏み込む。
ディラルは屋根から飛び降りて、ラインの後を追った。
すぐに追いつくーーーと思いきや。
「……【code:a0d2f2=CeLB】!」
「なっ……」
突如、ラインは重力操作の魔術を使い、ディラルの前から瞬時に消えた。
「何だ、一体!」
意識を集中して、ラインの魔力の痕跡を追う。
凄まじいスピードで、ぐんぐん離れている。
「【code:a0d8ef=skB】!」
ディラルは重力緩和の魔術を発動させ、ラインを追った。
単に素早く移動するだけならば、今ディラルが発動させた『重力緩和』で十分なはずだ。
だと言うのに、重力に作用する魔術の中でも高難易度の『重力操作』で、走る速度を上げ建物を飛び越え、一刻も早く離れようとしている。
何かあったに違いないが、何があったのか見当もつかない。
道行く人々は、何が横切ったのかさえ気付かない。
巡回馬車を飛び越えた時に、馬がふと顔を上げた程度だった。
「このまま行くと、首都境だぞ。あの馬鹿、まさか城壁を飛び越えて出る気じゃねぇだろうな?」
ディラルは小さく呟いた。
先の大戦で四国統一されて、元セレナーデ公国の首都がそのまま統一国の首都となった。
統一前の首都防衛の城壁は、そのまま都外との境となり、首都への出入りを監視・制限するものとなっている。
だからこそ、首都は統一国の中で最も治安が約束されている。
それを維持するため、入る時はもちろんのこと、出る時も審査が必要とされる。
無視すれば即、軍警察に捕縛され、罪になる。
「軍警に捕まるなんてしたら、師匠に殺されるぞ……!」
自分と弟の師匠の気性を思い出し、ディラルは追いかける速度を上げた。
それでも距離は詰まらない。なにせ、民家の壁をひと蹴りしただけで数百メートルも水平移動し、街灯の先端に着地と同時に次の建物を跳躍しているのだ。
人体へ悪影響が出るギリギリまで、自身にかかる重力を操作している。
トゥシャルレイを屋敷に送り届けたのだから、身を削るような事はしないだろうとタカをくくっていたが、甘かった。
「チッ……【code:a0d8ef=skB】!」
ディラルはやむなく、魔術を重ねがけした。
身体がより軽くなると同時に、息苦しさも増す。
奥歯を噛んでこらえ、ディラルは跳び続ける弟の背中を追いかけた。
ちょうど、またどこかを足場にして速度を上げようとしていたのだろう。それを逃さず、ディラルはその肩を捕らえた。
振り向いてくる真紅の瞳は、何の感情も映していない。
ディラルは掴んだ肩を握り締め、右の拳をラインの横っ面に叩き込んだ。
同時に、魔術を解除する。
途端に体にかかる、下へ引っ張られる通常の感覚。
派手な音を立て、狭い路地へ落下する。
無心で追っていたので、どれだけの高度から落下したのかはわからない。
だが少なくとも、アパルトマンの屋根を一つ越えたところだった。普通なら大怪我どころでは済まない。
それでも落下の衝撃は、ただ地面を転んだときよりも少なかった。殴られながらも、この弟は重力操作の魔術の解除をせず、掴んできた兄にも効果を広げていたのだろう。
その結果が、
抵抗もなく殴られ、汚れた地面に倒れながら、身も起こそうとすらせず乱れた呼吸で喉を鳴らし続ける姿だ。
「何、してんだ!テメェは!」
ディラルは今度は両手でラインの襟首を掴んで持ち上げた。
ラインは殴られた頬を気にも止めず、不規則な呼吸をしながら、胸元をまさぐった。
そこには、背中の長剣を固定するための太いベルトの留め金があった。それを親指でバチン!と外す。
長剣が地面に落ちる。
「……少しでも、離れなきゃ、ならなかった」
ラインは、掠れた声でようやく喋った。
だがディラルには何の事かわからない。
ラインはそれ以上説明せず、今度は剣が落ちた地面に手を這わせた。
剣を掴み、震えながら持ち上げる。
ディラルが襟首を掴んだまま何をするのかと見ていると、なんとラインは剣の柄にかじりついた。
