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十五人の葬式  作者: 妙原奇天


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第十二話 手紙

 朝、倉の扉は少し開いていた。

 風が通り抜ける隙間から、乾いた米と木の匂いが漏れてくる。昨日までの志摩の匂いはもう薄く、代わりに黴の気配が底に溜まっていた。弓は無言で手を伸ばし、戸を押す。軋む音。俺は後ろから肩を支える。灯は毛布を羽織って入口に立ち、千景は手袋をはめる。律は足音を殺して付いてくる。

 最初に見えたのは白い袋だった。

 雪のように積まれた米袋の山の、崩れかけた角。そこに、人の背中が寄りかかっている。八重樫弓の父だった。紺色の作業着は薄くなり、肘のところだけ新しい布で当ててある。首の角度が不自然で、手の甲に誰かの文字の跡が残っていた。呼びかけは、誰もしなかった。呼べば、戻ってくる気が一瞬してしまうからだ。

 千景が脈を取り、静かに首を振る。

 弓は前に進み、父の前に膝をついた。唇が乾いて白く、目は濡れていない。肩が一度だけ、わずかに震えた。彼女は父の指から小さな紙を抜き取り、折り目をひとつずつ開く。固い紙の音が倉の中でやけに響いた。灯が毛布の端を握り直し、律は視線を落とした。俺は何も言えず、倉の埃の匂いの中で立ち尽くした。

 弓が読み上げた。

 私は祠の水を飲んだ。甘かった。お前には飲ませたくなかった。

 たったそれだけだった。紙の白が、米袋の白に紛れて見えた。弓は紙を胸に当て、深く息を吸い、吐いた。叫びは出なかった。声にならない声が胸の内側で震え、骨を伝って床に落ちるような、そんな震え方だった。

 千景が目で問いかける。喪主は、と。

 弓は頷いた。「私がやる」

 葬列の道は短いのに、足取りは長く感じた。

 空は薄く、雪はやんでいるのに白さを増していた。棺は静かだった。弓の父の手袋、古い万年筆、畑の境界石の小さな欠片。弓は手紙を布に包み、棺の中へそっと収めた。紙の音が小さく鳴り、沈黙の底に沈んだ。

 喪主の言葉を、弓は長くしなかった。

「父は、飲んだそうです。甘かったそうです。……私は、飲ませてもらえなかった。でも、私はもう飲んでいる。ここにいるから」

 その「ここ」が体育館なのか、谷なのか、祠なのか、俺には分からなかった。どこでもあり、どこでもない。土を落とす音が薄く重なる。律は目を閉じ、肩の筋がわずかに引きつる。灯は咳を二度し、千景が背をさすった。鐘は鳴らない。鳴らない鐘の代わりに、皆の呼吸が短くなる。

 土が最後の布を隠したとき、弓は深く頭を下げた。顔を上げたとき、目はやはり濡れていなかった。泣かないことと、泣けないことは違う。どちらなのかを確かめるには、まだ時間が足りなかった。

 戻って、配給の時間が来た。

 葛城のいない秤を、俺が台の中央に置く。金属が冷たく、指の腹に吸い付く。針は最初から震えていた。米袋は減り方が速く、底の布目が見え始める。弓は自分の番を最後に回し、代わりに灯の分を先に受け取って毛布の上に置いた。灯は礼を言い、袋の紐をきゅっと結んだ。

