第11話: あと十三日
隣領と交わした紙に、ウェルズリー伯爵の名前は一枚も入っていない。五年ぶん、全部そうである。
今日そこへ、初めて名前が入る。
「奥様。ノーサムから、夜明けにお使いが参りました」
朝の廊下で、バートンが巻いた紙を差し出した。外の冷たさが、まだ紙に残っている。
「まあ。では、夜のうちにお発ちになりましたのね」
「ノーサム伯爵様が本日こちらへおいでになります。昼を少し過ぎるころかと」
「ご当主が、じかに」
「はい」
アメリアはその場で紙を開いた。用件は三行しかない。堰を直す人足の紙に、まだウェルズリーの署名が入っていないこと。春の彼岸までに石を運ぶには、村へ紙を回す日がもう幾日も残っていないこと。
「置いてまいりましたのが、霜のおりはじめのころでしたわね」
「さようでございます。あれきり、あの紙は動いておりませぬ」
「それから、ヨナスが台所に来ておりますでしょう」
バートンが目を上げた。
「……夜明け前から、勝手口に立っておりました。なぜ、お分かりでございますか」
「村がいちばん困りますもの。お茶を差し上げて。お昼もご一緒にね」
指図を受けに来たマーサは、帳面を開くより先に喋りはじめた。
「東のお客間でよろしゅうございますか。西はヘンリエッタ様がお使いでございますから」
アメリアは窓の外を見た。
「ええ、東で。あちらは煙が戻りますから、風を見て焚いてちょうだい」
マーサはそこで帳面を開いた。
「かしこまりました。夕餉は四人ぶんでございますね」
アメリアが頁を覗きこんだ。
「五人ぶんですわ。プリムローズ様もお出になりますもの」
マーサは四を五に直した。
「プリムローズ様がお喜びになりますよ。お客様が久しゅうございますから」
書斎の卓には、引き継ぎの目録が開いたままになっていた。頁の端が、この数日でずいぶん柔らかくなっている。
「旦那様。ノーサム伯爵様が、昼過ぎにおいでになりますわ」
「……こちらへか」
「堰の紙に、お名前が要りますの」
オズワルドは目録を閉じずに、指で頁を押さえた。
「私が書くのか」
「ええ。旦那様のお名前で出ますわ」
(お顔がすこし、明るくなりましたこと)
「昼までに、目録の水路のところを読んでおく」
「そうなさいまし。……五枚ございますから、お早めに」
レナードが着いたのは、昼の鐘のすこしあとだった。供はいない。
外套の肩がまだ乾いていない。手袋は川端で見たのと同じで、指の付け根だけ色が薄くなっている。
「急にお邪魔をいたしました」
「いいえ。お待ちしておりましたわ。お寒うございましたでしょう」
「川は霧でした」
小広間の卓には、ヨナスが持ってきた紙が一枚出ている。署名の欄はふたつあって、ノーサムの欄にはもう名前が入っていた。ウェルズリーの欄だけが、ずっと白いままだった。
オズワルドは目録を抱えて入ってきた。ヨナスが立ち上がって帽子を取る。
「かけてくれ」
ヨナスは腰を下ろし、帽子を膝に置いた。
「では、日取りから伺いますで」
オズワルドが目録の頁を開いた。
「雪解けの前、十日ほどだ。水が出れば流される」
ヨナスの膝の帽子が、すこし持ち上がった。
「へえ、さようで」
「まあ。よくご存じですわね」
オズワルドは目録を閉じた。すぐに、また同じ頁を開いた。
ヨナスは今度は卓の真ん中へ向けて言った。
「それで、石は。どちらから運びますで」
アメリアが引き取った。
「淵から上げますわ。三年前に落ちた石が、まだ底に十ばかり沈んでおりますの。二年前の夏に数えましたのよ」
ヨナスは膝の上で背を起こした。
「へえ。……あれ、まだ残っておりましたで」
「ウェルズリー伯」
レナードが自分の控えを卓に出し、伯爵のほうへ向けた。
「一つだけ、当家の控えと合いません。三年前の人足が、二十六と十四になっております」
オズワルドは数字を見た。去年の写しも見た。どちらにも、書いた者の説明はない。
「……なぜ、この年だけ違う」
ヨナスは膝の帽子を撫でている。誰も口を開かなかった。
「ノーサム様の橋が落ちた年ですわ」
アメリアが言うと、レナードが顔を上げた。
「三対二の割りで申せば、二十四と十六ですわ。あの年は村の手が二人、そちらへ取られましたでしょう。その二人ぶん、うちが多く出しましたの」
アメリアは自分の控えの端を揃えた。
「紙には、その年だけとは書いてございませんの。……書いておくべきでしたわ」
「奥様が覚えておいでなら、それで通りますで」
ヨナスは言ってから、自分で口を閉じた。
「わたくしがおりませんでも通りますように、引き継ぎの目録へ足しておきますわ」
レナードは控えを巻いた。
「十六と申し上げましたが、十四しか出せません。若い者が二人、王都へ出ました」
アメリアは指を二本立てた。
