第13話: あと十一日の、書斎
書斎の扉を、オズワルドは自分で開けた。五年間、一度もしなかったことだ。
アメリアは水路の頁から目を上げた。細かい字を追っていたので、目の先が扉のあたりで迷った。
「まあ。もうお済みになりまして」
オズワルドは扉のところで足を止めた。把手から手を離すのに、間があった。
「ああ」
バートンが灯りを持って、後ろから入ってきた。卓の端に据えて、芯をすこし出す。
部屋の隅の暗がりが、椅子ひとつぶん退いた。
「奥様。こちらでよろしゅうございますか」
「ええ。ありがとう」
バートンは灯りを、卓の紙から半歩ぶんずらした。字の上に影が落ちない置き方である。
五年で覚えた置き方だった。
バートンは扉の脇へ下がった。下がってよいと言われるまでは下がらない人である。
アメリアは水路の頁を閉じて、卓の左の端へ寄せた。
卓の隅が、今夜だけ空いている。宣告のあった朝から、そこには同じ書類が置かれたままだった。
埃がのるので、七日に一度、下だけ拭かせていた。
「お掛けになりまして」
「いや」
オズワルドは卓の向こうに立ったままだった。片手に、四つに折った紙がある。
もう片方の手には、折らずに持った白い紙が一枚あった。
オズワルドは卓の左の端を見た。
「それは、水路のか」
「ええ。旦那様が明日お読みになる頁ですわ」
「先に読むのか」
「先に読んでおきますと、お尋ねのときにすぐお出しできますでしょう」
束の上から三枚目に、細い紙片が挟んである。明日の頁の目印だった。
「……訊いたことがない」
「ええ。一度も」
棘のある言い方ではなかった。明日の天気を言うのと同じ声だった。
「それでも、お読みになる方がいらっしゃるかもしれませんもの。次の方が」
オズワルドは頁のほうへ手を出しかけて、やめた。
「話したいことがあった」
アメリアは膝の上で手を重ねた。伺う姿勢になる。
折ったほうの紙を、オズワルドは開いた。折り目が深い。何度も畳み直した紙の癖である。
「家庭教師の返事は、今朝出した」
「お早うございましたのね」
「宿代を足した。春から倍になるぶんだ」
「ミセス・ダールがお喜びになりますわ。ご自分からは言い出せない方ですから」
堰の紙に並んでいたのは、村の名と人足の数だった。アメリアが見たのは、数のほうである。
今夜の紙に並んでいるのは、人の名前ばかりだった。
「旦那様。お宿のほかに、お食事のぶんはお書きになりまして」
オズワルドが紙から目を上げた。それから、おなじ行へ目を戻した。
「王都のお宿は、朝と晩がついておりませんの。ミセス・ダールは春から夏まであちらですから、そのぶんが別に要りますわ」
「書いていない」
「では、あとで一筆お足しになればよろしいのよ。あの方は催促をなさいませんもの」
オズワルドは紙の余白に、爪で線を引いた。ペンは持っていない。
「薪屋には夏を三車で出した。石を上げる日も、あの翌朝に村へ出してある」
「では、ヨナスのところまでもう回っておりますのね」
「受けたと返しが来た」
オズワルドは、いま読んだ行を指で押さえたままでいる。
「席次の返事は、明日書く。字の細かいところは、二度読んだ」
「二度でお分かりになりまして」
「……三度だ」
アメリアは笑った。
(このごろは、伺うより先にお済みですわ)
「叔母上の日取りは、四つとも決めた」
「まあ。ありがとうございます」
「春と夏と、収穫のあとと年の暮れだ」
「収穫のあとは、もう過ぎておりますわ」
オズワルドは紙を見た。行を上から下まで、指でたどっている。
「……過ぎている」
「叔母様は、ひと月ぶんのお荷物でお泊まりですのよ。あれが収穫のあとのぶんですわ」
「では、三つか」
「三つですわ。……来年のぶんは、旦那様がお決めになりますでしょう」
オズワルドは紙を畳んで、上着の内へ戻した。戻してから、上着の上を一度おさえた。
「プリムが、昼に来た」
あの子が自分から兄のところへ行くのは、めずらしい。
「箱が二つだと言っていた。……五年で、二つだと」
「ええ。来たときと同じ大きさですわ」
「足りないだろう」
「足りますのよ。お皿は割れますでしょう。この家のものは、この家に置いてまいりますわ」
オズワルドは白い紙の縁を、親指で押さえた。押さえたところが、わずかに反る。
「妹に、箱をもう一つ持たせた」
灯りの芯が縮んで、卓の上の影が伸びた。
バートンが出てきて芯を出し、また下がった。誰も何も言わない。
「いらないと言われた。自分で持っていくそうだ」
「あの方は、ご自分でお決めになる年ですわ」
「物置の箱は、全部読んだ。三日かかった」
「灯りを、ずいぶんお使いになりましたのね」
オズワルドは答えなかった。
「お捨てになって構いませんのよ。出す先が、もうございませんもの」
「捨てない」
返事が、この夜でいちばん早かった。
「ではお好きになさいまし。あれは、ご夫妻のお名前で出ておりますもの」
「六十まで数えて、やめた。……いくつある」
「存じませんわ」
「書いた者が、知らないのか」
「一通ずつでしたもの。まとめて書いたことは、一度もございませんの」
「去年の秋の、ホルト家の狩りだが」
アメリアは頁の端から指を離した。
