殺戮の遺伝子
「うわっ!!」
防御態勢をとりながら仰向けに倒れたところに感染者が覆いかぶさってくる。横に構えたバットを噛み付こうと顔を突き出した感染者の口にあてがい、噛みつき攻撃を防ぐ。
「くっ」
ひたすら間延びする不気味な声で、にく~、にく~と連呼していたのは飢えているからなのか、ひたすら噛み付こうとしてくる感染者を、体勢を変えながら、時にバットを押し込みながら、なんとか躱す。
どうやらあまり利口ではないらしく、力は強いがバットの扱い次第でなんとかあしらえそうだったが、急にバットが押し込まれた。学習能力は低いと踏んだ途端に並はずれた力で意表を突かれる。
『まずい、こいつ急に力が――』
『左手を離すな』
言われた通り左手でしっかりとバットを握る。右肩の筋肉が盛り上がり、続けて拳も大きくなった。右拳で感染者を殴る。油断していた感染者はその攻撃を真面に食らった。
あれだけ固かった感染者の頬に拳がめり込み、感染者の顔は苦痛に歪む、下を向いて黙り込んでしまった。打撃が通ったと喜んだのもつかの間、下を向いている感染者がフルフルと震えだす。
なんだ? と思っていると『防御しろ!』と頭の中に鋭い声が飛んだ。
咄嗟に腕をあげてガードを固めた次の瞬間、すさまじい衝撃が防御した腕に叩き込まれた。抱えていたバットは吹っ飛び、身体が跳ね上がった。防御をこじ開けられた? さらに重い一撃が顔面を襲う。
思考がまとまらず視界がぐあんぐあんと揺れる中、無我夢中で痺れる腕をあげ、防御態勢をとる。攻撃は立て続けに防御した腕の上からたたき込まれた。腕から伝わる衝撃が顔面を容赦なく打ち据える。逸れた打撃がコンクリートを陥没させる。腕越しに喰らった打撃が鼻を潰し、鼻から流れ込んできた血が気道を塞ぐ。息ができなかった。その殴打は休みなく続く。
いつになれば途切れるのかと、呼吸もままならない中、じっと防御しているしかない。刈り取られそうな意識の中、『諦めるな!! 奴も限界が違い!! あと少し耐えろ!!』と励ます声が聞こえてくる。
諦めるなたって、防御しかできないんだよ。何度も打撃を食らってるうちに意識が朦朧としてきた。
そうやって耐えて……というか、なし崩し的に耐えるしかない状況下で、感染者の攻撃のキレや打撃力が最初に比べると、やや落ちてきたように感じた。
これがあいつの言っていた限界って奴なのか、感染者なんだから体力は無尽蔵だと思っていたが、そういうことならと気力を振り絞る。
この感染者には普通の感染者と違って当初から人間らしい感情が垣間見えていた。普通の感染者には疲労がない。疲れたと自覚できる機能が麻痺しているからだ。だがこいつには生理現象を自覚できるだけの自我が残っている。だから感情任せに力を振るう。疲労を感じてしまう下地があるのに感情をコントロールできていない。
己のペース配分を無視して殴り続けた結果、疲れたんだ。
見ると感染者は案の定、ぜーぜーと息を吐き、肩を上下させていた。持久力が底をついた。すぐには動けない、今がチャンスだ。
俺は右腕を引き、思いっきり振り抜いた。完全にヒットコースだ、捉えたと思ったが、焦るあまり狙いを定めている余裕がなかった。そして、それは奇しくもさきほどと同じ箇所を狙った一撃となり、つまり、とても読みやすい攻撃だったのだろう。
まったくの予想外。息を切らしていたはずの感染者が、ぱっと勢いよく顔をあげ、目に怪しい狂気をみなぎらせる。しかし攻撃は止められない。口を開けた感染者が不用意に突きだした俺の拳に噛み付いた。
噛み付かれた拳が鮮血を飛ばし形勢は逆転。
「があっ!?」
腕を引こうとしたが感染者は『うう!! うう!!』唸り声をあげるほど強く噛み付いており、びくともしない。感染者の頭を殴るも効果はなく、引きはがそうとしても、さっきからズルズルと血で滑って感染者の頭部は離れない。
手の甲に鋭く突き刺さった歯が、ガリっと音を立てる。骨を噛み砕く嫌な音が鳴った。手の甲の皮が裂けて血飛沫が飛ぶ。
「がああっ!?」
