第2話 予言者様の憂鬱
当たる占い師ほど、割に合わない商売はない。
外れる占い師は気楽なものだ。「次こそは」と頭を下げれば、客はまた銅貨を置いてくれる。
だが、当ててしまった占い師はもう逃げられない。客は次も、その次も、際限なく「本物」をねだってくる。一度でも外せば、今度は石が飛んでくる。
——昨日、英雄になっちまった俺が、今朝いちばんに思い知ったのがそれだった。
目を覚ましたのは、鳥の声でも鐘の音でもなかった。
ひゅ、ひゅ、と規則正しい風切りの音だ。
安宿の戸の隙間から覗くと、朝焼けの路地でフィーナが剣を振っていた。型どおりの、馬鹿正直な素振り。
一晩じゅう俺の戸の前に立っていたはずの奴が、夜が明けたら明けたで、今度は稽古を始めている。
汗の浮いた横顔は、昨日のきらきらした目とは別人みたいに険しかった。
……なんだってあそこまでやるんだか。
あれで剣の天才だってんなら話は分かるが、聞けば守備隊じゃ見習いの下っ端だという。
才能ってやつは、ああいう健気さに限って避けて通るから、たちが悪い。
だいたい、守備隊の見習いがなんだって俺の宿の前にいる。
夜のうちに誰にどう掛け合ったのか、堂々と「予言者様付き」の役目をもぎ取ってきたらしい。要領がいいんだか、危なっかしいんだか。
そして、フィーナの素振りの向こう——宿の前の通りは、人でみっちり埋まっていた。
「予言者様はまだお休みか」「ひと目、ひと目だけでいい」「うちの井戸を占ってもらうんだ、夜明け前から並んでるんだぞ」
……井戸。
俺は戸の内側でずるずると座り込んだ。
夢であってくれ。飛竜も、英雄扱いも、ぜんぶ久々に肉を食った頭が見せた都合のいい——
「セロ様。お目覚めでしょうか」
戸の向こうから、やけに澄んだ声がした。
……夢じゃなかったらしい。
◇
「夜のあいだに、ご託宣の整理をしておきました」
戸を開けるなり、フィーナは懐から几帳面に四つ折りにした羊皮紙を取り出した。
「昨夜、宴の席でセロ様が漏らされたお言葉です。『この酒、ぬるい』——これは供応に油断あり、との戒めと解し、念のため厨房を調べました。
『もう帰って寝かせろ』——これは、浮かれ騒ぐ者どもへの、慎めとのお諭しかと」
「待て。待て待て待て」
俺は軽いめまいを覚えた。
酔っ払いの愚痴が一晩で「ご託宣」に格上げされ、おまけに、大事な覚え書きみたいにしまい込まれている。
「あのな、フィーナ。あれはただの泣き言で——」
「ご謙遜を」
フィーナはきらきらした目で俺を見上げてきた。
「真に深いお言葉ほど、軽い衣をまとうもの。星詠みの奥義と、お見受けします」
……こいつは本気だ。
本気で、俺の二日酔いの寝言を何か深遠なものだと思い込んでいる。
昨日感じた「いちばん怖い目」に、今朝はさらに磨きがかかっていた。
顔を洗いながら、俺は固く心に誓った。
——今日は、何があっても言い切らない。
昨日、俺はひとつ学んだ。たぶん、だが。
はっきり言い切ると、なぜかろくでもないことが起きる。
東門で「退ける」と見得を切ったら、本当に竜が墜ちた。塔ごと。衛兵を、二人、巻き添えにして。
なら、答えは簡単だ。言い切らなきゃいい。濁せばいい。——三文占いで三年食ってきた俺の、ただひとつの特技だ。
濁して、受け流して、今日をやり過ごす。それでいい。
なにせ濁しの芸なら、この街の誰にも負けやしないんだ。
……そう思っていたんだ。この時は。
◇
覚悟はしていたが、行列は覚悟の三倍あった。
「予言者様! 北の森の狩りは、実入りがありますかね!」
最初に押し出されてきたのは、虎縞の毛並みの獣人だ。
ゆうべ、瓦礫どかしに駆り出されていた狩人の一人だ。恩があるぶん、無下にもできない。
