第9話: あと十八日の、夜
「……母上の、命日の茶会か」
母の命日をどう過ごすかは、オズワルドが自分で決めている。その日、屋敷のほうがどう動くのかは、決めた覚えも訊いた覚えもない。
控えの日付は、五年前の秋だった。差出はケンドル家。先代のころから毎年この時期に開かれる、身内のような集まりである。
妻の字は、断る、とは書いていない。
——当主はその日、領内の見回りに出ておりますゆえ。
嘘ではなかった。その日、オズワルドは朝いちばんに西の丘へ馬を出す。母が最後の夏を過ごした館の跡が、丘の中腹に残っている。供はつけない。屋敷へ戻るのは、日が落ちてからだった。
館は屋根が落ちていて、入れるのは玄関の枠までである。彼はそこに立って、母が最後の夏に見ていたはずの方角をしばらく見る。それだけの日だ。誰にも言わないので、誰も知らないものだと思っていた。
彼は箱へ手を戻した。今度は束の背を起こして、日付だけを追った。
ケンドル家の茶会は、毎年同じ日に開かれる。控えは、五通あった。
——屋根の葺き替えにかかっておりますゆえ。
——隣領との水路の見分がございまして。
——妹が熱を出しまして、離れられませんもので。
——収穫の割りの立ち会いがございますゆえ。
理由は五通とも違っていて、五通ともほんとうのことだった。母のことは、どこにも書いていない。
いちばん新しい一通は、紙がまだ白い。ひと月ほど前のものだ。その日も彼は西の丘へ行き、暗くなってから帰ってきて、湯を使って寝た。何も変わったところのない一日だったと、彼は覚えている。
オズワルドは五通を膝の上に並べ、日付の古い順に直そうとした。直しようがなかった。日付は、五通とも同じである。
いちばん古い一通を、彼はもう一度開いた。五年前の、妻の最初の秋の字である。細さは、今と変わらない。
扉が叩かれた。
「旦那様。書斎の火は、落としてよろしゅうございますか」
「バートン。……この家の帳面は、どこにある」
「帳面と申しますと」
「給金や薪や、そういうものを書いてあるものだ」
「奥様がお持ちでございます。今夜は月の締めでございますので」
「小部屋か」
「はい。厨房脇の」
オズワルドは五通を重ね、いちばん上の一通だけを持って立った。
廊下は冷えていた。階段を降りると、下から灯りと声が上がってくる。
明日の献立の話をしていた。
小部屋の卓には、五年ぶんの帳面が五冊のっている。
「奥様。明日の朝は、いつもので」
グレタが戸口で前掛けに手を拭いた。厨房の湯気を連れてくるので、この人が立つと扉のあたりだけ少し温かい。
「ヘンリエッタ様がいらっしゃるあいだは、お茶を濃いめにね。葉は多めでよろしくてよ」
「濃いめ。葉は多め。かしこまりました」
「お昼のお客様はございませんわ。夕餉は煮込みになさいな。骨は先に外しておいてちょうだい」
「骨は先に。……兎は、やめておきます?」
「そうね。叔母様は、骨の残るものをお召し上がりになりませんもの」
「では鶏で。骨を外して、煮込み」
グレタは言われたことを必ず声に出す。五年、それで注文を取り違えたことがない。
「プリムローズ様には、林檎を焼いて差し上げてくださいまし。皮は落とさずに」
「皮は落とさずに、焼き林檎。……奥様、市はほかに何が要りますでしょう」
「蝋燭が、あとひと箱でございましたわね。それから塩と、酢を」
「塩と、酢」
「塩は多めにね。冬は漬けるものが増えますでしょう」
「塩は多めに。……来月の市のぶんは、いつお決めになります」
「そちらは、目録に書いてございますわ」
「かしこまりました」
グレタは指を三本立てて、口の中で並べ直した。
「旦那様はお肉。ヘンリエッタ様は骨のないもの。お嬢様は甘いもの。……奥様は」
「わたくし?」
「……いえ。粉の話でございました。あとで伺います」
グレタは前掛けの端を握り直して、厨房のほうへ引っ込んだ。
卓には帳面のほかに二つ載っている。紐で綴じた調停書の束と、献上品の記録である。締めの晩は、いつもこの三つがいっぺんに卓へ出る。
扉が開いた。
「旦那様」
アメリアは椅子から立った。小部屋の椅子は二つで、もう一方はマーサのものである。朝の報告のときにしか使わない。
「どうぞ、そちらへ」
オズワルドは座らずに、持ってきた紙を卓へ置いた。折り目のついた控えだった。アメリアは表を見ずに、日付のところだけ見た。
「ケンドル様のお茶会ですわね」
「この日は、母の命日だ」
「はい」
「知っていて、断ったのか」
「はい」
「なぜ、言わなかった」
「申し上げるようなことではございませんもの。お屋敷の予定を組みますのは、女主人のお役目ですわ」
オズワルドは控えの端を指で押さえた。
「理由が、毎年違う」
「同じご理由を二度お出しいたしますと、はじめから伺う気がないと申しているのと同じですの。先様は、そういうところをよくご覧になりますわ」
