第12話: あと十一日
アメリアの寸法は、五年ぶん、おなじ一枚の紙に書き継がれている。丈も肩も袖も、年ごとに少しずつ動いた。
今年の行だけが、まだ白い。
「奥様。少々よろしゅうございますか」
厨房脇の小部屋の扉から、マーサが顔だけ入れた。手に革の巻き尺を提げている。
「あら。仕立ての方は、もうお帰りになって」
「はい。プリムローズ様も旦那様も、寸法はお済みでございます」
アメリアはペンを置いた。
「早うございましたのね」
「プリムローズ様が、じっとしておいででしたから。春の仮縫いのときは、三度も回っておしまいになりましたのに」
マーサは巻き尺を両手に持ち替えた。革の紐に、指の幅ほどの間隔で切れ込みが入っている。
「それが、お帰りぎわにこちらへ伺われまして。奥様のぶんの布を店に取り置いてあるが、どういたしましょうと」
「布」
マーサは中へ入って、扉を閉めた。
「毎年この時期に、あちらで先に押さえておかれるのだそうでございます。こちらから申し上げなくとも」
アメリアは書きかけの紙を伏せて、椅子を引いた。
「存じませんでしたわ。五年、そうしてくださっていたのね」
マーサの手が巻き尺の端で止まった。
「わたくしも、今日はじめて伺いました」
「まいりましょうか。衣装部屋ですわね」
衣装部屋の窓は南を向いていて、午前のうちだけ日が入る。布は日の当たらない奥の棚に寝かせてあるので、色が焼けない。
姿見の前に、プリムローズの仮縫いが掛かっていた。薄い青である。裾の縫い目に、白い糸で印が打ってある。
その隣に、去年の外套が掛かっていた。
「箱から出しておきました。毎年この日に、お直しを見ていただきますので」
アメリアは袖口を指で開いた。裏の縁が薄くなっている。
「よく持ちましたこと」
「三年、お直しだけで通しておいででございますから」
マーサはそこで、言葉の後ろを飲み込んだ。
窓の下の小机に、紙が三枚並べてある。旦那様のと、プリムローズのと、もう一枚。
プリムローズの紙は、数字が毎年跳ねていた。十二の年から十七の年まで、丈も肩も上へ上へと伸びている。
旦那様の紙は、五年おなじ数字だった。書き写す手間を惜しんで、去年の行に印だけ打ってある年もある。
三枚目には、五年ぶんの数字が上から並んでいた。丈、肩、袖、胴。年ごとにわずかに動いて、また戻っている。いちばん下の行には今日の日付だけが入って、そこから先は白いままだった。
「その紙は、そのままにしておいてちょうだい」
「……はい」
「布は、お返ししてくださいまし。取り置きのぶんだけ、お払いしてね」
マーサは巻き尺を椅子の背に掛けて、すぐにまた取った。
「お代は、こちらで持ちますので」
「ええ。押さえていただいたのは、こちらの都合ですもの」
「……奥様。五年とも、おなじ色でございましたよ」
「灰みの青ですわね。汚れが目立ちませんもの」
「プリムローズ様は、毎年お色が変わりますのに」
「あの方は伸びますもの。同じ色ですと、去年のものだとすぐ分かってしまいますわ」
マーサは外套の袖口を見た。
「……奥様のは、分かりませんでした」
「ええ。そう見えますように選んでおりますの」
マーサは何か言いかけて、外套のほうへ手を伸ばした。
「外套は、箱へお戻しして。虫よけを新しくしてちょうだい」
「お直しには、お出しになりませんので」
「今年は、よろしいの」
マーサは外套を畳んだ。袖の折り目をやり直してから箱に納めて、蓋を木の音を立てて閉めた。
「明日、巻き尺を取りにお使いが参るそうでございます」
「そう。お茶を差し上げてね。だいぶ寒うなりましたもの」
マーサが下がってから、アメリアは椅子の背の巻き尺に指を触れた。革が、五年ぶん柔らかくなっている。
(この紐のほうが、よほど働いておりますわね)
午後、アメリアの部屋の窓際には木箱がふたつ置いてある。蓋は開けたままである。
扉が二度鳴った。
「お義姉様。入ってもよろしくて」
「どうぞ」
プリムローズは片手で扉を押した。もう片方の手で、自分の肩を押さえている。
「わたし、寸法を取っていただきましたの。春より肩が広くなったんですって」
「まあ。姿勢がよくなりましたのね」
「そうかしら。……お義姉様のぶんは、ございませんでしたわ」
「ええ」
「ええ、って」
プリムローズは肩から手を離した。それから、窓際の箱に目を止めた。
「それ、なに」
「お荷物ですわ」
プリムローズは箱の前にしゃがんだ。膝の下で、床板が短く鳴る。
「本が四冊。櫛。お手紙の束。……これ、匙ですの」
「実家の台所のものですわ。母が使っておりましたの」
「削れておりますわ。こちら側だけ」
「右利きですと、そちらから減りますのよ」
プリムローズは匙を戻して、もう一方の箱を覗いた。
「あとは」
「これで、ほとんど終わりですわ」