俺は袖の中で指を組み、たっぷり間を取った。
「……風はある。だが風ってのは、追えば逃げるもんだ。あとは、あんたの足と相談するんだな」
獣人は太い眉を寄せ、しばらく俺の言葉を舌の上で転がしていた。やがて、なるほど、という顔で膝を打つ。
「……追えば逃げる。つまり、深追いはするな、と! ありがてえ、肝に銘じます!」
ほら見ろ。何も言っちゃいない。狩りで深追いするなってのは、狩人の女房でも言える説教だ。
次はドワーフの石工。例の、東門の修理親方だ。
「昨日は山が笑ったんだか何だか知らんが、雨は降らなかった。で、今日はどうだ。石を積むか、休むか」
「急いで積んだ石は、急いで崩れる。……まあ、休むほどの空でもないがな」
「つまり、丁寧にやりゃあ積んでいい、と。よし、野郎ども、聞いたな!」
勝手にまとめて帰っていく。ありがたいことに、客ってのは自分の聞きたい答えを自分で作ってくれるんだ。
その間にも、行列は伸びる一方だった。
割り込んだ割り込まないで獣人と荷運びが胸ぐらを掴み合いかけたのを、フィーナが割って入って止めた。
「双方、剣を抜く前に口で申されよ!」
大男の獣人に力で張り合うでもなく、開いた隙へするりと体をねじ込む。荷運びの肩をやんわり押し戻し、危なげなく二人を列へ収めた。腕っぷしじゃない、間合いの取り方だ。頭は斜め上でも、こういう捌きだけは本職らしい。
おかげで、列は一度も途切れない。乱れかけたそばから整えられて、次の客がきちんと俺の前へ送り込まれてくる。
逃げ出したい。できることなら、今すぐ。
最後にフードのエルフの薬師が、薬草の出来はどうかと声をひそめて訊いてきた頃には、俺の濁しはもう職人芸だった。読めない長命種サマは目礼ひとつ、銀貨を一枚置いて静かに帰っていく。エルフは金払いがいいってのは、本当らしい。
こんな調子で、俺は午前中いっぱい、一度も言い切らずに行列を捌ききった。
どうだ、これが芸だ。誰も彼も、勝手に満足して帰っていく。
その一部始終を、フィーナが横で一言一句、羊皮紙に書き留めていたことにさえ目をつぶれば——
「セロ様のお言葉は、一言も漏らしません。後世のために」
「頼むから漏らしてくれ」
◇
昼前、行列の後ろから脂ぎった顔が割り込んできた。香辛料商人のボルグだ。
「星詠み殿! いや、予言者様! あんたの言った通りだ。東の取引、大儲けでしたよ!
船がまるごと一隻、上等な香辛料を積んで今朝がた船着き場に着いた。あんたのお告げのおかげだ!」
……東の取引。
ああ、そういえば、昨日そんなことも言った。見えるわけもないのに「大儲けだ、間違いない」と。
当たって、いる。これも。
胃の底がひやりとした。けど、噛みしめる暇もなくボルグは俺の手をぶんぶん振り回す。
「この景気、まだまだ続きますよね!? ね、予言者様!」
「……まあ、荷が無事なうちは、商人の懐は温かいもんだろうよ」
「荷が無事なうちは! いや、まったくだ! はっはっは!」
上機嫌で去っていくボルグの背中を見送る。
荷が無事なうちは。
我ながら上出来の濁しだ。何も約束しちゃいない。
◇
昼飯がてら、安宿へ帰るのに市場を抜けようとして、俺は妙なものを見た。
人だかりだ。それも、俺の周りじゃない。
市場の隅の空き樽の上に、見覚えのない痩せた男がひょいと乗っかって、口上を並べていた。
歳は俺と大差ない。垂れた目に、へらへらした愛想笑い。どこの街にも一匹はいる、風向きだけで生きてる手合いだ。
「さあさ、聞いてらっしゃい! 今朝の予言者様のお言葉だよ! 北の森は『深追いするな』——これすなわち、欲をかく者に凶、堅実な者に吉!
