獣の庭
気流の影響でヘリの内部はキュウーキュウーと緊急を知らせる音で終始、満たされていた。
その音が次第に落ち着いてくると、操縦席の前でなにやら言い合いをしている巨漢の大男、ジェリドとライラの声が聞こえてくる。ジェリドは時折こちらをちらちらと見てくるが、言い争いの原因はおそらく俺だ。明らかに感染者に噛まれた人間を乗せているのだ。その心配は当たり前だろう。
俺の右拳は一応、応急措置を受けている。感染者に噛まれた時点で怪我の治療など意味はないのだが、死ねば感染者に変身するので、生を長引かせるためだと思われる。
ただ、どう転ぼうと、このままいけば最悪な未来しか待っていない。あとはいつ俺を放り出すか、その結論を待つだけだ。
いっそ放り出された方が気分的には楽なのだ。自分で思い悩まなくていい。ぶっちゃけ、こんな状況でも生物として生きたいという気持ちは確かにある。
意見を交わすうちに二人のボルテージが上がってきたのか、ジェリドも反論し出し、二人は言い合いを始めた。
俺をどこで下ろすかで揉めているのか。俺はなんとなくそう思った。
ヘリの内部は思ったよりも広く、対面に並んだ座席が四席、その間に人が行きできるほどの通路がある。
ライラがちらりと一瞬こっちを見て、話し合いでは埒が明かないと思ったのか操縦席に向かった。
取り残されたジェルドが大きく溜息を吐いて、イラつきがちにこっちを見た。
気まずい空気が流れる。さっきから無性に体が熱くて、吐く息も蒸気みたいに白くなっている。
頭が重かったので下を向いていると(気まずいから視線を逸らしたわけではない)ドシドシと床面を微かに揺らしながら靴音が近づいてくる。音は、すぐそばで止まり、顔をあげると、深刻そうなジェリドの顔が俺を見おろしていた。
「おい、スカイ、ライラ、こっちに来てくれ、こいつ、そろそろまずいんじゃないか!」
ジェリドが声をあげると、忙しなく複数の足音が駆け寄ってくる。まっさきに近づいてきたのはライラではなく、さわやかな見た目をした青年。跪いて俺の顔色を確認する。ただ青年は、爽やかな見た目をしている反面、目つきが鋭く、まるで野獣のようだった。
視線が合っただけで委縮してしまい、俺は先のジェリドとは違い、本能から目を逸らそうとした。だが青年は俺の顔を両手で挟み、じっくりと顔色を観察する。身体が大きいわけでもないのに、ジェリド以上の迫力を感じる。目を通して伝わってくる印象が心に抱く心象と全く違う、不思議な感覚だった。
「スカイ、どうだ?」
スカイと呼ばれた青年は、手際よくゴム手袋を付け、さらに詳しい診察に移る。俺の目尻に親指をあて、軽く押したり、下げたりした。目の充血具合、目尻から分泌液らしきものが出ないかを確認したらしい。そして溜息を吐く。
そのとき青年の左肩にZに似た文字のタトゥーを見つけたが、俺はその形をどこかで見た覚えがあった。正確には思い出せないが、確か文字ではなかった気が……。
「白い息を吐いてるし、明らかにまずくないか?」
「ああ、確かに変身の兆候だろうとは思うが、こんなにも激しいのは初めてだな」
「死んで動き出す前にヘリから降ろしたほうがいいと俺は思うぜ」
「ああ、それはそうだ……」
ただと、スカイが気にした素振りを見せた先には険しい表情をしたライラがいた。この件にいち早く介入しそうな、と懐疑的に思われていたライラがスカイに詰め寄る。
「待ってくれ、噛まれたのはついさっきだ、その話はまだ時期尚早だろう」
スカイはライラの意見を聞いても、自らの結論を変える気はないようで首を振る。
