第3話 予言者様、出頭する
占い師にとっていちばん厄介な客は、信じたい客じゃない。
信じたい客は、こっちが半分濁したって残りの半分を勝手に埋めて納得してくれる。ありがたいお得意様だ。
厄介なのは、信じたくない客のほうだ。
そういう手合いは、こっちの言葉尻を一つ残らず拾い上げて、矛盾を、穴を、嘘の継ぎ目を、執念深く探してくる。
——そして俺は今日、この街でいちばん信じたくない男の待つ部屋へ引っ立てられようとしていた。
◇
領主館は、街の北の高みにある。
裏路地の安宿からそこまでは、坂をだらだら上っていく道のりだ。
フィーナは俺の半歩前を、まるで凱旋でもするみたいに胸を張って歩いていた。引っ立てられてるのは、こっちなんだが。
昼前の大通りは、相変わらず売り声と屋台の湯気で埋まっていた。
冒険者ギルドの前を通りかかると、見覚えのある一団がたむろしていた。
東門の夜、飛竜に挑んで薙ぎ倒されたあの討伐帰りの連中だ。
大男は肩から胸まで包帯を巻いて、それでも背丈ほどの両手剣を地に突き立て、それに体を預けて立っている。
隣の杖の女が気だるげに指を鳴らすと、その指先に小さな炎がぽっと灯り、くわえたパイプに火を移した。
竜に氷の槍を三本撃ち込んだ手が、今日は火付け道具の代わりをやっている。
魔法だ。なんてことのない、手慰みの火。だが、俺にはそれすら一生かけても灯せない。
大男が俺に気づいて、ばつが悪そうに顎を引いた。会釈、のつもりらしい。
竜に届かなかった自分たちと、口ひとつで竜を「墜とした」俺と。向こうがそれをどう飲み込んでるのか、考えたくもなかった。
剣を振れば魔物を斬り伏せる奴がいて、指を鳴らせば火を生む奴がいる。そんな世界で、剣も魔法も持ち合わせのない俺が——よりにもよって「予言者様」だ。
笑える。笑えないけど。
「セロ様。あの者たちは、腕利きの冒険者です」
すれ違いざま、フィーナが小声でなぜか得意げに言った。
「ですが、所詮は力。星の理を読まれるあなたとは格が違います」
……格が違うのは、認める。
向こうのほうが、何十段も上にな。
◇
坂の中腹で、前から守備隊の巡回が下りてきた。
先頭の男を見て、フィーナの背筋がぴんと張り詰めるのが分かった。
歳はフィーナと同じくらい。仕立ての合った隊服を着崩して、剣の吊り方ひとつにも妙な余裕がある。
ああいう似合い方は練習じゃ身につかない。生まれつき、体のどこかに剣の神様が住んでる手合いだ。
「おやァ。誰かと思えば」
男は白々しく足を止めた。
「アーシェンの見習い殿じゃないか。近頃は隊の詰所にも寄りつかないで、出世したもんだ。——三文占いの、腰巾着にな」
後ろの隊員たちが、くすくす笑った。
フィーナは何も言わなかった。ぐっと唇を結んで、上着の胸元を片手でそっと押さえた。
何か硬いものでも忍ばせているみたいに。それからまっすぐ前を見たまま、一歩、脇へ避けた。
……こいつ。
いつも俺の出まかせを希望みたいに見ている、あのきらきらした目とは別の表情だった。
俺への崇拝を語らせれば舌が百倍も回るくせに、自分のことになるとこうも黙る。
「ダント。巡回の途中でしょう。道を塞いでは市の迷惑になります」
「ご立派なことで。落ちぶれた家の人間は、気位だけは高いと見える」
——と、頼まれてもいないのに俺の口が動いた。
「よお、兄さん。剣の吊り方が様になってるな。
……ところで最近、夜道で井戸の縄が切れたり、剣が鞘から抜けなくなったりしてないか? いや、何。そういう星回りの顔をしてたもんでね」
ダントと呼ばれた男の顔から、すっと笑いが引いた。
飛竜と旧水路の話なら、この街で知らない奴はもういない。
「予言者」に星回りを囁かれるってのが、今のセレディアでどういう意味を持つか——それを値踏みする程度の頭はこいつにもあるらしい。
「……行くぞ」
ダントは舌打ちして、巡回を連れて坂を下りていった。
