『堕天』-1
生ぬるい風が頬に当たる感触があった。
背中に当たる草の柔らかな感触と、鼻腔をくすぐる緑の匂い。
昔どこかで嗅いだことのあるような懐かしさに浸りながら、マモルの意識は戻った。
ゆっくりと、重い瞼を開ける。
視界に飛び込んできたのは、空を埋め尽くすほどの星々だった。手を伸ばしたら掴めそうなほど近い。その中央には一際輝く大きな星があった。
(ここは、どこだ……ていうか俺、さっきまで何してたんだっけ)
思い出そうとしても頭の中に霧がかかったように何も思い出すことができない。
それでも自分の名前はかろうじて覚えていた。
(マモル。そうだ、そんな名前だった)
そして、いつも側にいた女の子の輪郭。弱々しい力で両の奥歯を噛み締めながらどうにか思い出そうとするが、それ以上のことは浮かんでこない。
「はぁ……」
いつの間にか止まっていた息を吐き出す。目の前の星がさっきよりも滲んで見えた。微かな頭痛と倦怠感が体を地面に縛り付ける。
首を左右に軽く振ってみる。動く。
「……っ!」
右側に頭を倒すと、草が首筋に触れ痛みが走った。
草で切ったような痛みではなく、首の中から響くような感触。
痛みと共に、何かが頭の中で繋がろうとしている。だがやはり記憶の線は繋がらない。
起きあがろうと両手に力を入れる。ありったけの力をこめて上体を起こした。「ふぅ」と大きな息が漏れる。全身の筋肉が悲鳴を上げた。まるで何年も意識不明で入院していた後のように、体が脳の命令を拒否している。
マモルは辺りを見渡した。
人工的な灯りはない。月も出ていない。しかし空を埋め尽くす星灯りが自然の街灯となり辺りを照らしていた。
周辺には見知らぬ木々が所狭しと並び、背の高い草が生い茂っている。ここは森の中のようだ。
「東京……じゃないよな」
口走った言葉に、はっとした。
東京。そうだ、覚えてる。どこまでいっても建造物に埋め尽くされた風景。慣れ親しんだ住宅街。乱立する高層ビル。怪しい路地裏。空に浮かんだ丸い物体。やたら明るい光。それらの景色が浮かんでは消えていく。
(と、とにかく誰かいないか探さないと)
腕の力はかろうじて入る。ガタガタと震える足にありったけの力を込めた。なんとか……動いた。
四つん這いになりながら立ち上がり、転びそうになるのをなんとか耐える。足を引きずりながら近くの木に手をついて、抱きつくようにもたれかかった。
目の前には、さっきまで倒れていた草むらが広がっている。
あることに気がついた。マモルの腰くらいまである背の高い草が生い茂っているが、その一部がまるで何かに押しつぶされたかのように倒れている。それも1本や2本ではない。まるで草むらの中に平面の広場ができているかのように見える。
目を凝らすと、それは奥の方まで続いていた。機械的に押しつぶされたそれは、まるで何かの記号のようにも見えた。
「……まさか、ミステリーサークル?」
またしても言葉が浮かんできた。昔からよく知っているように、自然に。
だがその意味を思い出すことができない。脳内にただ丸いイメージが現れては消えていく。さっきまでよりも早く、少し鮮明になった。首の後ろがチリチリと痛み出す。
(あと少し。あと少しで、何か思い出せそうな気がする)
その時、草の間に何かが見えた。黒い草の間に淡い金色の光が微かに漏れている。
目を凝らす。光は見え隠れしながら徐々にマモルの方へ近づいてきていた。
逃げた方がいいのだろうか。
しかし不思議とそれを危険だとは思わなかった。それどころか懐かしく感じ、今すぐにでもこっちから迎えに行きたい気持ちに駆られる。
だが足に力が入らない。動こうとすると震えて、上手く動かすことができない。
草の中を進んでいるはずなのに全く音を立てないまま、光はさらに近づく。やがて、草の中を抜けマモルの前にそれは姿を現した。
少女。
入院着のような無機質な服を纏い、短い金髪を揺らしながらそっと顔をだす。その瞳はどこか虚げでどこか遠くの方を眺めているようでいて、だが確かにマモルの顔を見据えている。
初めて会うはずなのに、懐かしい。名前を知っている。声も、性格も。
無数の既視感。輪郭は掴んでいるが、やはり繋がらない。
「君は……?」
やっとの思いで捻り出した精一杯の声は、木々の葉が風に揺れる音よりも小さかった。
少女は口を閉じたまま答えない。じっと動かず、マモルの顔を見つめている。やはり表情は読み取れなかった。
——沈黙。
しばらくして少女はわずかに口を動かした。言葉を発したかのように思えたが、音はしない。
(日本語じゃ、ない?)
奇妙な唇の動き。
マモルはずっと少女を見ていたが、何を呟いているのか読み取ることができなかった。
「あれ?」
次の瞬間、マモルを蝕んでいた頭痛と倦怠感がスッと、空気に溶けるように消えた。さっきまでより視界がはっきりと澄み、手足に力が戻る。寄りかかっていた木から体を離しても、よろめくことはない。片足で立ち、足首をフラフラと揺らすが、倒れることはなかった。
なんてことない休日に目が覚めて、ベッドから勢いよく飛び出したかのような爽快感。
しかし記憶を覆い隠す頭の靄は消えない。それでも四肢が自由を取り戻す感覚が、マモルのテンションを上げていく。
「動く。え、動く! 君、いったい何を——」
ゴオオオオオオオオオオオ。
言いかけた言葉は、突如として響き渡った轟音によって遮られた。
星空を切り裂いて、大きな円盤が二人の頭上を通り過ぎていく。
その物体から溢れた光が辺りを照らし、吹き荒れる風が森の緑を揺らした。
それでも少女は、何事も無かったかのようにマモルの方を黙って見つめていた。まるで、そんなものなど存在しないかのように意に介すそぶりを見せない。
「UFO!? マジかよ! 動画! 動画撮らなきゃ……って、なんだっけそれ」
視線の先、徐々に高度を下げた円盤は少し先に見える山へ吸い寄せられていく。
やがて、何かが地面にぶつかる大きな音が響いた。
赤い光が夜空を照らす。
星々は、その姿を僅かに滲ませていった。