痛みでわけがわからなくなってくる。戦意はどんどん減退し、まるで万力にかけられたように拳がつぶされていくのを、ただ叫びながら見ていることしかできない。
そのとき。
『合図で右拳を引いて左拳で殴れ、3、2、1で行くぞ、3、2、――今だ!』
『!?』
何も考えずに従った。痛みで考えている余裕はなかったのもある。無心で右拳を引く、すると、あれだけ感染者の歯にがっちりとホールドされていた拳がずるりと抜けた。血で滑りがよくなっていたからだけではない、例のあの力を使い筋力を移動させたのだ。右拳の筋肉を減少させることで拳と歯の間に隙間を開け、その隙に――。
左の拳が巨大化する。その左拳を思いっきり感染者に突き出した。
喰らった感染者が吹っ飛び、地面をバウンドしながら、棚が乱立している所に突っ込んだ。ガラガラと物が崩れ、感染者は大量の荷物に埋もれるが、大したダメージは与えられなかったのか、周囲の障害物を蹴散らしながら立ち上がる。
叫び声をあげて俺を睨みつけている。火に油を注いでしまったようだ。次はどうする……。感染者はかなりタフだ。多少の攻撃ではびくともしない。
感染者が叫び声をあげて走り込んでくる。
ズタズタにされた右拳からは血が滴り落ち、地面に赤い水溜まりを作っていた。一応、利き腕は右だし、左手で効果がなかった以上、こんどは思いっきり筋力移動させた右腕で殴ってみるか。
頭の中に声をかけてくる奴に指示を出そうとした時、走り込んできていた感染者との間に、黒い影が割って入った。
そいつは感染者と正面から組み合うと、じりじりと力比べでもするように感染者を押していく。
人間ではなかった。ヘルメットのようなメタリックな頭部。背中も無機物なのか有機物なのかもわからない機械でできた尻尾が奇妙なバランスを取っている。某映画に出てくるエイリアンのような見た目だ。
『ココハマカセテ……、アナタ、ハ、ニゲナサイ……レオ……』
その怪物が言葉を発した。おおよそ人間が出したとは思えない機械的な声で。
今、俺の名前を?
そこへ肩を抑えながら、割れたヘルメット、片目だけを覗かせたライラが駆け寄ってきて肩を貸してくれた。二人で支え合いながら屋上に続く階段に向かう。
「今のうちに屋上へ……」
二人ともボロボロだった。ゆっくりと着実に階段を上りながら階下を見ると、先ほどの化け物が感染者と互角の戦いを繰り広げていた。『あれは……』と漏らすと、ライラが前を向いたまま『あれはハンターだ』と答えた。
ハンター……聞いたことがある。人類が感染者に対抗するため、主力としている人型兵器だ。材料に死んだ人間だけでなく生きている人間も使っているのではないかという黒い噂が絶えない、脳が機械制御された兵士。感染者に噛まれても変身するリスクがなく、恐怖心も感じない。
人類の不道徳さの象徴する、行き過ぎた人体実験の末路。
元は戦争で手足を失った兵士を救うための医療技術だったそうだが、日々、尊厳を失くし、感染者となっていく同胞たちを目の当たりにした人類は、人間を本格的に機械化する術を実用化した。かつての仲間である軍人の命を、機械化した彼らで救うという大義名分を唱えながら。
そうやって生み出されたハンターは、材料にされた人間の記憶や経験を多少なりとも引き継ぐことがあるらしい。そんな怪物がどうして俺の名を知っていたのか……。材料にされた人間の記憶が蘇って? いや、あれはシステム的な何かだ。誰かがハンターの機械制御を奪って操っている。システムをハッキングしたのかもしれない。
二階に辿り着き、扉を押し開けて屋上に出る。
ちょうどプロペラの音を響かせてヘリが上空を旋回していた。ライラが手を振ると、ヘリからロープが下ろされる。ロープに掴まって巨漢の男が下りてきた。
地面にばら撒いたロープを手繰り寄せ、俺の顔色の悪さに気付き、右手の傷を見て不審げな顔をする。
ライラに視線を向けるが、ライラは何も言わない。男は仕方なくライラと俺をロープで縛り、ヘリに合図、俺たちはなんとかヘリに収容された。
その後、三人を収容したヘリは、ゆっくりと、湾岸倉庫街を後にする。