第十三話 秩序の死骸
昼前、風が変わった。
谷の奥から押し寄せてくる冷気の向きがわずかに曲がり、凍った木々の間を抜ける音が鈍くなる。雪は降っていないのに、空は白く、雲は低い。灯が毛布を肩にかけたまま窓に寄り、薄く曇ったガラスの向こうを眺める。千景は火の前で鍋をかき回し、弓は配給の袋に手を伸ばすのを一度ためらってから、指の腹で布の縫い目をなぞった。律は寺へ行く準備をして扉の前で立ち止まり、視線だけを外にやる。
「倒れた木、見に行く」
弓が言った。昨夜の風で、林道の手前の斜面に何本かの木が傾いたと、朝いちばんに麗が窓越しに指差していた。俺と千景、律もついていく。灯は咳をこらえ、毛布を貸してと目で合図する。彼女の分まで胸に抱え、俺は外套の襟を詰めた。
倒木は、雪に沈んで静かに横たわっていた。根元が土の塊ごと持ち上がり、土の断面に凍りかけの水脈が細く光る。幹は途中で折れておらず、枝々だけが雪の重みで下を向いている。谷の音は薄く、甘い匂いは遠い。それでも、鼻の奥のどこかに膜のように張り付いている感触は消えない。
「……ある」
千景が低く言った。倒木の陰、雪の白と、服の黒と、皮膚の色が境界を作る。近づく前から、わかってしまう。俺は喉の奥を押さえ、足を一歩だけ前に出す。律は祈る形には手を組まず、指を伸ばしたまま胸の前に置いた。
若い男がうつ伏せに倒れていた。
沼田の相棒だった見習いの青年――名簿には、確か初期の「欠」の欄に一度だけ薄い鉛筆で書かれ、誰かの手で消されていた名。消したのが誰だったのか、もう確かめようがない。背中の上に雪が積もり、肩の布は破れている。傍らに、チェーンソーのチェーンだけが外れて転がっていた。油の抜けた金属は黒く固まり、刃の一枚一枚に細かな雪が噛んでいる。
千景が膝をついて、脈を探すふりを一瞬だけしてから首を横に振った。医療の所作は、たとえ無意味でも落ち着きをもたらす。俺は彼の顔を見ないようにして、手袋を直した。見ないことで守られるものがある。見なければ書けないものもある。
「喪主は……」
弓が言いかけ、律が俺のほうを見た。
「透でいいか」
うなずいた瞬間、肩の力が抜けた。寒さとは違う震えが背骨を伝って指先へ落ちていく。喪主の重さは、言葉より先に手に来る。俺はチェーンを拾い上げようとして、掴みそこねた。金属の歯が手袋のゴムにかすって、細い音がした。もう一度、今度は両手で持ち上げる。思っていたより軽い。軽さが、怖い。
千景が布を広げ、弓が遺品をまとめる。律は雪を払い、顔にかかった枯葉を指でそっと外した。若者の名が喉の奥に引っかかって出てこない。名簿をめくれば出てくるはずの音が、今は紙の向こうで眠っている。
「名簿、合ってなかった」
弓が淡々と言う。「最初の混乱の時期に、誰かが“外へ出た”に分類したのかもしれない。戻らない人を全部“外”に置きたかったんだと思う」
「置きたかった」
俺は繰り返した。凍った根の褐色が目に刺さる。置くという動作は、秩序の始まりでもあり終わりでもある。置いて、名前をつけて、納める。納まらないものが出てきたとき、秩序は膨らみ、その外側に死骸を作る。
葬列は短かった。鐘は鳴らない。雪は固い。棺は切り詰めた板で、釘は均等ではない。喪主の立ち位置に立ったとき、足の裏が地面から浮いた気がした。千景が視線で合図を寄こす。弓はうつむき、律は空を見た。灯は体育館で毛布に包まれたまま座り、俺の言葉が届く場所にいない。届かない言葉のほうが、重い。
「彼は、ここで止まった。……止まった場所が見つかった」
