Werewolf
「あの、さっきは逃げてしまってごめんなさい、玄関の件は謝りますので、ここは、なんとか穏便に――」
あの時は逃げるしかないと思ったが会話が成立しない相手には見えない。自分でも現金な話だと思いながら説得を試みると、女性は首を振る。だろうな。なんとなくそんな気はしていた。
「仲間は本当にいないんです」
何を言おうと動じない。女性は無言でコキコキと小気味よく指を鳴らす。有無を言わせず、説得は無駄、そんな拒絶の意思を感じた。
「それが本当だとしても、やることはわからない、ただの確認だ」
「え?」
ただの確認、これまでの会話全てが俺を殺す前提で進められた話。つまり仲間がいようといなかろうと初めから殺すつもりだったと。交渉ですらなかったわけだ。
正直に言わないと寿命が減ると脅しておきながら、なんて傲慢不遜な女性なのか。しかし女性は生き生きしていた。ただそこにあるがまま、誰に、はばかることなく生きたいように生きている。そんな姿を眩しく感じた。
しかし俺も呆けてばかりはいられない。彼女と真面にやり合うのはまずい。さっき拘束されたとき、女性の細腕からは想像もつかないような怪力で押さえつけられた。あれはただの人間ではありえない力、さらに言えば、俺はここまで全力で逃げてきた。なのに女性の足でなんなく追いついた。情に訴えても無駄なのはわかる。しかし戦うのはさらに悪手だ。この人とは戦うべきではない。わかりきった結果にしかならないはずだ。
「話し合いでなんとかなりませんか?」
最後の交渉、一縷の望みかけて訴えたが、彼女は案の定、無言の拒絶で俺の希望を粉砕した。
「私のテリトリーに他の感染者は入れない契約だ」
契約か、彼女の都合だけで殺してるわけではないと……なるほど、見逃すわけがないか。にしても、俺もそうだが彼女も武器を持っていない。殴り合いで殺し合うというのも時間がかかりすぎる気がする。
『グルルル……』と、どこからともなく獣の唸り声がした。あたりを見渡すが、それらしい何かは見当たらない。なんだ今の? 大型な獣? の唸り声みたいだったが。ていうか彼女の身体……最初見た時より大きくなってないか?
「じゃ、ちゃっちゃと済ませるか。けど、お前、本当に弱そうだな。自我を持った奴は大抵、慎重なもんだが……私に喧嘩売る突き抜けて馬鹿な奴が、お前みたいな弱そうな奴だなんてのは――中々ねえぜ」
女性が言い終わるやいなや、その身体が膨らんだ。髪が逆立ち、全身の筋肉が盛り上がっていく。獣の耳に鋭い牙、鼻から顎にかけてが犬のように前方にせり出した。
まるでVFXでも見ているようだ。増幅した筋肉によって服の繊維が引き裂かれ、女性の身体は見上げるほどの大きさになっていた。
変身を終えたそれは狼人間。さっきまで目の前にいた魅力的な女性の面影など、どこにもない。不気味な唸り声をあげる化け物だ。
「AOOOOOOOOOOOO!!」
狼人間の雄たけびに肌がピリついた。俺は茫然自失とそれを見上げる。俺は彼女の怪力に怯えていただけで、こんな化け物の相手をするなんて思ってもみなかった。変身した? 冗談じゃない。こんなの完全な化け物じゃないか。山道で俺を正確に追えた理由は脚力だけじゃない、狼人間としての嗅覚を使えば、仮に森に逃げ込んだとしても追いつける。なのに俺は一本道しかない山道を選んだ。彼女が俺を雑魚だと侮っている理由は、見た目だけじゃなく思考も単純だったからだ。彼女の眼に今の俺は、さぞ狩るのが容易い相手に見えていることだろう。
『ああ、こいつはまた、偉い奴とやり合ってるな』
タイミングが良いのか悪いのか、頭の中で気楽な声が言った。そんなことを言ってる場合ではないと反論したかったがこっちも必死だ。
この最悪な状況をどうにかできないか、頭をフルに使って最善の策を導き出さなければならない。
「くそ……どうすれば……」
『変身型の感染者とは厄介だな……ちなみに、でかいやつは単純に強いぞ』
『弱点は?』
『シンプルな能力だから少ない、でかすぎる奴には戦いにくい場所がある、敵によっては小さすぎて見えないとか……』
『そんなの、こいつには当てはまらないぞ』
『だから少ないって言ってるだろ』
変身能力がシンプルだって? 感染者って奴はどこまで規格外なんだ。
ワーウルフがすごい勢いで突っ込んできた。レーシングカーかよっ!?