「足りないね」

 麗が、布の壁の向こうから言った。声は細いが、はっきりしている。

「足りない」

 弓が静かに返し、秤の皿に米を落とす。針は左へ、右へ、そして中央のすぐ左で止まりきれずにまた揺れた。俺は息を整え、針の震えの真ん中を探す。

「もう少しだけ」

 弓が言う。

「もう少しを重ねると、全体が崩れる」

 千景が淡々と告げる。

「崩れないための、もう少し」

 弓は針ではなく灯の顔を見た。灯は頷く。俺は一匙足す。針がわずかに戻る。震えは止まらない。それでも、今はこの揺れの中で折り合うしかない。

 俺の手は震えていた。寒さのせいか、恐怖のせいか、自分では分からない。指の節に朱の名残が薄く残り、灰の粉が爪に入る。灯がそれに気づき、俺の手をそっと覆った。

「透。落ち着いて」

 彼女の掌は冷たく、それでも指の根元に温かい芯があった。その芯の温度で、秤の針の揺れが一瞬だけ細く見えた。

 夕方になって、風が出た。祠の方向から甘い匂いが押し寄せ、体育館の窓枠の目に見えない隙間から忍び込む。舌の根元が痺れ、喉の壁に薄い膜が張る。千景は鍋の蓋をわずかにずらし、湯気で匂いを薄めようとする。弓は配給表を閉じ、秤に布を被せた。「今日は終わり」

 そのときだった。弓がふっと立ち上がり、外へ向かった。誰も止められなかった。止められる言葉はすぐに刃になる。刃は正確で、ゆえに深い。灯が毛布を引きずり、俺も続く。律と千景が目を合わせ、少し離れて付いてきた。

 井戸は薄い氷に覆われ、縁に積もった雪の形だけが柔らかい。弓は周りを見回し、手のひらに収まる石を拾う。井戸の縁に立ち、石を投げた。落ちる音はした。だが水面は波紋を見せなかった。氷の下で響きが鈍く消え、甘い匂いだけが遅れて立ち上がる。

「波紋、立たないね」

 弓は言い、肩を少し落とした。

 灯が息を整えながら近づく。

「厚い氷」

「ううん。氷のせいだけじゃない気がする。……誰かが甘いって言った瞬間から、私はもう飲んでたのかもしれない。水じゃなくて、言葉で」

 灯は、否定できなかった。

 祠の前に花を置いた沙耶。祈りの束。祠の水は甘いという古い噂。志摩の朱印。砂の秤。どれもが言葉になり、そのたび私たちは少しずつ飲んできた。口から口へ、名から名へ、願いから願いへ。言葉は見えない水だ。喉に触れ、体へ入り、匂いになって残る。

「飲ませなかったのに、私はもう飲んでいる」

 弓は自分の言葉を井戸に落とすみたいに繰り返した。「父は、私に飲ませたくなかった。でも、私は聞いた。甘かったって。誰かが言った“甘い”を、何度も飲んだ」

 律が井戸の縁に手を置いた。「弓、戻ろう」

「戻っても、喉は甘い」

 弓は笑わずに笑う。「戻ったって、甘いのは戻らない」

 灯が毛布を弓の肩に掛け、頷いた。「それでも、戻ろう。寒い。風邪を引く」

 弓は頷き、最後にもう一度だけ井戸を見た。氷は薄く、割れない。割れないのに、飲み込む音だけは深い。

 夜、体育館はいつもより静かだった。

 千景が壁の紙に小さな欄を増やす。律が扉の隙間に布を詰める。麗は布の壁の向こうで寝返りを打ち、咳をこらえる。灯は毛布に顔を半分沈め、目だけでこちらを見る。弓は配給箱の前に腰を下ろし、膝に手を置いたまま動かない。指の関節が白く、爪が薄い。

 俺は帳面を開いた。鉛筆の芯は短く、削るたびに木の匂いが立つ。甘くない匂い。紙の上に行を足す。

 ――第十二日。十二人目、八重樫弓の父。喪主、弓。

 ――遺品、手紙。「私は祠の水を飲んだ。甘かった。お前には飲ませたくなかった」。

 ――葬列の夜、弓、井戸へ。石を投げる。波紋、立たず。

 ――弓の言。「誰かが甘いって言った瞬間から、私はもう飲んでたのかもしれない。言葉で」。

 書きながら、自分の喉の奥に薄いざらつきを感じた。砂の味。甘さと一緒に噛んでしまった砂の小さな粒。その粒はどこにも行かず、舌の奥に居続ける。言葉もそうだ。口の中で砕かれ、気づかないうちに残る。残って、匂いになる。匂いは、洗えない。

