獣の庭
ヘリの中はキュウキュウと忙しない音が鳴り響き、一刻の猶予もならない状態に思えた。だが実際は感染者に襲われているわけでも機体が傾いているとかそういうことでもない。そもそもヘリ自体が万全な状態で置かれていたものではなく、機器類に多少の問題を抱えているものだったようだ。だから中にいる軍人たちもピリピリはしていない。
ただ軍人たちと違って俺はというと腕に巻かれた包帯を見つめ、ショックの最中にいた。この後のことを考えると気が滅入る。感染者に噛まれたら、その噛まれた人間も感染者になるというのは有名な話だ。俺も感染者のことを思い出したときから、噛まれたらこうなることはわかっていた。だから絶対に噛まれないように気を張っていたのに。
ヘリがぐらりと大きく揺れた。だがヘリに乗っている人間は誰も慌てふためいたりしない。もちろん俺もショックでそれどころではない、ばかりか、だんだん感染者に変身する兆候なのか体が熱くなってきて、ヘリの状態を気にする暇さえないのだ。吐く息も熱い。
操縦席の方で誰かが言い争いをしている。ライラと、もう一人はライラの仲間の巨漢の大男、名前をジェリドというらしい。言い争いの内容はどうやら俺のことに関するもので、明らかに感染者に噛まれた俺をヘリに乗せるのは問題だとジェリドが言い張り、ライラが俺をかばおうとしてくれているようだ。
確かにこの状況はかなりやばい、俺がもしここで感染者に変身しようものなら、自我をなくした俺は問答無用で彼らを襲うだろう。そうならないためには俺を早急にヘリから降ろすしかない。ライラの主張の方が不利なのは誰の目から見ても明確だ。
今、俺にあるのは虚無感や絶望感。それらがないまぜになって襲ってくる。どうせ助からない。なら最後に自分を助けてくれた人、さらに俺を生かそうとしてくれている人に、これ以上迷惑をかけたくはない。誰だって感染者になんかなりたくないが、避けられない運命なら、そうせざるを得ない。自己犠牲ってやつが必要なのだ。恰好つけるなら今だぞと、しかし、ことあるごとに頭の中でアドバイスを発していたあいつは、今は何も言ってこない。
どうやら言い争いがひと段落ついたらしくライラがいない。どうやら同僚ではなく彼女は上官に直談判するらしい。代わりに一人になったジェリドがなにともなしにこちらを見てきた。
俺をにらんでいる。面倒な荷物を背負いこんだと思われているのかもしれない。目が少しばかり俺のことを訝しむような雰囲気だ。
俺はというとそれどころではなく、頭痛から顔を上げていられない。下向いて熱い息を大きく吐く。これが変身の兆候だと判明しているわけではないが明らかに異常な状態だ。吐く息が蒸気を帯びて白くなっている。人間蒸気機関車か俺は。
地面を見つめたまま顔を上げられずしばらくそうしていた。そしてようやく顔をあげたときジェリドと目がった。するとジェリドの目が、はっと見開き、コツコツと固い軍靴の音を響かせ近づいてくる。
それがすぐそばで止まった。俺を見下ろしていたジェリドの顔が、さらに驚愕な色を帯びた。
「おい、スカイ、ライラ!! こいつを見ろ、そろそろまずいぞ!!」
ジェリドの声が若干、上擦っている。そんなにもまずい状況なのか、俺は自分の身に起きている症状しかわからないが熱を帯びている以上に顔色も相当、悪いらしい。ほんと笑えてくる。死が確定した絶望的な病気に罹った気分だ。心の中には恐怖心しかない。
俺のそばに今度は複数の足音。それがバタバタと忙しなく止まった。
まっさきに近づいてきた青年が俺の前で屈みこみ、手にゴム手袋をつけると俺の顔を両手で挟んだ。
