Σの鼓動
西暦2536年、軍はまだ世界各地で大量発生している感染者を抑え込めると本気で考え、躍起になっていた。しかし各地の軍事施設は軒並み壊滅の憂き目に遭い、すでに勝負は決したかのような風潮が軍内部でも漂いつつある。
その頃になって人類は、ようやく気付いた。感染者の攻撃には意図があり、襲撃地点を念入りに定めていることに……。化け物は勝手に溢れているのではなく、溢れる場所を何者かによって定められていた。感染者大量発生の裏に潜む黒幕の存在。
だがもう遅い。その事実が露見する前に人類全体の防衛機能は削られるだけ削られ、もはや立て直すことなど、ほぼ不可能な状況にまで追い込まれた。感染者には知能がない、知能を持つ者などいないと侮った人類の浅はかさが招いた結果だ。
しかし、もはやダメかと思われた、その人類の反撃が、ある出来事がきっかけで始まることになる。
それはとある居住区、軍人が退役後、感染者の脅威に怯えることなく過ごせる場所で起こった。
軍人たちとその家族は、戦場で負った傷や、PTSDの治療のために、この居住区で暮らしていた。いわば普通の暮らしに戻るための大規模なリハリビリ施設だ。
カウンセリング施設はもちろん、バリアフリーも完備され、区画の周囲は強固な壁に守られているので感染者による襲撃もない。その区画自体が一種の要塞のような、いでたちだ。
本来なら感染者による襲撃などありえない。わざわざ戦う力のない人間を、知能のある感染者が脅威と思って襲うかといえば答えは、むしろ否であるからだ。
しかしこの区画は襲撃にあった。
力を手に入れて初めて判明し、自我を失う寸前に抱いた強い欲求。男は破壊衝動を解放した。誰かがその行動の意味に気づく前に。
鳴り響くサイレン、閑静だった住宅街はものの数分で人の悲鳴に溢れ、地獄絵図と化していた。
とある家屋、寝室で寝ていた男は、玄関扉が破壊される音で目を覚ました。最近はPTSDで眠れていなかった。しかし悪夢を運ぶ睡魔はいつも男を監視するかのごとく傍にいる。
ゆえに浅い眠りだったのが幸いした。
続けて家中に響く悲鳴に男は駆け出す。
二階の部屋を飛び出して踊り場へ、階下を見降ろすと女が倒れていた。それが妻だと悟った男は、すぐそばで呆然と立ち尽くす愛娘を目撃する、名前はアリサ。玄関扉からの侵入者たちがうめき声をあげながらアリサに、にじり寄っていた。
「アリサ!! こっちに来なさい!!」
男は叫ぶ。娘を男のトラウマの餌食にはできない。たとえ相手が男に消えない恐怖を与え、克服できない不眠症の原因だったとしても娘まで奪われるわけにはいかなかった。
呆然としていたアリサは、はっとすると、地面に倒れた女を気にする素振りを見せながらも階段を駆け上がってくる。
男も階段をかけおり、その途中でアリサと合流、抱き上げた。
踊り場に戻ると、抱いていたアリサを地面に下ろし、首にかけていたロザリオに一度キスをしてアリサの首にかける。
「これはお守りだアリサ、お前を守ってくれる」
トラウマを克服するために身に着けていた唯一の心の支えをアリサに託す。そして部屋の鍵を持たせ、言い聞かせるように真剣に告げる。
「アリサ、よく聞きなさい、お前はこれから自分の部屋に入って、まずドアにカギをかけるんだ」
「でもお父さんは?」
「いいから聞きなさい、動揺したり、話し合っている暇はない。私は一緒にはいけない、お母さんを助けなければならないからね」
妻を助けるのはおそらく無理だ、男はわかっていてアリサに告げた。アリサを逃がすための時間稼ぎ、お母さんを助けるといったのは口実だった。おそらく利口なアリサなら気づくだろうが、それでも後のアリサが、あのときお父さんがそう言っていたし、しょうがなかったんだと強くなれるならと選択した。
男はアリサの頭を二度ほど撫でた。今まで自分のことで手一杯で父親らしいことをアリサに碌にしてやれなかった男の初めての未練だった。
「私も後で追いかける、お前は部屋の窓から屋根伝いに、お隣のフォードさんの所に行きなさい、彼らと一緒に逃げるんだ」