「噛まれた相手が問題だ。こいつを噛んだのは普通の感染者じゃない、暴君は人間を無理やり感染者に変えたなれの果て、経過観察の途中で逃げ出したため詳細はほぼわからない、噛まれた人間がどうなるかも……どうしてすぐに報告しなかったんだ」
それは……と、ジェリドとライラの間で二、三度、視線が交わされる。ジェリドはスカイに告げ口したりはしなかったが、スカイは既に二人のやりとりで、これまでの経緯をあらかた理解したらしく溜息を吐いた。スカイは困ったように腕を組む。
「俺もお前には一目置いているんだライラ、今回の作戦でもお前の功績は大きい、お前がいなければ基地の防衛機能は使えなかっただろうし、お前がそういう性格なのもある意味、美徳だ。ただし働きと容認は別、多くを救ったからといって最終決定権は俺にある。俺は常に仲間の安全を考慮する、この男はすでに変身しかけている。もはや救うことはできない。これが俺の判断だ」
ライラは一瞬、拾ってきた子犬を親に捨ててこいと言われた子供のように落胆した顔をしたかと思うと俯いた。ジェリドがそれとなくライラを宥めるが、ライラは反応しない。しかし次の瞬間、ぱっと顔をあげてジェリドを驚かせた。
「そうだ、阻害薬は、あの薬をまだ試してない、誰か持ってないか?」
ジェリドは手を振って、ないとアピール、スカイは眉を顰めた。
「無駄だ、阻害薬は戦いの前に投与する予防薬みたいなもの、感染者への変身を絶対に防げるわけじゃない、そもそも発症している奴に投与しても無駄だ」
「試してみなければ――」
「手元に薬があるなら試しても構わないが今はない。拠点まで持つわけがない、この話は却下だ、諦めろ」
「放棄した基地に予備の薬が残っているかもしれない」
「引き返すつもりか? さっきも言ったがこのヘリの燃料は片道分だ、無駄なことはよせ」
「足ならなんとかする――」
「いったいなんの話を――」
ライラは自身の考えを飛躍させることに必死でスカイの言葉を半ば無視していた。その態度に、徐々にスカイが気分を害し始める。引き返すのなら早い方がいい、ライラの焦りがスカイの自尊心を刺激する。
「やめろ。そこまでする必要はない」
スカイの口調が先ほどまでと違って荒々しくなっていた。
「大丈夫だ、私一人で行く」
「大丈夫? 馬鹿な、それこそ認められるか、部下をみすみす死地に送り出すわけにはいかん、俺はこれまでお前の単独行動には目を瞑ってきた。だがこればかりはダメだ、隊長命令だ、諦めろ」
ライラの決意は固いのか、ライラは当然、拒否する姿勢だ。
ライラを止めるべき、それが俺のスタンスなのだが、口を挟めそうな雰囲気ではなかった。ライラもスカイも頭に血が上りだしている。
俺は急激な体調不良で下を向く。このままじゃ声も出せなくなりそうだ。
「私ならやれる、やらせてくれ」
「認められない、こいつはただの民間人だ、要人でもなければ仲間ですらない、どうしてそこまでこだわる? 今まで、そんなことを言い始めたことなんてなかったはずだ」
ライラ自身にもその理由はわからないようだった。そのどうにも煮え切らない様子にスカイは腕を組んだ。
「見殺しにはできない」
「軍人としての言葉とは思えん、正義の味方のつもりか? くだらん」
「くだらない?」
「ああそうだ。俺たちはこれまで多くの人間を見殺しにしてきた、救う人間、救える人間に優先順位をつけてきたんだ、こういうやつは真っ先に切り捨てる、俺たちはすべての人間を救えなかった、だからこそ、これからも無駄のない決断をするんだ」
スカイの指摘に、ライラは悔しさから拳を握り込む。己の行動が一時的な感情から呼び起こされたものだとライラも自覚しているのだ。
スカイの主張は間違っていない、至極当然の判断だと思う。ライラだって仲間の安全が第一とは考えているはずだ、だが自分の意地と、軍人としての教示が半々、それらが邪魔をして素直に受け入れないのだろう。