爽やかな見た目をした青年だった。ただ目つきが鋭く、まるで野獣のような雰囲気もうかがえる。草食系に擬態した肉食獣のような貫禄があった。これまで様々な戦場を渡り歩き、生き残ってきたような軍人だ。おそらくこの人がライラの上官で、この部隊の隊長なのだろう。
頭が割れそうに痛い、なんとなくこの人の近くにいると症状が徐々に悪化していっているような感じがする。ただの気の持ちようか? いや、本当にまずい気がしてきた。
「スカイ、どうだ?」
ジェリドが信頼しいている相手にお伺いを立てるように言う。スカイは俺の目尻に親指をあて、軽く押したり、下げたりした後、目の充血具合や、目尻からなにか分泌液が出ないかを確認した後、立ち上がって腕を組む。はあ……と、症状が深刻なのか、まだ余裕があるのか、どちらとも取れない息を吐く。
「俺も医者ではないから正確にはわからんが」
青年の左肩に刻まれたマーク、Zの文字に似たタトゥーだった。俺はなんとなく、その文字に見覚えがあった。どこで見たのか、記憶などないはずのに、かすかに覚えている。文字……いや……あれは文字ではなかった気が……。
「白い息を吐いてるのは明らかにおかしいだろ」
「ああ、顔も異様に白いし、ただこの症状はこれまで俺が見てきたどの症状とも違う。噛まれたのは普通の感染者だったのかライラ?」
「……」
ライラの表情が、俺を噛んだ感染者が普通の感染者ではなく異常個体だったと雄弁に語っていた。
「俺たちに襲い掛かってくる前にヘリから降ろしたほうがいいんじゃねえか?」
「ああ……そうだな」
話は、スカイと呼ばれた青年の同意でまとまった。俺が自らヘリを降りるとしゃしゃりでなくてもよいのは助かるが、逆に心配になったのはライラの様子だ。下を向き、ぐっと両こぶしを握り締め、つらそうな顔をしている。俺がヘリを下ろされるのはライラの所為ではないのに。
なにか声をかけてあげたいが、かける言葉が見つからない。すると案の定、納得いっていない様子だったライラがスカイに詰め寄る姿勢を見せた。
「待ってくれ、噛まれたのはついさっきだ、もう変身の兆候が表れるって、なにがなんでも早すぎるだろ」
スカイはもちろんジェリドだって、ライラの主張には首を振る。当然だ。実際に噛まれた者になんらかの症状が出ているのだ。危険をこうむるのは自分たちでもあるし語気を強めてライラを諭す。
「仮にその道理が通るなら、噛まれた相手が普通の感染者だったならだ。だが、あの暴君に噛まれたのだとしたら話は変わる。奴の凶悪さ、異常さは他の感染者どもとは比較にならない。突然変異で生まれた化け物だぞ、うちの科学部門でも分析、管理しきれず暴走した、挙句の果てがあの事件だ」
どうやら俺を噛んだ、あの感染者は、ライラ達、軍人にとっても因縁のある相手だったらしい。人が感染者になるメカニズムはいまだ解明されていないというし、俺を治す方法も皆無。だとしたら放っておくしかない。どこか人を襲わない場所に放置するしか彼らにはできない。この場で殺さないのが彼らにできる最大限の慈悲だ。これは死者が動き出して人を襲う奇病なのだ、治せと言われたら、道徳心の強い医者だって裸足で逃げ出す。
「しかし……」
「俺だってお前の恩人を簡単に見捨てたくはない。ただ状況が状況だ。今回はあきらめるしかない。俺たちは今までだってすべての命を拾ってきたわけではない。一番、救いたかった仲間の命だって、これまで何度もあきらめてきたんだ」
「だが、まだ助からないと決まったわけでは――」
スカイは首を振る。それはほぼ決まっていることだと言いたげに。
「まだ試せていない方法がある」
「なにをだ?」
今度はジェリドが口をはさんだ。頑ななライラの様子に業を煮やしたようだ。
