衝動
寂れた公園。町外れにあるため、わざわざこの公園に来てまで子供を遊ばせる親などいない。今、町は感染者の脅威にさらされており、町中といえど子供を連れ歩くのは自殺行為だ。どこもかしこも人が住んでる家は扉が固く閉じられている。
つまりは人が近づかない公園。遊具は朽ち果てる一方で、ブランコの鎖が錆び落ち、多くの遊具も同様の廃れ具合だった。
俺は滑り台の一番下に寝そべりながら、誰かに何してるんだ、間抜けな格好だな、なんて指摘を受ける状況でもない、このむなしい格好で、ただ待っている。
ここにやってくるというアイラの取引相手たちを。アイラに言わせれば、まだ交渉相手たちに俺の事が知られていない、紹介もしていないこの状況は使える、だそうだ。
とりあえず俺の今回の仕事は、その取引相手たちの顔を覚えておくこと。ただ見ているだけの簡単な仕事だと言われている。
それらしい一団が公園にやってきてアイラと対峙していた。その一団にはなぜか場違いに見える少女が同行していた。年の頃、五、六歳といったところか、三人の大人に連れられて、あどけない表情をしており、何のためにここに連れてこられたかのか分かっていない様子だ。ただの子守りで三人の中の誰かが連れてきた少女とは思えない。
男たちは少女をほったらかしにし過ぎだった。
少女はかがみ込んで木の棒で地面に絵を描いている。
アイラが困惑気味な顔を向けた。男たちの説明を聞き、顔を強張らせる。内容は聞き取れなかったが、アイラの豹変ぶりを見るに、かなりショッキングな内容だったのだろう。
アイラが途端に吠え声のような言葉を男たちに浴びせかけた。
ショットガンを持った男が、リーダーと見られる真ん中の男に、どうする? とお伺いを立てている。ショットガンを持っているのがガラの悪そうな男で、リーダっぽい男がインテリかつ悪だくみをしそうな顔で、あと一人は太った男だ。
なにともなしに眺めていると、次第に聴覚が両者の言葉を聞き取り始めた。これも感染者の特殊能力というやつか。
「てめえら、ふざけてんのか、ガキをこんなところに連れてきやがって」
「今回はこの子で勘弁してください」
「ふざけんな、餓鬼なんざ食えるか!!」
アイラが目を剥いて大声をあげ、グルルと唸り声まで発しているのに、地面で絵を描ている少女は顔をあげようともしない。もしかしてあの子……。
『耳が聞こえないようだな……」
頭の中から回答があった。まさしくその通り、アイラは気付いているのかわからないが少女は至近距離でアイラの怒声を聞いても、身体をぴくりとも動かさなかった。男たちは軒並みアイラの怒声に圧倒されているというのに。
「今は色々とまずくて、ちょっとゴタゴタが続いちまいまして、自警団の監視があって俺たちも動きづらいんですよ」
「それはお前たちの都合だろ」
「そうは言っても、実際、俺たちを疑っている奴もいるし――」
「私は子供以外の肉なら拘らない、お前たちだって構わないんだぞ」
男たちは言い訳を募るが、アイラはまったく聞く耳を持たない。だんだんアイラの機嫌が悪くなるごとに、逃げ場を失い追い詰められた獲物のように男たちの顔が青くなる。
「数時間だ、それぐらいなら待ってやる、あまり猶予はないぞ、すぐに別のを用意しないと……」
「は、はい」
男たちはようやく折れて、アイラの要求を飲むことにしたようだ。
「じゃあ、こいつは手付けってことで?」
「はあ? 私の話を聞いてなかったのか、子供は視界にも入れたくねえ、ぎゃあぎゃあ喚きやがるし、連れて帰れ……」
「え?」
耳の聞こえない子供は静かに地面に絵を描いているだけだ。一言だって言葉も発さない。それを見てぎゃあぎゃあ騒がしいからだというのは取ってつけたような言い訳のような気もする。
相手が子供だから気を使ったのだろうか? あのアイラが? そんな優しさがあるタイプには見えなかったが……。案外、子供好きなのかと思いきや、頭の中の声が独自の見解を口にする。
『子供に対するトラウマか……』
え? と疑問を口にする間もなく、声は立て続けにアイラの弱点を指摘した。
『一度も子供に視線を向けなかった、あれほど好戦的な奴が子供が怖いか、意外だな』
『意外なんてもんじゃないだろ、たまたまなんじゃないか?』
『人間は感染者にとって食い物だ、食い物から目を背ける理由は一つ。確かに肉質など食の好みはそれぞれだが、酒もタバコも嗜まない子供は基本的に癖がないと言われている』
感染者のことはわからないが確かにアイラの言葉には不自然な点が多い。しかも相手は耳も聞こえない子供だ。ますますアイラが怯える理由はない。ていうより。
『お前、やけに詳しいけどさ、子供を食ったことがあるとかってカミングアウトはやめてくれよ』
『ない』
『どうせ覚えてないんだろ?』
『記憶が確かなら、ないはずだ』
『どうだか……』
『覚えてないのが幸せなことだってある、俺たちだって他人の事は言えないんだからな』
声は意味ありげに言うと黙ってしまった。なにはともあれアイラが子供に怯えているなんてナンセンスだ。信じる気にはなれないが。
ともかく男たちはアイラにこっぴどく怒鳴られたため、少女を連れて公園を出ていく。
