第10話: あと十五日
五年のあいだ、この家の朝食には紙の音があった。封を切る音と、束をめくる乾いた音。
今朝も、匙の音しかしない。
「おはよう」
卓の向こうで、オズワルドはもう座っていた。手紙の束は持ってきていない。今朝で三日めになる。
「おはようございます、旦那様」
アメリアは席について、帳面をいつもの位置へ置いた。この帳面をつけるのは、婚姻の契約が満了する日までである。卓の上には、ふたりぶんの茶と皿が出ている。
「今日は何をする」
この問いも、三日つづけて聞いている。
「午前に苗屋がまいりますわ。午後はプリムローズ様の仮縫いの直しが一度と、村へのお礼状が一通ですの」
「苗屋は何を決める」
「球根ですわ。秋の終わりに決めるものですのよ」
オズワルドは上着の内から紙を出して、卓の端で開いた。折り目が四つついている。
「……もう一度、はじめから頼む」
「あら。では、ゆっくり申しますわね」
アメリアは同じ順にもう一度言った。苗屋、仮縫い、礼状が一通。オズワルドは三つとも書き取った。書く手は、ずいぶん遅い。
(お手が、まだ紙に慣れておいでではありませんのね)
右手の指の脇にインクの跡がある。昨日は袖口にもついていた。
「ミセス・ダールに返事を書いた」
「まあ。もうお書きになりましたの」
「来年度も頼む、と」
「ようございましたわ。プリムローズ様がお喜びになりますわね」
オズワルドは紙をめくった。
「月謝は去年と同じでいいのか」
「冬のあいだは同じですわ。春からは倍になりますの」
「なぜ倍になる」
「ミセス・ダールは春から王都のお宿に詰めてくださいますでしょう。そのお宿代とお食事代が、月謝とは別に要りますの」
オズワルドは、書きかけの手を止めた。
「宿代が抜けている」
「では、書き足してお出しになるとよろしいわ。あちらは春の日取りをもう組んでおいでですもの」
「書き直す」
「そうなさいまし」
アメリアは茶を口へ運んだ。書き直しをさせたのは、五年で初めてである。
「薪屋にも返事をした」
「そこまでなさいましたのね。ホブスに」
「三枚で受けた。値は下がらなかった」
「木の出が遅れておりますもの。あれは不当ではございませんわ」
「夏は四車のままにした」
アメリアは茶碗を置いた。
「夏は三車でよろしいのですわ。プリムローズ様が王都においでですもの」
オズワルドは筆を止めた。
「そうだったな」
「お書き直しが、二通になりましたわね」
オズワルドは何も言わずに、紙の余白へ短い線を二本引いた。
「今朝はマーサの報告を聞いてもいいか」
「どうぞ。いつもこのあとすぐですの」
マーサは扉の外で待っていた。旦那様が卓についたままなのを見て一度足を止め、それから帳面を開いた。
「奥様、おはようございます。夜のうちに風がありましたよ。楓がとうとう落ちきりました」
アメリアは匙を置いた。
「存外、今年は早うございましたわね」
マーサの目が窓へ動いた。
「霜が早うございましたからねえ。雨樋はもう鳴りません」
マーサは帳面の次の行へ進んだ。
「薪の二度めの荷は暮れのうちに入るそうでございますよ」
「マーサ、では薪小屋の奥を空けておいてちょうだい」
「それから……奥様。書斎の蝋燭が、このところ早うございます」
書斎の蝋燭の数も、決めるのはアメリアである。
「ひと箱、足しておいてちょうだい。市は明後日ね」
「明後日でございます」
マーサは旦那様のほうを見て、それから奥様のほうを見た。報告のあいだに、二度そうした。
アメリアは帳面の角を揃えた。
(マーサ。お顔に出ておりましてよ)
マーサは帳面を閉じて、下がった。
「厨房の……グレタといったか」
アメリアは匙を持ち直して答えた。
「はい」
「あれはいつからいる」
「五年になりますわ。前の料理番が里へ下がりましたときに」
(わたくしと同じ年に来た人ですわ)
「旦那様のお誕生日の焼き菓子は、そのあいだずっとあの人が焼いておりますのよ」
オズワルドは書く手を止めて、アメリアの帳面を見た。
「満了はいつだ」
「あと十五日ですわ」
(あら。わたくし、自分の日数を申しましたわ)
オズワルドは紙のいちばん下に、その数だけを書いた。四つの折り目のうち、いちばん新しいものには癖がついていない。
廊下に出ると、朝の日が床の半分まで来ていた。
アメリアは窓のところで指を折った。更新をお断りした朝から十五日、残りも十五日である。
(ちょうど半分ですわね)
朝のうちに折るのは、これが初めてだった。夜まで待てなかったのだから、仕方がない。
苗屋のノリスは、午前のうちに来た。卓に袋をひとつ置く。指で押すと、中で乾いた音がした。
「水仙でございます。ためしの一袋で」
「あら、去年より粒がようございますわね」
「畑を替えましたので。去年のところは休ませることにいたしまして。……それで、来年の秋にお納めするぶんでございますが」
「ええ。そちらのお話でございましたわね」
「例年は水仙が百、チューリップが五十でございました」
オズワルドが口を開いた。今日は部屋の隅ではなく、卓のそばにいる。
