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獣の庭



 ヘリの中は忙しなくキュウーキュウーという緊急音が鳴り響き、気流の影響か時折、揺れた。しかし乗っている人間の誰もが慌てふためくようなことはない。もちろん俺も、というよりそんな余裕は皆無だった。体が異常な熱を帯びており、熱くて熱くて仕方ない。まるで砂漠でへたばっているように吐く息まで熱い。

 操縦席の前で誰かが言い争いをしていた。ライラの仲間らしい巨漢の男ジェリドとライラだ。苦しいが耳を澄ますと、言い争いの原因はどれやら俺をこのヘリに乗せたことらしい。俺が感染者に嚙まれているから下ろすべきだとジェリドがライラに諭している。反論する材料などないはずなのにライラは納得していない。


 俺は右拳に視線を落とした。俺の拳には一応の処置だが包帯がまかれている。感染者に噛まれた時点でどのような処置をしようと無意味だ。血を止め、生を長引かせることに何の意味があるのか、自暴自棄になりかけている意識を二人の言い合いに向ける。

 いっそ放り出してくれたほうが俺も胸をなでおろせるのかもしれない。下手にやさしくされても、ただ虚無感や現実が襲い掛かってくるだけだ。どうせ無駄なのだと、どうせ助からないのだと。

 俺は感染者になんてなりたくない。


 争いがようやく終わったかと思っているとライラがいなくなった。操縦席に向かったのか、代わりにジェリドが一人になっており、俺が見ているのに気づいて視線を向けてきた。


 俺をにらんでいた目が少し訝しむような雰囲気を帯びる。顔を上げていられなくて下向いて熱い息を、は~と吐くと、コツコツと軍靴の固い音が機内に響いた。それがどんどん近づいてくる。

 音が、すぐそばで止まったので顔をあげると、ジェリドが深刻そうな顔で俺を見おろしていた。


「おい、スカイ、ライラ!! こいつを見ろ、そろそろまずいぞ!!」


 ジェリドが声に反応して忙しない複数の足音が駆け寄ってきた。まっさきに近づいてきた青年は俺の前で屈みこむとゴム手袋をつけ、俺の顔を両手で挟んだ。

 爽やかな見た目の青年だ。ただし目つきが鋭く、まるで野獣のような雰囲気もある。草食系の顔をしていながら様々な修羅場をくぐってきたかのような貫禄がある。

 たぶん、この人がライラの上司で、この部隊の隊長だ。

 ジェリドが気兼ねない雰囲気ながら、隊長相手に話しかけているとわかる気遣いで傍に控えている。ライラも同様だ。事の成り行きを見守っている。


「スカイ、どうだ?」


 俺の目尻に親指をあて、軽く押したり、下げたりした後、目の充血具合、目尻からなにか、分泌液らしきものが出ないかを確認したのだろう、スカイはどうとも取れない微妙な溜息を吐く。


「俺も医者ではないから正確にはわからんが」


 たまたま視線を向けた先、それは青年の左肩にあったZに似た文字のタトゥーだった。俺はどこかでこの文字を見た気がするが思い出せない。確か文字ではなかった気がする……。


「白い息を吐いてるし、明らかにまずくないか?」

「ああ、確かに変身の兆候だろうとは思うが、こんなにも激しいのを見るのは初めてだな」

「俺たちに襲い掛かってくる前にヘリから降ろしたほうがいいんじゃねえか?」

「ああ……」


 隊長の了解がとれたことで、お墨付きがもらえたとジェリドはほっと胸をなでおろす。しかし、それで納得しない者がいた。ライラがスカイに詰め寄る。


「待ってくれ、噛まれたのはついさっきだ、もう変身の兆候があるって早すぎるだろ」


 スカイはライラを落ち着かせながら首を振った。結論を変える気はないようだ。


「噛まれた相手が普通の感染者ならな、だが、あの暴君に噛まれたのだとすると話は変わってくる。あいつは人工的に生み出された感染者だ。ウィルスが何らかの理由で突然変異していないとどうして言い切れる」


