第1話: あと三十日
夫婦の会話の最長記録は、五年前の契約の読み合わせのまま動いていない。
その記録が今朝、破られる。
「更新の書類が来ていた。いつものように、任せていいか」
結婚五年目の朝食の席で、夫は手紙の束から顔も上げずにそう言った。妻の去就を決める書類を、献立の相談と同じ声で。
「いいえ、旦那様」
アメリアはカップを置いた。そして夫と同じ声で——献立の相談と、同じ声で返した。
「更新は、いたしません」
バターナイフが皿に落ちた。
その朝、食卓で交わされた言葉は、五年前の読み合わせより長くなった。オズワルドは最後まで、手紙をめくる手を止めなかった。
五年前の読み合わせというのは、たとえ話ではない。貴族の家には、期限と条件を紙に書いて結ぶ縁組がある。ウェルズリー伯爵オズワルドと、貧乏男爵家の娘アメリアの結婚が、それだった。
期限は五年。かたちは白い結婚——寝室をともにしない、書類の上だけの夫婦という意味だ。
条件はひとつ。妻は、よくできた調度のようでいてくれればいい。
調度らしく、アメリアは五年この家に据えられた。据えられたまま家政を回し、社交を回し、領地の揉めごとをまとめ、夫の妹の支度を整えた。契約とは、果たすものだから。
契約には、終わりの日がある。満了——五年の期限が切れる日だ。その前に、続けるかどうかを紙で決め直す手続きが「更新」だ。
今朝の書類が、それだった。
夫の皿の脇には手紙の束が積まれ、妻の脇には家の帳面が置かれている。
用件があれば、言葉は交わす。今週の献立。客の予定。妹の家庭教師の月謝。それだけだ。声を荒らげられたことも、笑いかけられたことも、一度もない。
「……そうか」
オズワルドは、次の手紙へ目を戻した。
「書類は机に置いておいてくれ。あとで私が見る」
「ええ。のちほど、バートンに運ばせますわ」
あとで。
(旦那様の「あとで」は、五年ものびてきましたものね)
アメリアは言い返さなかった。かわりに、扉の脇へ声をかける。
「バートン」
「はい、奥様」
家令のバートンが進み出た。銀盆の上には、今朝のために用意させておいた紙が一枚——婚姻契約の写しである。
「十二条を、旦那様のお耳に」
「かしこまりました」
バートンは写しを掲げ、朝の献立を読み上げるのと同じ声で読んだ。
「——契約十二条。更新は満了の三十日前までに、夫婦双方の署名をもって行う。……期日は本日でございます」
読み終えて、家令は一礼した。
手紙をめくる乾いた音が、それに応えた。
知らされなかったのではない。聞かなかったのだ。
更新には、夫婦ふたりの署名が要る。妻は「いたしません」と言い、夫は日付を聞かなかった。
——今日が、最後の一日になった。
日付が変われば、夫婦そろって望んだとしても、この結婚は満了の日で終わる。日付が変わるまでが、今日だ。夫はまだ、書類を開いてもいない。
食堂でそのことを知っているのは、宣告した妻と、読み上げた家令だけだった。当の夫は、三通めの手紙の封を切っていた。
「旦那様」
アメリアは、献立の相談と同じ声のまま続けた。
オズワルドが、顔を上げた。
結婚して五年——夫が食卓の向こうにいる妻の顔を見たのは、それが初めてだった。手紙をめくる手は、そのあいだも止まらないままで。
妻は、いつもの朝と同じ顔をしていた。指先だけが、脇に置いた帳面の角を揃えている。角は、とうに揃っているのに。
「本日より、満了より先に跨るお約束は新しくお受けいたしませんの」
返事はない。アメリアはかまわず続けた。
「契約の終わる日より先の日付のお約束、という意味ですわ。来年のお付き合いも来季のお支度も、今日からはお受けいたしません。満了の日までのお役目は、これまでどおり果たしますわ」
「お断りして止めたぶんは、毎晩ご説明にあがりますわね。夕の報告のついでに、ひとつずつ」
夫はしばらく、妻の顔を見ていた。
「……分かった。好きにするといい。それで、何かが変わるのか」
問いながら、指はもう次の封を割っていた。
「ええ。すこしずつ、ですわ」
それきり、夫の目は手紙へ戻った。
「家のことは、いつものように頼む」
いつものように。
五年間、この家はその一言で回ってきた。今日も、その一言で朝食が終わった。
アメリアは席を立った。惜しいものがあるとすれば、半分残った紅茶くらいだった。
廊下には秋の朝の光がのびていた。今日は、まだ始まったばかりだ。
宣告の朝でも、家は同じ速さで回る。
厨房脇の小部屋では、使用人頭のマーサが帳面を抱えて待っていた。報告は、いつも天気と庭から始まる。
「奥様、おはようございます。今朝は初霜が降りましたよ。庭の楓が、ひと晩でまっ赤になりました」
「あら、もう霜が」
「霜が早い年は、冬も早いと申しますからねえ。今夜あたり、温かい献立がようございますよ」
「ではグレタに、夕餉は栗のスープをと伝えてちょうだい。栗は多めに。……わたくしのぶんだけ、すこし多めに」
