第十四話 甘露
片瀬麗の体温が消えたのは、朝の光が体育館の床をわずかに照らしたころだった。
透の袖を掴んでいた彼女の指は、離れる瞬間まで小刻みに震えていた。最後に吐いた息が白くなって、すぐに消えた。千景が毛布をかける。灯は顔を覆って黙り、弓が拳を握ったまま、何も言わなかった。
その場にいた全員が知っていた。これが十四人目だということを。
*
喪主は透が務めた。
遺品は、小さなアメ玉の包み紙。くしゃくしゃに丸められた銀紙の内側に、淡い桃色の染みが残っていた。
甘い匂いがした。あの匂いを、誰よりも最初に感じ取ったのは彼女だった。
――あまい。
初めて井戸の水にその匂いが混じったとき、彼女は笑ってそう言った。
その笑顔の意味が、いまになって透の胸に突き刺さる。
あのとき「甘い」は、ただの感想だったのか、それとも、もう始まっていたのか。
葬列は短かった。
雪の下の土は硬く、鉄のような音を立ててスコップの刃を弾いた。透は何度も握り直しながら土を掘った。指先が痺れて、手の感覚が薄れていく。弓が交代しようと声をかけたが、透は首を振った。
自分の手で埋めたかった。記録係である前に、彼女の袖を掴まれたひとりとして。
棺の中に包み紙を置く。
銀色が光り、すぐに雪明かりに溶けた。
透は立ち上がり、呼吸を整えようとしたが、空気が喉を通らない。甘い匂いが鼻の奥にこびりついて離れなかった。
「……あまい」
無意識に漏れた声に、自分で気づいて息を詰めた。
千景が視線を向けたが、何も言わなかった。灯は祈るように両手を合わせていた。弓は俯いたまま、拳を握っていた。
*
埋葬のあと、透は井戸の縁まで歩いた。
冷え切った風が吹きつけ、指の感覚が戻らない。覗き込むと、水面は凍りつきかけて、うっすらと白い膜が張っていた。そこから立ちのぼる匂いに、思わず吐き気がこみ上げる。
喉の奥がねじれて、胃の中のものを吐き出した。吐いたのは、朝に食べたわずかな粥と、形のない後悔だった。
「透」
灯が後ろから声をかけ、背中をさすった。
その手のひらは小さく震えていた。
「あなたは悪くない」
透は首を振る。言葉にならない。
悪くないと言われるたびに、罪が増える気がした。
記録係は、見届けるだけの人間じゃない。書きとめるということは、死を固定するということだ。
死を動かせなくする行為だ。
だから、自分も死に参加している。
そう思うたびに、鉛筆の芯が黒く見えた。
*
夜、灯と千景と弓と律が円卓を囲んだ。
風が強くなり、屋根の板を叩く音が絶え間なく続く。
千景はノートを開き、静かに言った。
「感染源が、わかったかもしれない」
弓が顔を上げる。「……祠の水、でしょ?」
千景はうなずいた。「水。導水路。祠。戦後に一度、改修工事が行われている。町の記録には“祠の湧き水を共同井戸に導く”とある。……それが最初の汚染経路かもしれない」
「でも、祠の水なんて何十年も封じられてたんじゃないの?」
律が眉をひそめる。
「封じたはず、です。けれど――」千景はノートのページをめくった。「供物の中に“何か”があった。菌類か藻の一種か、それとももっと別のものか。サンプルを顕微鏡で見たけど、通常の細菌構造とは違った。遺体から採取した組織に、それと近い反応が出たの」
「つまり、祠が……?」
「感染源である可能性が高い。
だけどそれは“生きてる”わけじゃない。菌とも違う。もっと古いもの。藻に似ているけど、細胞が複雑すぎるの。……まるで、祈りの形がそのまま増殖してるみたい」
その言葉を聞いた瞬間、誰もが息を飲んだ。
科学の説明なのに、祈りの言葉のように響いた。
灯が唇を噛む。「祈りが、病気をつくったの?」
千景は答えられなかった。
弓が目を閉じて言った。「じゃあ、私たちは何を信じればいいの。……祈りも、理屈も、どっちも届かないのに」
律が拳を握ったまま、立ち上がった。「もう一度、祠を見に行く」
「やめて」と灯が止める。「祠に行くたび、誰かがいなくなる」
