第3話: あと二十七日
隣領の当主とは、五年で十七枚の紙を交わした。夫とは、一枚だけ。それも、もうすぐ切れる。
引き継ぎの目録のいちばん上に書いた行が、いちばん先に順番を回してきた。
「奥様。橋を渡りましたら、もうノーサムの領内でございます」
「早かったこと。宿を出てから、鐘ひとつも経っておりませんわね」
「昨日のうちに、半分まで参っておきましたので」
バートンは膝の上で控えの束を押さえていた。五年ぶんの水路の調停書と、去年の人足の割り当ての写しである。
窓の外はまだ霧だった。川面から立った白いものが土手までのぼって、水鳥が二羽、その中に消えた。
「堰の普請は、雪解けの前に済ませねばなりませんな」
「ええ。ですから秋のうちに、来春の人足を何人ずつ出すかを決めますの。両家の署名で紙を一枚こしらえますわ。それを村の者に見せて、はじめて人が動きますのよ」
「毎年、奥様のお仕事でございました」
「今年は、そこを決めずに帰りますわ」
バートンの手が、束の上で止まった。
「来春は、満了より先ですもの」
「……さようでございますな」
家令はそれきり何も言わずに、束の紐を結び直した。結び目を作るのに、いつもの倍ほど時間がかかっていた。
堰は川の中ほどに横たわっている。石を積んで杭で押さえた古いもので、どちらの領がどれだけ水を引けるかは、この杭の並びで決まる。並びを決める紙には、五年、アメリアの名前が入っていた。
岸で人足頭のヨナスが待っていた。膝まで泥がはねている。
「奥様、今年もお運びで。おはようございます」
「ごきげんよう、ヨナス。ずいぶん冷えますのね」
「川はもう冬でございます」
ヨナスの吐く息が白い。水より、濡れた土の匂いが強かった。
「右岸が傷んだと伺いましたわ」
「去年の増水で、杭が三本抜けましてね。抜けたあとの土がゆるんでおりますで、来春は積み直しになります」
「三十人では足りないかしら」
「四十は要ります」
「うちから二十四人、ノーサム様から十六人ですわね」
ヨナスが顔を上げた。
「……もう、お出しになりましたか」
「去年の割りが三対二でしたもの。書付にそう残っておりますわ」
アメリアは束から一枚を抜いて、風で飛ばないよう小石を載せた。去年の秋に自分で書いた紙である。
「相変わらず、お早いことで。うちの村じゃ、奥様は数の見える方だと言われております」
「あら。去年のものを持ってきただけですわ」
橋の向こうから、馬が二頭来た。
「ウェルズリー伯爵夫人」
馬を下りたのは背の高い男だった。外套に飾りがなく、手袋も泥のはねた古いものを使っている。買えないのではなく、まだ使えるものを替える理由が思いつかないのだろう。隣領の当主、ノーサム伯爵レナードである。
「ノーサム伯爵様。ごきげんよう」
「よくお運びくださった。……これを」
差し出されたのは、紙で包んだ菓子の箱だった。
「毎年、お心遣いをありがとうございます」
「レイフォードのものです。領内でいちばん古い菓子屋ですので」
「……ええ。存じておりますわ」
(レイフォードは、その二軒隣ですのに。……五年、申し上げそびれておりますわ)
箱をバートンに預けて、アメリアは川端の小屋へ歩いた。
小屋は板を立てただけの掘っ立てで、隙間から川の音が入ってくる。
「去年の割りは、三対二でした」
「ええ。今年は四十人ですから、二十四と十六」
「根拠を伺っても」
「右岸の杭が三本抜けておりますの。土がゆるんでおりますから、積み直しになりますわ。石を運ぶ手が去年より要りますの。それで四十人ですわ」
レナードは書付の数字の列を、指で上から順にたどっていた。
「わかりました。うちは十六出します」
「では——」
ヨナスがペンに手を伸ばした。
「いえ」
アメリアはその手を止めなかった。ただ、自分がペンを取らなかった。
「来春の割り当てには、わたくしの署名を入れられませんの」
ペンの先が、紙の上で止まった。
「……どういうことでございます、奥様」
「そのままの意味ですわ。来年の水は、来年の方がお分けになりますの」
ヨナスは口を開けたまま、レナードのほうを見た。レナードは紙から目を離さない。数字をたどっていた指が、途中で止まったままになっている。
「署名者が変わる、ということですか」
「ええ」
「ウェルズリー伯のご署名になりますか」
「そうなりますわ。……あるいは、次の女主人の」
小屋の中の音が、ひとつぶん減った。
「割りの案は、置いてまいります」
アメリアは、書きかけの紙をヨナスのほうへ向けた。
「人数も村の名も、去年と同じ形にしてございますの。紙にする方がお決まりになりましたら、そのとおりになさればよろしいのよ」
「奥様。紙になっておりませんと、人は出ませんで」
「ええ、存じておりますわ」
「うちの村は、春の彼岸までに石を運ばんと間に合いません」