「では、始める日を三日早めてくださいまし。水の出ませんうちなら、水よけの手が要りませんわ。二人ぶん浮きますの」
レナードが眉を寄せた。
「泥が」
「ええ。三日早ければ、川床はまだ締まっておりますわ。ゆるんだ泥に置きますと、また沈みますもの」
ヨナスが膝の帽子を落とした。拾い上げて言う。
「それで足ります。石は三日ぶん先に上げておきますで」
アメリアは背筋を伸ばした。
「では、お名前を」
オズワルドがペンを取った。
書き終えるまでに、思ったより時間がかかった。字は大きい。五年ぶん白かった欄に、よく収まっていた。
アメリアは砂入れを卓の上で滑らせた。何も言わずに、伯爵の手のそばまで。
オズワルドはそれを見て、蓋を開けた。砂の落ちる音が、卓の上でひとしきり続いた。
ヨナスは紙を巻いた。
「奥様。石を上げる日は、村へいつ知らせましょうで」
ペンは、まだ旦那様の手にあった。
「明日の朝に、旦那様からお知らせがまいりますわ」
オズワルドはペンを置いた。ヨナスのほうへ体ごと向き直った。
「明日の朝に決めて出す」
「承りましたで」
ヨナスは紙を懐へ入れて、帽子を被り直した。
「村へは旦那様のお名前で紙が出た、と申しますで。……五年、奥様の紙が来たで人が出ておりましたで。いや。紙は紙で。名前が入っておれば、人は出ますで」
ヨナスは自分に向かって、二度頷いた。
勝手口の戸が鳴って、卓に残ったのはレナードの控えだけになった。
「もう一つ、伺わねばならないことが」
レナードは冷えた茶をひと息に飲んだ。ヨナスの用が済むまで手をつけずにいた。
「お淹れ直しいたしますわ」
「いえ。……来年度の水の割りのことです」
オズワルドが目録の頁を繰った。繰る手が、途中から速くなった。
「水の割りというのは」
「石ではなく、水そのもののお話ですわ。年の暮れに堰の水を測りますの。夏の水が引いていちばん低くなったところで、どちらの領が来年どれだけ引けるかが決まりますわ」
「今年も測るのだろう」
「ええ。……測りに出ますのが、年の暮れですわ」
オズワルドが頁から目を上げた。その顔へ、アメリアは言い足した。
「そのころ、わたくしはおりませんの」
レナードは何も言わずに、控えを紐で結んだ。
「では、来年度のぶんは当家からもう一度お伺いいたします」
「ええ」
「ウェルズリー伯。それまでに、どなたに伺えばよいかをお決めおきください」
「……分かった」
東の客間の火は、風を見て焚かせた。煙は戻らなかった。
廊下へ出て、アメリアは階段の踊り場に寄った。手すりの丸みが、五年で少し痩せている。
両手をひととおりたたんで、それからもう八本折った。宣告の朝から、一日に一本ずつである。婚姻の契約が切れるまでは、あと十三日になる。
(あら。今日のぶんのご説明が、まだですわ)
更新の書類は、初めに置かれた場所から動いていない。今夜はその脇に、目録が三冊ぶん積んである。
「では旦那様、本日ぶんのご説明を」
「ああ」
「本日止まりましたのは、来年度の水の割りですわ」
「……年の暮れの、測るというやつだな」
「はい。それだけですわ」
オズワルドは帳面に一行だけ書いた。ご説明は、ひと息で済んだ。
「水路のところは、五枚あった」
「ええ」
「明日、残りを読む」
「そうなさいまし。……礼拝堂のお席次は、字がこまかくなっておりますの」
扉が鳴って、バートンが顔を出した。
「旦那様。ノーサム伯爵様が、お目通りをお願いしたいと」
「通してくれ」
レナードは上着を着ていた。明朝は暗いうちに発つのだろう。卓の前まで来て、立ったままになった。
「夜分に失礼いたします。明朝は早く発ちますので、今のうちにと存じました」
「かけてください」
「いえ。すぐ済みます」
レナードは卓越しにオズワルドを見た。
「当家の話です。来年から、顧問をひとり置きます」
言葉を切って、彼は言い直した。
「……置きたいと、思っております」
「顧問」
「年に幾度か、水と人足のことで意見を伺う役です。報酬は当家で用意いたします。お受けになるかはご本人次第ですが、伯に先に申し上げておくのが筋かと存じます」
アメリアは帳面を胸に抱えた。次に何をすればよいか、思いつかなかった。
オズワルドが目録から手を離した。
「なぜ」
「当家の都合です。来年から、紙を交わす相手が変わりますので。変わったあと、誰に伺えばよいかを決めておきたい」
五年ぶんの紙のことも、今日の卓のことも、レナードは一度も口に出さなかった。
オズワルドは卓の上を目で探した。探すものは、何もなかった。
「顧問……妻を、ですか」
アメリアは、いつのまにか片方の足へ体を預けていた。
レナードは目をそらさずに答えた。
「いいえ。アメリア殿を、です」