 実際のところ感染者に噛まれた人間が感染者になる、そのメカニズムさえ解明されていないのだ。原因がウイルスだというのも、それらしいウイルスすら発見できていない医者連中の憶測にすぎない。


「しかし……」

「俺だってお前の恩人を簡単に見捨てるのは吝かではない。しかしお前やジェリド、仲間以上に重宝する気も俺にはない。あくまで余裕があれば助けてやる程度だ」

「まだ試せていない方法がある」


 そのライラの発言にはジェリドが噛みついた。


「さっきも言っただろ、誰も阻害薬は持ってない、薬のほとんどは基地に置いてきちまったんだ」


 スカイは眉を顰めた。


「そもそも阻害薬(あれ)は戦いの前に投与する予防薬みたいなもの、感染者への変身を始めた人間に投与しても気休めだ。ビタミン剤と大差ない」

「試してみなければ――」

「ジェリドが言っただろ、手元に薬があれば幾ら試しても構わないが今はない。こんな状態で拠点まで持つわけがないだろう、今回は仕方がない、諦めるんだ」

「私が取りに行ってくる」

「基地に引き返すのか? あの感染者だらけの場所に? 自殺行為だ。仲間も全員を救い出せなかったんだぞ、今頃、暴君の手駒にされてる、状況はさらに悪くなっているはずだ」

「それでも――」


 ライラは決意が固いのか、拒否する姿勢だった。

 これは誰が止めても無駄だろうなと思っていると、スカイも頭に血が上り始めているのかイライラしていた。獲物を見据える獣の目だ。


「私ならやれる、やらせてくれ」

「認められない、こいつはただの民間人だ、要人でもなければ仲間ですらない、どうしてそこまでこだわる? 今まで、そんなことを言い始めたことなんてなかったはず、こいつはお前にとってそこまで特別なのか?」


 変な勘繰りだと誰かが言い出しそうな雰囲気なのに誰も声をあげられずにいる。スカイの恐ろしさを誰もが知っているように。どうにも煮え切らないライラの様子にスカイは腕を組む。


「見殺しにはできないんだ」

「軍人の言葉とは思えんな、俺たちは正義の味方じゃない、感染者どもの手から地上を取り戻す人類の最後の砦だ。一つ二つの犠牲を恐れていては前に進めん、お前はそんなことで自滅していいと考えているのか?」

「私の代わりならいくらでも」

「いない、それはお前が一番わかっているはず、人類の数は日に日に縮小している。感染者どもがのさばるごとに居住地を追われ、安全に住める場所は海上だけになってしまった、無駄な言い争いをしている場合ではない」


 救う人間に優劣をつける、そんな後ろ暗い作戦にも従事してきたであろうスカイの苦々しい指摘に、ライラは悔しさから拳を握り込んだ。己の行動が一過性の感情からくるものだと自覚しているのだろうか。いや、それでも納得できないのだろう。そんな反応にスカイの口から奥歯を噛みしめる様な音が鳴った。


「それにお前は救われる側の気持ちを考えたことがあるか? 困っている者、誰も彼もが救いの手を期待しているわけじゃない、もし俺がこいつなら、救ってくれたお前に迷惑をかけてまで生き残りたいとは思わない」


 それはスカイの感想であって俺の意見ではないはずだった。しかし同様に思ってしまう部分がある。俺はライラに救ってほしいと思っていない。もうなにもかもが無駄だとあきらめてしまっている。そんな心がライラの行動に触発されて元気を取り戻すなんてことはなく、もう折れかかっているのだ。萎れてしまっている。ライラにどういえばいいのかもわからない。ただライラにまで萎れてほしくないのは確かだ。