なんとか無様に転がって逃げ、ワーウルフの繰り出した拳を避ける。しかし背後に立っていた木が、ワーウルフの繰り出した拳を受け、中ほどから折れる様が、ベキベキと傾く音と共に戦慄を過らせる。当たったら間違いなく即死だろう。
「ッ!?」
いきなり衝撃があり、風圧と共に、しばしの浮遊感。
「ごほっ!?」
地面を何度かバウンドし、気づけば背中を大木に打ちつけていた。なにが起こったのかわからず、とりあえず木に手をついて体を起こそうとするが呼吸ができず咳き込んでしまう。なんだ、何を食らった? いきなり吹っ飛ばされた、記憶に残らないほど一瞬の出来事で、苦しいやら痛いやら、そして箇所も不明だった。
全身が……いや、特に背中か、それに内臓……肺にも痛みがある。
げほげほと咳き込みながら前を向くと、すでに目の前までワーウルフが迫っていた。避けなければと瞬間的に思考を巡らせ、考える前に身体を動かした。転がってワーウルフの攻撃を避ける。立ち止まっていたら次の瞬間にはあの世行きだ。
息つく暇もなく、頭上にもう影が、次の攻撃がくる。
ぎりぎりで攻撃を避けた。ワーウルフの姿を目視している暇もない。
「お前、見た目以上に脆いな、くっくっく」
手加減してるとばかりにワーウルフが楽し気に笑った。視線を左右に振る。一度、森の中に逃げ込んで態勢を整えるか――。と思った時、ワーウルフの腕が素早く動いた。
俺はワーウルフに簡単に拘束され、掴み上げられる。徐々に拘束の力が強まり、全身の骨が軋み始めた。
「ぐっ!?」
「潰れろ……」
あきらめたわけじゃないが勝ち筋が見えない。このままでは――。
『噛み付け!』
言われた通り、目の前の毛深いワーウルフの指に噛み付くと、うっと呻いてワーウルフの力が緩んだ。しかし緩む程度で拘束は解けない。そこで例の筋肉移動で怪力を発揮、俺は弾かれるようにワーウルフの拘束を跳ね飛ばすと、四足歩行になって地面に着地した。ワーウルフの両足の間から見える、前方の景色がズームアップする。
そういえばこの体勢、あの軍人の感染者が使っていた形態だ。あれは単なる態勢の違いに過ぎないと思っていたが、この感覚、どうやらそれ以上の効果があるらしい。
視覚が研ぎ澄まされ、四肢に力が分散する。大地を掴んでいる感覚。これならワーウルフから逃げ切れるかもしれない。
俺はワーウルフが困惑している隙を突き、ワーウルフの両足の間を掻い潜って逃走を図る。 完全に意表を突けたはずだった。このスピードなら逃げ切れると確信した、しかし一抹の不安を抱き、ぐんぐんスピードアップしていく中、そろそろ余裕ができたかと思い、背後を見た。そこにあったのは絶望だった。
こちらのスピードも上がっているはずに、すぐ近くにワーウルフはいた。しかもワーウルフも四足歩行で、舌を出し、バフバフと息を吐きながら、付かず離れず、すでに追いついている。
置き去りにしたと思ったのに……俺の全身に悪寒が走った。
『こいつは単なる変身型じゃない! 真祖に近い血統かもしれん!?』
ワーウルフが手を伸ばした。逃げきれない。その動きがスローモーションに見えた。逃走を諦め、身体を固めてガードする。
防いだところで焼け石に水だろう、ワーウルフはスピードが出ている。そのスピードの加わった拳を食らえば、俺の身体など砕けてしまう。
「ぐっ!?」
案の定、受けた瞬間、信じられない衝撃で跳ね飛ばされた。体の至る所を強くぶつけ、何度も石に頭をぶつけた。気が付けばうつ伏せに、地面の匂いを嗅いでいる。うつ伏せだとは思うが態勢がどうなっているのか違和感があった。身体がねじ曲がっており、腕もあらぬ方向に向いている。
でも生きてる。
こ、コフ……。咳き込むように小さな息を吐き、息をするだけで首が痛んだ。身体はぴくりとも動かない。四肢に感覚がなく、なんとか絞り出そうとした声も『あえ……』と、声にもならないものだ。呂律も回らず、ただ思考だけは正常に働く。視覚も半分欠けており、相当やばい状態だとわかった。
「こ、これ……あ……」
死にかけてる。しかし辛うじて死んでいない。こんなになっても死ねないなんて呪いではないかと思った。
『そう簡単に死んだりはしない。下手に動くな、回復が遅れる』
「うう――」
返事もできず、脱力すると身体がゴキっと音を出す。じんわりと音が鳴った場所に熱がこもり、痛みが引いていく。再生していく。折れた骨が……ありえるのか?