「はいはい、心得ております。焼き栗も少し、と言いつけておきましょうね」
「……あなた、ほんとうに察しがよくてよ」
五年めの使用人頭は察しがいい。アメリアは咳払いをして、帳面へ目を落とした。
「雨樋の修繕は今日じゅうに。西の角の、はがれかけたところですわ」
「言いつけておきます。蝋燭の追加はいかがしましょう」
「三日お待ちなさいな。市の日のほうが、値が下がりますもの」
「それから、お客用の砂糖壺が欠けておりましたでしょう。町の瀬戸物屋へ、今日のうちにお願いね。飴色の、前と同じ窯のものよ」
「よく覚えておいでで」
「五年も使えば、覚えますものね」
「かしこまりました。……あの、奥様」
「なにかしら」
「いえ。今朝は、お声が春みたいだと思いまして」
初霜の朝にする話ではない。
「気のせいですわ」
「さようですか」
マーサは首をかしげて下がっていった。
(……そんなに出ておりますかしら)
入れ替わりに、バートンが来た。
「奥様。更新の書類は、旦那様の机の右手に置いてまいりました」
「ありがとう。旦那様は」
「お手紙を。朝のぶんが、まだ半分ほど残っておいでです」
バートンは黙って下がった。下がるまでに、半拍だけ間があった。
(お耳には、入れましたものね)
書きもの机には、招待状が二通。一通めは、旧知の子爵夫人からの、十日のちの茶会。これは受けられる。十日のちのアメリアは、まだこの家の女主人だから。受けの返事を書いて、封をする。
二通めを開いて、アメリアはすこし笑んだ。
王宮主催の新年の夜会——王庁の儀礼で夫妻連名の招待だった。
(新年ですって。……その頃わたくしは、もうこのお家におりませんもの)
夫妻連名——満了の先の日付に、この家の女主人として名を並べる約束は、もう出来ない。今朝の規則の、最初のひとつだ。
断りの文面は、手が覚えている。先様の格を立てて、こちらの事情はぼかす。五年で、何十通も書いた。
新年の夜会の断りには、いちばん上等な紙を選んだ。伯爵は年の変わり目まで領地の検分で手が離せない——嘘ではない。先様が読めば、ウェルズリー家は今年も堅実だと頷く。
夫の体面は、最後の日まで彼女の仕事のうちだった。
書き上げた返信を封じて、控えを一枚残す。断りの返信は控えを残すのが、女主人の作法だ。控えは机の下の箱へ綴じる。五年ぶんで、蓋はもう浮いている。
秋は、来年の約束が届く季節だ。午後までに、似たような招待があと二通届いた。冬狩りの集いと、年明けの音楽会。どちらも、満了の先にある日付だった。
冬狩りは、薪の値が上がった冬に荷を融通しあった隣郡のホルト家からだった。荷車の算段をつけたのも、渋る先へ頭を下げて歩いたのもアメリアだ。招待の末尾に、老当主の字で一行。——来季も、同じようにお願いできればと存じます。
封を持つ手が、一拍だけ止まった。
(……来季は、わたくしではございませんのよ)
断って、控えを残す。断って、控えを残す。
家のほかのことは、これまでどおりに回した。書斎の扉は、昼を過ぎても閉じたままだった。
三通めの控えを重ねたころ、窓の外は夕暮れの色になっていた。扉の外から、町から戻ったマーサが包みを掲げてみせた。
「奥様、砂糖壺ですよ。仰せのとおり飴色の、前と同じ窯のです」
「まあ、いい色ですこと。ようございましたわ」
机の端の新しい帳面に、今日のぶんを書き入れた。日付と、先様と、お断りの三通。今夜から毎晩、これを旦那様にご説明するのだ。
ふと、アメリアは指をひとつ折った。今日がひとつめ。
(あと三十日ですわね)
数えながら唇のはしがゆるんでいることに、彼女自身は気づいていない。
夜。夕の報告の刻限に、アメリアは帳面を手にして書斎の扉を叩いた。
(さあ、最初のご説明ですわね)
「……入ってくれ」
「失礼いたしますわ」
書斎は、紙と蝋の匂いがする。蝋燭がふたつ。夫は領地の書付に目を落としている。卓の隅には今朝の更新の書類が、バートンが置いたときの位置のまま載っていた。
(「あとで」は、まだ来ていませんのね)
「本日のご報告に参りましたわ」
頷きが返る。蝋燭の芯が、小さく音を立てて燃えていた。
「明日のお客さまは、ございません。お屋敷まわりも変わりなし。雨樋は、今日のうちに直りましたの。……夕餉の栗のスープは、良い出来でしたのよ」
「そうか」
夫は目を上げない。五年間、報告が三つを超えた夜はすくない。ここまでは、いつもと寸分違わない夜だった。
アメリアは、同じ声で続けた。
「では旦那様、本日ぶんのご説明を。……お断りした招待状は、三通ですわ」
最後の一日が終わるのに、音はなかった。バターナイフほどの音も立てずに、五年の結婚が終わりへ動いた。音がしなかったので、夫は気づかなかった。
帳面をめくる音がひとつ、夜の書斎に立った。
今夜めくられたのは夫の手紙ではなく、妻の帳面のほうだった。




