第5話: あと二十四日
招待状の宛名を、ウェルズリー伯爵は五年で一度も見ていない。見なくても、家は回っていたからだ。
「あなた。今日は、わたくしもご一緒いたしますわ」
まだ日の出ていない玄関前で、叔母のヘンリエッタが手袋の指を引き上げていた。石畳に霜がおりて、白く曇っている。
「叔母様。ようこそおいでくださいましたわ」
「妃殿下のお茶会ですもの。ウェルズリー家の顔が要りますでしょう」
「ええ。ですから今日は、旦那様にもおいでいただきますの」
手袋を引く手が、途中で止まった。
「オズワルドが」
「来年こちらの家のお名前でお茶をいただくのは、わたくしではございませんもの。今年のうちに、お顔をお見せになっておいたほうがよろしいのよ」
「顔なら、わたくしが五年ぶん立ててまいりましたわ」
「ええ。ありがとうございます」
アメリアはそう答えて、踏み台の位置を目で確かめた。叔母は先に乗り込んだ。
オズワルドが出てきたのは、それからすぐだった。外套の合わせを直しながら、馬車のほうを一度見る。
「王宮へ行くのだったな」
「はい。妃殿下のお茶会でございますわ」
王都までは、朝の暗いうちに発てば昼前に着く。窓の外は、しばらく霜の畑が続いた。
「旦那様。お茶の二杯めは、お断りになって結構ですわ」
「なぜだ」
「二杯めをいただくのは、その席に長くおりますという意味になりますの。あの広間では、みなさま次のお席へ移りたがりますから」
「……ほう」
「それから、妃殿下は花のお話をなさいますわ。あれはお困りごとを探しておいでですの。花で答えて差し上げれば、それで済みますのよ」
「探して、どうする」
「先に片づけて差し上げますの。あの方は、そういうやり方がお好きですわ」
オズワルドは窓のほうへ目を戻した。それきり返事はなかった。
(お茶を二杯めまで召し上がる方かどうか、わたくし、存じませんわ)
五年、同じ屋根の下で朝の卓を挟んできて、知らないことのほうが多い。おかしくなって、アメリアは膝の上で手を組み直した。
「叔母様。今日は、王庁のお達しではございませんのよ」
「存じておりますわ」
「妃殿下がご自分でお選びになった方だけをお呼びになる、内々のお茶会ですの」
「ええ。毎年、うちにいただいておりますもの」
叔母は窓の外を見たまま言った。アメリアは、それにも「ええ」と答えた。
袋から一枚の紙を出す。ひと月ほど前に届いた、招きの札である。
「旦那様。これを、お持ちくださいまし」
「私がか」
「門で取次にお渡しになりますの。旦那様がお出しになれば、それでよろしいのよ」
オズワルドは受け取って、上着の内へしまった。表を見なかった。
広間の入口で、取次の女官が手を差し出した。オズワルドが札を出した。
女官はそれを目の高さに上げて読み上げた。重さのない、名前を読むだけの声である。
「ウェルズリー伯爵夫人、アメリア様。……ご同伴、ウェルズリー伯爵様」
オズワルドの手が、上着の合わせのところで止まった。
六日前の朝、食堂で契約の写しが読み上げられたとき、この人は手紙をめくる手を止めなかった。今度は、止まった。
女官が名簿へ目を落とす。目が、一度だけ上がった。
「叔母も、ご一緒させていただきますわ」
アメリアが言うと、女官は札を返して道をあけた。
「かしこまりました、伯爵夫人。……伯爵様のお席は、夫人のお隣にご用意いたします」
五年前から同じところにある席のとなりに、今日だけ椅子がひとつ足された。
叔母はもう歩き出していて、広間の奥へ会釈を配っている。取次の声のほうを向いたのは、伯爵とその妻だけだった。
この五年、ウェルズリー家への招きは妻の名前で来ている。返事を書き、席次を直し、断りの文面を選んできたのが誰かを、この広間はとうに知っていた。知らずにいたのは、あの家の中だけである。
南に面した広間には、白い卓が三つ並んでいた。窓の外は刈り込みの庭で、霜が日にとけかけている。
焼き菓子が出た。ひと口食べて、アメリアは目を上げた。
(あら。レイフォードのもの——いえ、あの二軒隣のお店のに似ておりますわ)
王太子妃が入っていらしたのは、茶が二度めに注がれる前だった。みなが立ち、頭を下げる。妃殿下はまっすぐ、いちばん奥の卓へ来られた。
「アメリア。よく来てくださいましたわね。……そういえば、王庁が珍しがっておりましてよ。ウェルズリー家の受けの返書に、伯爵のお名前が入っていたと」
「今年は、旦那様のお名前でお受けいたしましたの。王庁のご下命でございますもの。当主のお名前のほうが、重うございましょう」
オズワルドが浅く頭を下げた。
例年の返書に誰の名前が入っていたかは、その場では誰も口にしなかった。
妃殿下は伯爵にも会釈をなさって、隣の卓へ移られた。手の扇は、開いたままゆっくり動いている。
妃殿下が離れると、待っていたように人が来た。
