第6話: あと二十一日
デビューの支度は、二年前から始まっている。プリムローズ・ウェルズリーは、その二年ぶんをそばで全部見ていた。
「お義姉様。この靴、右のほうだけきついみたい」
衣装部屋の窓は南に向いていて、午前のうちだけ日が入る。壁際の衣桁には、春に着るものがもう掛かっていた。薄い青の絹に日が当たると、襞の奥だけ色が濃く沈む。仕上がったのはひと月前で、あとは当日、仮縫いのところを直せばいい。
プリムローズは絨毯に片足を伸ばして、爪先をこちらへ向けてみせた。靴も同じ色に染めさせてある。新しい革の匂いが、まだ強かった。
「まあ。では、それを春まで毎日お履きなさいな」
「毎日? お部屋でも?」
「お部屋でこそですわ。新しい革は、履いた人の足の形を覚えますのよ」
「覚えるの、靴が」
「ええ。当日にはじめて履くと、三曲めで泣くことになりますわ」
プリムローズは声を上げて笑って、それからあわてて口を押さえた。その笑い方は直しなさいと、この半年、教師に何度も言われている。
「手袋は、肘の上まででよろしいの」
「ええ。お食事のときだけ外しますのよ」
「外すの」
「最初のお席で一度だけ外して、また嵌めますの。ずっと外したままでいると、お行儀を知らないと思われますわ」
「面倒ね」
「面倒ですわね」
同意されるとは思っていなかったらしい。プリムローズは口を開けたまま、こちらを見た。
「当日の順は、覚えていらして」
「門で名前を読まれて、それから妃殿下にご挨拶。そのあとが、ご当家のお身内」
「よくできましたわ」
「叔母様のところね」
「ええ」
プリムローズは手袋を膝に置いて、指の先を合わせた。
「……お義姉様は、そのときどちらにいらっしゃるの」
「あら。門で名前を読まれるのは、あなたおひとりですわ」
「そうじゃなくて」
「存じておりますわ」
アメリアは髪飾りの箱の蓋を閉じて、卓の端へ寄せた。
「扇はお持ちになって。開いてごらんなさいな」
プリムローズが扇を開いた。開いてから、開きすぎたことに気づいて半分閉じる。
「肘をもう少し下へ。……そう。それで、お相手のお顔が見えますでしょう」
「見えますわ」
「見えているうちは、まだお喋りが続きますの。見えなくなったら、そこでおしまいですのよ」
プリムローズは扇の縁ごしに、しばらく窓のほうを見ていた。
「お義姉様。三日前のお茶会、妃殿下はなにを仰ったの」
「あなたのお衣装のお話をいたしましたわ。薄い青がいちばんお似合いだと申し上げましたの」
「わたしの話をしたの」
「ええ。向かいのお席の方が、もう十七におなりねと」
「……お兄様も、そこにいらしたのでしょう」
「おいでになりましたわ」
扇がもう一度開いた。今度は、開きすぎなかった。
「叔母様が、後見をなさりたいと妃殿下に申し上げたって」
「あら。どちらでお聞きになったの」
「マーサ。厨房では、みんな知っているわ」
「まあ。うちの厨房は、王宮よりお早いのね」
扉のところで、バートンが立ち止まった。
「奥様。仕立て屋が、明日の日取りを伺いにまいりましたが」
「明日はだめだわ。お義姉様は、礼拝堂のお席次のお返事をお書きになる日ですもの」
答えたのはプリムローズだった。バートンは銀盆を持ったまま、アメリアのほうを見た。
「……仰るとおりでございます」
「よくご存じですのね」
「だって、毎年そうですもの。霜が三度おりたらお席次で、そのつぎが樽で、そのつぎが球根だわ」
アメリアは、扇の縁に置いた手をそこで止めた。
「……ええ。そのとおりですわ」
昼を過ぎて、ミセス・ダールが来た。五年、プリムローズについている家庭教師である。作法と、王都で通じる言葉づかいと、字を教える。
小広間の椅子に浅く腰かけて、背は板を入れたようにまっすぐだった。この人が来た年から、プリムローズの字は右下がりの癖が消えている。持ってくる手提げの持ち手だけが、五年で色を変えていた。
「奥様。来年ぶんのお約束を、そろそろお決めいただければと存じます」
「ええ。冬のあいだのぶんは、いままでどおりにお願いいたしますわ」
「春からは王都のお宿に詰めることになります。お嬢様がお出になる季節はずっとお側におりませんと、間に合いませんので」
「そのお話は、今日はお受けできませんの」
ミセス・ダールは、膝の上の手を組み替えた。
「……どういうことでございましょう」
「来年の春からのお約束に、わたくしの名前を入れられませんのよ。旦那様にお決めいただきますわ」
「では、お返事はいつごろに」
「いつまでとお決めになるのは、そちらですわ」
ミセス・ダールはしばらく黙っていた。
「……年内には。ほかのお家からもお話をいただいておりますので、そう長くはお待たせできません」
窓際で、プリムローズが振り返った。
「ミセス・ダール。王都には、いらっしゃらないの」
「お嬢様。まだ、そう決まったわけではございません」
「でも、決まってもいないんでしょう」
「プリムローズ様」
アメリアは紙を引き寄せて、冬のあいだのぶんを書いた。週に三度、午前のうち。ここは五年、一度も動かしていない。
「ミセス・ダール。こちらは今までどおりですわ。それから、旦那様には今夜お伝えいたしますの。お返事は、旦那様から直に差し上げますわ」
「かしこまりました」
ミセス・ダールは紙を受け取って、日付のところをしばらく見ていた。