アイラがもう出てきていいぞと目配せをしたのでアイラに駆け寄る途中、少女が描いていたとみられる地面の絵が目に留まった。
それは子供らしいタッチで描かれた抽象的な絵で、空には大雲、大雲からは雷が降り注ぎ、塔のてっぺんで空に大口を開けている怪物が描かれている。
アイラが変身した姿に似ているが、狼人間とは多少、違う点も……獣の耳がなく、ふさふさ感のない蛇のような尻尾があって、猿のような見た目だった。
「なんの絵だ?」
『ゾーム……嵐を食う男……』
絵のタイトルかと思わせる言葉を声が呟く。
アイラを見ると、アイラは山の方に鼻を向け、鼻先をクンクンさせていた。どうやら山の方で異変を感じ取ったようだ。イラつくような唸り声をあげる。
「また感染者がここに入り込んだ。私はあっちを処理してくる、お前はあいつらを尾行して、ちゃんと子供を放したか、変なことをしてないか確認しろ」
「変な事って?」
「全部、報告しろ、最近、連中の態度がやけに反抗的だ。なにか企んでるかもしれない」
「なにもなかったら?」
「すぐに帰ってこい」
「耳の聞こえない子だし、大丈夫だとは思うけど……」
「子供はどうでもいい」
アイラの目的がいまいちわからない。子供好きではなさそうだし<子供を恐れてる>が、なにやら現実味を帯びてきた。アイラにとって子供の生死は二の次なのか。
「わかったよ」
「さっさといけ」
アイラと別れ、男たちを追いかけた。公園を出てすぐ男たちを発見する。その横で少女がスキップをしていた。自分がアイラに引き渡されそうになっていたとは微塵も思ってなさそうな、男たちを信頼しきっている様子にふつふつと怒りが湧いてくる。
子供を、それも生きる力の弱い子をあえて人身御供にしようとするなんて、見下げ果てた連中だ。
意識を集中すると男たちの会話が聞こえてくる。
「で、これからどうするんだいリーダー……。連れ出したはいいが、こいつをまたあそこに戻すとなると骨だぜ」
「適当に攫ったからな……」
「耳も聞こえてないんだし、放してあげれば……」
「で、何かの拍子に俺たちの悪事がバレるわけか? こいつはあの場所にいたんだぞ、他の大人にバラしちまうだろうが……」
「けど」
「お前は黙ってろデブちん」
「やるしかねえか……」
「やるってまさか……」
男たちはこそこそと囁き合い、リーダーの男が太った男の腹にショットガンを押し付けていた。他の二人が少女を呼び止め、戸惑った様子でショットガンを持った太った男と一緒に路地裏に入っていく。
俺はなぜかその様子を茫然とした気持ちで見ていた。
まさか、そんな、今聞こえた会話は本気か? とても本気とは思えない。そんなの人間のすることじゃない。
俺はこのときほど自分が人間じゃなくてよかったなんて、そんな感想を抱くことになるとは思ってみなかった。
吐き気を催す醜悪さに手足が震える。近くに停まっていた廃車のボンネットに右手を叩きつけて、倒れるのを耐える。なんだこれ、発作か?
自身の中から湧き上がってくる暗い想念が振り払えない。今まで味わったことのない人間を気嫌いする気持ちが湧き上がってくる。人間が憎い、人間を殺せ、どこからともなくそんな声まで聞こえてきた。
『じゃあどうする?』
「は?」
思わず聞き返していた。と同時に口角があがっていく。俺の意思とは関係なく。
『もう我慢する必要なんてない、俺たちの中にいる獣を解き放て、それですべて終わる。お前は目を閉じているだけでいい。あとは俺がやってやるよ』
ふざけるなと言い返してやりたかった。しかし身体は言う事を聞かない。そして同時にわかっていたんだ、こいつの声に従っている方が、俺の心は平穏でいられる。俺は何も考えなくていい、判断しなくていい、汚いものをみることも、心を痛めることも、そんな怠惰な思いに縛られる。
相手は生きてる価値もない連中だ。死んで当然じゃないか、誰が困る、こんなクズどもが世界のどこかで消えてくれて、むしろ感謝されるはずだ。
俺もすっきりするし、そうだ、何も思い悩むことはない。この世界を支配しているのは俺たちだ。ルールを強いているのは俺たちだ。俺は誰にも従わない。
高揚感に心臓がどくどくと脈打つ。
<殺せ>
誰かが俺に命令したのか? いやこれは俺の心の声が発した叫びだ。どうしても消せない恨み。なんのために世界を変えたのかを思い出す。
突然コメカミが痛んだ。手を置いた車のボンネットがひしゃげていく。めきめきと音を立てて。
もはや自分が何者なのかわからなかった。頭の中の声なのか、本来の俺なのか、それとも二つが溶け合った存在なのか、ただ、見ると俺の腕が毛深くなっていた。狼人間の手だ。そして力があふれてくる。力の制御ができない。
変身は止めない、止める気も起きない。俺は何かに突き動かされ、いつしかワーウルフに理性を預けてしまっていた。
牙と爪が生えそろい、全身の筋肉が脈動する。
「殺してやる、クズども……」
それは俺の口が発した、まぎれもない俺のもの。俺はただ心の高ぶりのまま、吐く息に、音に、怒り、鬱憤、すべてを込めた。
『AOOOOOOOOOOOOOOOO!!』
どうして殺意を封じ込めようとしていたのか、人間を殺すことに躊躇していたのかわからないほど清々しい気持ちだった。俺はニヤついた笑みを浮かべる。