「お前もこいつを感染者から救ったんだから貸し借りはなしだ」
「違う、私のは義務で、こいつのは違う、簡単に割り切れるものじゃ――」
ライラの子供じみた言い訳にスカイは舌打ちをした。そのあからさまな態度には、あきれを通り越してイラつきが見える。ライラがどんな言い訳をしても俺を救いたいと思う気持ち、それが許せないのだろう。ライラの意見は軍人としてではない、完全に私事の範疇だ。
「だがこいつはどうだ? お前はこいつを救いたいというが、果たして救われる側の気持ちを考えたことがあるか? 困っている者、誰もが救いの手を期待しているわけじゃない、もし俺がこいつなら、救ってくれたお前に迷惑をかけてまで生き残りたいとは思わない」
それはスカイの意見であって俺の意見ではなかったが効果は多少なりともあったようだ。ライラがわずかな迷いを見せる。完全同意というわけではないが俺の意見もスカイに近い。ライラがどうしてそこまで俺のために尽くしてくれるのか、半分ほど戸惑いがあるのだ。
それらが諦めかけている気持ちと複雑に絡み合って、どういう感情を抱けばいいのかわからなくしている。誰かがいっそ、俺の代わりに決断してくれたらと思うほどに。
二人のやり取りが長引いているせいで、ジェリドが切羽詰まった声をあげた。
「おいおい、早くこいつをヘリから降ろさないとまずいことになるぞ、このぶんじゃ後、数分、持つかどうか……」
スカイが口を開く前にライラが動いた。ライラはすかさず腿のガンベルトからベレッタを抜いて銃口をスカイに向ける。スカイもジェリドも咄嗟のことで息を飲んだ。当然、俺も。まさかライラがそんな強硬策に出るとはこの中の誰もが思っていなかったに違いない。
ライラがいくら声を荒げようと、そこには軍人としての冷静さが常にあった。そんな彼女がなりふり構わずこんな行動に出るなんて思いもしない。ライラと長い付き合いであるスカイやジェリドは、よほどのショックだったのか、顔を引きつらせてしまっている。
「どういうつもりだライラ」
ライラの行動を窘めるほかに、冷静さを取り戻させようとする目的もあったのだろう、しかしスカイの言葉にも耳を傾けず、ライラは操縦席に向かって『ヘリを着陸させろ』声を荒げる。
しかしヘリはいつまで経っても着陸する様子を見せず孤立無援だ。ヘリの操縦士はライラの脅しを聞く気がない。スカイを信用しているからか、スカイの命令以外は聞く気がないのか。
ライラがおそらくへ営倉入り覚悟で発した言葉も通じず、沈黙が流れる。
「ライラ、相手が悪い、やめとけ」
ジェリドが制止の声をあげるもライラが銃をおろす気配はない。
ライラを怒りを籠った目で見ていたスカイは次の瞬間、素早く腰のホルスターから銃を抜いてライラに向けた。ライラは撃とうと思えばスカイを撃てたはずだ。だが撃てなかったのは初めから脅しのために銃を向けていたからだ。やはり仲間を撃つほどの覚悟はない。
スカイはそれを確かめるためでもあったのだろう、もちろんスカイにもライラを撃つ気など毛頭ない。
スカイはライラに向けていた銃口をゆっくりと座席に倒れ込んだ俺に向ける。
その行為にはスカイの味方だったジェリドも『おい、スカイ、流石にそれは――』と声をあげた。スカイは少し腰を落とす、手首のスナップを利かせた銃の構え方には歴戦のガンマンのような凄みがあった。早撃ちでは負けないと示すようにライラを威嚇する。
「銃を仕舞えライラ……こいつを撃つぞ。そんな見せかけの脅しが本物に通用するか試してみるか?」
「スカイ……」
「どのみち感染者となって死ぬ運命だ。変身する前に殺せば手間も省ける」