お宅の商いに引き写せばどういう意味か、このトビが銅貨二枚で読み解こう!」
「北の森って、うちの毛皮の仕入れ先だよ。あたしの商いはどうなるんだい」
「へい、毎度! 奥さんとこは仕入れを欲張らないのが吉と出た!」
銅貨が飛ぶ。樽の上の男——トビは、口上を止めもせずに片手で受け止めた。
……おい。
おいおいおい。
俺の濁し文句が、又聞きで転売されている。しかも俺の店より繁盛してやがる。
「なんだあれは」
「解釈屋、と名乗っているそうです」
フィーナが生真面目に答えた。おまえが感心するな。
「セロ様のお言葉は深遠ですから、民には注釈が要るのです。……ただ、あの者の解釈は浅い。『深追いするな』の真意は、むしろ——」
「注釈合戦をするな。頼むから」
よく見れば、トビの樽の周りには黒板まで出ていた。
「予言者様・本日のお言葉」と題して、俺が午前中に濁した文句がずらりと書き並べてある。
城壁修理の一言は石工の連中に売れ、薬草の一言は薬屋に売れたらしい。
挙句、いちばん下にはこうあった。
——『本日、予言者様は肉の串を二本お求めになった(吉兆)』。
肉を食ったら吉兆なのか。俺の昼飯まで相場に組み込まれてるのか。
なんだこの街は。俺は請け合っちゃいない。何もしちゃいない。
なのに、俺の咳払いひとつに値がつき、沈黙にすら「深いお考え」と注釈がつく。
街ぜんぶが、俺の口元を見ている。
冗談じゃなく、そんな心地がした。
◇
帰り道、フィーナの歩みが屋台の前でぴたりと止まった。
焼き菓子の屋台だ。蜂蜜の焦げる、暴力的な匂いがする。
フィーナは屋台の前で背筋を伸ばしたまま、微動だにしない。
ただ、腰の革袋を握った手だけが、中の銅貨を数えるみたいにもそもそ動いている。
「……買わないのか」
「っ、いえ! 見ていただけです。騎士たる者、間食など」
「見習いだろ」
「見習いだからこそです」
言いながら、視線は蜂蜜がけのひと切れに釘付けである。
守備隊見習いの給金なんて、たかが知れてるんだろう。一晩じゅう人の戸の前に突っ立って、夜明けに素振りをして、その上これだ。
俺は銅貨を二枚置いて、焼き菓子をふた切れ買った。片方を押しつける。
「ゆうべの寝ずの番の駄賃だ。騎士サマの分じゃない。なら食えるだろ」
フィーナは焼き菓子と俺を三度ばかり見比べて、それから、聖剣でも拝領するみたいに両手で受け取った。
「……このご恩は、生涯」
「菓子ひと切れで生涯を売るな」
もぐもぐと頬張る横顔は、年相応だった。ゆうべ竜の前で真っ先に走った奴と同じ人間とは思えない。
ふと、市場の角の軒下に目が留まった。
女がひとり、うずくまってこちらを見ている。
すがる目じゃない。恨めしげな、暗い目だ。
その顔に覚えがあった。崩れた塔の下敷きになった衛兵の片方の、女房だ。亭主は脚を潰して、まだ寝込んでいるという。
英雄を讃える歓声の、すぐ裏側で。
俺が「落ちろ」と言ったせいで——と考えかけて、慌てて首を振る。
よせ。あれを俺のせいにしたら、明日から口を開くたびに人の生き死にを勘定する羽目になる。三文占いの気楽さで飯を食ってきた男には、荷が重すぎる。
俺は人目を盗んで、残りの銅貨をあらかた薬売りの娘に握らせた。
あの軒下へ、滋養のつく薬とあたたかいパンを届けてやってくれ。名は出すな、とも言い添えて。
……べつに、善人ぶるつもりはない。あの目で見られたまま焼き菓子の残りを食う度胸が、俺になかっただけだ。
「……セロ様。いま、あの方に」
「見てたのか。……口止め料だ、これは」
「——なんと、お優しい」
「歩け。もう歩け」
◇
日が傾いた頃、俺はもう一度、市場へ足を向けた。
あの黒板が気になったのだ。他人の口の中で俺の言葉がどう化けて、いくらの値をつけられているのか。……見ずに寝られるほど、俺は図太くない。
騒ぎは、俺の知らないところまで育っていた。
「予言者様が西の空を長く見ていたそうだ」「西? 西の何だ?」「トビのとこじゃ『西風に注意』と出たぞ」「風! 干し物をしまえ!」
見てない。西の空なんか一度も見ちゃいない。
それでもトビの黒板の「お言葉」は倍に膨れ、半分は身に覚えのないものだ。人波のあちこちで、俺の名前が銭の音と一緒に転がっていた。