「さっきも言ったが、もう阻害薬は残ってない。簡易テントから持ち出す暇もなかった」
阻害薬? そんなものがあるのか? 驚きだ。人間の医療技術というものは底が知れない。まさか治療薬はできていないまでも、感染者になるのを防ぐ阻害薬なるものが開発されていたとは。
スカイは眉を顰めた。
「阻害薬の存在は口外するな、そもそも阻害薬は戦いの前に投与するもので、予防薬みたいなものだ、感染者への変身を始めた人間に投与しても気休めだ。ビタミン剤と大差ない」
「だから試してみようと――」
「ジェリドも言ったように手元になければ試せない。こんな状態で拠点まで持つわけがない、今回は仕方がない、諦めるんだ」
「だったら私が取りに行ってくる」
「なに? 基地に引き返すというのか? やめておけ、自殺行為だ。いくつもの部隊が奴らの急襲に遭い、感染者の群れは最初の頃より数を増している。俺たちでさえ逃げ出すので精一杯だったんだぞ」
「薬を取りに行くだけだ、長居をする気はないさ、私だけならなんとか――」
それこそ無謀だと思ったが、ライラは決意が固いのか、スカイの静止も聞こえていない様子だった。
これは誰が止めても無駄かもしれないが当事者の俺だけは止めなければならない。みすみす俺のせいでライラを殺したくないからだ。そんなライラを射殺すようにスカイがにらんでいる。
「認めないぞ、そんなことは」
「スカイ……」
「お前は大事な俺の部下だ。これから幾万もの感染者どもを駆逐し、人類の未来を取り戻すために尽力しなければならない。その任務をこんなところで放棄したら、俺を含め、どれだけの人たちが失望するか」
スカイはもしかしたら変な勘繰りをしているのかもしれない。昨日今日、会った人間と恋仲になったとでも? いや、そうは思っていなくても、ライラが俺に特別な感情を抱いているのではないかと勘繰ってでもいるのか? 確かにライラの勢いにはそれを予感させるほどの必死さはあるが。
「見殺しにはできないんだ、絶対に」
「俺たちが<絶対>なんて言葉を口にしてはならない、今まで見捨ててきた人々、助けられなかった人々にお前だって全力を尽くしてきたんだろ、それなのに救えなかった、気持ちだけで奇跡など起こせるか! 冷静になれ!」
ライラがスカイをにらみつけた。
「レオを救えない? 絶対なんて言葉を口にするな? だったらすべての感染者を駆逐することだって絶対じゃない、そもそも私の代わりなんていくらでも――」
それはたぶん口にしてはいけない言葉だったのだろう。スカイは今までの温和な顔が嘘のように、鬼のような形相になった。ただそうなったのは一瞬で、次は冷静な顔を浮かべる。ただし心の中でくすぶり始めた、揺らめく炎のような狂気はいまだ失われていない。
「いない、お前の代わりなどいないんだ」
しみじみと言い、俺を見ろし、聞こえるか聞こえないかぐらいの舌打ちをする。今のはもしかして俺に対しての舌打ちか? スカイの好戦的な一面を見た。そして同時にライラをどれだけ大事に思っているのかもわかった。スカイの口から奥歯を噛みしめたのか異様な音が鳴る。
「それにお前は救われる側の気持ちを考えたことがあるか? 困っている者、苦しんでいる者、誰もが救いの手を期待しているわけじゃない、もし俺がこいつなら、救ってくれたお前に迷惑をかけてまで生き残りたいとは思わないはずだ」
俺の気持ちを勝手に代弁したスカイに、しかし怒りは湧かなかった。確かにそのとおり、俺はライラに危険な任務に赴いてほしくない。俺が感染者に噛まれたのは誰のせいでもない。俺が対峙した感染者が強すぎて、圧倒された故の出来事だ。だからライラには仮に俺が救えなかったとしてもしょげてほしくなかった。