「おい!何を」
ディラルが言い切るより早く、ラインはわずかに剣の鯉口を指で押し上げ、鞘と鍔との隙間を開けた。
覗いた刀身から魔力が漏れる。
が、それは苦しめるものではなかった。
「……“隔てて置きし 神代し恨めし″」
ラインが薄く開いた口からこぼした呪文。
それをトリガーに、ディラルはラインの全身に糸のようにまとわりつく魔力を察知出来た。
そして、それが弾け飛んで鞘の口に『戻る』のも。
「お前……」
ラインが剣を落とす。
片手で目元を隠す。
そして、血が滲みそうなほどに拳を握り、力任せに地面を殴った。
落ちて転がっていた瓶が砕ける。
それでも構わずに、ラインはその上に拳を振り下ろした。
何度も何度も。
その度に、ガラスの欠片が細かく飛散する。
抑えきれない衝動をぶつけて。
目元は隠されているが、口は激しい怒りを堪えるごとく食いしばっていた。
ディラルはラインから手を離した。
声を殺し続けながらも、傷付くのも構わず地面を殴る弟を見下ろす。
「……その『鞘』で、何を『封印』してた?」
掠れる声で、ディラルは聞いた。
この様子から、予測は出来たが、聞かずにはいられなかった。
瓶が、原型をとどめないほどに粉々になり、無数の欠片が痛々しく刺さった状態になって、ラインはやっと腕を止めた。
それでも地面に転がったまま、目元を隠したまま。
「……生存欲、安全欲、社会欲、承認欲……それと、感情の一部……」
「いつから?」
「……トゥーシャと会った日の、夜」
「どうりで」
納得と呆れを交え、ディラルはため息をついた。
「嬢ちゃんを前に、妙に落ち着いてられてると思ったら……そんで解除して、ソレかよ」
「……妹を、探してくれって、言われた」
「…………は……?」
ディラルは目を見開いた。
ラインは、先ほどよりかはいくらか落ち着いて見えているが、その内心はわからない。
だが少なくとも、血まみれの腕も気に留めず、奥歯を噛み締めているのはわかった。
「それでお前、どうしたんだ?」
「わかったって、答えた」
「はぁ!?お前っ……!」
「他に言えるか!!」
飛び上がるように起き、ラインは叫んだ。
抑えつけてきたものを爆発させるような叫びに、ディラルはたじろいで半身を引いてしまう。
怒り狂った獣のような息遣い。
ラインは、自分の額に爪を立て、どうにか落ち着かせようと努めた。
「……また勝手にどこか行かれるよりは、マシだ!ーーーそれに」
新しい傷だらけで血が流れる自分の腕を見ながら、ラインは呟いた。
「カレンデュラは、十年経った今も、見つかっていない」
「……ネフィリムに襲われたんだろ?遺体が見つからなくても、不思議じゃ」
「死んだ瞬間は、誰も見ていない」
ディラルの言葉を遮ったラインの目は、その腕から流れている血よりも紅かった。
「……わかってる。矛盾した事をしてるのは」
地面に、ボタリ、と落ちた血が紅の円を描く。
「自分で言ったばかりだったんだ。無闇に会わない方が良いって。
でも予想してても、あの目で、あの声で言われたら、わかったって答えてた。
……まだ、感情の『封印』はしてたってのに」
また一つ、血が落ちる。
刺さっていたガラスの欠片の一つが、ポロリと外れる。
「『封印』してた感情は、一部だったんだろ?対象外になっていたモンを、見事に動かされちまったってこった」
呆れて微苦笑を浮かべ、ディラルはラインの傷だらけの腕に手を当てた。
「【code: 」
「やらなくていい」
ラインの手が、緩く兄弟子の手を払う。
まだ刺さったままのガラス片を、無造作に抜いて捨ててゆく。
それでは繊維状になった細かい物は取りきれないだろうに。
しかし、止められたままディラルはそれ以上何もしなかった。
出来なかった、と言う方が正しいか。
しばらく、このままでいたい。
弟の顔は、口よりも雄弁にそう物語っていた。