フィーナが、ぎょっとした顔で俺を見上げてくる。
「セ、セロ様。いまのは、ダントに凶事の予言を……?」
「するか。顔を見て言っただけだ。占いってのはな、九割が顔を見る商売なんだよ」
残りの一割が何なのかは、俺がいちばん知りたい。
◇
坂を上りきると、領主館の門が見えた。
この見放された辺境セレディアを、それでも一応は治めている辺境伯の館だ。
街の喧騒から隔てられて、灰色の石壁が日を受けて白く光っている。
門の脇には、街の守備隊とは仕立ての違う館付きの衛兵が二人。
槍の構えひとつ取っても、東門で腰を抜かしていた連中とはわけが違う。
その片方が俺たちを認めると、すっと槍を傾けた。
「予言者殿だな。ヴェント様がお待ちだ。——お付きはここまで。お一人で通せ、との仰せでね」
「なっ……騎士たる私が、主の側を離れよと?」
「決まりは決まりだ、見習い殿」
フィーナはなおも食い下がろうとして、やめた。代わりに門の脇に剣を突き立て、片膝をつく。
「……ご武運を。私はこの門前で、あなたの勝利を祈っております」
「祈るな。裁判じゃねえんだ」
本音を言えば、こいつを連れて入りたかった。一人であの男の部屋に通されるのかと思うと、内心は悲鳴だ。
——だが、さっきの坂の一件を見た後じゃますます言えるわけがなかった。
こいつはこいつで、俺なんかの前に膝をつくたび何かをすり減らしてるんだ。
「ここで待ってろ。すぐ済む」
俺は引きつる頬を必死に抑えて、できるだけ予言者らしく重々しくうなずいてみせた。
◇
館の中は、街とはまるで空気が違った。
廊下を歩く間に、俺はいやでも思い知らされた。ここはヴェントの庭だ。
すれ違う文官は帳面を抱え、衛兵は隙なく立ち、壁には辺境伯家の紋章がいくつも並んでいる。
ヴェントは、ただの偏屈な役人じゃない。この館で領主の目と耳をやってる男だ。
当たると噂の予言者が街の連中を好き勝手に動かす——そんなものは、こいつの手帳じゃ「秩序の乱れ」の欄に書きつけられる。
こいつは俺を牢にぶち込みたいんじゃない。首輪をつけて、手元に置いておきたいんだ。
……牢にぶち込まれるより、そのほうがよっぽど厄介だった。
通されたのは、窓のひとつもない石壁の小部屋だった。
調度は机がひとつ、椅子がふたつ。群衆もいない。フィーナもいない。
解釈屋の樽も、旧水路も、飛竜もありはしない。誰の信心も、誰の手も、ここには届かない。
ヴェントは机の向こうに座り、例の革表紙の手帳をぱたりと閉じた。
そして——部屋の隅に、もう一人いた。
痩せた老人が、椅子に浅く腰かけている。
色の褪せたローブに、節くれだった指。膝の上に、表紙の擦り切れた分厚い書物を伏せていた。
落ち窪んだ目だけが、やけに油断なく光っている。
「来たか。逃げると思っていたが」
「逃げる理由がない。やましいことは何ひとつないのでね」
「ほう。——紹介しておこう。館付きの魔導士、オルバ殿だ。今日は、立会人を頼んである」
老人——オルバはちらりと俺を見て、ふん、と鼻を鳴らした。
「星詠み、ね。久しぶりに見るよ、本物を騙る三文占い師ってのを。……いや」
その目が、すっと細くなる。
「本物かどうかを、これから確かめるんだったか」
オルバが、節くれだった指を一本立てた。
爪の先に青白い光がじわりと滲んだ。さっきギルドの前で女が出した火とは、密度がまるで違う。部屋の空気がぴりっと張り詰める。
——これが、本物の魔導士の魔法。
光が俺の頭の先から爪先までを、ゆっくり舐めるように這った。気色が悪い。背中に冷たい汗が浮く。
「……何も無い」
オルバは、つまらなそうに光を消した。
「魔法の痕跡は、髪の一筋ほどもない。呪具も、術式も、仕込みの気配もない。この男はただの、魔法の使えん痩せっぽちだよ」
「魔法ではない、と」
「少なくとも、儂の知る理の中には、無い」
ヴェントが、満足げにうなずいた。