「おとうさ――」
フォード将軍なら信頼できる。足を悪くしてはいるが判断は的確で、なにより、お手伝いさんや人が多い。アリサを無事にここから逃がせるとしたら彼しかいない。
「生き抜くんだアリサ、今はそれだけを考えなさい」
アリサの顔を見ていたら感極まったのか男は視線をそらし、もう行きなさいとアリサを突き放す。
「さあ!」
男はアリサから顔を背けて立ち上がると後ろを向いた。もう振り返ることはない。今は一分一秒でも惜しい。アリサの覚悟が固まるのを待っている時間はない。無理やりにでも突き放し、自分にも戒めを課す。これが今生の別れではないかもしれない、その希望に縋れば寂しくないのだと。
アリサは父親に言われた通りに動き出した。さすが軍人の子供だ。覚悟が据われば父親譲りの行動力を見せる。父親は生きろといった。今まで自分に無関心だった父親の願いを無下にはできない。
アリサは自分の部屋に戻ると鍵をかけ、すぐさま勉強机の椅子を窓際まで持っていく。それに乗って窓を開けた。吹き込んでくる強風がアリサの金の髪を舞い上げた。
どこからともなく匂うのは焦げ付いた匂い。今まさにこの区画全域が滅びようとしていた。たとえ遅ればせながら軍が到着しようとも立て直せる状況にない。
アリサは意を決して窓の外に身を乗り出す。屋根の縁に足をかけ、足場を確保しながら進んだ。滑らないように慎重に、ゆっくりと。お転婆だとよく母親に窘められたが、今は褒めてくれるだろう。きっと大丈夫、不安感なんかない、怖い心なんてどっか行け。お父さんは心配いらない、お父さんは強い軍人さんなんだから。
ちょっとづつ進み、なんとか屋根の一部が平たくなっている場所に辿り着いた。ここまでくれば後は簡単、立てかけてある木の板を持ち上げて、隣のバルコニーにかけるだけ。丈夫な板だし、アリサの体重程度は難なく支える強度がある。
しかし、板を隣のバルコニーにかけ、いざ渡ろうとした時、聞き覚えのある悲鳴が聞こえた。アリサはなにやら嫌な予感がして、表通りと隣の家の庭が見える位置に移動した。
そこから顔を出して見ると、そこに広がっていたのは最悪な光景。感染者に追われて逃げ惑っている人々。街路樹にぶつかった車が炎上し、横たわった人間が火だるまになっている。そして悲鳴の元凶は、隣の家の庭先、感染者に集たれ、押し倒されて襲われている車椅子に乗ったおじいさんがいた。そして、その車いすを押していたとみられるお手伝いさんもろとも、感染者の餌食になっていた。
そう、そのおじいさんこそ、これからアリサが助けを求めようとしていたフォードのおじいちゃんだったのだ。
父親の上司で、元軍人の偉い人だと聞いていた。その人がまさに感染者に食われている。
いつもアリサに優しい笑顔でお菓子をくれていた老人が、死の間際になって、思わず耳を覆いたくなるような悲鳴をあげていた。
人の死をまさに目撃し、アリサは言葉を失った。感染者よりもむしろ、生に執着し、生きたいと藻掻く人間の狂気に恐れおののいた。アリサに向かって柔和な笑顔を向けていた老人の面影など、どこにもない。
しかしそのときアリサは違和感を感じ、その光景から少し離れた場所に目を移した。
そこにいたのは一人の青年。じっと街路樹の木陰から、その光景を眺めていた。感染者が蠢ているこの場所で、なんとも平然に、そして周りを感染者がうろちょろしているのに、感染者たちは青年に見向きもしない。そもそもそこに青年などいないかのようにふるまっていた。
アリサは始め、それが死人なのではないかと疑ったほどだ。真っ白い肌に、ボロボロの服。しかしよく見えると、その顔には見覚えがあった。
フォードさんのおうちで一度だけ会ったことがある、ここ最近は会わなくなったが、以前フォードさんが自身の誕生会で紹介してくれた。自慢の息子だと。
どうしてそんな人が……感染者に襲われているフォードさんを黙ってみてるの? どうしてフォードさんを助けてあげないの?