「確かめなきゃ。何がそこにあるのかを」
「確かめても、どうせ明日には誰かが――」
その先を灯は言えなかった。
誰もが知っている。もう十五という数は遠く、残りは指で数えられるほどだということを。
*
夜が更けても、透は記録を続けた。
紙の上に鉛筆の跡が残り、字がかすれる。
――第十四日。十四人目、片瀬麗。喪主、透。
――遺品、アメ玉の包み紙。
――匂い、「あまい」。最初の笑顔。
――埋葬後、井戸で嘔吐。
――感染源、祠。導水路。戦後改修。
――祠の供物に未知の物質。藻に似た反応。
書き終えたあと、透は鉛筆を置き、額を押さえた。
文字の列が波のように揺れて見える。
書けば記録になる。記録になれば、変えられなくなる。
それでも、書かないと誰も覚えていられない。
灯が寝袋の中から顔を出し、小さく言った。
「透、寝て」
「まだ書くことがある」
「書いたって、救われない」
「書かないと、もっと苦しい」
灯はそれ以上何も言わず、毛布の端を握った。
彼女の指が、微かに震えていた。熱のせいか、寒さのせいか分からない。
透は記録帳を閉じ、灯の方に向き直った。
「灯」
「なに」
「麗が言ってた。“あまい”って。あれ、最初に笑って言ったの、麗だった」
「覚えてる。……あのとき、きれいに笑ってた」
「俺、あの笑顔を記録に残してない」
「それでいいよ。残さなくていいこともある」
灯はそう言いながら、目を閉じた。
透はその横顔を見つめ、心の中で短く祈った。
祈りというより、願いだった。
明日の朝、彼女の息がまだ白く残っていますように――と。
*
深夜。
千景が記録用の紙を抱えて、透のそばに来た。
「これ、見て」
薄い紙の上に、祠の壁から採取した藻の断面が描かれていた。
細い線が複雑に絡まり、まるで人の手が組まれたような形をしている。
「細胞分裂じゃない。増え方が異常なの。自分自身の形を“記録”して、増えていくの。まるで、自分を忘れないために」
「忘れないために?」
「そう。生き物は、死ぬとき記録を残す。DNAも、記憶も、言葉も。
この藻も、きっと同じ。何かの“願い”を記録したまま増え続けてる。祈りを構造にしてる」
千景の声が震えていた。
科学の説明のはずなのに、まるで罪の告白のようだった。
透はその紙を見つめ、言葉を探した。
「祈りが、感染してるんだな」
千景が顔を上げた。「……そうかもしれない。
信じることと、広がることは、たぶん同じ形をしてる。
だからこそ止められない。止めたら、全部消える」
「止めても、書けば残る」
透は記録帳を叩いた。
「紙の上に、祈りを書き換えられるかもしれない」
千景は少しだけ笑った。「あなた、無茶を言うわね」
「無茶でも、書く」
透は鉛筆を握り直した。
ページの余白に新しい行を書き足す。
――水は甘く、記録は苦い。
――祈りは感染し、言葉はその道を開く。
――俺たちは、祈りの死骸の上に座っている。
鉛筆の先が折れた。
折れた音が、鐘の音のように聞こえた。
*
夜が明ける。
体育館の窓から、灰色の光が差し込む。
灯が眠っている。弓は配給箱の前で膝を抱え、律は外の様子を見に行った。千景はまだ紙の前に座っている。
風が止んだのか、甘い匂いが濃く残った。
その匂いの中で、透は静かに記録帳を閉じる。
ページの端に指を滑らせると、紙の感触がざらつく。
それは砂のようで、砂糖のようでもあった。
甘くて、痛い。
麗の包み紙の銀色が、思い出の中で光る。
透はその輝きを、目の奥に焼きつけた。
祈りでも、記録でもない、ただの記憶として。
――あまい。
あの一言が、まだ耳の奥に残っている。
透は鉛筆を取り、最後の行を加えた。
――第十四人目、片瀬麗。
――最初に笑った子。
――その笑顔を、忘れない。
書き終えた瞬間、胸の奥で何かが音を立てた。
それは泣き声に似ていて、祈りのようでもあった。
誰かが鐘を鳴らしたように、空気が震えた。
甘い匂いが、静かに満ちていった。