ジェリドがそんな空気をものともせずに切羽詰まった声をあげる。
「おいおい、早くこいつをヘリから降ろさないとまずいことになるぞ、このぶんじゃ後、数分、持つかどうか……はやく結論を出してくれ……」
俺をヘリから降ろすことは確定しているから結論といっても一択しかない。スカイが少しだけ、ジェリドの焦った様子に気を抜いた。わかってるわかってると。
だが、その隙をライラは見逃さなかった。素早く腿のガンベルトからベレッタを抜いて銃口をスカイに向ける。スカイもジェリドも息を飲んだ。咄嗟のことで反応できなかったのだ。俺も、まさかライラが仲間に銃口を向けるような強硬策に出るとは思いもせず。
ショック気味の表情を浮かべていたスカイが、また憤りをあらわにする。
「どういうつもりだライラ」
ライラの行動を窘めるほかに、冷静さを取り戻させようとする目的もあったのだろう、しかしライラはスカイの言葉に耳を傾けず、操縦席に向かって『ヘリを着陸させろ』と声を荒げた。もちろんヘリの操縦士は、もう一人いる。しかしヘリが高度を落とす様子も、着陸場所を探している様子もない。操縦者は、どうやらスカイ以外の命令を聞く気はないようだ。しばし沈黙が流れる。
「無駄だライラ、相手が悪い、やめとけ」
ジェリドが制止の声をあげるも、ライラが銃をおろす気配はない。そしてライラを怒りを籠った目で見ていたスカイが次の瞬間、素早く腰のホルスターから銃を抜いてライラに向ける。
ライラとスカイが互いに銃口を向けあう最悪の事態になった。
しかし銃を受けあうだけで、スカイとライラは引き金を引かない。これは単なる脅しであり、仲間を大切に思う彼らには、その後の展望がまったくないのだ。だとしたら一人で抵抗しているライラが不利。
スカイはライラに向けていた銃口をゆっくりと床に倒れ込んだ俺に向ける。その行動に、はっとしたのはライラだけではなくジェリドもだった。『おい、スカイ、流石にそれは――』と声をあげている。当然だ。スカイは無防備な人間。武器を持っていない人間に銃口を向けている。軍の規律に照らし合わせるなら軍機違反ととられることもある。そして、その銃の構え方はライラとは異なり、歴戦のガンマンのように少し腰を落とし、そしてどことなく凄みがあった。早撃ちでは負けないと誇示するかのような自信あふれる威嚇だ。
「銃を仕舞えライラ……こいつを撃つぞ。そんな見せかけの脅しが<本物>に通用するか試してみるか?」
「スカイ……」
「どのみち感染者となって死ぬ運命だ。変身する前に殺せば手間も省ける」
「相手はまだ民間人だぞ」
「それがどうした、俺たちが殺してきた感染者だって元は善良な人々だった、人の尊厳を守るのも俺たちの戦い、そうじゃないのかライラ」
物は言いようかもしれないがスカイの目は完全にすわっている。今にも手違いで銃の引き金を引きそうに見える。ライラは気圧され、すでに虚勢のメッキが剥がれかけていた。焦りや動揺が傍から見てもわかる。もはや勝負はついていた。
ライラはやり切れない様子で銃を下し、降参した。スカイの迫力を見れば、スカイなら銃を撃ちかねない、いや実際に撃っただろう、それだけの覚悟がスカイにはあった。それが勝敗を分けたのだ。守りたいものを人質にとられてはどうしようもない。そのわかりやすい本心を見抜かれたライラの負けだ。ジェリドは、なんとか決着したかと額の汗を拭っている。
スカイは静かに撃鉄を戻し、ヘリの操縦士に向かって『着陸場所を探してくれ』と命令を下す。ライラの時と違ってヘリの動きが、何かを探すような動きに変わった。スカイが俺を見下ろす。
スカイの腰には左右にそれぞれホルスターがあり、二丁拳銃スタイルだ。持っている銃を俺に差し出す。それは俺を撃とうとした銃、年季が入り、くすんだ色をしている。年代物の銃だ。