「結構。——では、少なくとも魔法ではない。残るは手の込んだ細工か、ただの偶然か、そのどちらかだ。
神託などと言い出すのは、その二つを潰してからでいい」
◇
ヴェントは机の上に、ことり、と小さな箱を置いた。手のひらに乗るほどの、古びた鉄の小箱。錆の浮いた錠前がひとつ。
「この中に、一枚の紙が入っている。紙にはひとつだけ、言葉が書いてある。
ゆうべ私がひとりで書いて封じた。誰にも見せていないし、誰にも言っていない。——この街のどこを探しても、その言葉を知る者は私ひとりだ」
箱の脇に、鍵をひとつ置く。
「鍵は昨夜からこの懐にある。箱に触れた者も、私のほかにいない。——オルバ殿」
老人は面倒くさそうに腰を上げ、箱の上に指をかざした。
青白い光が錠前を舐めて、消えた。
「箱も錠前も、ただの鉄だ。術も、仕掛けもない」
「結構。君は箱に触れるな」
ヴェントは椅子の背にゆったりと体を預けた。
「古い記録に残る星詠みは、明日を読むだけではなかったそうだ。人の目から隠された事実も、そのまま見通したという。
——君の星詠みが本物なら、造作もないはずだ。さあ言ってみたまえ。この箱の中の、言葉を」
……詰んだ。
口の中が、砂を噛んだみたいに乾いていく。
群衆も信心もない。誰かが慌てて動いて「予言通り」をこしらえてくれる余地もない。
「魔法か何かのまやかしだろう」と周りに流してもらう逃げ道も、たった今、あの老人が消しちまった。
これは純粋に、俺の頭の中だけで答えを出さなきゃならない問いだ。そして俺の頭の中に、その言葉なんかあるわけがなかった。
「……言葉、ねえ」
俺はもったいぶってこめかみに指を当てた。三文占いの基本。とにかく間を稼ぐ。
「言葉というのはな。軽々しく口にすれば、その力が——」
「力が薄れる、とでも? 結構。なら紙に書け」
ヴェントは手帳の一枚を破って、すっと滑らせてきた。先回りだ。
「声に出すのが惜しいなら書けばいい。さあ」
「……いや、その、文字にすると、かえって——」
「では囁け。私の耳元で。それも嫌なら、最初の一文字でいい。母音でも。なんなら、その言葉が長いか短いか、それだけでもいい」
濁すたびに、逃げ道がひとつずつ塞がれていく。
こいつ、俺が口を開く前から俺の手札を全部読んでいやがる。
部屋の隅で、オルバが書物の上に頬杖をついて面白がるように眺めている。それがまた、癪に障った。
……なら、と俺は腹をくくった。当てにいく。
とはいえ、これは予言でも何でもない。三年やってきた、客の顔色を読むだけの当てずっぽうだ。
こいつは監察官だ。几帳面で理屈っぽくて、自分の仕事に誇りを持っている。
そういう男がひとり、夜に書く言葉。きっと堅苦しくて、独りよがりな——
「……『真実』」
俺は低く囁いた。
ヴェントの眉は、ぴくりとも動かなかった。
「外れだ。だが惜しくもない。私を相手にした時、君のような男が選びそうな言葉だ。
——相手の好む言葉を言い当てて、見抜いた気にさせる。安い手品だ」
……読まれてる。手の内が、根こそぎだ。
俺は生まれて初めて、自分の口の減らなさを本気で呪った。こいつ相手に、口先は通用しない。
◇
追い詰められて、逃げ場がひとつ残らず塞がれて。
その時ふと、頭の隅で何かが繋がった。
——待てよ。
俺はこの箱の中身を知らない。当てられるわけがない。それは最初から負ける賭けだ。
だが、飛竜の時。俺が言い切ったことは、ねじ曲がって、その通りになった。
旧水路にいたっちゃ、言い切ってもいないのに、街のほうが勝手に「その通り」をこしらえやがった。
どっちに転んでも、俺の言葉は俺の思った場所には落ちてくれない。なら——せめて何に賭けるかくらい、こっちで選んだらどうだ。
知りようのない「言葉」になんか賭けるな。
——確かめようのある、もっと手前のものに賭けろ。
視界の端で、机の上の小箱が鈍く光っていた。
