Σの鼓動
西暦2536年、軍はまだ世界各地で大量発生している感染者を抑え込めると考え、その勢いを止めようと躍起になっていた。しかし各地の軍事施設は軒並み壊滅。感染者の襲撃は、より守りの固い軍事施設へと意図的にシフトしていく。
その頃になると人類は、ようやく感染者が意図的に襲撃地点を定めていることに気付く。それまでは本能に突き動かされ、単純な猪突猛進を繰り返しているとしか考えられていなかった。
確かに感染者に思考能力はない。しかし第三者の思惑が絡めば、感染者の動きは意図的に変えられるのだ。今まで人類は感染者に協力的な人物がいるとは思いもしなかった。そもそも感染者側に知能を、いや、自我を持った感染者がいるなど到底、想像できることではなかったのだ。感染者は自然発生的に生まれた、そう見る科学者が多数派だったからである。
しかしこの世で最初に生まれた感染者は、生まれた瞬間から自我を備えていた。感染者とは元来、本能に突き動かされて食人衝動の赴くまま人を襲う化け物ではなかった。そうなったのは最初に生まれた感染者が、新たに生み出す感染者にそのような性質を与えたからだ。無慈悲に人を襲う感染者がイモずる式に増えられるように、本来あるべき理性も自我も、かなぐり捨てて。
そして信頼できる仲間、強固な意志を持ち、特殊な資質を持つ者だけに資格を与えた。感染者として生き、人間を統べる力を。そして、その能力を利用する感染者も現れる。
暴君、人工的に生み出され、彼はある軍の居住区画を襲った。そこは軍の重要施設でもなければ、理性のある行動とは思えなかった。その頃から彼は自我を失くした感染者として、本格的に軍に追われることになる。
その居住区は、軍人が軍を引退後、その家族と心穏やかに暮らす場所。意図的に破壊するにはあまり意味のない場所だった。
住んでいる人間といえば戦う力のない退役軍人。むしろPTSDの治療中の軍人や、リハリビリ施設やカウンセリング施設にしか用のない者、いわゆるその区画全体が療養地の様相を呈している。
しかしその自我を持つ感染者は、その場所を襲った。腹が減っていたわけではない。怒りや恨みがあったわけでもない。ただ看過できない目的のために襲った。そのために周りの住人を犠牲にした。本来の目的を軍に悟らせないために。あらかじめ研究施設を潰したのもそのためだ。
鳴り響くサイレン。襲撃は一糸乱れぬ連携で、まず監視の目を潰すなどして行われ、とても感染者とは思えない手際の良さに、ただの一人もその襲撃に反応できなかった。
閑静だった住宅街はものの数分で人の悲鳴に塗れ。その地獄は退役軍人、中でも幹部が暮らす居住区へと忍び寄る。
寝室で寝ていた男は、玄関扉が破壊される音で目を覚ました。
男はPTSDを患っており、眠りは常に浅い、ゆえに音には敏感だった。
続けて家中に響く悲鳴をめがけて走り出す。二階の部屋を飛び出し踊り場へ、階下を見降ろすとさきほどの悲鳴から心配していた妻が倒れていた。その傍には娘のアリサが茫然と立ち尽くしており、前方に迫りくる影を見つめている。唸り声をあげながら娘に近づいてくる影を見て男は叫んだ。
「アリサ!! こっちに来なさい!!」
その影は男にとってトラウマの象徴。いつまでも克服できなかった不眠症の原因だ。だが娘の危機に際してすらトラウマを発揮していては本当に大事なものを失ってしまう。だから全身全霊で恐怖に立ち向かった。叫び、そして階下へと向かう。階段を駆け下りていく、その途中で娘は父親の存在に気付き、地面に倒れた妻を気にする素振りを見せながらも階段を駆け上がってくる。
それを受け止め、男は踊場へと戻った。
抱いていた娘を地面に下ろし、自身の首にかけていたロザリオに一度キスをして娘の首にかける。
「これはお守りだアリサ、お前を守ってくれる」
屈みこみ、娘と目線を合わせる。そして言い聞かせるように真剣に告げた。
「アリサ、よく聞きなさい、お前はこれから自分の部屋に戻ってドアにカギをかけるんだ」
「でもお父さんは?」