「部下が世話になった礼だ。選別に受け取ってくれ」
俺は恭しく銃を受け取る。俺に銃をくれたのはスカイなりの気遣いだったのだろう。使用用途は明確で自殺用だ。それを使って感染者に変身する前の自分に引導を渡せと言いたいらしい。
スカイの腰に残ったレフトハンドの専用銃。なにともなしに眺めているとスカイが居心地悪げに立ち上がった。
その後、俺は虫の音だけが寂しく響く牧草地に降ろされた。暗闇の中、遠ざかっていくヘリの音を見送りながら別れる最後、終始、申し訳なさげに俯いていたライラの顔を思い出す。彼女にはどうにか立ち直ってほしい。彼女が元気なら俺はそれで満足だ。
なんだかヘリから降りたら急に症状が治まってきた気がするが、これはそろそろ変身する準備が整ったという合図なのか、逆に気が滅入ってくる。
さわさわと風に棚引く草が足に触れこそばゆい。俺は牧草地に大の字に寝転がっていた。
スカイに貰った拳銃の撃鉄をあげて、こめかみに銃口を押し当てる、そして大きく深呼吸。
自分の頭を吹っ飛ばすなんて恐くて仕方がなかった。自分がこれから感染者になる運命だとわかっていながら、それでもなかなか思い切れない。
この期に及んで死にたくないなんてどうかしているな。自分が情けなくて笑ってしまった。
気分は多少、持ち直しても、吐く息は相変わらず白い。銃の引き金にかけた指が小刻みに震えていた。自殺なんて簡単に実行する奴の気が知れないと思いながら歯を食いしばり、ゆっくりと引き金を引きながら衝撃に備える。
「ッ!?」
耳元で炸裂した発砲音。周囲の草が一瞬揺れ、俺は意識を失った。すぐに去来する静謐な世界。
チュンチュンという鳥のさえずりで目を覚ました。草の絨毯から身体を起こすと、朝日の陽光が目に飛び込んできたため眩しくて目を細める。
随分と寝ていたようだが、やけに気分がすっきりしている。俺は自分のこめかみに銃口を当てて自殺を図ったのではなかったか? ここは昨夜と同じ牧草地。あれが夢でなかったのなら俺は死に損なったことになる。
立ち上がろうとして、地面に手をついたとき指先が硬い何かに当たった。拳銃だ。昨日、俺が自殺しようと引き金を引いた。昨日の恐怖が急に襲ってきて、無意識に銃をはねのける。
「なんだ、なにがどうなってる?」
昨日、銃を押し当てたコメカミ辺りに触れてみた。なにもない、それらしい傷も何も。ズオーンと、周囲に響いたはずの音。あの出来事が全部、夢? 手が震えていたし、直前で狙いがそれたとか? だがそれもありえなかった……なぜなら肩に、もう乾いているが血の飛び散った跡がある。銃弾は確実に俺の頭を一度吹っ飛ばしている。最悪な想像が脳裏をよぎった。俺は変身を止められなかった。俺は感染者になったのか? 認めたくなくて動悸が激しくなる。包帯の巻かれた右の拳が目に入った。急いでそれを解く。中から傷の一切ない拳が表れる。
「なおって……る」
しゃべると口の中に違和感があったので、その原因、硬い何かを掌の上に吐き出した。赤黒い、ひしゃげた金属片。見覚えがない、いや、これってもしかして弾丸か? 最悪な想像がつながっていく。自分がどんな存在になったのか。なんにせよ俺には自我がある。人を襲いたい欲求もない。それだけが救いだ。
立ち上がり、背後を振り返る。なだらかな丘の先に小屋が建っていた。人が住んでいるのだろうか? 昨日は暗かったので気付かなかった。なんだか喉が渇いたし、水を貰えたらいいんだが。
歩くのに支障がないどころか身体がやけに軽い。昨日あれだけのことがあったというのに疲れ一つ感じない。いったいどうなっているんだ?