さっきから散々見せつけられた、あの錆の浮いた古臭い錠前。……どうせ分の悪い賭けだ。なら、いちばん脆いところに張る。
「……いいだろう」
俺はゆっくりと顔を上げた。できるだけ深く、できるだけ予言者らしく。
「その紙の言葉は言わない。言う必要がないからだ」
「ほう。降参か」
「いいや。代わりに、ひとつだけ予言してやる。——あんたは今ここで、その箱を開けられない」
◇
ヴェントの口の端が、わずかに歪んだ。
「……ずいぶんと苦しい逃げだな」
ヴェントは鍵を取り、鼻で笑いながら錠前へ差し込んだ。
「いいか。いまこの箱を開けて中の言葉を見せた瞬間、君の予言は外れる。
そして同時に、君が言葉を当てられなかった事実も確定する。——どちらに転んでも、君の負けだ」
理屈は完璧だった。ぐうの音も出なかった。
ヴェントが鍵を回した。
——かち。
錠前は、回らなかった。
ヴェントの眉が、初めてわずかに寄った。
もう一度。
——かち。
回らない。錆の浮いた古い錠前が、まるで内側から噛みついたみたいにびくともしない。
「……何かの間違いだ」
鍵を抜き、ふっと埃を吹いて、もう一度差し込む。今度は力を込めて。
みし、と嫌な音がした。
鍵が半ばから、ぽきりと折れた。
しんと部屋が静まり返った。
箱は閉じたまま、机の上にぽつんと残された。中の言葉は、誰にも見えないままだった。
部屋の隅で、頬杖をついていたオルバがゆっくりと身を起こした。
さっきまでの面白がる色が、その落ち窪んだ目から消えている。
老人はもう一度指先に青白い光を灯し、折れた鍵と、閉じたままの箱を念入りに調べた。
「……妙だな」
誰にともなく、低く呟く。
「魔法の痕跡は、やはり無い。錠前が錆びていたのも本当だ。だが、よりにもよって、今日この場で噛むかね」
「——オルバ殿。開けられるか」
ヴェントの声は、まだ平らだった。平らすぎた。
老人は折れた鍵をつまみ上げ、錠前の穴を覗き込んだ。
「儂の術でやるなら、鉄ごと焼き切ることになる。中の紙もろともな。
……焼けた灰から、あんたの書いた言葉が読めると思うか」
「では、叩き割る」
「何で割る。この部屋に鎚があるかね。素手で潰せる厚みでもない」
ヴェントが箱へ手を伸ばした。その手首を、節くれだった指が軽く押さえた。
「館の鍛冶場へ回せば、そりゃあ開くだろうよ。だが監察官殿。
この部屋を出た時点で、あんたの試験は終いだ。——この痩せっぽちの言った通りに、な」
ヴェントの手が、箱の手前で止まった。
止まったまま、動かなかった。
老人の目がゆっくりと俺へ向いた。裁くでも、崇めるでもない。——得体の知れないものを見つけた、学者の目だった。
◇
ヴェントは、しばらく折れた鍵の先を見つめていた。
それからゆっくりと顔を上げ、俺を見た。その目に、さっきまでの勝者の余裕はもうなかった。
「……昨夜は、この鍵で確かに掛かった」
自分に言い聞かせるような、低い声だった。
「古い錠前だ。湿気で錆が噛んだだけだろう。偶然だ。何の証明にもならん。
竜も水もこの箱も、いずれ説明はつく。今日つかなかったのは、私の用意が甘かっただけだ」
ヴェントは折れた鍵を握りしめたまま、しばらく黙っていた。
やがて手帳を開くと、短く何かを書きつけた。
覗く気はなかったが、机を挟んだこの距離だ。走る文字が、いやでも目に入った。
——箱、開かず。原因、不明。
……不明を、不明のまま書きやがった。
勝ったことにも、負けたことにもしない。分からないものを、分からないの欄に置いたまま閉じる男だ。
「君は、紙の言葉を当てられなかった。本来ならそこで、詐欺師として処分している。
——だが、その前に私の物差しが壊れた。原因が不明のものを根拠に、人は裁けん。処分は、保留だ」
ヴェントは箱を布に包み、小脇に抱えた。封じたまま、中の言葉は誰にも見せずに。
「——次は、こうはいかん」