プリムローズは膝をついたまま、箱の底のほうへ手を入れた。底板には、すぐ当たった。
「五年おいでになって、ふたつ」
「ええ。来たときと、同じ大きさですの」
箱の隅に、白い布の包みがある。プリムローズはそれを引き出して、結び目を解いた。
布には、青い糸で花が縫ってある。花びらが六枚あって、そのうち二枚が明らかに大きい。
プリムローズの耳が赤くなった。
「これ、捨ててくださいまし」
「いけませんわ。それは、わたくしのものですの」
「十二のときのですわ。目も当てられません」
「六枚のうち二枚が大きいところが、よろしいのよ」
「褒めておいでではないでしょう」
「褒めておりますわ。ふふ」
プリムローズは布を畳んで、箱の隅へ押し戻した。押し戻してから、指で皺を伸ばした。
「もう一枚、縫いますわ。いまのわたし、ずっと上手ですもの」
「楽しみにしておりますわ」
プリムローズは箱をもう一度見た。
「お義姉様。この家のものが、ひとつもございませんのね」
「持ってきたものと、いただいたものだけですわ」
「お皿の一枚くらい、お持ちになればよろしいのに」
「割れますもの。馬車は揺れますわ」
プリムローズは立ち上がって、裾を払った。
「箱、もうひとつお持ちしますわ。わたしの部屋に、使っていないのがありますの」
「そんなに入りませんわ」
「入れるんですの。これから」
扉が閉まって、廊下を走る足音が遠ざかっていった。走ってはいけませんと五年言い続けたけれど、今日は言わずにおいた。
アメリアは窓の桟に手を置いた。
指を折るのに、今日は両手が二度いった。ひととおり折って、開いて、また折る。宣告のあった朝を一本めにして、今日で二十本になる。婚姻の契約が切れるまでは、あと十一日になる。
両手が二度で埋まる日は、五年のあいだに一度もなかった。
書斎の卓には、更新の書類が置かれたままになっている。宣告のあった朝から、同じところである。
「では旦那様、本日ぶんのご説明を」
「ああ」
「本日止まりましたのは、冬のお召し物の新調ですわ」
「……冬のもの」
「仕立ては、ふた月かかりますの。裁って、縫って、仮縫いを直して。仕上がりますころには、わたくしはおりませんわ」
「布は」
「お返しいたしましたわ。取り置きのぶんだけ、お払いして」
「……そうか」
「プリムローズ様のぶんと旦那様のぶんは、年内に仕上がりますの。仮縫いの日だけ、あとでお知らせいたしますわ」
「分かった」
「ご説明は、それだけですわ」
オズワルドは手元の紙に一行書いた。ペンを置いて、その手を膝の上へ下ろした。
「……今夜、話がしたい」
「ただいまでは、いけませんの」
「あとで」
「では、こちらでお待ちしておりますわ」
「バートンに、灯りを足させる」
「はい」
オズワルドは卓の更新の書類を取り上げた。
書斎を出た足音が、階段の中ほどで途切れた。それから、上へ変わった。
アメリアは椅子に掛けて、卓の紙の角を揃えた。それから、水路の頁の残りを開いた。旦那様が明日読むと言っていた、いちばん字の細かいところである。
自分の部屋の机は小さい。手紙を三通も広げると、もう置くところがなくなる。
オズワルドは引き出しから、字の練習をした紙を出した。半分に折って、伏せてしまってあったものである。
まず練習の紙に、自分の名前を書いた。書き終わりが上がる。もう一度書いた。三度めで、行の終わりまで字の大きさが変わらなくなった。
更新の書類を開いた。文面は読まなかった。五年前に一度、読み合わせをしたきりである。
署名の欄がふたつ並んでいる。左が伯爵、右が伯爵夫人。
左の欄に、名前を書いた。書き終わるまでに、階下で重い足音が廊下をひとつ渡っていった。
書き終えてから、砂入れを探した。この部屋には無い。書斎では、書き終わるころには砂入れが手の横に来ていた。自分で取った覚えが、一度もない。オズワルドは紙を動かさずに、乾くのを待った。
右の欄は、白いままである。妻の字は細くて、行の終わりまで大きさが変わらない。ここに並ぶと、自分の字は大きすぎるだろうと思った。
待っているあいだ、上着の内の紙を出した。言いつけを書き取る紙である。いちばん下の数は、消しては書き直した跡の下で、十一になっていた。
十一日ある。
オズワルドは書類の端を持ち上げて、乾いたかどうかを確かめた。
それから椅子を引いて立った。
廊下は、階下の厨房の匂いがまだ残っていた。夜の遅い時刻に、その匂いがどこまで上がってくるものかを、彼は知らない。
書斎の扉の前に、バートンが立っていた。
オズワルドが近づくと、バートンの手が把手のほうへ動きかけた。五年、ずっとそうしてきた手である。
オズワルドは署名を終えた紙を持ち替えた。五年間、人に開けさせてきた扉へ、自分の手のほうが先に出た。