小屋の前まで来て呼び鈴を鳴らしてみたが反応はなかった。銅で出来た、小さなおもりが中で内側に当たって音を出す奴だ。紐が垂れ下がっている。風鈴に似ている。どこかで見た気がする。
チリーンと、なんとも風光明媚な音が鳴り、すがすがしい気分になる。俺はこの音が嫌いじゃない。意味もなく落ち着く音だ。なつかしい。この家の住人も、もしかしたらこの音が好きで玄関に置いているのかも。
留守なのだろうか? それともだれも住んでいない放置された家? 念のため扉もノックしてみたが反応はない。ドアノブを回すとガチャガチャと音がする。やはり施錠されているか。そんな都合よく入れるわけがないよな。水や保存食は持ち出されているか。確かめないと。
なんによせ、どんな形でも生きていたならやるべきことがある。生き物として考える力が残されたのならそれに従うだけだ。生きるために。
家に入るにはドアを蹴破るしかないが、この際、仕方がない。
俺はドアから一定の距離を取って腰を落とす。他人の家への不法侵入は犯罪だが四の五の言っていられない。こんなご時世だ。人殺し以外は大目に見てもらわないと。
俺は覚悟を決めて走りこむと、ドアに向かって足を突き出した。
「っ!?」
だが予想に反して勢いをつけすぎたらしく、俺は勢いのままドアを突き破り、家の中になだれ込む。盛大な音を立てて玄関を破壊。ガラガラと背中に乗せた瓦礫を落としながら立ち上がった。
これで不法侵入に加え、建造物損壊罪も加わった。言い逃れできない。
それにしても軽く助走をつけただけでこんなことになるのか? 俺はなんとなく自身の身に起こっていることを理解し始めていた。家が脆いのではない、力の制御ができないのだ。力がどこからともなく湧いてくる。人間にはおおよそ持ち得ないほどの力が……。
靴箱は見当たらなかったので土足のままあがらせてもらった。罪悪感を感じながらもフローリングを土足で歩く。
それにしても掃除が行き届いているな。最近、人がいなくなったばかりの家なのか? いや、そんな都合のよい家が目の前にポンと現れるなんて不自然だ。
リビングに入ると、そこにあったのは、無人の小屋には似つかわしくない、これまた贅沢過ぎる調度品と、設備だった。
流しもあればキッチンもある、そのどれもが綺麗、そして奥には冷蔵庫まで。
革張りのソファーに暖炉、地面に敷かれた頭付きの熊の毛皮? 金持ちの道楽ハウスじゃあるまいし、趣味が成金。これなら当分は悠々自適に暮らせるかも。
「とりあえず、水」
キッチンに回り込んで蛇口をひねると、勢いよく水が出た。濁っていない透明の水だ。貯水タンクの水か?
水をすくって飲んでみると冷たい、湧き水かなにかなのだろうか? それにしてもなにもかもが揃っている。俺は水を以前ほどおいしいと感じない自身の味覚の変化に気付きつつ、今度は冷蔵庫を開けてみた。すると中に入っていたのは肉、肉、肉、肉のオンパレード。一つ一つが丁寧にパック詰めにされており、長期保存できるように加工されている。
血も濁っておらず新しい。最近パック詰めされたかのように。
煌々と照らされた冷蔵庫の中。電気も通っている。嫌な予感しかしない。この家は放置された家などではなく、まだ人が住んでいる形跡がある。まずい。こんなところでこの家の住人と鉢合わせしたら言い訳のしようもない。あの破壊された玄関、なにを言ったところで……。住人がもし銃でも所持していたら間違いなくハチの巣にされる。
それにこの冷蔵庫の中身、肉だけって……この健康に一切配慮していない、現地調達したような素材ばかり。
俺はそそくさと玄関に向かった。長居は無用だ。だが、その途中でゴトン……と、なにやら天井から音がして立ち止まる。
なんだ今の……上から? 二階があるのか。二階というより屋根裏部屋か。どこからにはしごが隠してあるのかもしれない。そんなことより住人がいた? 動物かもしれないが確認している暇はない。逃げないと。
俺は謝るよりも先に足を動かした。銃で撃たれる、その最悪の未来と最近、出くわした肉しか言わない、あの不気味な感染者が合わさり、最悪な住人像を俺は脳裏で想像してしまっていた。
