第4話: あと二十五日
ウェルズリー家の冬は、毎年秋のうちに紙の上で終わっている。今年は、その紙が一枚だけ足りない。
「奥様、少しお待ちくださいましね。十四、十五——いま、途中でございますから」
薪小屋の前で、マーサが指を立てたまま振り向いた。積み上がった薪の山を、上から順に目で押さえている。
「あら。お邪魔をいたしましたわね」
「いえいえ。数えながらでも伺えますよ。……二十三車ございます。去年の今日より、二車ぶん多うございますね」
薪は荷車一台ぶんを一車と数える。割ったばかりのものは断面が白い。山の前を通ると、樹皮の湿った匂いがした。冬のあいだ、この匂いが屋敷じゅうの暖炉へ運ばれていく。
「まあ。去年の今日をよく覚えておいでね」
「帳面がございますから」
隣領から戻って二日になる。霜は毎朝おりるようになって、庭の楓はもう半分ほど落ちていた。
「そういえば奥様、薪屋がそろそろ参りますよ」
「ええ。今日でしたわね」
勝手口の石段の下に、帽子を取った男が立っていた。町で薪と炭を商っているホブスである。毎年、秋の終わりにこうしてやってくる。
「奥様、今年もお世話になります。来年ぶんのお話に参りました」
「ごきげんよう、ホブス。お上がりになって。マーサ、お茶をさしあげてちょうだい」
厨房の隅の卓に、去年の紙が広げられた。値と量と、荷を入れる月が並んでいる。
「例年どおりでよろしゅうございますか。冬のあいだが月に十四車、夏が四車。値は据え置きで押さえてまいりました」
「今年の冬のぶんは、それでお願いいたしますわ。いつもどおり、雪の前に半分入れてくださいまし」
「かしこまりました。では、来年ぶんの紙を」
「その紙は、今年はお作りになりませんの」
ホブスは、紙の上に置いた手をそのままにした。
「……と、申しますと」
「来年一年ぶんのお約束を、今年はお受けできませんのよ。来年の紙に、わたくしの名前を入れられませんの」
「値を決めておきませんと、春の相場で買うことになりますで。春の薪は高うございます」
「ええ、存じておりますわ。ですから毎年、秋のうちに決めておりましたの」
「では、どなた様のお名前で」
「旦那様か、次の女主人と、お決めくださいまし」
ホブスは手のなかの帽子を、一度持ち替えた。
「……次の、でございますか」
「ええ。それより、今年の冬のぶんをきちんと決めてしまいましょうね」
アメリアは紙を引き寄せた。
「去年は雪が遅うございましたから、二度めの荷が年明けになりましたわね。今年は初霜が十日早うございますの。二度めを、暮れのうちに入れてくださいまし」
「はあ。……よく覚えておいでで」
「それから楢と橅を、去年と同じ割りでね。橅は火の立ちが早うございますから、朝の竈はそちらで焚きますのよ」
「承知いたしました」
ホブスが書きつける手より、アメリアの言うほうが早かった。
湯気の向こうから、料理番のグレタが顔を出した。手はまな板の上で動いたままである。
「奥様、ちょうどようございました。冬の洗い物の湯のことでして。去年と同じにいたしますと、釜がひとつ足りませんで」
「洗濯の日を、冬は五日に一度になさいな。そのかわり、湯殿のお湯を洗い物に回してくださいまし」
「湯殿は、それでよろしいので」
「旦那様のお客のない日は、湯殿を立てませんもの」
「なるほどねえ」
「では奥様、桶はいくつにいたしましょう」
マーサが帳面を開いた。
「洗濯の日は十二、それ以外は朝に八つと夕に六つ。井戸が凍りましたら、朝を十にお増やしなさいな。夕は四つで足りますわ」
「……奥様、もう一度お願いできますか」
「洗濯の日は十二、それ以外は朝に八つと夕に六つ」
マーサの手が追いつくまで、アメリアは待った。
「これで、冬は回りますわ」
「はい。来年も、このようにいたしましょうね」
「来年のことは、来年の方がお決めになりますわ」
マーサは帳面から目を上げた。上げたまま、次の言葉が出てこないようだった。
階段の上のほうで、バートンの声がした。
「——奥様は、厨房においででございます」
少し間があった。
「厨房は、この屋敷のどのあたりだ」
まな板を叩いていた音が、そこで止まった。
石の段を降りてくる足音は、途中で一度止まった。低い梁に気づいたのだろう。
厨房の入口に、オズワルドが立った。使用人が七人、いっせいに立ち上がって頭を下げた。誰も声を出さなかった。竈で薪が一度はぜた。
梁は低く、石の床は水で黒く濡れている。吊るした鍋のあいだから湯気がのぼって、玉葱と獣脂の匂いが立っていた。上の階には、この匂いは届かない。
「旦那様。どうなさいましたの」
「バートンが、薪の紙のことを言いに来た。……ここか」
「ええ。厨房でございますわ」
オズワルドは、天井から吊るした鍋のほうを一度見た。
「私が署名すればいいのか」
「お書きになれますわ。年ぶんの紙は家の内の紙ですから、当主のお名前でも通りますの」
「では、書こう」
「旦那様。値と量をお決めいただかないと、紙になりませんで」