それだけ言って、ヴェントは一度も振り返らずに部屋を出ていった。
冷たく静かな背中だった。最初に会ったときより、ずっと。
……ああ。
俺は椅子の上で、へなへなと力が抜けた。
当たってしまった。また。しかも今度は——生まれて初めて、狙って言った。
部屋を出ていく俺の背に、オルバの声がかかった。
「星詠み。——お前さん、自分が何をやっているのか、本当に分かっておらんな」
俺は振り返らなかった。
分かってない。あんたの言う通りだよ、爺さん。いちばん分かってないのは、この俺だ。
◇
館の門を出たところで、俺は妙な光景に出くわした。
門前の広場で、フィーナが剣を構えていた。
相手は——さっきのダントだ。巡回の帰りに、わざわざ坂を上って寄り道してきたらしい。
周りで隊員たちがはやし立てている。稽古の体裁は取っているが、空気は稽古のそれじゃなかった。
「主が館に呼ばれて詐欺の取り調べとは、いい面の皮だ。さあ、どうした。アーシェンの剣とやらを見せてくれ」
ダントの剣は、速かった。振ったのが見えない。届いたと思った時には、もう引かれている。剣の腹がぴしりとフィーナの肩口を叩いた。野次が飛ぶ。
フィーナは、よろけた足を踏み直した。
構え直す。教本に載ってるみたいな、糞がつくほど真面目な構え。切っ先はまっすぐダントの喉へ。
二度、三度。ダントの剣は才気で跳ね回り、フィーナの剣は型のまま追う。
追いつかない——かに見えた四度目、フィーナのまっすぐな突きが初めてダントの喉元すれすれで止まった。
野次が、ぴたりと止んだ。
「……ちっ。相変わらず、面白くねえ剣だ」
吐き捨てて、剣を引く。その一瞬だけ、喉元で止まったままの切っ先をダントの目がちらりと見た。
「型どおりで結構。私の剣は、私のためだけに振るものではありませんので」
ダントは鼻を鳴らして、今度こそ剣を納めた。去り際、門の前の俺に気づいてあからさまに目を逸らす。例の「星回り」がまだ効いてるらしい。
……なるほどな。
才能って神様は、あいつの体に住んでる。だがフィーナ、おまえのその馬鹿正直な剣は、神頼みじゃないぶん裏切らないんだろうよ。
俺の口から出る出まかせとは、大違いだ。
「セロ様! ご無事で!」
俺に気づいたフィーナが、剣を納めて駆け寄ってきた。さっき打たれた肩のことなど、けろりと忘れた顔で。
「中で、いったい何が——」
俺が口を開くより先に、門番たちがざわざわと囁き交わしているのが聞こえた。
扉越しに漏れた声の切れ端と、折れた鍵を握りしめて出ていったヴェントの顔色から、連中は連中なりに話を組み上げたらしい。
「監察官様の箱が、どうしても開かなかったそうだ」「予言者様が『開けられない』と言った、その通りに……」
「あのヴェント様が業を煮やして、鍵をへし折ったとよ」
……おい。やめろ。広めるな。頼むから。
俺がやったのは、開けられないと言ったことだけだ。へし折ったのはヴェントの腕で、噛んだのは錆びた錠前だ。
◇
噂ってやつは、坂を下る水より速い。
領主館の坂を下りるにつれ、すれ違う連中の囁きが育っていくのが分かった。
坂の上では「箱が開かなかった」だった。
坂の中腹では「予言者様が鉄箱を封じた」になっていた。
そして坂の下——市場の入り口には、人だかりができていた。
「おっ、おい、予言者様だ!」「お帰りなさいませ!」「監察官様をやり込めたんだって!?」
わっと歓声が上がる。人間も獣人もドワーフも、昨日の泥をかき出す手を止めて俺に手を振っている。中には拝んでる奴までいる。
その人だかりの端で、泥まみれの屋台の骨組みに腰かけた男が、こっちを見ていた。笑ってもいないし、手も振らない。ただ見ている。
俺は目を逸らした。
市場の隅では、もうトビが樽の上に立っていた。
「さあさ、出たよ出たよ! 『理屈の箱は、理屈じゃ開かない』——鉄箱封じの読み解き、銅貨二枚!」
俺は封じてない。錠前が勝手に噛んだだけだ。
