第8話: あと十八日
書斎の脇に、扉がひとつある。オズワルドは五年、そこを壁だと思っていた。
その壁が、夕方から鳴っていた。
同じ書付を三度読み返しても頭に入らないので、彼は立って廊下へ出た。物置の扉が開いている。中から灯りが漏れて、廊下には木箱が四つ並んでいた。
「旦那様」
使用人頭のマーサが箱の陰から立ち上がった。前掛けの膝が白くなっている。
「奥様のお言いつけで、こちらを空けておりますの」
「今日か」
「三日前に伺いましたので。……お邪魔でしたら、明日にいたしますが」
「いい」
オズワルドは扉から中を覗いた。思っていたより奥が深い。壁一面の棚に古い書付の束が押し込んであり、下の段には先代の狩りの道具と、蓋の割れた樽が積んである。蝋燭の燃え残りだけが、ひとつの箱にまとめてあった。
「……たいしたものは入っていないな」
「はい。ほとんど紙でございます」
マーサは笑って、束のひとつを持ち上げてみせた。埃が灯りの中を斜めに落ちていく。
「先代様のころの狩りの割りだの、二十年前の礼拝堂のお席次だの。そういうものばかりでございますよ。奥様は紙をお捨てになりませんから」
「捨てないのか」
「はい。……ですから、こんなに溜まりましてね」
マーサは束を元の段へ戻した。それから、廊下に並んだ箱のほうを見た。
箱は四つとも同じ大きさである。三つは蓋が平らに載っていた。いちばん端の一つだけ、蓋が斜めに浮いている。
「それは、こちらから出したものではございません」
「違うのか」
「奥様のお机の下にございましたものです。物置に空きができるから、こちらへ移すようにと言いつかりまして」
オズワルドはその箱の前にしゃがんだ。浮いた蓋を持ち上げると、押し込められていた紙が下から膨らんだ。
紙だった。折り目をつけた紙が、背表紙のように立てて詰めてある。詰めすぎて、真ん中の一列がわずかに反っていた。
「旦那様」
廊下の端から、バートンが灯りを持って歩いてきた。
「これは何だ」
「お断りの控えでございます」
「断り」
「お招きをお断りになりましたときの、お返事の控えでございます」
バートンは灯りをすこし上げた。オズワルドの手元へ、光が届く高さまで。
「奥様は一通も処分しておいでになりません。五年ぶん、そちらに入っております」
「五年ぶん」
「はい。お輿入れの年の暮れから、欠けている月はございません」
オズワルドは紙の厚みを指で撫でた。乾いた音が立って、いちばん端の一枚が指について、また戻った。
「なぜ残す」
「断り方には、家の格が出ますゆえ」
バートンは灯りを持つ手を替えなかった。
「同じ先様から次の年もお招きがございましたときに、前の年と同じご理由ではお出しできませぬ。どの年にどうお断りしたかは、控えておりませんと分かりませんので」
「……毎年、理由を変えるのか」
「先様の数だけ、変わります」
物置の中から、マーサが顔を出した。
「旦那様。奥様は、お断りのお返事だけはご自分でお書きになりますのよ」
「ほかは違うのか」
「お受けするほうのお返事は、わたくしどもが清書いたしますの。日にちとお名前を入れるだけでございますから。……お断りのほうは、そのつど書き起こしませんと」
「なぜだ」
「先様が、お気を悪くなさいますでしょう」
マーサはそれだけ言って、また奥へ引っ込んだ。箱の蓋を閉める音がする。バートンは動かない。灯りだけが、廊下の壁でわずかに揺れた。
「これを書斎へ」
「お運びいたします」
「いい」
オズワルドは箱を両手で抱えた。思っていたより重かった。膝で扉を押して書斎に入り、卓の上のものを横へ寄せる。
寄せたのは、宣告のあった朝から同じところに置いてある更新の書類だった。彼はそれを一度どけて、箱の置き場所を作り、どけた書類をまた元のところへ戻した。書けばいいものだ、と思ってから、卓の右手に戻した。
「灯りを置いていけ」
「はい」
扉が閉まってからも、オズワルドはしばらく箱を見ていた。
蓋は、載せても浮いた。
夜になって、アメリアはいつもの時刻に書斎の扉を叩いた。
「旦那様。よろしいかしら」
「ああ」
卓の上に箱が載っている。アメリアは扉のところで一度だけ足を止めて、それから中へ入った。
オズワルドが顔を上げた。読んでいた書付は、卓に伏せてある。
「では旦那様、本日ぶんのご説明を」
アメリアは手の紙を開いた。今夜は一行しか書いていない。
「本日は、葡萄酒の樽の予約ですわ」
「……樽」
「来年の春に届くぶんですの。押さえますのは今の時期ですけれど、樽が着きますのは雪の解けたあとですわ」
「……そうか」