ホブスが紙を差し出した。オズワルドはそれを卓の上で見た。
「去年は、いくらだった」
「一車で銀貨二枚と半分でございます」
「では、それでいい」
「今年は木が高うなっておりますで、その値では請けられませんので」
「……いくらだ」
「三枚で、どうかと」
オズワルドは答えなかった。
「旦那様。三枚は、高うございませんわ」
アメリアは横から言った。
「この秋は橋の普請で木の出が遅れておりますの。町も、隣の郡も同じくらいですわ。ただ、値だけでは紙になりませんのよ。量を先にお決めくださいまし」
「量は」
「去年は冬が月に十四車、夏が四車ですわ」
「では、それでいい」
「よろしいのですか」
「何がだ」
「来年の夏は、プリムローズ様がこちらにいらっしゃいませんわ。デビューのあとは、王都でお過ごしになる日が長うなりますもの。夏に四車では、多うございますの」
オズワルドは、紙をしばらく見ていた。
「……追って、知らせる」
「かしこまりました」
ホブスが帽子をかぶり直した。
「では、今年の冬のぶんだけ入れさせていただきます。……奥様。来年も、どうかうちにお願いしますで。五年、一度も値でもめたことがございませんで」
答えたのは、オズワルドだった。
「妻は、来年この家にいない。契約だから」
悪いことを言った顔ではなかった。天気の話をするのと同じ調子だった。
厨房の者は、みな床のほうを見ていた。五年、この家の下の階で彼女の去就が声になったことはない。
鍋の湯が、ひとつ鳴った。ほかの音はしなかった。
ホブスは帽子の縁を握ったまま、アメリアのほうを見た。アメリアは、五年間毎朝しているのと同じ角度で頭を下げた。
「今年の冬も、よろしくお願いいたしますわ」
オズワルドが階段を上がっていくあいだ、厨房では誰も口をきかなかった。足音が上の廊下へ抜けてから、まな板の音が戻った。
午後、アメリアは冬のぶんの割りを紙に書いた。薪の入る日と湯を立てる日、桶の数、井戸が凍った日の手順を順に並べた。書いてしまえば、二枚で足りた。
(五年で覚えたものが、二枚ですわ)
書き終えて、指を折った。今日で六つめになる。
(あと二十五日)
来年のいまごろ、自分がどこかの家の薪を数えていないことだけは確かだった。そう思うと、紙の角を揃える手つきまで軽くなる。
書いた二枚は、明日マーサへ渡すぶんとして帳面のあいだに挟んだ。棚には五年ぶんの手控えが、一年に一冊ずつ並んでいる。背の厚みだけが、年ごとにすこしずつ違っていた。
夜。書斎の暖炉に、今年になって初めて火が入っていた。
「本日のご報告に参りましたわ」
「入ってくれ」
「明日のお客さまはございませんわ。お屋敷まわりも変わりございません。王庁への返書は、今朝の便でお納めいたしましたわ」
「そうか」
「では旦那様、本日ぶんのご説明を。……本日止まりましたのは、冬の薪の年間契約ですわ」
「今年の薪は、入るのだろう」
「ええ。今年の冬のぶんは入りますわ。来年からのぶんが、決まっておりませんの」
オズワルドは書付の端に指をかけた。かけたまま、めくらなかった。
「あの下は、いつもああなのか」
「あの下、と申しますと」
「厨房だ。あれだけ人がいるのか」
「十一人でございますわ。冬は洗濯女がひとり増えますから、十二人になりますの」
「……そうか」
それきりだった。アメリアは一礼して廊下へ出た。扉の閉まる音は、いつもと同じ高さだった。
夜更けに厨房へ降りると、灯りがひとつだけ残っていた。竈の火は落としてあって、灰の奥に熾火だけが赤い。昼の湯気が引いたあとの厨房は、石の床から冷えが上がってくる。
マーサが卓の前に座って、帳面を開いている。前には桶が三つ、空のまま並べてあった。
「あら。まだ起きておいででしたのね」
「奥様。……申し訳ございません。ちょっと、数が合いませんで」
「なにをお数えですの」
「来年の冬の、水でございます」
マーサは帳面を指でたどった。指はいくども行き来して、どこにも止まらなかった。
「洗濯の日が五日に一度で、湯殿は客のある日だけ。井戸が凍ったら朝を十に増やす。夕は四つに減らす。……ここまでは、書き取りましてございます」
「よく書けておりますわ」
「けれど、来年の洗濯の日がいつになるのか、わたくしには分かりませんので」
マーサは桶をひとつ、卓の端へ寄せた。
「薪が月に何車入るのかが決まりませんと、湯を何度立てるのかが分かりませんで。湯が分かりませんと、その先が組めませんので」
寄せた桶の底が、卓の板を鳴らした。
「奥様が数えてくださらないと、この家は水も数えられません」
「まあ。それは困りましたわね」
「困りますよ」
「では、今年の冬のぶんは全部書いて差し上げますわ。来年のぶんは、数の出し方だけ書いておきましょう。出し方が分かれば、どなたでもお出しになれますもの」
「奥様がお出しになるのと、同じにはなりませんよ」
「同じでなくてよろしいのよ。動けば、それで」
マーサは何か言いかけて、やめた。それから灯りを吹き消して、桶を卓の下へ戻した。
三つとも、まだ空のままだった。