「水路の見分を口実にしてあった。……あの見分に出たのは」
「わたくしですわ」
オズワルドは、紙を持つ手を替えた。
「では、私はどこにいた」
「王都でございましょう。あの週は、三日お戻りになりませんでしたわ」
「覚えていない」
「ええ。覚えていらっしゃらなくて、よろしいのよ。……そのために、そう書きましたもの」
灯りの輪は、卓の隅までは届かない。空いたところだけが暗いままだった。
オズワルドは白い紙を持ったほうの手を、いちど下ろした。下ろして、また胸の高さへ戻した。
「満了のあとのことだが」
「はい」
「どこへ行く」
アメリアは灯りのほうを見た。芯が高い。すこし落としてから、答えた。
「まだ、決めておりませんの」
この家で決まっていないことなど、五年で一度もなかった。
オズワルドは、その返事を受け取りかねる顔をした。
「こういうのは五年ぶりですのよ。毎年この時分には、来年の春まで決まっておりましたでしょう」
「薪も席次も、樽のぶんまで。今年は、来月のことも決まっておりませんの」
「それは」
「思ったより、楽しゅうございますのよ」
言ってから、アメリアは自分でおかしくなった。
決まっていないことが楽しいなどと、この五年で一度も思ったことがない。
オズワルドは上着の胸へ手をやりかけて、やめた。
「手当のことだが」
アメリアは、頁の上に置いた手を動かさなかった。
「契約の額では、足りないだろう。足すつもりでいる」
「いいえ。契約のとおりで結構ですわ」
「なぜだ」
「そう書いてございますもの」
オズワルドは何か言いかけて、やめた。
「五年ぶん、きちんと頂戴しておりますわ。使わずに取っておきましたの。……あれで、したいことがございますの」
「なにを」
「ふふ。まだ、内緒ですわ」
オズワルドは、それ以上訊かなかった。
「人を、入れればいいのか」
「なんのことですの」
「この家のことだ。……いままで、していたことを」
アメリアは少し考えた。数えるまでもないことを、数えるふりをした。
「三人お雇いになれば、回りますわ。四人でしたら、ゆっくり回りますの」
「マーサに一人ですわ。厨房に一人。それから、お手紙の書ける方をお一人」
「その一人は、何を書く」
「いちばん要りますのは、断るほうですわ。お受けするほうは、どなたでも書けますもの」
オズワルドは卓の縁に、指を三本並べて置いた。
「四人がよろしいわ。三人ですと、どなたかが臥せった日に止まりますもの」
扉の脇の灯りで、バートンの手が止まった。油を見にいった手である。
油は足りている。足りているのを確かめたあとも、指は台の縁にかかったままだった。
その目が一度、卓の隅の空いたところへ動いた。それから、下を向いた。
「……三人か」
オズワルドは自分の手を見た。白い紙を持っているほうの手である。
「どこで探す」
「マーサがよく存じておりますわ。村の三軒先までお顔をご存じですのよ」
「明日の朝、お聞きになりまして」
オズワルドは口を開いて、そのまま閉じた。
階下で、戸がひとつ閉まった。厨房の者が最後に見て回る時刻である。
アメリアは待った。この人が言い終えるのを待ったことは、五年でたぶん一度もない。
用件はいつも一往復で済んだ。
(今夜は、二往復めですわね)
「お茶をお持たせいたしましょうか。夜更けでしたら、あたたかいものがよろしいわ」
「いや」
オズワルドは白い紙を、胸のあたりで一度立て直した。角が指の腹に当たっている。
「今夜のお話は、それだけですの」
「いや」
オズワルドが、卓のほうへ一歩出た。
卓の上に、更新の書類が置かれた。署名の欄がふたつ。片方は、もう埋まっている。
「署名を、してくれ」
言い終えてから、オズワルドは書類の位置を二度、直した。
アメリアは書類を手に取り、夫の署名を、初めて見るもののように眺めた。
「良い署名ですのね。わたくし、旦那様の字をきちんと見るのは、これが初めてですわ」
「……アメリア」
「五年の帳簿にも、水路の調停書にも、プリムローズ様の家庭教師の契約にも——署名は、ぜんぶわたくしのものですの。それから」
言葉を切って、アメリアは書類を卓に戻した。紙の角が、卓の縁とぴたりと平行だった。慌てた手では、こうは置けない。
「五年のあいだ、わたくしが何を伺っても、旦那様のお答えは同じでしたわ」
アメリアは、書類のほうを見たまま言った。夫が五年、そうしてきたのと同じように。
「——契約だから、ですの」
オズワルドの手が、書類の端を掴んだ。掴んで、それ以上どこへも動かせずにいた。
扉の脇で、家令のバートンが静かに息を吸った。
「恐れながら、旦那様。契約十二条により、更新の署名は満了の三十日前まで——期日は、十九日前に過ぎてございます」
時計が鳴った。誰も、止め方を知らない古い時計だった。オズワルドは書類を見た。自分の署名だけが乗った、もう何の効力もない紙を。
「……三十日前。あの朝か」
「はい。顔もお上げにならなかった、あの朝ですわ」
アメリアは立ち上がり、綺麗に一礼した。五年間、毎朝してきたのと同じ角度だった。ただ今夜は、顔を上げたとき、笑っていた。
「残り十一日、女主人の仕事は滞りなく。——それが、わたくしの最後の契約履行ですの」