「私は一緒にはいけない、母さんを助けないと……助けられなくても救わないといけない」
感染者に噛まれた者がどうなるか男は軍人なのでよくわかっている。手に持った拳銃を溜息を吐いて握り、アリサの頭を二度ほど撫でた。
「私も後で追いかける、お前は部屋の窓から屋根に出て隣のフォードさんの所に行きなさい、彼らと一緒に逃げるんだ」
「おとうさ――」
もう一度、会えるか不安になったアリサは声をあげようとするが、それを男は遮る。今は時間が一秒でも惜しい。
「生き抜くんだアリサ、今はそれだけを考えて――」
アリサの顔を見ていて感極まってしまったのか男は歪みかけた自身の口を冷静になって元に戻した。
「さあ行きなさい」
アリサから顔を背けて立ち上がり、後ろを向く。今生の別れではないと自分で言っておきながらそれを信じ切れていない自分へと、戒めのように息をつく。
男は黙って行ってしまった。
アリサは父親に言われた通り動き出す。父親の背中に声をかけることも躊躇いを呼ぶ。アリサは軍人である父を尊敬してる。故にどれだけ酒におぼれ、情けない不眠症にあえぎ、夜寝ている間に大声をあげる父からも目を背けなかった。そして今まさに恐怖に立ち向かおうとしている父と同じく、顔を上げて前を見る。
立ち去った父親の言いつけ通り、自分の部屋に戻ったアリサは扉を閉めて鍵をかけ、すぐさま勉強机の椅子を窓の傍まで持って、それに乗って窓を開けた。
吹き込んでくる強風に金色の髪が靡いた。鼻先には焦げ付いた匂いがどこからともなく漂ってくる。この町は今まさに滅びようとしている。もはや軍が介入しようと立て直せる状況にない。
生暖かい風を感じながら窓の外に身を乗り出す。
屋根の縁に足をかけ、足場を確保すると、滑らないように慎重に、ゆっくりと足を動かした。お転婆だったため、屋根に上っていつも父親に叱られていたが、今回は父親の言いつけを守っているだけ、罪悪感はなかった。ただ不安感だけはぬぐえない。
ちょっとづつ進み、ようやく屋根の一部が平たくなっている場所に辿り着いた。ここまでくれば後は簡単だ。立てかけてある木の板を、隣のバルコニーにかけるだけ。木の板はそれほど厚い物ではないがアリサの体重は軽いので問題ない。
しかし、板を隣のバルコニーにかけ、いざ渡ろうとした時、聞き覚えのある悲鳴が聞こえた。アリサはなにやら嫌な予感がすると、表通りと隣の家の庭が見える位置に移動した。
そこから顔を出して見ると、そこに広がっていたのは地獄絵図。感染者に追われて逃げ惑っている人々。街路樹にぶつかった車が炎上し、横たわった人間が火だるまになっている。
続いて悲鳴が聞こえたお隣の庭に視線を移すと、感染者に集たれ、押し倒されて襲われている車椅子に乗ったおじいさんと、その車いすを押していたお手伝いさんがいた。もはや助けることは不可能で、そのおじいさんには見覚えがあった。
父が助けを求めるように言っていたフォードのおじいさんだ。
父親の上司で、元軍人の偉い人。
いつもアリサに優しい笑顔でお菓子をくれていた老人が、死の間際には思わず耳を覆いたくなるほどの悲鳴をあげていた。
人の死とは、こんなにも恐ろしいものなのだ。生に執着し、生きたいと藻掻く人間の顔は狂気に染まっていると言い換えてもいい。
しかし何か違和感を感じ、アリサはその光景が少し横に目を移した。
そこにいたのは一人の青年。じっと街路樹の木陰から、その光景を眺めていた。感染者が蠢ているこの場所で、なんとも平然に、そして周りを感染者がうろちょろしているのに、感染者たちは青年には目も向けない。そもそも感染者なら動いているはず、アリサは始め、それが死人なのではないかと思ったほどだ。だがその男の横顔は笑っていた。よく見えるとその顔には見覚えがあった。
フォードさんのおうちで一度だけ会ったことがある、ここ最近は会わなくなったが、以前フォードさんが自身の誕生会で紹介してくれた。自慢の息子だと。
どうしてそんな人がここに? どうしてフォードさんを助けてあげないの?