「来年の秋に納めるものを、いま決めるのか」
「はい、旦那様。球根はご注文から一年ほど畑で太らせますので」
ノリスは袋の口を開いた。
「小さいまま出しますと、春に咲きませんのです。太らせた球根には、もう来年の花が入っておりますので」
オズワルドは、いま聞いたことをそのまま書き取った。書き終えても、筆を置かなかった。アメリアはその手元を見て言い足した。
「ですから、この紙は来年の秋のお約束になりますの」
「去年の紙は、いつ決めた」
「去年の、今ごろですわ」
「毎年この時期か」
「霜が三度おりましたら席次でしょう。そのつぎが樽で、球根はそのあとですわ」
アメリアは去年の写しを卓の上に置いた。
「わたくしの名前は、入れられませんわ」
ノリスは筆を持ったまま、旦那様のほうを見た。
「去年は奥様のお名前をいただきましたが」
「今年は、旦那様のお名前になりますわ」
ノリスは写しの上のほうを指でたどった。
「花壇のぶん、と書いてございますが。書き方は去年のままでよろしゅうございますか」
「ええ、そのままで結構ですわ。紙の名前を年ごとに変えますと、あとで束が揃いませんもの」
ノリスは頷いて、その行に印をつけた。オズワルドも、自分の紙に同じ一行を書き写した。花壇のぶん、と。
「数は去年と同じでいい」
オズワルドは背を起こして言った。ノリスが筆を持ち直す。
「では、紙にお名前を」
オズワルドは紙を見た。見てから、袋のほうを見た。
「明日、返事をする」
「かしこまりました。では明朝、もう一度伺います」
ノリスは袋を置いていった。売り物ではなく、見本だからである。
袋の口を縛る紐は、去年のものより新しい。畑を替えても、写しの数字は去年のままだった。
「今年のぶんは先月いただいておりますの」
アメリアは袋の口をたたみながら言った。
「いつ植える」
「今月のうちですわ。土が凍りますと、根が下りませんもの」
「誰が植える」
「わたくしですわ。植えはじめました年から、ずっと」
「そのあいだ、これはどこに置く」
「砂に埋めて、冷たいところに置いてございますわ。暖かいと袋の中で芽を出してしまいますの。出てしまいましたら、もう戻せませんわ」
オズワルドは、それも紙に足した。
昼を過ぎて、マーサが茶を運んできた。盆を置いて、下がらずに立っている。
「奥様」
「なあに」
「このところ、旦那様が」
「ええ」
マーサは前掛けの端を握って、離した。
「……いえ。差し出がましいことでございました」
「マーサ」
「はい」
「お台所のお湯は明日から二度で結構ですわ。洗い物の桶は、そのままでよろしくてよ」
「……かしこまりました」
マーサは盆を抱えて扉まで下がり、振り返った。
「奥様。球根は、今年もお植えになりますので」
「ええ。今月のうちに」
「来年の春は」
「咲きますわよ。ちゃんと」
マーサは何か言いかけて、頭を下げた。廊下で足が一度止まり、遠くなった。
夜の書斎には、引き継ぎの目録が出ていた。旦那様の手の下には、朝の紙もある。
卓の隅には、字の練習をした紙が伏せてあった。伏せ方は、まだ慣れていない。
バートンが暖炉に薪を足して、下がっていった。
オズワルドは目録の頁をめくって、厚みに指を当てた。
「この目録は」
オズワルドは指を離さない。
「一年ぶんでこの厚さか」
「ええ。書きはじめましたときは紙が二枚でしたのよ。日ごとに机へ来るお約束を足しておりましたら、こうなりましたの」
アメリアは卓の端で手を重ねた。ここからが、毎晩の決まりごとである。
「では旦那様、本日ぶんのご説明を」
オズワルドが頁から目を上げた。このところ、上げるのが早い。アメリアは今日の一件を挙げた。
「花壇の球根の発注が止まりましたわ。来年の秋にいただくぶんですの」
「昼に聞いた」
「はい。ご一緒でしたものね。……けれど、決まりですもの」
オズワルドは口の端をすこし動かした。笑ったのかもしれない。
「明日の返事だが」
朝の紙が、卓の上を滑ってきた。十五と書いた下に、昼のあいだに一行増えている。
「数は去年と同じでいい。花壇のぶんは、例年どおりに頼む」
字を目で追いながらの声だった。オズワルドは紙の端を押さえた。
「旦那様、それは三年前に枯れた花壇ですわ」
紙を押さえていた手が、止まった。
「……枯れた」
「楓が大きくなりまして、日が入らなくなりましたの。根が水を先に取ってしまいますでしょう」
「球根は、届いていたはずだ」
「ええ。三年とも、きちんと届いておりますわ。紙の上では、花壇はまだございますの」
「では、玄関の花は」
「厩の南の土手ですわ。日が当たりますもの」
オズワルドは椅子を引いて立った。上着は片袖しか通っていない。
「見てくる」
「お足元が暗うございますわ」
「すぐ戻る」
掛け金が鳴った。あの花壇に用のある者は、三年いない。
(花壇の縁をお探しになるなら、葉の下ですわ。今朝、落ちきったばかりですもの)
厩で馬が身じろぎをした。庭の奥で草を踏む音が、同じところで止まった。
空は昼から曇っている。曇った晩に、霜は降りない。
土は、朝までやわらかいままである。