ボルグはボルグで、船着き場から運び込んだ香辛料を、倉前にどんと積み上げて自慢している。「予言者様のお墨付きの荷だ」と。そんなもん、出した覚えはない。
うるさい。
息を吸う音ひとつ聞き逃すまいと、市場じゅうが耳をそばだてている。昨日まで、誰も俺の言葉なんか聞いちゃいなかったのに。
頭の隅で、ちらつくものがある。軒下のあの暗い目。脚を潰されて寝込んでいるという亭主。それから、俺の一言を銅貨に換えて回る、あのへらへらした顔。
そいつらがいっぺんに首の裏へのしかかって、寝不足の頭がずきりと痛んだ。
俺は、ついこぼした。
「……昨日のことなんざ、いっそぜんぶ水に流しちまえたらなあ」
ただの愚痴だった。
言い切ってなんかいない。「流しちまえたら」だ。願望だ。誰に向けたわけでもない、独り言。
——だから、安全なはずだった。
なのに。
俺の半歩後ろで、フィーナがはっと息を呑んだ。
「……水に、流す」
まずい。
振り返った時にはもう、フィーナの目は別のものを捉えていた。倉前にうずたかく積まれた、ボルグの香辛料の山だ。
「昨日の功罪を、水が清める……東の商いには、水難あり! あの荷こそ危うい。市場は、水に備えるべし。これは、戒めのご託宣!」
「ちが——っ、おい、フィーナ!?」
止める間もなかった。
フィーナは剣の柄に手を添え、凛とした声を市場じゅうに張り上げた。
「皆の者、聞け! 予言者セロ様が、水の兆しを告げられた! 東の荷は水に気をつけよ! 旧水路を調べ、備えを怠るな!」
ゆうべ、東門で竜の前に片膝をついた騎士見習い。
その姿を、ここにいる連中の多くがその目で見ている。予言者様のお付きの騎士が、水と言った——それだけで、もう十分だった。
おまけに、今度は商売人がいた。
「聞いたか、いま予言者様の騎士様が『水』と!」
トビが樽の上で叫んだ。
「水難除けの読み解き、銅貨二枚! 荷のある者は急げ、備えた者から助かるよ!」
その一語が、弾いた銅貨みたいに市場の端から端へ跳ねた。
「水だ、水が来る!」「あの臭い旧水路を調べろ!」「東の荷を高いところへ!」「井戸に蓋を——いや開けろ、どっちだ!?」
俺は、止めようと口を開いた。
だが、何を言えばいい。「あれは出まかせだ」? この期に及んで、それを言えるか。
言ったところで、フィーナは「またご謙遜を」ともっと深く信じるに決まっている。トビに至っては、その謙遜すら銅貨二枚で売るだろう。
——結局、俺は何も言えなかった。
人々がわれ先にと動き出す。
市場の真ん中で、男たちが寄ってたかって、旧水路の錆びついた鉄蓋をこじ開けにかかった。
何十年も塞がれたその下には、山から染み出した水と汚泥が、乾季も涸れることなく淀んだまま腐り溜まっている。
「中を調べろ、予言者様のお告げだ!」
「詰まりを抜け! 水の道さえ通しておけば、溢れやしねえ!」
鉤棒が何本も突っ込まれ、奥に固まった泥がずるずると掻き出されていく。
ボルグに至っては、低地の荷を「水難から守るんだ!」と、一段高い石敷きめがけて荷車に積み替え始めた。よりにもよって、その石敷きの真下にも同じ旧水路が這い込んでいるとも知らずに。
俺は嫌な予感に、奥歯を噛んだ。
おい。やめろ。その蓋は——
ごぼ、と。
地の底から嫌な音がした。
何十年ぶんの水を堰き止めていたのは、その固まった泥だった。栓を抜かれた旧水路は、突かれ、かき回されて——とうとう、決壊した。
黒く濁った汚水が、すり鉢の底みたいな市場の低地へどっと噴き出す。
「う、わあああっ!?」
逃げ惑う人々。倒れる屋台。樽から転げ落ちるトビ。
そして、避難させたばかりの石敷きの上——ボルグの香辛料の山が、噴き上げた汚水をまるごと浴びた。上等な東の荷が、逃がした先でまともに食らった。
高価な香辛料は汚水を吸って、見る間にただの泥に変わった。
静寂。
それから——最初に上がったのは、悲鳴と怒声だった。
「ふざけるな、俺の屋台が!」「誰だ、蓋を開けたのは!」
だが、その怒りは長くは続かなかった。
誰かが、遠慮がちに言ったのだ。
「……待て。東の荷に、水難。予言者様は、そう告げてなかったか」