 俺のために声を上げてくれているこの人に悲しんでほしくない。

 ジェリドがそんな空気をものともせずに切羽詰まった声をあげる。


「おいおい、早くこいつをヘリから降ろさないとまずいことになるぞ、このぶんじゃ後、数分、持つかどうか……はやくしてくれ……て、なんだよ」


 スカイが少しだけ、ジェリドのおどけた様子に気を抜いた。

 その隙をライラは見逃さなかった。素早く腿のガンベルトからベレッタを抜いて銃口をスカイに向ける。スカイもジェリドも息を飲んだ。咄嗟のことで反応できなかったのだ。俺も、まさかライラがそんな強硬策に出るとは思いもしなかった。ショック気味の表情を浮かべていたスカイが、少し憤りをあらわにする。


「どういうつもりだライラ」


 ライラの行動を窘めるほかに、冷静さを取り戻させようとする目的もあったのだろう、しかしライラはスカイの言葉に耳を傾けず、操縦席に向かって『ヘリを着陸させろ』声を荒げる。もちろんヘリの操縦はここにいないメンバーが担当している。しかしヘリが高度を落とす様子も、着陸場所を探す様子も見られない。操縦者は、どうやらスカイ以外の命令を聞く気はないらしい。しばし沈黙が流れる。


「ライラ、相手が悪い、やめとけ」


 ジェリドが制止の声をあげるもライラが銃をおろす気配はない。

 ライラを怒りを籠った目で見ていたスカイは次の瞬間、素早く腰のホルスターから銃を抜いてライラに向けた。ライラは撃とうと思えばスカイを撃てたはずだ。だが撃てなかったのは初めから脅しのために銃を向けていたからだ。やはり仲間を撃つほどの覚悟はない。

 スカイはそれを確かめるためでもあったのだろう、もちろんスカイにもライラを撃つ気など毛頭ない。

 スカイはライラに向けていた銃口をゆっくりと座席に倒れ込んだ俺に向ける。


 その行為にはスカイの味方だったジェリドも『おい、スカイ、流石にそれは――』と声をあげた。スカイは少し腰を落とす、手首のスナップを利かせた銃の構え方には歴戦のガンマンのような凄みがあった。早撃ちでは負けないと示すようにライラを威嚇する。


「銃を仕舞えライラ……こいつを撃つぞ。そんな見せかけの脅しが本物に通用するか試してみるか?」

「スカイ……」

「どのみち感染者となって死ぬ運命だ。変身する前に殺せば手間も省ける」

「相手は民間人だぞ」

「それがどうした、俺たちが殺してきた感染者だって元は善良な人々だった、人の尊厳を守るのも俺たちの戦い、そうじゃないのかライラ」


 スカイの目は完全にすわっている。今にも手違いで銃の引き金を引きそうだ。ライラは気圧され、すでに虚勢のメッキが剥がれかけている。もはや勝負はついていた。


 ライラはやり切れない様子で銃を下した。スカイの迫力を見れば、スカイなら銃を撃ちかねない、いや実際に撃っただろう、それだけの覚悟がスカイにはある。

 たぶんジェリドも、そう思っているからこそ、額の汗を拭っているのだ。


 結果論だが、俺は二人が本気でいがみ合わなくてよかったと思った。これでよかったんだと納得する一方、ここまで頑張ってくれたライラに視線を向けるだけの余裕がない。身体が熱い、もはや一刻の猶予もなかったのだ。


 スカイは静かに撃鉄を戻すと、引き金にかけていた指を離して屈む。俺に持っていた銃をおもむろに差し出した。体調が悪い中、なんとか目を向けると、スカイは真剣な表情で俺を見下ろしている。

 スカイの腰には、左右それぞれに銃のホルスターがついていて、二丁は常備、そのうちの一丁を譲ってくれる気らしい。古めかしく年季が入った、くすんだ色をしている銃だ。スカイが落ち着いた口調で言う。


「部下が世話になった礼だ。選別に受け取ってくれ」


 スカイなりの気遣いだった。使用用途は自殺用。それ以外にない。今の俺に必要なのは感染者と戦うための武器ではなく、スカイも言っていた通り、尊厳を守るための自害に他ならないのだから。俺は恭しく銃を受け取った。



