第7話: あと二十一日の、扉口
「あら、けっこうなことだわ」
叔母のヘンリエッタは、この家でアメリアを「あなた」と呼ぶ。人前でだけ「伯爵夫人」になる。名前のほうは、五年ぶん使われずに残っていた。
声のほうは、五年ぶん聞いている。硬いのは、初めてだった。
扉は半分開いていた。廊下の燭台を背にして、叔母が立っている。旅の外套はもう脱いでいたが、手袋は嵌めたままだった。
「叔母様。いつからそこにいらしたの」
プリムローズが椅子から立ち上がった。
「あなたのお声は、廊下までよく通りますのよ」
叔母は部屋の中へは入ってこなかった。敷居の手前で足を止めたまま、寝台のほうへも鏡台のほうへも目をやらない。この部屋に入ったことがあるのかどうか、アメリアは知らなかった。
アメリアは櫛を卓へ置いた。歯のあいだに、赤みのある髪が一本だけ残っている。
「デビューをなさらない。……それを、十七のあなたがお決めになるの」
「わたしが出るのですもの。わたしが決めますわ」
「お出になるのはあなた。恥をおかきになるのは、ウェルズリー家ですわ」
プリムローズが息を吸った。次に出てくる言葉の見当は、ついている。
「叔母様」
アメリアが先に言った。
「そのお話は、下でお伺いいたしますわ。小広間の暖炉に、まだ火がございますの」
叔母はこちらを見た。それから廊下のほうへ体を向けた。
「ええ。そういたしましょう」
足音が遠ざかってから、プリムローズがアメリアの袖を掴んだ。
「お義姉様。わたし、さっきのは本当に」
「存じておりますわ」
「だって」
「今夜のことは、明日の朝のお話にいたしましょうね」
アメリアは櫛を取り上げて、残りの髪をひと梳きした。
「夜に決めたことは、たいてい朝までもちませんもの。……朝になっても同じことを仰るのでしたら、そのときは伺いますわ」
「もちますわ、わたし」
「では、明日の朝に伺いますわね」
プリムローズは口を尖らせて、それでも寝台のほうへ歩いていった。アメリアは蝋燭をひとつだけ残して、扉を閉めた。
小広間の暖炉は、薪が半分ほど灰になっていた。バートンが灯りを足して下がっていく。扉の閉まる音が、いつもより低かった。
叔母は暖炉に近い椅子に腰かけた。背は預けない。
「プリムローズに、なにをお教えになりましたの」
「扇の開き方と、手袋を外す順ですわ」
「デビューをやめると言い出すようなことを、お教えになったのかと伺っておりますのよ」
「あれは、あの方がご自分で仰いましたわ」
「十七の娘が、ひとりで思いつくことではありませんでしょう」
「思いつきますわ。十七は、こちらが見ているよりずっと遠くまでご覧になりますもの」
アメリアは卓の上の紙を引き寄せた。昼のうちに書きかけた、来年ぶんの覚え書きである。
「叔母様。せっかくお越しですから、来年の日取りのことを伺わせてくださいまし」
「春は、いつもの週で結構よ」
「その日取りは、今年はお決めできませんの」
椅子の肘掛けを、叔母の指が一度打った。
「……なんですって」
「春は満了より先ですもの。わたくしがお約束できますのは、満了の日までのぶんですわ」
叔母の来訪は、年に四度と決まっている。春と、夏と、収穫のあとと、年の暮れ。日取りを決めるのは、いつも秋である。決まれば西の部屋を空け、酒と菓子を町へ言いつけ、当日の献立と席次を組む。五年、その全部をアメリアが組んできた。
「わたくしがこの家へ来る日を、あなたがお止めになるの」
「止めてはおりませんわ。書けないだけですの」
「同じことですわね」
「旦那様がお決めになれば、そのとおりになりますのよ。……ご相談なさってくださいまし」
「オズワルドが、客の日取りを決めますの」
「お決めになれますわ。ご当主でいらっしゃいますもの」
「日取りさえ決まれば、あとは回りますでしょう」
「西のお部屋は、三日前から火を入れておきませんと壁が湿りますの。お酒は町へ十日前にお願いいたしませんと、あちらの蔵から出てまいりませんわ。お献立は、お着きの日と、翌日と、お発ちの朝で変えますのよ。……そういうものを、日取りから逆に数えて組みますの」
「そんなことは、使用人がいたしますわ」
「ええ。誰かが数を言いつければ、いたしますわ」
叔母は暖炉のほうへ目をやった。それから、思い出したように言った。
「プリムローズのお支度は、わたくしが引き受けますわ。後見をつとめますのは、わたくしですもの」
「ありがとうございます。では、書いてお渡しいたしますわね」
「なにをですの」
「仮縫いを直す日と、当日の門でのお名乗りの順ですわ。それから、妃殿下へのご挨拶のあとにどなたのお席へお回りになるか。お履き物を今から慣らしておくことも、書いておきますわね」