そしてその答えは最悪の形で裏切られる。彼の眼は赤く染まっており、顔にはいくつもの青い静脈が走っている、見た目が人間とは思えなかった。それはまるで<感染者>みたい。
青年はアリサの視線に気づき屋根の上に視線を向ける。すぐに隠れなければと思ったアリサだったが遅かった。すでにアリサは発見されており、青年はアリサを見ると、ニヤリと気味の悪い笑みを浮かべる。そしてゆっくりと立ち上がり、右手をあげ、屋根の上にいるアリサを指さした。
その瞬間、フォード将軍とお手伝いさんに集っていた感染者たちが一斉に青年の指さす方角を見た。青年はなにも言っていない、ただ指をさしただけ、なのに感染者たちは一糸乱れぬ反応で呼応、青年の目的を察知する。
その光景が意味するものはただ一つ、この区画を襲っている感染者たちは青年の命令でここにいる。青年が感染者たちを操っているのだ。
「そんな、なんで……」
どうしてそんなことができるのか、幼いアリサにはわからない。だが父親はアリサに生きろといった。どんな絶望的な状況であったとしても。生きるために逃げないと。
「っ!?」
しかしアリサはあまりの恐怖に震える手足を制御できずにバランスを崩した。屋根の縁から落ちる。アリサの意識はそこで途切れた。
水溶液に満たされた円柱状の培養槽の中に女性らしきシルエットが浮かんでいる。口についているのは酸素を供給するためのマスク。そこからポコポコと気泡を零し。
その培養槽に設置された装置、そこに表示された数値を手元のバインダーで留められた用紙に白衣を着た男が書き込んでいく。
そこへよたよたと足元の覚束ない老人が近寄ってきた。
「どうだね、実験体の様子は?」
目をランランと輝かせ、老体に似合わない生命力の強さを感じさせる老人だった。培養槽をうっとりとした目を向けながら感じ入っている。問われた科学者は、老人に戸惑いながらも口を開いた。
「あの、博士、この実験体の脳波の数値に少々疑問が……」
「なんだね?」
「ええ、脳波が均等ではないんです。ここ数日は特におかしくて――刺激に対して脳幹は反応せず常に一定のはず、この実験体は本来なら植物人間のはずですよね」
「ああ……」
老人はなにかを悟っているように答えた。その眼はわざと驚くこともなく平静を装っているようにも思える。ただ視線は常に培養槽に浮かぶ実験体へと向けられていた。
「これが最近の数値なのですが、この波長はなんなんでしょう。これを見るにここでは激しく揺れたりしています、実験体が夢を見ているのでは……」
「夢か……それはありえんよ、この子は植物人間だ。何も感じないし、自分が何者なのかも忘れてしまった……」
「は、この子?」
「いや、なんでもない」
老人は何かを懐かしむかのように瞳を細めた。そこには男が始めてみる慈愛の感情が宿っている。老人はときどき実験体のことを我が子のように<この子>という。普段はちゃんと実験体と呼んでいるのに、それも失敗続きだった実験が初めて成功をおさめそうだからかもしれない。
老人が男の視線に気づき、実験体から目をそらした。その右目がありえない動きでぎゅるっと回転する。老人の右目は義眼であり、かつて感染者に襲われて、右目を摘出、左足にも重傷を負ったそうだ。今もよたよたと足元がおぼつかないのは、そのときの後遺症らしい。そんな状態でありながら心血を注いで実験を成功させようと躍起になっている。男は老人こそ科学者の鏡だと尊敬していた。少しだけ不気味で異様な行動が目立つが。
「この実験はすでに軌道に乗っている、今更、上層部に報告して実験の中止などできるかね?」
「いえ、私も中止とまでは……」
「しかしそうならないとも限らない、なにせこれは人道に反する実験だ。この子が植物人間だからかろうじて許可が下りたんだ。もしそれが意識を取り戻すかもしれない、その可能性があると報告してみろ、この子は完成する前に人間の尊厳を守るという名目で廃棄処分されてしまうかもしれない、私はそんなこと絶対に認めるわけにはっ!!」