 俺はその後、虫の音だけが寂しく鳴り響く牧草地に降ろされた。暗闇の中、遠ざかっていくヘリの音を見送る。ライラの顔は最後まで見られなかった。

 落ち込んでいるのはわかりきっていたし、俺自身、余裕がなかったこともある。だが実際は体調が悪いことを言い訳に敢えてライラを見なかっただけなのだ。

 彼女の悲しむ顔を見たくない。ただその一心で。それが誰のためかと言われれば彼女のためではなく自分のため、まったく情けなくなってくる。


 さわさわと風に棚引く草が足に触れた。脛の部分をくすぐる。牧草地に大の字に寝転がった。

 スカイに貰った拳銃の撃鉄をあげ、こめかみに銃口を押し当てる、深呼吸。


 しかし指が震えて力が入らない。引き金を引く予行演習だというのに、このていたらく。生物の生存本能が頭を擡げる。この期に及んで死にたくないなどと。だったら感染者になってこの辺りを彷徨うというのか、そんなのは嫌だ。


 結果はどちらしかないというのに、どちらも嫌、まったく呆れるほど諦めが悪い。

 吐く息は相変わらず白く、だんだん意識も朦朧としてきた。これは感染者への変身が近い。醜い顔で唸り声をあげ、死んだ後に動き出すのだ。


 小刻みに震える指にゆっくりと力を籠める。歯を食いしばり、衝撃に備える。


 耳元で爆発音にも似た音。


 周囲の草が一瞬揺れ、男は銃を持った手を地面に落とす。そこは再び草の擦れ合う音だけがさざめく静謐な世界。



 チュンチュンという鳥のさえずりで目を覚ました。草の絨毯から身体を起こすと、朝日が眩しくて目を細める。

 随分と寝ていたようだ。やけに気分がすっきりしている。ここは確か、牧草地。

 だが、やけに自分の周りに生えた草がふさふさしていた。昨日、寝転がっていたときは、上半身を起こしても視界を遮るほどの高さではなったはずなのに。


 立ち上がろうとして、右手を地面に這わせると、指先に硬い何かが当たった。それは拳銃だった。昨日スカイという軍人に渡されたものだ。昨日の出来事は夢ではなかった、ではなぜ自分は生きているのか? こめかみに銃口を押し付けて、確かに引き金を引いたはずだ。銃はすごい音がしたし、脳髄をぶちまける一生に一度も味わえない経験をした。はず……あれが夢だったとは思えないのだが。


 こめかみに触れても、それらしい傷は見当たらなかった。耳元ですごい音が鳴ったものの不発だったのか? それとも狙いが逸れた? 過去に弾丸が頭蓋骨を滑って助かった自殺者がいたと聞いたことはあるが……いや……肩に、もう乾いているが血が飛び散っている。


 だったらどうして、ますますわからない。

 それに感染者に噛まれたはずの手が痛くない。包帯を外すと、右拳の傷は綺麗さっぱりなくなっていた。傷まで治ってる。


「な……ん?」


 言葉を発しようとすると口の中に違和感が……硬い何かがあったので掌の上に吐き出す。赤黒い、ひしゃげた金属片だった。なんだこれ? もしかして弾丸か? よくわからないので捨てる。


 立ち上がり、背後を振り返る。なだらかな丘の先に小屋が建っていた。人が住んでいるのだろうか? 昨日は暗かったので気付かなかった。なんだか喉が渇いたし、水を貰えたらいいんだが。


 歩くのに支障がないどころか身体がやけに軽い。昨日あれだけのことがあったというのに疲れ一つ感じない。いったいどうなっているんだ?