「五年、お嬢様を見てまいりました。……お嬢様には、なんとお伝えすればよろしいのでしょう」
「ご本人が、そこでお聞きになりましたわ」
ミセス・ダールが振り返った。プリムローズは窓の外を向いたままだった。
見送ってから、二人で庭へ出た。楓はもうあらかた落ちていて、踏むと乾いた音がする。
「お義姉様。春は、どちらにいらっしゃるの」
「実家に戻りますわ。ヴァンスの家に」
「あそこ、なんにも残っていないっておっしゃっていたわ」
「ええ。なんにも残っておりませんの」
アメリアは足元の葉を靴の先でよけた。
「……果樹園だけは、まだございますのよ」
「果樹園」
「林檎と洋梨ですわ。坂の上のほうにございますの。父が売りに出しましたけれど、遠くて手のかかる土地ですもの。買った方も持て余しておいでですって」
「じゃあ、取り返しにいらっしゃるのね」
「取り返すのではありませんの。買いますのよ」
プリムローズが立ち止まった。
「買う。……お義姉様が」
「ええ。お代を払って、紙を作って、そこに名前を書きますの」
「そんなお金、お持ちなの」
「あら。失礼な方ですこと」
アメリアが笑うと、プリムローズは首をすくめた。
「五年こちらでいただいたお手当を、使わずに置いてございますのよ。冬服も作りませんでしたでしょう」
「あれ、そのためだったの」
「半分はそうですわ。もう半分は、寸法を測られるのが好きではありませんの」
「お義姉様、そういうところがおありなのね」
「ふふ。内緒になさって」
坂の上の木のことなら、目をつぶっても順に言える。畑の脇の細い道を上がって、途中で一度折れて、折れたところから林檎が七本。その先が洋梨だった。十四の年まで、秋になると籠を提げてそこへ通っていた。
「洋梨のほうが木は古うございますの。実が小さくて、そのままでは市に出せませんのよ。ですから煮ますわ。砂糖と一緒に煮て、壺に詰めて、冬に売りますの。林檎はそのままでも売れますでしょう」
「もう決めていらっしゃるのね」
「……あら。決めておりましたわね、わたくし」
プリムローズは笑わずに、義姉の横顔を見ていた。
「五年のあいだ、この家の紙にはずいぶん名前を書きましたわ。帳簿にも、水路の調停書にも、あなたのお稽古の紙にも」
声の高さは、坂の話をしていたときのままだった。
「けれど、どれもこの家のものですの。……わたくしの名前で買うものは、あの果樹園が初めてになりますのよ」
プリムローズは何も言わなかった。落ち葉を一枚拾って、葉脈のところを指でなぞっている。
アメリアは手のなかで指を折った。今日で、両手がひととおり埋まる。
(あと二十一日)
二十一日たてば、あの坂を上って木の下まで歩いていける。実はもう落ちたあとだろうけれど、それでも構わなかった。
夕方、バートンが来た。
「奥様。ヘンリエッタ様がお着きでございます。今夜はお泊まりになるとのことで」
「あら。三日前に、そう伺っておりましたわ。西のお部屋をご用意して」
「もうお入りでございます。……お荷物が、ひと月ぶんほどございました」
「まあ」
(ひと月。満了より、少しだけ長うございますわね)
夜。
「本日のご報告に参りましたわ」
「……ああ」
「明日のお客さまはございませんわ。叔母様が、今夜からお泊まりでございます」
「叔母上が」
「ええ。お荷物が多うございましたから、しばらくおいでになるかと」
オズワルドは書付から目を上げなかった。
「では旦那様、本日ぶんのご説明を。……本日止まりましたのは、プリムローズ様のお稽古の来年ぶんのお約束ですわ」
「教師か」
「ミセス・ダールですわ。プリムローズ様が十二の年から、五年おいでですの」
書付をめくる手が、そこで止まった。
「……十二」
「ええ」
オズワルドは、それきり何も言わなかった。
「春から夏は、王都のお宿に詰めていただく約束ですの。デビューのあいだ、お側にいる方が要りますわ。……そこから先を、旦那様がお決めになりますのよ」
「いつまでに決める」
「年内に、と申しておりました。ほかのお家からもお話があるそうですわ」
「分かった」
「それから、旦那様」
アメリアは扉のほうへ半分向きかけて、戻った。
「プリムローズ様も、その場でお聞きになりましたの」
オズワルドが顔を上げた。
寝る前に、プリムローズの髪を梳く。五年、ほとんど毎晩そうしてきた。
この子の髪には赤みがあって、蝋燭の下では色がもう一段濃く出る。梳くと、耳のうしろのあたりで一度だけ跳ねる癖があった。十二の年にはもっと細くて、櫛の歯を通すのに三度かかった。いまは一度で通る。
「お義姉様」
「はい」
「ミセス・ダールは、春には来てくださらないのでしょう」
「旦那様がお決めになりますわ」
「お兄様は、決めないわ」
「あら。まあ、そうかもしれませんわね」
アメリアが笑っても、鏡の中のプリムローズは笑わなかった。
「わたし、お母様のお顔をもう覚えていないの」
櫛が、髪の途中で止まった。
「十二のときにお義姉様が来て、それから朝の髪も、お稽古も、お熱を出した晩も、ぜんぶお義姉様だったわ」
廊下で、絹の裾が石を擦る音がした。音は、扉の手前で止まった。
プリムローズは鏡の中のアメリアを見た。目をそらさなかった。
「わたし、ずっとお義姉様を母のように思っていたの」
それから、一度だけ息を吸った。
「お義姉様がいなくなるなら、わたし、デビューはいたしません」