なんで玄関を破壊したあの音でも起きてこなかったんだよ。
俺は見当違いな思考を巡らせながら玄関から飛び出した。散らばっていた瓦礫を飛び越え、外に出ると目の前の山道を一目散に駆け上がる。時折、背後を振り返りながら。
しばらくして立ち止まる。どうやら誰も追ってきてはいないようだった。気が付けば辺りは夕暮れになっている。ホウ……ホウ……とフクロウの鳴き声が聞こえ、再び歩き始めると、数メートル先に不気味な洋館が見えてくる。
洋館? こんなところに? 不気味な洋館だが、このまま暗い山道を進むのは危険だ。ここはひとつ洋館の人に頼み込んで敷地の一角でもいいから貸してくれないかと交渉してみよう。洋館の周囲は壁で囲まれており、庭と呼べる部分があるようだった。交渉がうまくいけば山道で一夜を過ごすよりは安全に過ごせる。流石に見ず知らずの者を屋敷内に入れるのは抵抗があっても、最悪それぐらいならと許してくれるかもしれない。
そうは思っても、近づくにつれ、やはり洋館は不気味だ。
洋館の壁は頑強な石造り。壁の上には鳥さえ寄せ付けない有刺鉄線が張り巡らされていた。かなり厳重だ。感染者はあんなところまで登らないだろうが、ここまで徹底しているなら安心感がある。
夜の山は感染者はもちろん、どんな獣が出るかわからない。むしろ人の多い場所ではないので獣の方が多い気がする。
正面玄関に回ると分厚い鉄の扉が鎮座していた。扉のすぐ近くに呼び鈴らしきボタンが埋め込んであって、押すと空気が振動するかのようなブィィ、ブィィ……という音が鳴る。しばらくすると音を聞きつけたのか複数の足音が扉のすぐ近くまで近づいてきて、複数の人間がしばらくの間、息を殺しているのが分かった。
意を決したように、突然、門に設置された小窓が開き、血走った威圧的な目がこちらを睨みつけてくる。思わず声を上げそうになったほど不気味な目だった。血走っていて、普通の人間だと疑わしいほど興奮している。ふう! ふう! と息を吐き続けながら俺の他に人がいないか周囲を探り、いないとわかると食い入るような目で俺をにらみつけてくる。
言葉を交わした人間を次の瞬間には捕まえてシチューの具材にしかねないほど狂気じみた目だった。ごくっと喉が鳴る。
「あ、あの……」こっちから声を出そうとしたが
『な、なんだお前、く、食い物、持ってるのか、持ってるなら出せ!!』
その一言で、真面な会話などできそうにないと悟った。よっぽど飢えているのか、こちらの要件を聞く気はないようだ。
「な、ならいいです、食べ物も持ってないので……」
「ないだと? 隠してるんじゃないだろうな?」
「……」
まずい、このままここにいたら拉致される可能性すらある。ポケットの布袋ごと外に出して見せ、手をひらひらさせてその場を去ろうと思った。だがそのとき不意になにかが背後から覆いかぶさってきた。身動きが取れなくなり、口が塞がれ、ばたばたと暴れようにも、すごい力で羽交い絞めにされる。まるで万力で締められたように体をピクリとも動かせない。その有無を言わせぬ怪力に目を見張った。明らかに人間の力じゃない。俺だって多少は力があるほうだ。いや、先刻だって、その異様な力で小屋の玄関を破壊したほど。なのにまったく抵抗できないなんて化け物だ。
足先が、ふわっと宙に浮いた。抵抗しようもなく連れ去られる。さっきまで空いていた小屋の小窓はぴしゃりと閉まり、今は人の気配がない。こいつが来たから逃げたのか。こいつはなんだ?
体中がみしみしと軋む。ただ骨を折る気はないようで、この力は拘束するためのもので俺を攻撃する意図はないようだ。なのに、この怪力とは恐れいる。しかも俺の口を塞いでいる手の形状から熊ではなく華奢な人間だとわかった。こんな細腕に、どうしてこれだけの力が備わっているのか不思議だ。
耳元に、ふわりとくすぐるような優しい吐息がかかる……。
『大人しくしてろ……声を出したら殺す、いいな?』
鈴が鳴るようなきれいな声だ。女? しかも若い、女の声?
