第2話: あと二十九日
結婚の条件は、三つあった。期限は五年。寝室は分ける。妻は、よくできた調度のようでいてくれればいい。
五年のあいだ、守られなかったのは三つめだけだ。調度は、家を回さない。
「奥様。王庁からのお使いが、玄関にお見えでございます」
「あら。お早いこと」
アメリアは、朝の帳面を広げたばかりの手を止めた。昨日の初霜が北向きの屋根にまだ残っていて、廊下は冷えている。
「ご用向きは分かるかしら」
「秋のご下命かと存じます。例年、この時期にまいりますので」
「そうね。ではお通しして。小広間の暖炉に、薪を一本足してちょうだい」
王庁の使いは若い男だった。革の筒から巻いた紙を出して読み上げる。
「来春よりの一年ぶん、楢の炭を四百俵。例年どおりにございます。お受けの返書を、七日のうちに王庁へお納めくださいますよう」
「承りましたわ。荷は例年と同じ道でよろしいのね」
「はい。春の雪解けを待ってからで結構でございます」
「では、筵を余分に積ませますわ。炭は雨に当たると目方が変わりますでしょう。王庁の量り方は厳しゅうございますもの」
使いが巻き紙から顔を上げた。
「……よくご存じで」
「五年もお納めしておりますもの、それくらいは」
アメリアは笑ってから、ついでのような声で続けた。
「ただ、ひとつだけ。返書には、伯爵の署名を載せますわ。ウェルズリー伯爵オズワルドの名前で、お受けいたしますの」
「例年は、奥様のお名前でちょうだいしておりますが」
「ええ。今年からは、そういたしませんの」
理由は言わなかった。王庁へ出す紙に、家の内々の事情を乗せるものではない。当主の名前で受けたと言えば、王庁は伯爵家が下命を重く扱ったと読む。断らずに済んで、格も落ちない。書き方はもう頭の中にできていた。
「かしこまりました。では、七日のうちに」
使いは丁寧に礼をして帰っていった。玄関の外で蹄が石を打つ音が遠ざかっていく。
入れ替わりに家令のバートンが来た。
「奥様。旦那様のお机の書類は、昨日置いたところにそのままでございます」
「そう」
「……念のため、申し上げます」
家令は銀盆を胸の前で持ち直した。
「貴族の婚姻契約は王庁の登記でございますから、更新の受理には三十日かかります。過ぎれば王庁は、もう書類を受け取りませぬ」
「存じておりますわ」
「昨日が、期日でございました」
「ええ」
暖炉の薪がひとつ落ちた。
バートンはそれ以上なにも言わずに一礼して下がっていった。
(律儀な方ですこと)
今朝この家に来た王庁の使いは、炭の話をして帰った。同じ王庁が、この家の婚姻の紙をもう受け取らないことは、玄関では誰も口にしなかった。夫はまだ、今日ぶんの手紙を開けている頃だった。
返書は、その日のうちに書いた。
新しい紙にインクを落とすと、匂いが立つ。五年前の秋にも、同じ匂いの部屋にいた。
——ヴァンス男爵家の応接には、あの頃、売れるものがあらかた残っていなかった。壁掛けの色の濃いところだけが四角く残っていて、そこに何が掛かっていたかはもう思い出せない。父の借りた金の証文は、卓の上で三枚に増えていた。父はそれを見ないようにするのが上手な人で、朝から友人の家に出かけていた。
ウェルズリー家の叔母上が訪ねてきたのは、そういう秋だった。
「お家の借財は、こちらで引き受けますわ」
ヘンリエッタは手袋を外さないまま、椅子の背に指を滑らせた。滑らせて指の先を見た。
「かわりに、五年だけ。うちの甥に、妻の形をした人が要りますの。お家の格が要るのであって、お子は要りませんのよ」
「五年のあとは、どうなりますの」
「あなたはお家へお帰りになればよろしいわ。証文は戻ってきませんけれど」
「五年のあいだ、わたくしは何をいたしましょう」
「なにも。伯爵夫人のお席に、きちんと座っていてくださればそれで」
アメリアは十日ほど考えた。考えているあいだに、父が先に承諾の返事を出していた。
「先に返してしまったよ。おまえも、そのほうが早くて助かるだろう」
父は上機嫌で、その日は昼から出かけていった。
(あら。もう決まっておりましたのね)
腹は立った。ひと晩だけ立てて、朝には荷造りの算段に移った。証文が三枚消えるなら悪い商いではない。この家の帳面は十四の年から自分がつけていて、その数字が父より正確なことも知っていた。
読み合わせは、ウェルズリー家の書斎で行われた。二十二の秋である。
オズワルドは条項を三つ、順に読んだ。期限は五年。寝室は分ける。妻は、よくできた調度のようでいてくれればいい。読む声は淡々としていて、意地の悪さも済まなさもなかった。
「二つめを、伺ってもよろしいですか。白い結婚、と書いてございますわね」
「ああ」
「理由を、教えていただけますの」
オズワルドはその行のところだけを指で押さえた。押さえたまま、しばらく黙っていた。
「……言えない」
それから一度だけ付け足した。
「言えないが、あなたに落ち度があるからではない。それだけは、信じてくれていい」