「町の蔵は、秋のうちに来年の割りを決めてしまいますのよ。今年お約束しておきませんと、来年の春のぶんはよそのお家へ回りますわ」
「……分かった」
「ご説明は、それだけですわ」
「……叔母上の日取りは」
「まだ伺っておりませんわ」
「……ああ」
「お急ぎになることはございませんの。年内にお決めになれば、じゅうぶん間に合いますわ」
「年内か」
「ええ。年が明けてしまいますと、春のぶんの支度が立ちませんもの」
アメリアは紙を畳んだ。それから、卓の上の箱を見た。
「あら。物置、ご覧になりましたのね」
「……お前の机の下から出したと聞いた」
「ええ。わたくしのですわ」
アメリアは箱に手を伸ばして、浮いた蓋を指の腹で押した。蓋はすこし下がって、指を離すとまた元へ戻った。
「お捨てになって結構ですわ。五年、捨てそびれておりましたの」
「捨てるのか」
「もう、出す先がございませんもの」
「……何が書いてある」
「お断りの文句ですわ。それだけですの」
「五年ぶん、それだけか」
「ええ。同じことを、書き方だけ変えて」
オズワルドは箱の縁に手を置いた。置いてから、その手をどこへも動かさなかった。
「……まだ、いい」
「さようですか」
アメリアはそれ以上訊かなかった。訊けば、旦那様は答えなければならなくなる。
「では、ひとつだけお願いがございますわ」
「なんだ」
「お読みになるのでしたら、明るいところでなさってくださいまし。あの控えは、どれも字が細うございますの」
「……ああ」
「目を悪くなさいますわ。灯りは、お引き寄せになってよろしいのよ」
「分かった」
「では、おやすみなさいませ」
「ああ」
廊下へ出て、扉を閉めた。
突き当りの窓が細く開いていて、そこだけ空気が冷たい。アメリアは窓を閉めにいき、掛け金をおろした。石の桟に、指の跡が薄く残った。
そのまま、指を折った。
あと十八日。数がひとつずつ減っていくのは、この五年でいちばん楽しい数え方だった。
(明日には、十七になりますのね)
階段の下で、マーサが物置の灯りを消していく音がする。アメリアは手すりに手を置いて、二階へ上がった。
書斎の火が小さくなってから、オズワルドは箱の蓋を外した。
いちばん上の一通を抜く。折り目を開くと、紙が鳴った。
妻の字だった。細くて、行の終わりまで大きさの変わらない字である。
去年の秋、隣郡のホルト家からの狩りの招きに出した返事の控えだった。
——謹んでお受けいたしたく存じますが、あいにく当家はその週、隣領との水路の見分がございまして。
文はそこから、ホルト家の当主の齢を気遣う一行へ折れて、来年の実りの話で閉じてあった。断る、という言葉は、どこにも書いていない。
オズワルドは、見分、と書いてあるところへ目を戻した。
水路の見分に誰が出ているかを、彼は先日知ったばかりだ。妻が隣領まで馬車で行き、堰を見て、来春の人足の割りを決めてくる。日の暮れる前に帰ってきて、その晩のうちにこの部屋で報告をした。今年からその紙に妻の署名が入らないことも、そのとき聞いた。
断りの理由は、当家の用事になっている。
その用事をしていたのは、妻だ。
オズワルドは控えを戻した。戻してから、次の一通を抜いた。
数を数え始めたのは、そのあたりからだった。三十を過ぎたところで指の間隔が狂って、数え直した。六十まで数えて、やめた。箱の紙は、まだ半分も減っていない。
中ほどから抜いた一通は、三年前の音楽会の返事だった。控えの端に、届いた招きの宛名が小さく写してある。
——ウェルズリー伯爵夫人 アメリア様
返事の書き出しは、こうなっていた。
——ウェルズリー伯爵ならびに同伯爵夫人より、謹んで。
六日前の夜、彼は妃殿下の招きの札を裏返した。裏には何も書いていなかった。あの晩から、その札は更新の書類の上に載ったままになっている。
招きは妻の名前で来て、断りは夫婦の名前で出ていく。五年、そうなっていた。
オズワルドは控えを膝の上に置いたまま、火のほうを見た。薪が一度、崩れた。
この箱の中の招きを並べたら、五年ぶんの秋と冬が出てくるだろう。音楽会と、狩りと、茶会と、夜会。どれにも妻は行っていない。
妻がこの家の門を出た日を、オズワルドは思い出そうとした。
王宮の茶会が六日前。隣領の調停に、年に何度か。町の市と、礼拝堂。
全部、家の用だった。
門の外へ出るための用は、五年ぶんまとめて、この箱に入っていた。
オズワルドは箱の底に指を差し入れた。いちばん下の一通は、紙がほかより黄ばんでいる。折り目のところは、押すと粉のように白くなった。
妻がこの家へ来た年のものだ。彼女がこの家で最初に断った招きが、これになる。
オズワルドはそれを灯りに近づけた。
日付を読んで、指が止まった。