老人の目が狂気に満ちていた。今にも人を殺してしまいかねないほど恐ろしい形相で男をにらむ。男はたじろいだ。老人が研究熱心なことは知っていたが、この実験には特に熱の入れようが違う。
「では、このことは上に報告しないと?」
「もちろんだ、黙っていたまえ」
老人はやれやれと首を振ると、いまだ納得しかねている男に顔を寄せ、そして『シー』と人差し指を立て、声を潜める。
「監視カメラもあるんだ、下手なことを言うものではない。前にも君と似たようなことを言い始めた研究者がいてね、アイネ女史だったかな……」
「え?」
アイネ女史とは数か月前から突然、研究所に来なくなった女性だった。それまでは博士同様、研究熱心な科学者だったが、何があったというのだろうか。男は監視カメラの方を向く。カメラは研究所を見回した後、男の顔に向き、ズームした。寒気を覚えた男はすぐに視線を逸らす。
「それはまさかアイネ女史が上層部に?」
「さあ、それはわからなんが、その後、誰も彼女の姿を見ておらん、どこかに監禁されたか殺されたか……死人に口なしというからね、もしやとは思うが」
「そんな、まさか」
信じられる話ではなかった。なにせ軍は人道に反するという理由で、なかなかこの実験にもゴーサインを出さなかったぐらいだからだ。軍も一枚岩ではないとは理解しているつもりだが、まさか強硬派の連中の仕業か。感染者を倒すためなら人道など無視するべきだと主張する派閥で、軍では強硬派と呼ばれている。アイネ女史の行方に確証をもって発言したわけではないようだが、もしかしたら博士も強硬派と関わりがあるのではと男は思った。なら余計、下手なことは言えない。
「彼女は強情だったからね、きっと説得には折れなかっただろう。この世界ではね、真面な人間ほどすぐに死ぬんだ、君も彼女にようになりたくなければ馬鹿を演じておいた方が利口だよ」
老人は同僚が死んだと予想しながらも眉一つ動かさない。平気な顔をして佇んでいる。
「しかし、このままでは、この実験体は完全な兵器にはなりません、不具合が発生する可能性がすでに判明しているんです、最終的には機械制御するんですよね?」
「いいじゃないか君、そんな不安定な兵器があっても」
「はあ?」
それは男にとって信じられない答えだった。それでは兵器としての運用どころか、暴走などされては逆に軍に被害が及ぶのではないかと危惧したためだ。
「使い方次第だよ君、爆弾だって時と場所を選ばないと味方を巻き込むことだってあるだろう?」
「ですがなんとか修正しないと……」
「必要ない、この子はそれで完璧になれる」
『ひひひ、完璧な生命体にな』老人はぶつぶつとなにかを言っているようだが男は聞き取ることができなかった。老人の気味の悪い声が響く。
感染者に妻を殺され、体をボロボロにされたのだから感染者を憎む気持ちはわかるが常軌を逸している。老人は培養液に両手を這わせ、狂ったように、その中で浮く人影に視線を注ぐ。
「もうすぐだ、もうすぐ出られるからな……――」
老人が何かを言ったようだが、この実験体はΣと名付けられた新たなハンターだ。これまでの単純な遺体の機械化ではなく、筋力強化、反射速度の強化といった生物としてのグレードアップを目的とし、そこに機械による制御技術をほんの少し足す予定の新兵器である。
「では、なにかあれば、いの一番に私を呼びたまえ、たのんだよ」
「はい」
男は戸惑いながらも老人を見送る。まるでスキップでもしかねない様子で老人は立ち去った。男はそれを見届けると、バインダーに留められた紙の最後の欄に、実験体のシリアルナンバーを記載する。
実験体番号:Σ00235【ARISA】
コポっと吐き出された生まれたての気泡がゆっくりと水溶液の中を上っていく。水溶液の中で浮かぶ女性の胸元には銀色のロザリオが輝いていた。