「相手は民間人だぞ」
「それがどうした、俺たちが殺してきた感染者だって元は善良な人々だった、人の尊厳を守るのも俺たちの戦い、そうじゃないのかライラ」
スカイの目は完全にすわっている。今にも手違いで銃の引き金を引きそうだ。ライラは気圧され、すでに虚勢のメッキが剥がれかけている。もはや勝負はついていた。
ライラはやり切れない様子で銃を下した。スカイの迫力を見れば、スカイなら銃を撃ちかねない、いや実際に撃っただろう、それだけの覚悟がスカイにはある。
たぶんジェリドも、そう思っているからこそ、額の汗を拭っているのだ。
結果論だが、俺は二人が本気でいがみ合わなくてよかったと思った。これでよかったんだと納得する一方、ここまで頑張ってくれたライラに視線を向けるだけの余裕がない。身体が熱い、もはや一刻の猶予もなかったのだ。
スカイは静かに撃鉄を戻すと、引き金にかけていた指を離して屈む。俺に持っていた銃をおもむろに差し出した。体調が悪い中、なんとか目を向けると、スカイは真剣な表情で俺を見下ろしている。
スカイの腰には、左右それぞれに銃のホルスターがついていて、二丁は常備、そのうちの一丁を譲ってくれる気らしい。古めかしく年季が入った、くすんだ色をしている銃だ。スカイが落ち着いた口調で言う。
「部下が世話になった礼だ。選別に受け取ってくれ」
スカイなりの気遣いだった。使用用途は自殺用。それ以外にない。今の俺に必要なのは感染者と戦うための武器ではなく、スカイも言っていた通り、尊厳を守るための自害に他ならないのだから。俺は恭しく銃を受け取った。
俺はその後、虫の音だけが寂しく鳴り響く牧草地に降ろされた。暗闇の中、遠ざかっていくヘリの音を見送る。ライラの顔は最後まで見られなかった。
落ち込んでいるのはわかりきっていたし、俺自身、余裕がなかったこともある。だが実際は体調が悪いことを言い訳に敢えてライラを見なかっただけなのだ。
彼女の悲しむ顔を見たくない。ただその一心で。それが誰のためかと言われれば彼女のためではなく自分のため、まったく情けなくなってくる。
さわさわと風に棚引く草が足に触れた。脛の部分をくすぐる。牧草地に大の字に寝転がった。
スカイに貰った拳銃の撃鉄をあげ、こめかみに銃口を押し当てる、深呼吸。
しかし指が震えて力が入らない。引き金を引く予行演習だというのに、このていたらく。生物の生存本能が頭を擡げる。この期に及んで死にたくないなどと。だったら感染者になってこの辺りを彷徨うというのか、そんなのは嫌だ。
結果はどちらしかないというのに、どちらも嫌、まったく呆れるほど諦めが悪い。
吐く息は相変わらず白く、だんだん意識も朦朧としてきた。これは感染者への変身が近い。醜い顔で唸り声をあげ、死んだ後に動き出すのだ。
小刻みに震える指にゆっくりと力を籠める。歯を食いしばり、衝撃に備える。
耳元で爆発音にも似た音。
周囲の草が一瞬揺れ、男は銃を持った手を地面に落とす。そこは再び草の擦れ合う音だけがさざめく静謐な世界。
チュンチュンという鳥のさえずりで目を覚ました。草の絨毯から身体を起こすと、朝日が眩しくて目を細める。
随分と寝ていたようだ。やけに気分がすっきりしている。ここは確か、牧草地。
だが、やけに自分の周りに生えた草がふさふさしていた。昨日、寝転がっていたときは、上半身を起こしても視界を遮るほどの高さではなったはずなのに。
立ち上がろうとして、右手を地面に這わせると、指先に硬い何かが当たった。それは拳銃だった。昨日スカイという軍人に渡されたものだ。昨日の出来事は夢ではなかった、ではなぜ自分は生きているのか? こめかみに銃口を押し付けて、確かに引き金を引いたはずだ。銃はすごい音がしたし、脳髄をぶちまける一生に一度も味わえない経験をした。はず……あれが夢だったとは思えないのだが。