だが、もう遅かった。俺が一段坂を下りるたびに、話は一回り大きくなって先回りして待っている。
隣でフィーナの目が、いつものあのきらきらした光をみるみる取り戻していく。
「さすがはセロ様。理屈にすがる者を、その理屈ごと封じてみせるとは……!」
「封じてない。錆だ。錆」
「ご謙遜を」
出た。今日いちばん怖い言葉が。
◇
帰り道、フィーナはいつもの調子で俺の半歩後ろを機嫌よく歩いていた。
坂の途中で見せたあの強張りも、打たれた肩の痛みも、もうそぶりひとつに出ていない。
……訊くなら、今なのかもしれない。
「なあ、フィーナ。あのダントってのも言ってたな。アーシェンが、どうとか」
言ってから、しまった、と思った。フィーナの歩みがほんの一瞬だけ止まる。
「……お恥ずかしいところを、お見せしました」
フィーナはすぐにいつもの背筋に戻って、けれど少しだけ声を落とした。
「アーシェンは、私の家の名です。今でこそ笑い者ですが——昔は、星を詠む家系だったと聞いています。
本物の予言で世を導いた頃も、あったと。それが今では、見習い騎士の私ひとり。
家に残っているのは、古ぼけた書き付けが一冊と、晴らすべき汚名だけです」
古い、書き付け。
坂でダントに絡まれた時、胸元を押さえていたあの硬いもの。
訊き返そうとして、やめた。フィーナの横顔がそれ以上は触れてくれるな、と言っていた気がしたからだ。
「私は、証明したいのです。アーシェンの名がまやかしと同じ意味で使われていいはずがないと」
フィーナは、まっすぐ前を見たまま言った。
「だから——本物の予言者であるあなたにお仕えできるのは、私にとって、ただの務め以上のことなのです」
……まいったな。
こいつはそんな俺に、落ちた家の名誉をまるごと賭けようとしている。
いつもの「いちばん怖い目」が、今日はいっそう重く感じられた。
逃げ場がまた一つ減った気がする。今度のは、今までで一番、ずしりとくるやつだ。
◇
俺は、さっきの自分の言葉を何度も思い返していた。
——あんたは今ここで、その箱を開けられない。
なんで当たったのかも、次はどうズレるのかも、分かっちゃいない。鍵が折れるところまで頼んだ覚えもない。
それでも——狙いをつけて置いた言葉が、狙った通りのところに落ちた。
少しだけ誇らしくて、同じくらい、気味が悪かった。
おまけに客が増えた。理屈で噛みついてくる監察官と、覗き込んでくる老いた魔導士と。
——占い師にとっていちばん厄介なのは、いつだって信じたくない客のほうだ。
◇
安宿の戸に手をかけたところで、俺の足は止まった。
……狙いをつけた、だと?
馬鹿を言え。
得体の知れない呪いの手綱の、その端っこを指先でつまんだつもりでいたのか。
手綱があるってことは、その先に俺が今まで垂れ流してきた出まかせが、ぜんぶ繋がってるってことだ。
消えちゃいない。落ちる先を探して、まだそこらを漂ってる。
東門の夜。あの日の昼間、俺は誰もいない路地で、曇ったガラス玉に向かって何と言った?
——こんなしけた街、近いうちに終わる。それだけは、間違いねえ。
……冗談じゃない。
あれは客もいない路地で、苛立ち紛れに吐いただけの正真正銘の出まかせだ。根拠なんて、どこにもない。
だが今日、俺はこの手で確かめちまった。俺の言葉は、俺の思った場所には落ちない。ねじれて、遠回りして、それでも——必ずどこかに落ちる。
いちばんでかい賭けに、いちばんでかい言葉を、俺はとっくに張っちまってるじゃないか。
背中を、冷たいものが這い上がってきた。
今日、館の門前で。剣を突き立てて膝をついたフィーナに、俺はこう言ったはずだ。
——祈るな。裁判じゃねえんだ。
……ああ、まったく。俺という男は。
俺は生まれて初めて、誰にともなく祈った。
星でも、神様でも、何だっていい。
——あれだけは。
あれだけは、当たらないでくれ。