 灯が俺を呼んだ。「透」

「いる」

「さっき、井戸で……弓、強かった」

「強かった」

「強いのって、寒いね」

「寒い」

 灯は笑っていないのに、笑ったみたいな目をした。熱は落ち着いている。額に触れると、俺の額より少し冷たい。その冷たさが救いだった。

「透、書いて」

「何を」

「今の私たち。飲んでいないようで、もう飲んでいること。水からだけじゃないこと」

 俺は頷き、行を足した。

 ――感染は水から。だが言葉も媒介だ。私たちは互いの口で互いを濡らす。

 書いた瞬間、紙が少し重くなった。灯が目を閉じ、弓が小さく息を吐き、千景が椅子の背に上着を掛け直す。律は両手を見つめ、麗は壁の向こうで寝返りの音を立てる。皆の音が、薄く重なった。

「濡らす、か」

 弓がつぶやいた。「濡れたからって、すぐに凍るわけじゃないのに、寒いのはどうしてだろう」

「風があるから」

 千景が答える。「風は、言葉に似てる。持っていく。持ってくる。……どちらにもなる」

「じゃあ、私たちは、どうする」

 弓は真正面から問うた。

 答えは、ひとつではない。ひとつにしてはいけない種類の問いだと、今は分かる。

「鍋に火を点ける」

 灯が言った。「水は煮沸しない祈りも、火の理由になる。千景さんが昨日言ってたみたいに」

 千景は照れたように笑い、うつむいた。「私、ああいう言い方、得意じゃないのに」

「得意じゃない正しさは、あったかい」

 灯の声は細いのに、よく届いた。弓が肩の力を少し抜く。律は目を閉じたまま頷く。俺は焚き口に薪を一本足した。火の色が少しだけ深くなる。甘い匂いは薄くならない。けれど、火の匂いが重なれば、ましになる。

 夜更け、風がまた変わった。祠のほうから来る甘さが窓を撫で、舌の上に薄い膜を置いていく。俺はページの端を押さえ、もう一行だけ書く。

 ――言葉を乾かす火。

 ――濡れた口で、互いを呼ぶ。

 ――呼ばれた名は、守りに似る。

 書いてから、灯のほうを振り返る。彼女は寝ていない。目を閉じて、起きている。俺はそっと手を伸ばし、額に額を当てた。熱はない。指先に、わずかな温かさが戻ってくる。自分の手が、まだ温かいことに驚く。驚きは救いに似ていた。救いはいつも、思っているより小さい形で来る。

「透」

「いる」

「生きようね」

「生きる」

「うん」

 弓は配給箱にもたれて座り、父の手紙を懐に収めたまま、目を閉じた。親からもらわなかったものと、親にもらってしまったものの両方を抱いて眠るように。千景は衛生キットの残りを数え、律は寺のほうを見ずに火のほうを見た。麗の寝息が布の向こうで落ち着く。鐘は鳴らない。鳴らないことが合図だ。合図の中で、息の長さを測る。

 紙は膝の上で重い。重いのに、まだ余白がある。余白があるうちは、明日の行を置ける。置けない行は、口の中で温めておく。温めて、乾かして、濡れたまま渡す。そうやって、互いの口で互いを濡らしながら、火のそばに座る。

 深夜、外で木が軋んだ。鐘ではない。鳴らない音は、耳の裏側で長く続く。甘い匂いは消えず、砂の味が薄く残る。俺は灯の手を握り、弓の呼吸に耳を澄まし、千景の椅子の擦れる音を数えた。何かを数えることは、祈りに似ている。祈りは水を煮沸しない。けれど、火を点ける理由になる。火は、言葉を乾かす。乾いた言葉で、朝に向かう。

 世界はまた少し小さくなる。

 それでも、行を置く場所は、まだ白い。

 白さの上に、明日の一行を思い描きながら、俺は目を閉じた。

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