こめかみに触れても、それらしい傷は見当たらなかった。耳元ですごい音が鳴ったものの不発だったのか? それとも狙いが逸れた? 過去に弾丸が頭蓋骨を滑って助かった自殺者がいたと聞いたことはあるが……いや……肩に、もう乾いているが血が飛び散っている。
だったらどうして、ますますわからない。
それに感染者に噛まれたはずの手が痛くない。包帯を外すと、右拳の傷は綺麗さっぱりなくなっていた。傷まで治ってる。
「な……ん?」
言葉を発しようとすると口の中に違和感が……硬い何かがあったので掌の上に吐き出す。赤黒い、ひしゃげた金属片だった。なんだこれ? もしかして弾丸か? よくわからないので捨てる。
立ち上がり、背後を振り返る。なだらかな丘の先に小屋が建っていた。人が住んでいるのだろうか? 昨日は暗かったので気付かなかった。なんだか喉が渇いたし、水を貰えたらいいんだが。
歩くのに支障がないどころか身体がやけに軽い。昨日あれだけのことがあったというのに疲れ一つ感じない。いったいどうなっているんだ?
小屋の前まで来て呼び鈴を鳴らしてみたが反応はなかった。銅で出来た傘の中におもりが付いていて紐が垂れ下がっている。これって確か風鈴ってやつじゃないか? チリーンとなんとも風光明媚な音が鳴る。この音は嫌いじゃない。意味もなく落ち着く。気がする。こんな音に反応する人間がいるかどうかはさておき。
念のため、扉もノックしてみた……が、やはり反応はない。ドアノブを回すとガチャガチャと音がする。当然施錠されているよな。留守ってことか……それともすでに住人は逃げてもぬけの殻とか。そっちの方が確率は高い。金持ちが避暑地に用意したコテージだとしたら、何かあった時のために保存食か、水を残してくれている可能性がある。
中に入るにはドアを蹴破るしかないが……この際、仕方がない……。
ドアから一定の距離を取って腰を落とす。人間にとって水は必要不可欠、命に関わることだ。謝ったら許してくれるだろうか、いや、無理だろうな、これは確実な敵対行為、犯罪なんだから、水を失敬したら逃げるしかない。こんな世界で道徳なんて重んじてたら絶対に生き残れない。わかってたことだ。
俺は覚悟を決めるとドアに向かって猛ダッシュ、足を前に突き出した。
「っ!?」
だが予想外に勢いをつけすぎてしまったらしく、俺はその勢いのままドアを突き破って家の中になだれ込んだ。盛大な音を立てて色々と壊してしまったらしい。起き上がると、背中からガラガラと瓦礫が落ちた。これで言い訳のしようもなくなった。
それにしても軽く助走をつけただけだというのにこの惨状はどういうことだ。ただの人間の蹴りにコンクリートを破壊するまでの威力があるだろうか? まるで重機を使ったかのように玄関は半壊していた。
家が脆いのではない、原因は俺だ。力の制御ができていない。まるで力のリミッターが利かなくなったみたいだ。
靴箱は見当たらなかったので土足のままあがらせてもらった。罪悪感を感じながらフローリングを土足で歩き、それにしても掃除が行き届いている。人がいなくなってだいぶ経つ家が、こんなにも綺麗なのは変じゃないか? まるでモップがけしたみたいにピカピカだ。
リビングに入ると、そこにあったのは、無人の山小屋には似つかわしくない、これまた贅沢過ぎる調度品と、設備だった。
流しもあればキッチンも、その奥には冷蔵庫まである。革張りのソファーに暖炉、極めつけは地面に敷かれた頭付きの熊の毛皮。金持ちの道楽ハウスか?