俺は短く言った。声は自分のものに思えなかった。「私たちは、見つけられなかった。だから、名簿が間違った。間違いは、私の仕事だ」
言い切ったとき、胸が少しだけ軽くなった。責任を名乗ることは、秩序の儀式のひとつだ。儀式は寒いが、火の位置を教える。俺はチェーンを棺に置き、指先の油の黒を布で拭った。油は布に移り、匂いは手に残る。甘くない匂いだ。甘くない匂いだけが、今日は救いだった。
*
戻って、会議になった。
会議と呼ぶほどの人数はもういないのに、言葉の並べ方は昔と同じだ。臨時統括の佐久間がいたときの癖で、机を円にして座る。千景が紙を広げ、弓が配給表の端に小さく線を足す。律は腕を組み、灯は毛布に顔を半分沈め、麗は布の向こうで端に腰かける。
「規約の見直しを」
千景が言う。「喪主の負担を分散する案。看取りの輪番制の厳密化。埋葬の簡略化」
言いながら、彼女自身がその言葉の冷たさに触っているのが見て取れる。簡略化――紙の上では軽いが、土の上では重い。弓は目を閉じ、眉間に短い皺をつくった。
「簡略化って、何を省くの?」
「言葉の長さ。遺品の選び方。列の順番」
「……裏切ってるみたい」
弓はぽつりと言う。「死んだ人に。私たち自身にも」
「でも、残る側が持てない荷物を抱え続けて折れるのも、裏切りに含まれる」
千景ははっきり言う。「喪主の重さは、今の人数では偏る。透だけじゃない。律にも、私にも、弓にも。……負担を分ける仕組みを紙に書きたい」
仕組み、と口にした途端、体育館の空気が少し硬くなった。仕組みは秩序の骨だ。骨は折れる。折れた骨は、死骸の形だけを残す。律が口を開いた。
「埋葬の簡略化は、必要だと思う。……頭では」
「頭では、ね」
弓が小さく笑った。笑いはすぐに消えた。「心は、違う」
灯が毛布から顔を出し、咳の合間に言う。「簡略化って、楽をするためじゃない。続けるための“やりくり”だよ。……やりくりって、裏切り?」
問いは軽い言い方を選んでいるのに、重さがあった。俺は記録の紙をめくりながら、灯の言葉に救われる。やりくり――その言い方なら、冬でも口にできる。
「喪主の言葉を一人で担がない仕組み」
千景が提案を紙に書く。灰色の鉛筆が、薄い音で紙を擦る。「最後に一言ずつ、輪番で“残す言葉”を置く。喪主は開きを、輪番は締めを。遺品は“ひとつかふたつ”。列は短く、止まらず」
「止まらないって、冷たい?」
弓が問う。「止まらなければ、倒れない」
灯が答える。「止まって、倒れるほうが、悲しい」
麗が布の向こうからかすかに言った。「……私、輪番、やる」
声は小さく、でも届いた。灯が頷き、千景が紙に「麗」の字を足す。律は紙ではなく、綱のない鐘楼の方角を一瞬見た。鳴らない音が、会議のときほど強くなる。
「秩序って、死ぬんだね」
灯がぽつりと言った。また咳が出て、目を細める。「死ぬけど、死骸は残る。残ったやつが邪魔する。……それでも、骨を踏んで進む」
秩序の死骸。ことばの形が、体育館の床の冷たさに合った。俺は紙の端を指で押さえ、震えを止める。「死骸を抱えて寝るのは、背中が痛い」
「背中の痛みで、起きられる」
千景は淡々と言った。「起きられるなら、書ける」
書ける。
それが、たぶん俺の役割だ。役割は、体温に似ている。下がりすぎると動けなくなるし、上がりすぎると視野が狭くなる。いまは、ぎりぎり動ける温度だ。
*
夜、規約の紙は壁に貼られた。
「喪主の輪番」「看取りの輪番」「埋葬のやりくり」。字は千景の字で、丸みがあり、読みやすい。沙耶の字に似ている。似ていて、違う。弓は配給箱の前に座り、秤に布をかけ直す。針の震えは見えなくなっても、布の波で伝わる。律は寺へ行かない。行っても鐘は鳴らないからだ。麗は布の向こうで横になり、指で名簿の自分の名前をなぞっている音だけが微かに響く。