「……五年、考えたのか」
「五通ですもの。一年に一度きりのことですわ」
「その日、私は」
「西の丘へお出になりますわね」
「見ていたのか」
「厩が、朝いちばんに馬を出しますもの。年に一度だけ、供をおつけにならない日がございますでしょう」
オズワルドは黙った。灯りの油が、小さく音を立てた。
「ですから、その日は夕餉の刻限を遅らせておりますの。日暮れの鐘から、ふたつ先の鐘までですわ」
「……ふたつ」
「お帰りが、そのくらいですもの。早くお出ししますと、冷めますでしょう」
返事の代わりに、廊下の奥で扉の閉まる音がした。バートンが、書斎の火を落としたのだ。
「五年で一度だけ、三つ先まで待った年がございましたわ。雨の年ですの。丘の下の道は、降るとぬかるみますから」
「知らなかった」
「お帰りになって、夕餉が出てまいりましたでしょう」
「……ああ」
「でしたら、間に合っておりますわ」
アメリアはペンを取って、書きかけの数の続きを一行足した。手が止まっていたぶんだけ、行の頭がすこし高くなった。
オズワルドは、卓の帳面のほうへ目を移した。
「それは」
「今月の締めですわ。もうすこしで終わりますの」
「……どのくらいかかる」
「三晩ですわ。合わないところが出ますと、四晩」
「毎月か」
「ええ。月の終わりの三晩は、ここにおりますの」
アメリアは下から二冊めを抜いて、開いたまま彼のほうへ滑らせた。三年前の秋の頁である。給金、食料、薪炭、蝋燭、馬糧、修繕。数の並んだいちばん下に、締めの署名がひとつ入っていた。
オズワルドは頁を戻した。前の月にも、その前の月にも、同じ字がある。紙の色だけが年ごとに褪せていた。
「これは」
「お家のことは、女主人が署名いたしますの。決まりでございますわ」
「私の名前は、この中にあるか」
「王庁へお出しするものだけですわ。今年は、炭の返書に一枚」
「ほかは」
「五年で、四枚ございましたわ。ご領地の境の書付が二枚と、軍役の届けが二枚ですの」
オズワルドは、次の帳面へは手を伸ばさなかった。かわりに、紐で綴じた束のほうを見た。アメリアが結び目をほどいてやると、調停書が五枚出た。いちばん上に、六枚めが重ねてある。
「これだけ、名前が入っていないな」
「来春のぶんですわ。人数と村の名だけ書いてございますの」
戻した紙は、束の上でわずかに斜めになった。
「こちらは」
「王庁と妃殿下へ差し上げたものの控えですわ。同じものを二年続けて差し上げるわけにまいりませんから、五年ぶん取ってございますの。三年前は温室の花、去年は蜂蜜ですわ」
戸口で、グレタが咳払いをした。
「奥様。申し訳ございません。粉が、明日の朝ぶんで底をつきます」
「では、明日の市で。二袋おとりなさいな。粗いのを一袋、細かいのを一袋ですわ」
「粗いのを一袋、細かいのを一袋。かしこまりました」
グレタは下がった。アメリアは帳面へ目を戻して、今月ぶんの数の続きを書いた。
オズワルドは、開いた頁から目を上げていなかった。
「この先は、書いていないな」
「来期の繰越の下書きですわ。毎年、秋のうちに作りますの」
「今年は」
「作りませんわ。来期は、満了より先ですもの」
「……次は、誰が書く」
「次にこの家の帳面をお持ちになる方ですわ。順は、引き継ぎの目録のうしろに書いてございますの」
オズワルドは頁の端に指をかけたまま、しばらく動かなかった。それから、その頁をめくった。乾いた音が、小部屋にひとつ立った。
「旦那様」
アメリアは五冊を重ね直して、いちばん上に手を置いた。
「お手が慣れますまでに、ひと月はかかりますわ。……あと十八日しか、ございませんでしょう」
「……何の話だ」
「明日から、ご自分の署名の練習をなさいませ。領地のぶんだけで、月に四十枚ございますの」
オズワルドは答えなかった。ランプの下で、自分の右手のほうを見ている。それから、その手を帳面へ戻した。
「……ここで読む」
「どうぞ。灯りは、こちらをお使いくださいまし」
アメリアは今月ぶんの締めに署名を入れ、砂を撒いて余分を落とした。ペンを置いて、椅子をもとの向きに直す。
「明日の朝は、いつもの時刻でよろしいかしら」
「……ああ」
「では、そのように」
灯りは小部屋へ残してきた。廊下は暗く、来たときより冷えている。
あの部屋の灯りは、五年、彼女が最後に消してきた。今夜は、消さずに出てきたことになる。
(旦那様、四十とお聞きになって、ずいぶん驚いておいででしたわ。……あれ、少ないほうですのに)
厨房のほうから、水を使う音がしている。グレタが声を張った。
「奥様。鶏の骨は、明日の朝に外しても間に合いますでしょうか」
「ええ。朝でよろしくてよ」
「朝に、骨。かしこまりました」
階段を上がりきると、書斎の扉の下は暗い。
下の小部屋は、まだ明るい。