 小屋の前まで来て呼び鈴を鳴らしてみたが反応はなかった。銅で出来た傘の中におもりが付いていて紐が垂れ下がっている。これって確か風鈴ってやつじゃないか? チリーンとなんとも風光明媚な音が鳴る。この音は嫌いじゃない。意味もなく落ち着く。気がする。こんな音に反応する人間がいるかどうかはさておき。


 念のため、扉もノックしてみた……が、やはり反応はない。ドアノブを回すとガチャガチャと音がする。当然施錠されているよな。留守ってことか……それともすでに住人は逃げてもぬけの殻とか。そっちの方が確率は高い。金持ちが避暑地に用意したコテージだとしたら、何かあった時のために保存食か、水を残してくれている可能性がある。

 中に入るにはドアを蹴破るしかないが……この際、仕方がない……。

 ドアから一定の距離を取って腰を落とす。人間にとって水は必要不可欠、命に関わることだ。謝ったら許してくれるだろうか、いや、無理だろうな、これは確実な敵対行為、犯罪なんだから、水を失敬したら逃げるしかない。こんな世界で道徳なんて重んじてたら絶対に生き残れない。わかってたことだ。


 俺は覚悟を決めるとドアに向かって猛ダッシュ、足を前に突き出した。


「っ!?」


 だが予想外に勢いをつけすぎてしまったらしく、俺はその勢いのままドアを突き破って家の中になだれ込んだ。盛大な音を立てて色々と壊してしまったらしい。起き上がると、背中からガラガラと瓦礫が落ちた。これで言い訳のしようもなくなった。


 それにしても軽く助走をつけただけだというのにこの惨状はどういうことだ。ただの人間の蹴りにコンクリートを破壊するまでの威力があるだろうか? まるで重機を使ったかのように玄関は半壊していた。


 家が脆いのではない、原因は俺だ。力の制御ができていない。まるで力のリミッターが利かなくなったみたいだ。


 靴箱は見当たらなかったので土足のままあがらせてもらった。罪悪感を感じながらフローリングを土足で歩き、それにしても掃除が行き届いている。人がいなくなってだいぶ経つ家が、こんなにも綺麗なのは変じゃないか? まるでモップがけしたみたいにピカピカだ。


 リビングに入ると、そこにあったのは、無人の山小屋には似つかわしくない、これまた贅沢過ぎる調度品と、設備だった。


 流しもあればキッチンも、その奥には冷蔵庫まである。革張りのソファーに暖炉、極めつけは地面に敷かれた頭付きの熊の毛皮。金持ちの道楽ハウスか?

 想像とは違い、随分と悠々自適に暮らしていたようだ。いや、過去形ではないかもしれない。俺はすでに違和感に気付き始めていた。


「とりあえず、水を」


 キッチンに回り込んで蛇口をひねってみると、勢いよく水が出た。濁っていない透明の水だ。貯水タンクの水だろうが、水まで綺麗とは恐れ入った。

 水をすくって飲んでみる。冷たい、湧き水かなにかか? だが不思議と味がわからなかった。水の冷たさしか感じない、これはもしかして味覚が? 俺の味覚が変なのか?


 次は冷蔵庫を開けてみた。中に入っていたのは肉、肉、肉、肉のオンパレード。一つ一つがパック詰めにしてあって、長期保存できるように加工されている。

 血が濁っている様子はない、まだ新しい肉だ。最近パック詰めされたかのように。冷蔵庫内も煌々と照らされている。発電機かなにかで電力が供給されているんだ。


 ここ、まだ人がいるな。


 住人と鉢遭う前にお暇しよう。玄関の惨状を見たら、まず間違いなく撃ち殺される。


 それにしても冷蔵庫の中身、ものの見事に肉しかなかった。住民の健康を慮っているわけではないが、なにやら嫌な予感がする。


 俺はすごすごと玄関に向かっていたが、その途中でゴトン……と、なにやら天井から音がした。

 上? 二階があるのか。リビングにもどこにも階段は見当たらなかったので、屋根裏部屋に通じる梯子が、天井のどこかに収納されているのかもしれない。


 外観を見たとき、屋根に比べて家の天井が低いと思ったのだ。


 住人は二階にいる。おそらく武器を持っているだろう。今の音は俺の存在に気付いたのかも。俺は玄関に急いだ。なるべく足音を立てないよう玄関まで走り、散らばっていた瓦礫を飛び越え外に出た。山道に向かって一目散に駆ける。