俺は記録帳を広げた。紙は薄く、角はもう丸くなっている。鉛筆は短く、削ると木の匂いが立つ。甘くない匂い――それだけで少し救われる。
――第十三日。十三人目、沼田の相棒。喪主、透。
――遺品、チェーンソーのチェーン。名簿、誤り。
――規約、見直し。「喪主輪番」「看取り輪番」「埋葬やりくり」。
――“簡略化”への抵抗。裏切りではないはずが、心は追いつかず。
――秩序、死骸のように残る。
書きながら、指が震えた。昼に拾い上げたチェーンの感触が、まだ掌に残っている。軽い恐怖。軽いからこそ、どこにでも入ってくる種類の。灯が俺の震えに気づいたのか、そっと近寄ってきて、記録帳の端に指を置いた。熱はない。指先に、わずかな温かさだけがある。
「透。これが残れば、誰かが生き延びる理由になる」
灯は言った。声は細いのに、はっきりしている。残るという言葉が、今夜は冷たくなかった。
俺は頷いた。頷いたふりをして、次の行を足した。
――残れば、誰かを縛る理由にもなる。
書いた瞬間、灯が小さく笑った。「正直」
「うん」
「正直って、寒いけど、火に近い」
灯の言い方はいつも少しだけ詩になりかけるが、詩になる前で止まってくれる。その止まり具合が、今の俺たちにはちょうどいい。千景が湯の蓋を閉め、弓が秤の布をもう一度整え、律は目を閉じ、麗は寝返りを打つ。その音の全部が、鐘の代わりだ。
「透」
灯がもう一度呼ぶ。「手、貸して」
俺は記録帳から手を離し、灯の手を握った。手の根元に温かさがあり、指先は冷たい。温度差が、俺を生き返らせる。人の手の温度は、秩序の死骸にはない。死骸は触れると冷たく、固い。けれど、骨を踏んで進むしかない道もある。紙に残した骨の位置を、朝、また確かめよう。
外では風がやんだ。祠のほうから甘い匂いが一度だけ強く押し寄せ、すぐに薄れた。薄れたのに、舌の奥の膜は剥がれない。千景が窓の隙間に布を詰め、弓が火の番を交代し、律は壁に寄りかかって目を閉じる。麗の息は穏やかだ。灯は毛布に頬を埋め、指だけで記録帳の角を撫でた。
「書いてね」
「書く」
「明日のためじゃなくて、今のために」
「うん」
今のために書く行は、未来に届く。未来に届いた行は、誰かを縛るかもしれない。縛らないかもしれない。どちらに転ぶかは、火の位置と、風の向きと、その日の匂いで変わる。変わるなら、書いておくしかない。書けば、変わったことを次に書ける。
俺は鉛筆を立て、余白に小さな行を足した。
――止まらず、倒れず。止まれば、倒れる。
――倒れた場所を見つけ、名を戻す。
――鐘は鳴らない。息の音で、合図をつくる。
灯が目を閉じ、小さくうなずいた。
世界はまた少し小さくなる。秩序は死骸を残す。けれど、死骸の骨格は道しるべにもなる。骨を踏んで、火に近いほうへ。明日の紙はまだ白い。白いというだけで、救いだ。白さがあるうちは、行を置ける。置いた行が、誰かの理由になる。縛るかもしれない。解くかもしれない。両方であってもいい。
眠る前、灯が囁いた。
「透。生きて」
「生きる」
「うん」
俺は記録帳を胸に引き寄せ、鉛筆を布で包んだ。木の匂いがした。甘くない。甘くない匂いのまま、目を閉じる。鳴らない鐘の中で、息の長さを数える。数えながら、骨の位置を覚える。朝になったら、また確かめる。秩序の死骸に足を取られないように、紙の上で足場を作っておく。白い余白の上で、指先の震えがやっと静まった。




