第一章 車輪のついた鳥籠 (前編)
私の世界は、牛に曳かれる荷車の中に縮んでしまった。四方を囲む板壁まで、汗をかいているようだった。
床板が語る言葉を、私は骨の奥で聞いていた。道の轍も、石ころも、その一つ一つが衝撃となって背骨に突き刺さる。薄い麻の袴越しに、木のささくれが肌を刺した。
酸っぱい米ぬかの臭いと、車を曳く牛の熱く生臭い息。遠ざかってゆく暮らしの亡霊のように、その臭いが私にまとわりついていた。
ここに閉じ込められて、もう一生が過ぎた気がした。ほんの数刻なのかもしれなかった。時は、吐き気を催す一つの揺れに溶けてしまっていた。私に残された行く末も、それだけだった。
外の平安京は、こちらの都合など構わず、板壁の隙間から爪を立てて入り込んできた。
梅干しを売る物売りの甲高い声が、土の道を踏む無数の下駄の音を引き裂いた。寺の鐘が鳴る。かつては安らぎを告げた音も、ここでは、喚きつづける都の口の中で震える青銅の舌にすぎなかった。
犬が吠え、子どもが泣き、男たちの命令が有無を言わせぬ響きで飛び交う。染み込んでくる空気には、炭の煙と川の腐臭と、魚市場の塩辛く鼻を刺す臭いが煮込まれていた。その底に、日なたで乾いた古い血のような、鉄の臭いがうっすらと混じっていた。
せめて一つ、動かないものに縋りたくて、私は震える板壁に頬を押しつけた。目を留めたのは、木の黒い節だった。小さな、凍りついた渦。
その渦に縋りつくように、木目の輪を目で辿った。馬鹿げた望みだった。見つめつづけていれば、外の世界がそこへ吸い込まれ、私だけを静けさの中に残してくれるかもしれない。
無駄だった。車輪が震えるたび、板の裂け目から、わけのわからない景色が一瞬ずつ覗いた。
女の袖にひらめく絹。信じられないほど鮮やかな、夕焼けの色。
人がひしめき、百足のようにうごめく橋。
武者の漆塗りの鎧に跳ねる陽。その男が進むと、人の群れが水のように割れていった。
どの景色も、爪の下へ押し込まれる棘のようだった。鋭く痛んで、目を背けたかった。
村には、村の調子があった。季節がゆっくりと、決まった間で息をする。田植え、草取り、刈り入れ、そして静けさ。
ここにあるのは、いつまでも冷めず、叫びつづける熱だけだった。
父は泣かなかった。手の柔らかな、目の冷たい商人が戸口に立ったときも、ただ顔を固くしていた。
最後に触れたぬくもりは、母の指だった。私の掌に固い餅を一つ押しつけた、その指は震えていた。
米、三袋。
それが、私の名と、私のこれからについた値だった。
あや。
その名が、石のように喉につかえていた。私はもう、農家の娘のあやではなかった。借りを返すために差し出された、生身の代価。車輪のついた檻の中で震える、一羽の雀だった。
車輪が止まった。
押し寄せた静けさは、それ自体が暴力だった。耳の奥を、高く細い音が満たす。都の喧騒よりも大きな音だった。
荷車が最後に一度軋み、動かなくなった。外で閂を外す音がして、世界が白い光に裂けた。私は身を竦め、殴られるのを防ぐように、思わず手を上げた。
「降りろ」
御者が唸るように言った。
痺れた脚は、もう自分のものではなかった。よろめき出た先は、土でも石畳でもなく、筋目をつけて掃き清められた白砂の海だった。
擦り減った履物の下で、砂利が鳴る。その一歩ごとの音が、静かな書庫で張り上げる叫び声のようだった。清らかなものを汚している気がした。
私は頭を垂れたまま、異質なほど整った地面に目を縛りつけられていた。顔を上げることさえ、私にはできもしない逆らいごとのように思えた。
都の混じり合った悪臭は、高い石塀の向こうへ締め出されていた。その塀が頭上に重く迫ってくるのを、見なくても感じた。ここの空気は薄く、鋭かった。松葉と湿った苔の匂いがする。その下に、もう一つ、名のわからない、かすかに甘い匂いがあった。
高い。
そんな言葉が頭に浮かんだ。働く者の匂いではない。働く者を持ち物にする、力の匂いだった。
ここは屋敷ではなかった。
それだけで、一つの国だった。沈黙で築かれた城だった。
「この娘だ」
御者の声が、静かな池に投げ込まれた不格好な石のように響いた。
風の音に、新しい音が重なった。磨かれた板の上を滑る、絹の囁き。
私は恐る恐る目を上げ、汚れ一つない白足袋を見た。そこから先へ視線を這わせるのは、恐怖の中を旅するようだった。
簡素な藍の着物の裾。仕立てには、一分の乱れもない。濃い藍の帯は、そう結ぶのが天地の定めででもあるかのように、きっちりと結ばれていた。
そして、顔。なめらかな白い肌から彫り出した、礼儀正しい無関心の仮面。髪は漆塗りの兜のように厳しく整えられ、一本たりとも、その牢から抜け出すことを許されていなかった。
「……田舎びた娘ね」
声は平らだった。それでも、その言葉は平手のように私を打った。
田舎びた。いびつな蕪や、欠けた壺に使う言葉。人ではなく、物に使う言葉。
女の目が、私の手に、ほんのわずか長く留まった。
手だけではない。
見られているのがわかった。陽の下で働いてきた、幅の広い、日に焼けた顔も。髪も。
畑仕事の邪魔にならないよう、肩のすぐ上で切り揃えた髪。働くためだけにある、みっともない髪。烏の巣のように乱れた、太く黒い髪の中で、赤みを帯びた毛がところどころ陽にきらめいていた。
どれほど櫛を入れても、ほかの娘たちのように、漆を塗ったようになめらかで、寸分の乱れもない髪にはならなかった。
水を運び、稲を植えて、丈夫にはなった体。それでも、不器用で、がっしりした体。
私は土の生き物だった。非の打ちどころのない、折れやすい花々の庭へ、放り込まれてしまったのだ。
女の背後、渡り廊下の深い陰に、ほかの娘たちが立っていた。白粉を塗った顔は、白くなめらかな画布のようだった。瞬きもしない蜻蛉のような目が、私の擦り切れた麻衣を、日に焼けた肌を、ここに紛れ込んだ私というものを、素早く見定めていた。
そのうちの一人、十歳ほどか、それより幼い女の子が、水を入れた椀を盆に載せ、女の前へ運んだ。膝をついたとき、小さな手が震えた。
水が、一滴。
磨き上げられた床板に落ちた。蛾が羽ばたくほどの、かすかな音だった。
女の冷たく鋭い目が、その小さな濡れ跡に据えられた。声は高くならなかった。ただ、さらに平らになり、氷の刃になった。
「明美。今夜は一晩、東の廊を磨きなさい。膝をついて。水は、終わってからです」
その子は泣かなかった。恐怖が鋭すぎて、涙にもならない。ただ石のように固まっていた。
「はい、杉殿」
囁くような声だった。
胸の奥が、冷たくなった。
たった一滴の水。
この国では、それにも、こんな値がつく。
何事もなかったかのように、杉殿の目が私へ戻った。銭の入った袋が渡された。売り買いは、それで済んだ。
大きな門が滑り、低く、取り返しのつかない音を立てて閉じた。
私はもう、ここのものだった。