 時折、背後を振り返りながら、どうやら追ってきてはいないようだった。だができるだけ逃げようと足を動かす。走って歩いてを繰り返し。気が付けば辺りは夕暮れになっていた。

 ホウ……ホウ……とフクロウの鳴き声が聞こえ始め、数メートル先に不気味な洋館が姿を現す。


 洋館? こんなところに? このまま暗い山道を進むは危険だ。人のいない洋館なら助かるんだが。俺は仕方なく少々、不気味に思える洋館に足を向けた。

 人がいるかどうかだけでも確かめよう、そんな軽い気持ちだった。追手がいるかもしれない中で、一人でいるのは耐えられなかったのだ。なにか拠り所が欲しかった。


 洋館の壁は、そんな不安を消し去ってくれるかのような頑丈さでそびえたっている。その上に張り巡らされた有刺鉄線も、俺を守ってくれそうな頼りがいを感じさせた。


 夜の山ではどんな獣が出るかもわからない。あの小屋で見かけた熊の毛皮、熊がいたとしたらひとたまりもない。感染者だっているかもしれないし。


 それにしても要塞みたいな屋敷だな。


 正面玄関らしい分厚い鉄の扉に回り込み、見ると扉のすぐ横に呼び鈴らしきボタンが埋め込んであった。押すと、空気が振動するかのようなブィィ、ブィィ……という音が鳴る。しばらくすると音を聞きつけたのか複数の足音が扉のすぐ向こうまで近づいてきて、息を押し殺している雰囲気が感じられた。突然、門の小窓が開き、血走った威圧的な目がこちらをにらみつけた。

 はっとして声を上げそうになるほど不気味な目だった。

 扉越しにこちらの様子を伺っている、明らかに真面な目つきではなく、目だけでわかる異常性、そして、おそらく飢えに苦しむ人間の目。言葉を交わした人間を次の瞬間には捕まえてシチューの具材にしかねないほど狂気がみなぎっている。ごくっと喉が鳴った。


「あ、あの……」


 意を決して声を出そうとすると男の目が忙しくなく動き、周囲をきょろきょろと見まわし始めた。


「ひ、一人か? な、なんの用だ! く、食い物、持ってるなら出せ!!」


 真面な会話ができそうにない。よっぽど飢えているのか、こちらの要件を聞く前に『食い物を持っているなら出せ』ときたもんだ。どうしたものか、できれば庭先を貸してもらって一夜を過ごせたら御の字だと思っていたそれすら難しそうだった。本当に食われかねない。交渉事がこんな人間に任されているあたり、ほかの人たちもまともではなさそうだ。


「や、やっぱりいいです、食べ物もないので……」

「ない? 隠してるんじゃないのか?」

「い、いえ……」


 ポケットに手を突っ込み、ポケットの布袋ごと外に出して見せ、手をひらひらさせて何も持っていないことを示した。


「だったら早くどこかにいけ!! 早く!!」


 乱暴に怒鳴り散らしたかと思えば、小窓がぴしゃんと甲高い音を立てて閉まり、扉の向こうで『奴が来る……奴が来る……』と、ぶつぶつと声がする。


 いったいなにをそんなに恐れているのか。俺は半ば追い立てられる形でゆっくりとその場を離れた。

 しかし行く当てなど始めからない。何が出るかもわからない森で一夜を明かすわけにもいかないし、いっそ屋敷の近くで焚火でもしてやろうかと思ったとき、不意になにかが背後から覆いかぶさり、俺は身動きが取れなくなった。


 口が塞がれ、ばたばたと暴れようにも、すごい力で羽交い絞めにされる。体はピクリとも動かせず、その有無を言わせぬ怪力に目を見張った。明らかに人間の力じゃない。俺だって多少は力があるほうだ。先刻も勢い余って、とある小屋のドアをぶち破ったばかり、それをこうもいとも簡単に身動きを封じてくるなんて。