「ですから、なるべくお早くお決めいただくよう申し送りますわ。……わたくしが申し送れるのは、そこまでですの」
「うちじゃ、堰の話は『奥様の紙が来たら』で通っとりますで。冬のあいだ、村の者はそれだけ待っとります」
「では今年の冬は、お待ちにならないでくださいまし。……その紙は、出ませんの」
ヨナスは帽子を取って、両手で潰すように持った。この男が五年、誰の名前を見て人を出してきたのかは、その手つきで足りていた。
レナードは、置いていく紙をしばらく見ていた。署名の欄はふたつあって、今年はどちらも白い。
彼女の割りが五年いちども狂わなかったことについては、何も言わなかった。数字を最後まで確かめ、村方の控えに自分の分だけ書き入れ、書付をゆっくり巻いた。用のあることは、そこで全部終わった。
それから、用のない声で短く言った。
「満了なさるのですね。……では、その後の話を、いつか」
いつか、というのが何の話なのか、アメリアには分からなかった。分からないまま、丁寧に礼をした。
「本日は、ありがとうございました」
レナードは頷いて、馬のほうへ戻っていった。歩きながら一度だけ、包みを預かったバートンの手元を見た。菓子の箱の位置を気にしたのかもしれない。
(去年と同じ手袋ですわ。……レナード様は、ああいうところを変えない方ですもの)
——四年前の秋に、王宮で晩餐があった。王家が季節ごとに開くもので、招かれた家の当主と夫人が長い卓に並ぶ。
その下手に、年老いた侯爵未亡人が座っていた。上座の席次がひとつ狂って、その婦人だけが末のほうへずらされかけていた。誰も直さない。直せば、誰かの席が動く。
老婦人は文句を言わずに座り直した。そこは灯りと灯りの隙間にあたっていて、手元だけが暗い。年寄りの目には、皿の上のものが見えない。皿に触れないまま、膝の上で手を重ねていた。
卓のはす向かいに、ノーサム伯爵レナードが座っていた。
彼の目は料理のほうを向いていなかった。老婦人の暗い手元と、自分の脇の燭台とを何度も行き来した。一度、燭台の台座に手を伸ばしかけて止めた。手は膝の上に戻った。
そのとき、給仕がひとり動いた。ウェルズリー伯爵夫人の席から燭台がひとつ運ばれて、老婦人の手元に置かれた。手が伸びて、匙が皿に触れた。それだけである。
誰も気づかなかった。燭台がひとつ減った側の卓も、話を続けていた。
レナードは燭台の去ったほうの席を見た。それから、自分の脇の燭台を見た。
四年、覚えている。
アメリアのほうは、覚えていない。同じ種類のことを、五年で何度もしてきたからだ。数えていないことは、覚えていない。
——馬車が、橋を渡った。
帰りは日のあるうちに川を越えた。霧は晴れて、土手の草が黄色くなっている。
「奥様。菓子は、厨房へ回してよろしゅうございますか」
「ええ。みなでお分けになって」
「……あの店は、レイフォードではございませんな」
「あら。あなたも気づいておりましたのね」
「五年、気づいておりました」
「では、五年黙っていた仲間ですわね」
アメリアが笑うと、バートンも前を向いたまま口の端だけ動かした。
「ノーサム伯爵様は、毎年おなじものをお持ちくださいます」
「ええ。わたくし、あの店の焼き菓子のほうが好きですのよ。……ですから、なおのこと申し上げられませんわ」
車輪が橋板を鳴らしている。アメリアは膝の上で指を折った。宿の窓で折ったのが、昨日。
(あと二十七日)
説明するたび、この家の来年が一行ずつ消えていく。壊しているのではない。書かないだけである。
夜。
「本日のご報告に参りましたわ」
「戻ったのか」
「日の暮れる前に。堰の見分と、割りの話をしてまいりましたわ」
書斎の卓の隅には、更新の書類が今朝と同じ位置に載っている。その上に、今日ぶんの書付が重ねてあった。
「では旦那様、本日ぶんのご説明を。……本日止まりましたのは、来春の堰の人足の手配ですわ」
「水路か。毎年のことだろう」
「毎年のことでしたわ。来春は、満了より先ですもの」
「……ああ」
オズワルドは書付へ目を戻した。それだけだった。
「案は置いてまいりましたわ。どなたかがお名前を入れてくだされば、そのとおりに動きますの」
「分かった」
分かった、という返事は、五年で何度も受け取っている。返ってきたことと、届いたことは別だ。
オズワルドは次の頁の端に指をかけた。かけたまま、しばらくめくらなかった。やがて紙が鳴って、頁が変わった。
アメリアは一礼して、廊下へ出た。
自室で、控えの束を綴じ直した。
五年ぶんの調停書が五枚。どれにも同じ署名が入っている。紙の色は年ごとに褪せているのに、字だけは同じ強さで残っていた。
六枚めになるはずの紙には、人数と村の名だけが書いてある。署名の欄は、白いままだ。
アメリアはその紙をいちばん上に載せて、束を紐で結んだ。朝、バートンが手間取っていた紐が、彼女の手では一度で結べた。