「では、伺いませんわ」
アメリアはそう答えて、署名の欄にペンを下ろした。訊いても答えない人に二度訊くのは、時間の使い方として下手だ。
その日、実家の証文は三枚とも消えた。かわりに、期限のついた紙が一枚増えた。
——インクの匂いは、まだ立っていた。
(そういえば、あの理由はとうとう伺わずじまいでしたわ)
五年で訊く機会がなかったわけではない。ただ、訊いてよい間柄になる機会のほうが、一度もなかっただけだ。
午後、マーサが仕立て屋の話を持ってきた。
「奥様、冬服の採寸はいつになさいます。そろそろ日を訊きにまいりますよ」
「わたくしのぶんは要りませんわ。旦那様とプリムローズ様のを、いつもどおりに」
「奥様のぶんが要らないなんて、そんな」
「いいのよ。……ああ、それも書いておかなくては」
「なにをでございましょう」
「引き継ぎの目録ですわ。次にこの家を回す方が、困らないように」
マーサは口を開けて、そのまま閉じた。
「……次の方、でございますか」
「ええ。どなたがいらしても、この家の一年の形は変わりませんもの。書いてあれば、どなたでも回せますわ」
「わたくしどもは、どういたしましょう」
「あなたたちは、なにも。給金も休みも、いままでどおりですわ。心配なさらないで」
「そういうことを伺ったのでは、なかったのですけれど」
「あら。では、なにを伺ったのかしら」
マーサは腑に落ちない顔のまま下がっていった。この家の使用人はみな、五年前からずっと同じ声で朝の指示を聞いてきたので、その声が来年もあるものだと思っている。
新しい帳面を開いて、アメリアはペンを持ち直した。
(さて。書き出しますわね)
一年ごとに結び直すものが、この家には思いのほか多い。薪と炭、葡萄酒の樽、冬服の仕立て、礼拝堂の来年の席次、温室の苗、花壇の球根、プリムローズ様の家庭教師、それから隣領との水路の人足。祭りの寄進も、厩の馬の飼葉も、年に一度どこかで紙を交わす。
一行ずつ、期日と、相手の家の名と、いくらで結んだかを書いていった。書きながら、その約束が誰の署名で動いているかを脇に小さく添える。
二枚めの紙の下まで、同じ名前が続いた。
(まあ。ずいぶん書きましたのね、わたくし)
旦那様の署名が要る行は、ひとつもなかった。当主の名前が要るのは領地の公文だけで、それは家の中の紙ではない。今朝の炭の返書は、五年で初めての例外になる。
書き終えた行の頭に印をつけていく。満了より先に日付が跨るもの——つまり、今日からもう受けられないもの。
印は、ほとんどの行についた。
秋という季節がそういうものだ。来年のことばかりが机に来る。薪を積み、樽を押さえ、球根を土に入れて、春に咲くものを今のうちに決めてしまう。五年間、そうやってこの家の来年を先に作ってきた。
帳面を閉じる前に、アメリアは指を折った。昨日がひとつ、今日でふたつ。
(あと二十九日)
毎晩ひとつずつ折っていけば、そのうち片手で足りるようになる。そう思うと、指の折り方まで丁寧になった。
夜。
「本日のご報告に参りましたわ」
「入ってくれ」
書斎の卓には、昨日と同じところに更新の書類が載っている。今日ぶんの書付がその上へ一枚重ねられていた。
「明日のお客さまはございませんわ。お屋敷まわりも変わりございません。……それから、王庁のお使いが」
「王庁か」
「秋のご下命ですわ。来春からの一年ぶん、楢の炭を四百俵。例年どおりでございます」
「では、いつものように受けておけばいい」
「お受けできませんの」
オズワルドが書付から目を上げた。
「なぜだ」
「納めは来春ですもの。満了より先ですわ」
しばらく、返事はなかった。蝋燭の炎が天井へ細い影を伸ばしている。
「……ああ。契約だから」
オズワルドはそう言って、目を書付へ戻した。
「返書は、私が署名する。いつまでだ」
「七日のうちに、と。明朝、お机にご用意しておきますわ」
「分かった」
「では旦那様、本日ぶんのご説明を。……本日止まりましたのは、来季のご下命受けの一件ですわ」
オズワルドは頷いて、書付の次の頁をめくった。
アメリアは一礼して、扉のほうへ歩いた。
途中で足を止める。書斎の隅には、背の高い据え置き時計がある。先代の代からある古いもので、扉を開けて錘を巻き上げてやらないとそのうち止まってしまう。七日に一度、決まった夜にすることだった。
鎖が、こつ、こつ、と鳴った。
オズワルドは顔を上げなかった。
廊下は今朝よりいくらか冷えていた。
自室の卓で、アメリアは目録の末尾に自分の名前を入れた。引き継ぎの紙には、書いた者の名を残す。これでこの家の一年ぶんの紙が、全部そろったことになる。
(この家で、わたくしの署名が要らないものは、旦那様の心だけですの)
インクが乾くのを待つあいだ、蝋燭の芯が小さく鳴った。
書き上げた目録は、紙が二枚になった。
いちばん上の行に書いてあるのは、隣領との水路のことだった。