 かも足先が、ふわっと宙に浮き、体中が少しみしみしと軋んだ。だが骨を折る気はないようで、ゆっくりと引きずられていく。殺そうとして込められた力でもないのにこの怪力は異常だ。口を押えている手の形状から熊でないことは確かだが、この細腕にしてこの怪力が相応なポテンシャルとは言い難い。そしてなにより、この、ふわりと耳元をくすぐる優しい吐息……。


 『大人しくしてろ……声を出したら殺す、いいな?』


 鈴が鳴るようなきれいな声に、心をキュッと締め付ける脅し文句が加わり、俺は思わずこくこくと頷いていた。抵抗などしようものなら何をされるかわかったものではない。聞こえたのが女性の声だったというのもあり、おとなしくしていたほうがよさそうだった。声を出したら殺すというからには問答無用では殺さないだろう。


 俺はずるずると脱力したまま引きずられ――。

 ていうか抵抗すらできないんだが。


 森の中を少し分け入った所で拘束が緩んだ。俺は地面に放り出されごろごろと転がり、やけにあっさりと離したなという感想を抱きながら、ゆっくりと体を起こした。見上げた先にいたのはだらしなくキャミソールを着、ジーンズを履いた女性だった。とても気だるい感じで、寝起きなのか跳ねた寝ぐせをがしがしと乱暴に掻いて直している。

 しかし気を抜いてはいないのか、生命力の溢れた力強い目は、ずっと俺を射殺すように注がれていた。


 そして思わず顔から少し下に目を向けると、そこには思わず目が行ってしまうような膨れた巨大な胸部、マスクメロンほどもある大きなおっぱ――いや胸が、すらっとした体形に、はちきれんばかりの立派なものが鎮座していた。

 しかも破れたジーンズからところどころ見えるカモシカのような足は、山育ちだけでは説明がつかないほど発達している。


 セミロングの金髪を手櫛ですきながら女は、再度、欠伸を噛み殺していた。

 そのアンニュイな雰囲気に思わず飲まれそうになるが、彼女はさきほどの怪力の持ち主、油断はできない。


 女は、チャーミングと言えばいいのかワイルドと言えばいいのかわからない口の端の犬歯をのぞかせながら言う。


「さっきはよくも寝込みを襲いやがったな、堂々と私の寝床に侵入してきた感染者なんて初めてだ。で、なにが目的だったんだ? 私の様子を探ってこいとでも言われたか? 仲間はどこだ?」

「いや、仲間なんていませんけど」

「とぼけるなよ、じゃあなんて逃げた?」

「逃げた? いや、なんで俺が逃げてるって知ってるんですか?」


 正直に言ったつもりだったが女性の目つきが急に鋭くなった。俺が嘘をついてないか怪しんでいるのか、それにしたって寝込みを襲った? どういうことだ? 


「え、もしかして」


 俺は一つだけ心当たりに行き着いた。そうだ、寝込みを襲った。その言葉に一つだけ当てはまる出来事がある。まさか追いかけてきたのが彼女だとは思わなかったのだ。だとしたら彼女がここまで怒っている理由に合点がいく。


「ごめんなさい、さっきの家の人だったんですね――いや、すいません、その……喉が渇いていたもので、家に人がいるとも思ってなかったんです」

「で仲間は何人だ?」

「いや、だから仲間なんていませんって、俺一人だけです」

「私の探知に引っかからない奴か……随分と舐められたもんだな、こんな雑魚をよこすなんて、まあいい、どちらにせよ、お前を見せしめに殺せば出てくるだろう」

「え? なんです? 殺す?」


 よく聞き取れなかったが女は殺すと言ったらしい。忌々し気に左足の靴底で地面を抉り、女は腕を組んで俺の反応を待っていた。

 ここで命乞いをして仲間の居場所を吐くとでも思ったのか? だが俺には本当に仲間なんていない。微動だにせず睨みつけてくる彼女に俺の心臓が大きく脈打つ。


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