怪力とは相いれない綺麗な声だった。一応、理性があるような言動をしたのでここは従っておいた方がいい。そもそも抵抗したって無駄に思える怪力だ。抵抗しくなった俺を怪力の主はずるずると引きずっていく。
森の中を少し分け入った所で拘束が緩んだ。俺は地面に放り出され、ごろごろと転がる。やけにあっさりと解放したな。声を出したら殺すといったのは真実だったのか。今どきそういったセリフは単にこちらをおとなしくさせたいだけの殺し文句だと思っていたが侮っていた。
ゆっくりと体を起こし見上げると、そこにいたのはだらしなくキャミソールを着て、ジーンズを履いた女性だった。どこか気だるい感じで、寝起きなのか髪が跳ねている。その頭をがしがしと乱暴に掻き直しながら欠伸をする。
しかし目を見開けば、その目からは生命力が溢れ出るかのような力強さを感じた。俺を射殺しかねない敵意の籠った目だったが……。
そして顔から下に目を向けると、そこには女性なら誰しもが持っているもの、だが大きさが驚きのマスクメロンほどの胸部だった。すらっとした体形をしているのに、はちきれんばかりのそれは、柔らかさは感じないが、形がよく立派なもの。破れたジーンズを穿きこなすカモシカのような足。まるで野生児のような女性だった。
セミロングの金髪を手櫛ですきながら、女は再度、欠伸を噛み殺す。そのアンニュイな雰囲気に思わず脅威ではないのかも、なんて錯覚しそうになるが、さきほどの怪力は、まさしく彼女が発揮したもの、油断はできない。
チャーミングと言えばいいのかワイルドと言えばいいのか、女性は口の端に犬歯をのぞかせながら口を開く。
「さっきはよくも寝込みを襲いやがったな、堂々と私の寝床に侵入してきたから、どんな奴かと思ってみれば、弱そうなやつだ。仲間はどこだ? いるんだろ?」
「いや、仲間なんて……」
「お前ひとりで私と渡り合えると? バカは休み休み言え、誰に頼まれた? お前は斥候か? 単なる捨て石か? にしては粘ったじゃねえか、こんなところまで逃げるとはな」
「逃げた? 」
なんのことだ? それにさっきから違和感が……。『寝込みを襲った』って言ったよな? あ、もしかしてあのことを言っているのか? 俺にはその言葉に思い当たる節がある。
「もしかして」
俺が玄関を壊した小屋の住人。心当たりはそれだけだ。そうだ、確かに、あの出来事を客観的に見れば、寝込みを襲ったと見られなくもない。だとしたら彼女が俺を追いかけてきたのは玄関を壊されたことへの意趣返しかもしれない。だとしたら彼女がいるとわかるなり逃げだした俺には言い訳をする資格がない。どうにか穏便に済ませたいが。
「ごめんなさい、さっきの家の人だったんですか――いや、とっさに逃げてしまってすいません、その……喉が渇いていたもので、家に誰かいるとは後で気づかず――」
こっちも出来心だったと理解してもらおうと思ったが女性は腕を組んだまま納得した様子を見せない。
「で仲間は?」
「いや、だからいませんって、俺一人です」
「私の探知に引っかからないから聞いている、いずれわかることだぞ、はあ……やっぱり見せしめにするしかないか……」
最後の方は独り言のようだった。
「え? なに? 見せしめ?」
なにやら不穏な空気が流れ始めたので俺は取り繕うように両手を挙げて降参した。戦いになったらまず勝てない。さっきだってされるがままだった。あの怪力を発揮されては勝負にすらならないだろう。
女は左足の靴底で忌々し気に地面を抉り、ふうと大きく息を吐く。まったくこちらの謝意を受け取らず、まるで路傍の石でも見るように俺を見る。