この再生能力がどこからきているのか末恐ろしく感じた。俺を感染者だと言った彼女の言葉が脳裏を過る。確かに今まで違和感はあった。自分が何者なのかわからず、ただ必死だったから見ないふりをしていたものを。
受け入れづらいがそうなのだろう、この事実が証明している。
ドシンドシンと地響きが止まり、随分と体の痛みは引いてきた、顔を上げる。
「まだ生きてるのか……」
身体をゴキっと半回転させて、背骨が正しい位置にくっついた感触。ワーウルフはぎょっとした。
「その状態で治るのかよ?」
「ふう……痛いのはもう嫌なんだけど……休戦しない?」
ダメ元で言ってみると、ワーウルフは少し考える素振りをした。今まで何を言っても受け入れる気なんてこれっぽっちもなかったであろう顔が、今では取り付く島はありそうな、ポリポリと爪で頬を掻くほど砕けて見える。
立ち上がると、ワーウルフは、くくと笑い、その体が縮んだ。やがてボロきれを纏う女性の姿になった。
「確かに殺すのは惜しいかもな、その再生力、使えそうだ」
「見逃してくれる?」
「その代わり、こき使うぞ、できませんなんてのは無しだ、いいか?」
俺は大人しく頷いた。ここは従っておくしかない。殺されないだけマシだ。もとは彼女の家の玄関を壊してしまったのが発端なんだし、ある程度、働いたら開放してくれるかもしれない。
「よし、決まりだ」
女性が近づいてくる。そう見えるわけではないもののボロを纏ったような姿、かなり危うい格好をしている。胸はトップのあたりが見えないだけで、ひらひらと揺れる布切れが、横やら下やら、双丘のふくらみを垣間見せる。
自分の格好を気にした風でもない女性が、至近距離に近づいてくるなりガバっと強引にハグをしてきた。豊満な胸が胸板に当たる、この弾力、意識が飛びそうになる。
「ちょっと痛むぞ」
「え? いっ!?」
ちょっと首を傾けたかと思うと、いきなり首を噛まれた。まるでドラキュラだ。ガリっと音を立てるほど皮膚に歯を立て、血飛沫が上がる。せっかく回復したばかりなのに、さっそく次の痛みに襲われた。
あまりの出来事に、俺は地面をのたうち回る。首を押さえて女性を見上げた。
「なんで……」
「一応、確認だ、お前が嘘をついてないかどうかのな」
女は口に含んだ血をぺっと地面に吐くと、真っ赤に染まった口を拭った。顎から粘着性のある血がしたたり落ちる。
「グルル……、よし行くぞ」
いきなり首を噛まれた理由も説明せず、女性は俺の左足を掴み、ズルズルと引きずって歩く。
「いたッ!?」
こんな乱暴な運搬方法があるだろうか、地面に転がっていた石に後頭部をぶつけ、悲鳴をあげる俺を、女性は振り返ることもせず、引きずるのを止める様子もない。
「歩けないみたいだから運んでやってるんだろ、我慢しろ」
「せ、背中が削れる!?」
「そんなもん、すぐ治る、それより自己紹介もまだだったな、私の名前はアイラミリオン……お前が使えるかどうか見てやるよ、レオ……」
「どうして俺の名前、いでッ」
「それとお前、血が変な味だったぞ、腐った肉でも食ってるんじゃないだろうな」
どうやら彼女が俺の首を噛んだのは、俺との間に絆を結ぶためだったらしい。直近の記憶や、心に深く刻んだ仲間の有無、自分を騙そうとしているかどうかも、なんとなく血を飲むことで感じ取れるみたいだ。
そしてそれは俺も同じ、アイラの中にトラウマを見た。
アイラはずっと影に怯え、影から逃げている。
影が必ずやってくる、そう確信している霧の立ち込めるその先を見据え、ただひたすら、今とは違う、少女の姿で立ち尽くしている。それはトラウマ。心の中で仲間を欲する彼女の弱い部分だった。
『お父さん、お母さん……』
深い後悔の念を抱き、アイラは黒い影が自らの前にやってくるのを、ただひたすら待っている。