「……そんなものは、当日にどうにでもなりますわ」
「さようでございますか」
アメリアは、それ以上言わなかった。書いて渡すつもりだけは、そのままにしておいた。
叔母が手袋を外した。卓の上に置くと、革が乾いた音を立てた。指のところが二本、内側へ折れている。
「五年前、あなたのお家の証文は三枚ございましたわね」
「ええ」
「三枚とも、うちが引き受けましたわ。……お父上は、ずいぶんお早くお返事をくださいましたけれど」
「そうでしたわね」
「金で買われた腰掛けの分際で」
声は張らなかった。丁寧語のまま、そこだけが素だった。
(腰掛け、ですって。……まあ。五年目にして、やっとお席の名前を伺いましたわ)
腹は立たなかった。五年前のあの秋も、この人は同じ勘定でヴァンス家の応接に座っていた。証文が三枚、娘がひとり。数は合っている。
アメリアは、卓の上の手袋を見ていた。革の指は、まだ内側へ折れたままである。それから暖炉へ目をやった。薪は、もう半分ない。
「叔母様。お部屋にも火は入れてございますわ。こちらは、じきに落ちますの」
叔母は答えなかった。
廊下で足音がした。書斎のほうからである。
「叔母上」
オズワルドが扉のところに立っていた。上着は着ていない。
「……いま、なんと仰いました」
叔母は振り返らなかった。
「オズワルド。そのお話を持ってまいりましたのは、わたくしですよ」
「叔母上」
「五年ものあいだ、そのとおりになさったのはあなたでしょう」
オズワルドは一歩、部屋の中へ入った。それだけだった。
叔母の言葉は、もう言い終わっている。夫が扉を開けたのは、そのあとだった。
叔母はアメリアのほうへ向き直った。
「日取りだけ、お書きなさいな。腰掛けは、座っていてくださればそれでよろしいのよ」
五年前の秋に、同じ人が同じ声で言った。伯爵夫人のお席に、きちんと座っていてくださればそれで。
アメリアは椅子から立った。
「腰掛けは、五年も座りませんわ」
叔母が顔を上げた。
「……そろそろ、立たせていただきますの」
しばらく、誰も何も言わなかった。窓の外で、風が雨戸を一度鳴らした。
叔母は手袋を取り上げて、指を一本ずつ嵌め直した。
「……お部屋は、西でよろしかったかしら」
「ええ。お寝床には、あたためた石を入れてございますわ」
絹の裾が石を擦る音が、廊下の奥へ遠ざかっていった。
小広間には、オズワルドが残った。
「……叔母上には、明日、私から言う」
「ありがとうございます、旦那様」
(明日、ですのね)
「あれは、叔母上の言い方だ。私は——」
そこで止まった。続きは出てこなかった。
五年前の紙には、条件が三つ書いてあった。三つめを声に出して読み上げたのは、この人である。アメリアは、それを言わなかった。
「旦那様。お手をわずらわせるほどのことではございませんわ」
「……いや」
「叔母様のお日取りだけ、お決めくださいまし。それで話は済みますの」
「……日取りだな」
「ええ。春と、夏と、収穫のあとと、年の暮れ。四度ぶんですわ」
「……四度も、来ていたのか」
「五年、そうでしたわ」
オズワルドは頷いた。頷いてから、卓の上を一度見た。手袋はもう無くなっている。
「それから、旦那様。書斎の脇の物置を、近いうちに片づけさせていただきますわね」
「物置」
「五年ぶん、溜まっておりますの。次の方のお邪魔になりますもの」
「……何が入っている」
「たいしたものではございませんのよ」
アメリアは一礼して、小広間を出た。
(今日の指は、もう折ってしまいましたわ)
あと二十一日。今日はまだ、今日のままだった。
廊下では、バートンが灯りを持って待っていた。
「奥様。お茶をお持ちいたしましょうか」
「いいえ、結構よ。……バートン。旦那様をお呼びになったのは、あなたね」
「存じませんが」
「そう。……では、そういうことにいたしましょうね」
バートンは灯りを持ち替えた。
「西のお部屋は、明け方にもう一度薪を足してちょうだい。あちらは朝がいちばん冷えますもの」
「かしこまりました」
「朝のお茶は、葉を多めに。叔母様は濃いのがお好きですわ」
「はい」
「それから、お砂糖は新しいほうをお出しして」
「あの、飴色のでございますか」
「ええ。お客様用ですもの」
飴色の砂糖壺は、宣告のあった日の夕方に、マーサが町から提げて帰ってきたものである。欠けた前のものと、同じ窯のものを選ばせた。あれから客が来なかったので、まだ紙に包まれたまま棚に載っている。
明日の朝、それは西の部屋へ運ばれる。