想像とは違い、随分と悠々自適に暮らしていたようだ。いや、過去形ではないかもしれない。俺はすでに違和感に気付き始めていた。
「とりあえず、水を」
キッチンに回り込んで蛇口をひねってみると、勢いよく水が出た。濁っていない透明の水だ。貯水タンクの水だろうが、水まで綺麗とは恐れ入った。
水をすくって飲んでみる。冷たい、湧き水かなにかか? だが不思議と味がわからなかった。水の冷たさしか感じない、これはもしかして味覚が? 俺の味覚が変なのか?
次は冷蔵庫を開けてみた。中に入っていたのは肉、肉、肉、肉のオンパレード。一つ一つがパック詰めにしてあって、長期保存できるように加工されている。
血が濁っている様子はない、まだ新しい肉だ。最近パック詰めされたかのように。冷蔵庫内も煌々と照らされている。発電機かなにかで電力が供給されているんだ。
ここ、まだ人がいるな。
住人と鉢遭う前にお暇しよう。玄関の惨状を見たら、まず間違いなく撃ち殺される。
それにしても冷蔵庫の中身、ものの見事に肉しかなかった。住民の健康を慮っているわけではないが、なにやら嫌な予感がする。
俺はすごすごと玄関に向かっていたが、その途中でゴトン……と、なにやら天井から音がした。
上? 二階があるのか。リビングにもどこにも階段は見当たらなかったので、屋根裏部屋に通じる梯子が、天井のどこかに収納されているのかもしれない。
外観を見たとき、屋根に比べて家の天井が低いと思ったのだ。
住人は二階にいる。おそらく武器を持っているだろう。今の音は俺の存在に気付いたのかも。俺は玄関に急いだ。なるべく足音を立てないよう玄関まで走り、散らばっていた瓦礫を飛び越え外に出た。山道に向かって一目散に駆ける。
時折、背後を振り返りながら、どうやら追ってきてはいないようだった。だができるだけ逃げようと足を動かす。走って歩いてを繰り返し。気が付けば辺りは夕暮れになっていた。
ホウ……ホウ……とフクロウの鳴き声が聞こえ始め、数メートル先に不気味な洋館が姿を現す。
洋館? こんなところに? このまま暗い山道を進むは危険だ。人のいない洋館なら助かるんだが。俺は仕方なく少々、不気味に思える洋館に足を向けた。
人がいるかどうかだけでも確かめよう、そんな軽い気持ちだった。追手がいるかもしれない中で、一人でいるのは耐えられなかったのだ。なにか拠り所が欲しかった。
洋館の壁は、そんな不安を消し去ってくれるかのような頑丈さでそびえたっている。その上に張り巡らされた有刺鉄線も、俺を守ってくれそうな頼りがいを感じさせた。
夜の山ではどんな獣が出るかもわからない。あの小屋で見かけた熊の毛皮、熊がいたとしたらひとたまりもない。感染者だっているかもしれないし。
それにしても要塞みたいな屋敷だな。
正面玄関らしい分厚い鉄の扉に回り込み、扉の脇を見ると呼び鈴らしきボタンが埋め込んであった。
押してみると、ブィィ、ブィィ……と空気が振動するような音が鳴る。しばらくすると音を聞きつけたのか複数の足音が扉の近くに近づいてくる。息を押し殺し、扉越しにこちらの様子を伺っている、やがて門に付いていた小窓が開き、血走った威圧的な目が俺を睨みつけた。明らかに真面な目つきじゃない。目だけでわかる異常性、飢えた人間の目だ。相手が人間だろうとシチューの具材にしかねない狂気が宿っていた。
「あ、あの……」
意を決して声を出そうとすると、男の目が忙しくなく動き、周囲をきょろきょろと見まわし始めた。
「ひ、一人か? な、なんの用だ! く、食い物よこせ!」
こちらの要件を聞くこともなく、問答無用で食べ物の催促をしてくるあたり、相当、追い詰められている様子だ。これでは話が通じない。他に色々と聞きたいこともあったが交渉自体も暗礁に……。こんな男が交渉事を任されている辺り、中にいる連中も、おそらく似たり寄ったりだ。
「食べ物はないです」
「だったらどこかにいけ!! 早くしろ!!」
ぴしゃんと音を立てて小窓が閉まり『奴が来る……奴が来る……』と男のささやき声が聞こえ、遠ざかっていった。なんだか嫌な予感がする。男は単純に気が狂っていただけなのだろうか、あれはあまりの恐怖に真面でいられなくなった人間特有の反応なのでは。
しかしどこかに行けと言われても行く当てなどない。何が出るかもわからない森で一夜を明かすわけにもいかないし、いっそ屋敷の近くで焚火でもと思ったそのとき、なにかが背後から覆いかぶさってきた。
口が塞がれ、すごい力で羽交い絞めにされる。身動きが取れない。なんだこいつは!?