そしてその答えは最悪の形で裏切られる。彼の眼は赤く染まっており、見える肌は色素が薄い、顔にはいくつもの青い静脈が走り、人間とは思えない。
男は視線に気づいたのかこっちを見た。瞬間に隠れようと思ったが遅い、男はニヤリと笑みを浮かべる。そしてゆっくりと立ち上がった。
男が私を指さした。その瞬間、男は声さえ発していないというのに感染者たちが一斉に動きを止め、私を見る。フォードさんに集っていた感染者たちも、こっちを見ていた。
その光景が意味するのは、これから訪れる最悪の結末。そしてこの感染者たちによる強襲が彼の仕業であることの証明だった。
「感染者を操ってる……」
幼いアリサにもわかった、この状況で生き残ることの難しさ。そして。
「っ!?」
アリサは恐怖から態勢を崩し、落下した。アリサの意識はそこで途切れた。
水溶液に満たされた円柱状の培養槽の中に女性らしきシルエットが浮かんでいる。口についているのは酸素を供給しているらしいマスク。そこからポコポコと気泡を零し、培養槽に隣接した装置を眺めながら、そこに表示された数値を白衣の男が手元のバインダーに留められた用紙に書き込んでいく。
そこへよたよたと足元の覚束ない老人が近寄ってきた。
「どうだね、実験体の様子は?」
目をランランと輝かせ、老体に似合わない生命力の強さを感じさせる老人は、培養槽をうっとりとした目で見つめながら近づいていく。
問われた科学者は、老人に戸惑いながらも口を開いた。
「それが博士、この実験体の脳波の数値なんですが……」
「脳波?」
「ええ、脳波が均等ではないんです。ここ数日は特におかしくて――確か刺激に対して脳幹も反応しない、この実験体は植物人間のはずですよね」
「ああ……」
老人はなにかを悟っているように答えた。その眼は驚くこともなく、ただ培養槽に浮かぶ実験体へと向けられていた。
「なのにこの波長は不可解です。これを見るに実験体は夢を見ているのではないかと……」
「ありえんよ、そんなことはね……」
「そうなのですが――」
老人はようやく男を振り向くと、にやりと笑った。その右目がありえない動きでぎゅるっと回転する。老人の右目は義眼であり、かつて感染者に襲われ、右目や左足に重傷を負ったのだ。そしてその欠損部分は治療の甲斐なく機械へとなり替わった。故に左足も義足である。
老人は男が訴えても、数値を確認することもなく不気味な笑顔を改めない。
「この実験はすでに軌道に乗っている、今更、中止などできると思うかね? 下手なことを触れ回ると、君も上層部に目を付けられるぞ……下手なことはしないことだ、この計画は最早、人道的配慮など入り込む余地などないのだから」
「しかしこれが事実だとしたら人の倫理に反しています。博士は生きた人間を実験体にすることに抵抗はないのですか?」
老人はやれやれと首を振った。そして『シー』と声を潜める。
「監視カメラの前であまり下手なことを言うものではない。だからどうするというのだね? 君も上層部にかけあってアイネ女史のようになりたいのか?」
「え?」
男は思わず驚きの声すら震わせた。アイネ女史は同僚で、数か月前から依願退職した女性だ。優秀な研究者だったがなぜやめたのかは聞かされていない。部署を変えられたということだろうか?
「アイネ女史は今――」
「彼女は影響力のある立場だった。どこにっても火種になる、そういう人間は秘密裏に処理されるものだよ」
「まさか」
軍が殺人を犯す、そんなリスクを犯してまで計画を推し進めようとしているのか、この研究が軍の肝いりで発足したとは知っていたがそこまでするとは思わなかった。
「彼女はこの手の事には強情だからね、説得を試みたようだが最後まで折れなかった、踏み絵を踏めないキリシタン、神の存在を最後まで信じた科学者の鏡だ、しかし真面な人間であろうとする人間ほどすぐに死ぬ、君も彼女にようになりたくなければ馬鹿を演じておいた方が利口だよ」
老人は同僚が死んだことを口にしながら眉一つ動かなかった。平気な顔をして佇む。
「この研究はなんなんですか?」
「今、唯一、人類が取り得る感染者に対抗するための手段……かな」
男は研究の内容を知らないわけではない。この研究がどういったものかはよくわかっているつもりだった。しかしそう聞かずにはいられなかった。それはこの計画の立案が彼らの手によって始まったわけではないからだ。そして軍上層部の誰でもない。この研究は感染者が生まれるもっと前から計画されていたもの。男も老人も、その計画を引き継いだに過ぎなかった。
「くっくっく」
感染者に妻を殺され、一人娘も意識不明の重体に、二度と目覚めることはないと宣告された男は研究者となった。錯乱しておりトラウマ持ち、軍人としては再起不能だったが頭脳は優秀だったため研究職に就くことができた。老人になるほど時が経っても、あの時の怒りは忘れていない。殺したいほど憎み、己の倫理観など崩壊しても構わないとすべてを捧げた。そして生み出した実験体だ。老人にとって命よりも大事なもの。老人は狂った足取りで培養槽に近づくと、その中で浮く人影を凝視する。
「もうすぐ出られるんだ、もうすぐだからな」
Σと名付けられた新たなハンターを生み出す研究。老人はなんだかんだと男に講釈を垂れたが、結局は自身の目的が叶うことにしか興味がない。この計画の完遂を一番心持ちにしているのは後にも先も老人なのだ。
「では、なにかあれば、いの一番に私を呼びたまえ、たのんだよ」
「は、はい」
気のない返事をする男を置いて、老人はスキップでもしかねない浮かれた様子でラボを後にする。
男はそれを見届けて、バインダーに実験体のシリアルナンバーを書き留める。
実験体番号:Σ00235【ARISA】
コポっと吐き出された生まれたての気泡がゆっくりと水溶液の中を上っていく。水溶液の中で浮かぶ女性の胸元には銀色のロザリオが輝いていた。