「夫人。礼拝堂の来年のお席のことですけれど」
「あちらのお家は、前へお出しになって。ご当主が春に叙勲をお受けですわ」
「まあ、そうでしたの」
「では、そのように書き添えておきますわね」
「夫人。祭りの寄進は、いかほどになさいます」
「昨年と同じで結構ですわ。ご心配でしたら、うちが先にお出ししますから」
「夫人。三年前の冬に、荷車をお回しくださいましたでしょう。あれで、うちの村は薪が切れずに済みましたのよ」
「まあ。覚えていてくださいましたのね」
「忘れませんわ。うちの人が、ウェルズリー家には返しきれないと申しますもの」
「では、返していただかなくて結構ですわ。どなたかがお困りのときに、そちらへ回して差し上げてくださいまし」
答えはどれも一行で済んだ。訊きに来る側も、それ以上を求めていない顔をしていた。
オズワルドは、卓から少し離れたところに立っていた。茶碗を持ったまま、口はつけていない。
「伯爵。来年の狩りの日取りは、いつごろになりましょう」
訊かれて、オズワルドは妻のほうを見た。
「来年のことは、旦那様がお決めになりますわ」
アメリアはそう言って、それきりだった。訊いた側は伯爵の返事を待った。返事は出てこなかった。
叔母の声が、卓の向こうから上がったのはそのときである。
「妃殿下。姪のプリムローズが、春にデビューいたしますのよ。後見は、わたくしがつとめますわ」
扇の動きは変わらなかった。妃殿下は答えずに、隣の卓のほうへ何かをお尋ねになった。
かわりに声を上げたのは、向かいに座っていた夫人である。
「まあ、プリムローズ様。もう十七におなりですのね」
「ええ。うすい青がいちばんお似合いですのよ。髪に赤みがございますから、目のあたりが明るく出ますの」
答えたのはアメリアだった。
「お衣装は、もうお決まりで」
「仕上がっておりますわ。当日、仮縫いを直すだけですの」
叔母は、その話には入ってこなかった。
(後見のお席は叔母様、お衣装はわたくし。それで、あの方は困りませんもの)
やがて妃殿下が、もう一度こちらの卓へ戻っていらした。
「では、冬のお茶会もね。今度はご夫妻でいらして」
広間の音が、少しだけ下がった。
「ありがたく存じますわ。……ですが、冬のお招きはお受けできませんの」
アメリアは茶碗を受け皿へ戻した。
「わたくしどもの婚姻の契約が、この秋のうちに満了いたしますの。冬は、その先でございますわ」
「満了ですって? では次の茶会は、あなたの新しいお名前でお呼びしましょうね」
卓のどこかで、匙が受け皿に触れた。
誰も、伯爵のほうを見なかった。
(旦那様の体面をお守りするのも、満了の日までのお役目でしたのに)
その役目だけ、たったいま自分でやめた。
叔母の手が、手袋の指を一本、引き直した。
オズワルドは、茶碗を持ったままだった。
帰りの馬車は、二人だけになった。叔母は王都に寄るところがあると言って、広間を出たところで別れた。別れぎわに、一度だけ振り返る。
「伯爵夫人。近いうちに、お屋敷へ伺いますわ」
「お待ちしておりますわ、叔母様」
車輪が石畳を離れて土の道に入ると、音が低くなった。オズワルドは窓の外を見ている。話しかけてはこない。
アメリアは膝の上で指を折った。七つめである。
(新しいお名前、ですって)
妃殿下の言い方を、口の形だけで真似てみた。それから、暮れかけた畑のほうへ目をやる。
(あと二十四日)
屋敷に戻ったのは、夜も更けてからだった。書斎には、まだ灯りが入っていた。
「本日のご報告に参りましたわ」
「……ああ」
「明日のお客さまはございませんわ。お屋敷まわりも、変わりございません」
報告を受ける人がその中身を自分の目で見てきた夜は、五年で初めてだった。それでも、順番は変えなかった。
「では旦那様、本日ぶんのご説明を。……本日止まりましたのは、冬のお茶会のご夫妻でのご出席ですわ」
「妃殿下の、お茶会か」
「ええ。冬は満了より先ですもの。ご夫妻でというお席には、もう出られませんの」
オズワルドは、卓の何も置かれていないところを見ていた。
「……今日の札は」
「こちらに」
アメリアは袋から出して、卓の上を滑らせた。オズワルドはそれを手に取った。
宛名は一行しかない。ウェルズリー伯爵夫人アメリア。伯爵の名前は、どこにも書かれていない。
「これは、いつからだ」
「五年前からですわ」
オズワルドは札を裏返した。裏には何も書いていない。
「お招きは、返事を書く人のところへまいりますのよ」
しばらくして、札は卓の上へ戻された。戻した先は、宣告の朝から動いていない更新の書類の上だった。
礼拝堂の来年の席次は、自室に戻ってから書き添えた。書き入れるたび、来年の春の広間が頭のなかに並んでいく。
(来年、この家のお席には、どなたがお座りになるのかしら)
王宮の広間では、今日だけ足された椅子が、もう片づけられている。