足先が、ふわっと宙に浮いて体中がみしみしときしむ。ただ拘束はしても殺す気はないようで、その力は全力でというよりはこちらの動きを封じる意図の方が強いようだった。
俺の口を塞いでいる手は細指、腕も、どことなく体格も華奢な気がする。そしてふわりと耳元をくすぐる吐息……。
『大人しくしてろ……声を出したら殺す、いいな?』
俺はこくこくと頷いて抵抗をやめた。聞こえたのが女の声だったからだ。俺はずるずると引きずられ――。て言うかこの力、とても女のものとは思えないが、一応、会話が成立する相手らしい。
「んっ!!」
森に引き込まれるのに危機感を感じて少し身じろぎしてしまった。声を出さない約束だったのでそこだけは約束を守ったが拘束が強まり、一瞬、息ができなくなる。しかしすぐに俺が思わずとった行動だと理解したのか拘束は少しだけ緩み、再びずるずると引きずられる。
俺を拘束している人物は、その気になればいつでも俺を殺せるはずだ。あえてそうしない部分は信用できそうだった。良心なのか義理堅いのか、人をだますような相手ではないらしい。
森の中を少し分け入った所で拘束が緩み、俺は放り出された。地面を転がって、ゆっくりと体を起こす。見上げた先に立っていたのはジーンズを履き、キャミソールを着た女性。とても気だる気で、寝起きなのか寝ぐせもあり、キャミソールの紐は左肩にしかかかっていない。
しかし、その生命力の溢れた力強い目は、俺を射殺すように向けられていた。
そして思わず女性の胸部に目が行ってしまう。そこにあったのはマスクメロンほどもある大きな――すらっとした体形に、破れたジーンズから見えるカモシカのような足。
セミロングの金髪を手櫛ですきながら女は欠伸を噛み殺している。そのアンニュイな雰囲気に思わずため息が漏れてしまった。どこに視線を向けても失礼に当たりそうで真面に凝視できない。
乱雑に頭をガリガリと掻く粗暴な様子は野生児のようで、まったく違う印象を抱かせる。
チャーミングと言えばいいのかワイルドと言えばいいのか迷っていると、女は口の端から犬歯をのぞかせて乱暴に言う。
「寝込みを襲いやがって、この侵入者、なにが目的だ? 斥候か? 仲間はどこにいる?」
「仲間? そんなのいませんけど」
「とぼけるな、お前ひとりで私を仕留めに来られるはずが――」
女性の目つきが鋭くなった。寝込みを襲ったとはどういうことだ?
「もしかして」
俺は一つだけ心当たりがあった。彼女がここまで怒っている理由に。
「さっきの家の――いや、すいません、その……喉が渇いていて、人がいるとは思ってなかったんです、水が欲しくて」
「仲間は何人だ?」
「だから仲間なんていません、俺一人です」
「私の探知にも引っかからないなんて相当の手練れか、匂いが届かないほど遠くにいるのか……まあいい、どちらにせよ、お前は殺す」
「え? 殺す?」
女が忌々し気に左足の靴底で地面を抉り、発した言葉に俺は怯んでしまった。久しく女性から聞いたことのない言葉に心臓が大きく脈打つ。