その一言で、怒鳴っていた男が口をつぐみ、泥を拭っていた女までが俺を見た。
「言った通りだ!」「水の託宣だ! 備えていなければ、もっと酷いことになってた!」「ありがたや、予言者様!」
まだ怒鳴っている者もいた。屋台を潰された男が、泥の中で誰にともなく喚いている。
だが、その声は歓声にあっさり飲まれて消えた。泥まみれのトビまで、ちゃっかり唱和している。
……備えようとして、自分で旧水路を割ったんだろうが。
俺は、開いた口が塞がらなかった。
◇
ボルグだけが、笑っていなかった。
泥まみれの香辛料の山に膝をつき、両手で泥をすくっている。
「……大儲け、だったんだ」
絞り出すような声だった。
「あんたは言った。東の取引は、大儲けだと。その通りになった。船一隻ぶんの上等な荷だ。それが……一夜と、もたずに」
ボルグの脂ぎった顔が、ゆっくりと俺を見上げた。
その目に、昨日までの媚びはもうなかった。
「今朝、あんたは言ったよな。『荷が無事なうちは』と。……あれは、こうなると知ってて」
「違う。あれは——」
「教えてくれ、予言者様。これは……予言ですかい。それとも、呪いですかい」
俺は、何も答えられなかった。
——東の取引は、大儲けになる。俺は確かにそう言った。当たった。
だが、その儲けが守られるとは、ひとことも言っちゃいない。
それどころか今朝は「荷が無事なうちは」なんて念まで押した。
保身のつもりのその一言が、いまや予告みたいな顔をして、泥の上に転がっている。
当たる。だが、幸福は保証しない。
俺の言葉は、いつもそういう形でしか当たらないのか。
「……私が」
隣で、フィーナが小さく言った。めずらしく、しおれた声だった。
「今朝の『荷が無事なうちは』というお言葉。あれを水難の兆しと読み解けていれば、あの方の荷は市場の外へ運び出せていたはずです。……騎士として、不覚でした」
違う。そうじゃない。触れ回ったから、こうなったんだ。
喉まで出かかって、俺は呑み込んだ。あのまっすぐな目に、それを言ってやれるほど、俺の肝は据わっちゃいない。
いや、待て。俺は今日、何を言い切った?
——何も。ただ「水に流しちまえたら」と、願望をこぼしただけだ。
なのに、泥の中で膝をつくボルグを見ていると、その言い訳がやけに薄っぺらく聞こえた。
◇
その男に気づいたのは、人波が引き始めた頃だった。
市場の隅、商館の軒下に、ひとりだけ泥はねの一つもついていない男が立っていた。
歳は三十そこそこ。地味だが、仕立てのいい外套。手には、革表紙の帳面。占い師でも、冒険者でも、商人でもない。
もっと厄介な男だ。数字と帳面で人を裁く、お堅い匂いがした。
男は帳面を閉じ、汚水を避けて石段を伝い、まっすぐ俺の前まで歩いてきた。沸き立つ歓声の渦の中で、その男のまわりだけがしんと静かだった。
「見事な託宣だ。——とでも、言ってほしいのか」
声は落ち着いていた。讃えるでも、なじるでもない。値踏みする声だ。
「私はヴェント。辺境伯の館で、監察を務めている」
男は帳面を開き、頁を俺に向けた。細かい字と数字が、みっしり並んでいる。
「今朝からこの市場で、君の『お言葉』を種に動いた銭を書き留めてみた。
解釈屋の売上。買い占められた傘。値の上がった水瓶。——そして今しがた、汚水に沈んだ、船一隻ぶんの香辛料。
ここは辺境の台所だ。その台所が今日一日、たった一人の男の咳払いで煮えたり冷えたりした」
ヴェントは帳面の角で、泥に沈んだ市場をぐるりと示した。
「よく見たまえ。君は水を呼んでいない。指一本、動かしていない。
——君の言葉を真に受けたあの娘が言い触らし、商売人が煽り、街の連中がわれ先に旧水路をこじ開けた。
割ったのは彼らだ。荷をあの石敷きへ積み替えたのも、商人本人だ」
「……だったら」
「予言が当たったんじゃない。君の予言を信じた街が、自分の手で予言通りの現実を作りにいっただけだ」
ぐ、と言葉に詰まった。
その通りだ。半分は。
だが、東門で塔が軋んだあの底冷えだけは——こいつの帳面のどこにも載っちゃいない。あれを、俺はまだ、偶然の箱にしまいきれずにいる。
「占いは、賢い臆病者が、不安な人間から銅貨を巻き上げる芸だ。君は、その芸が飛び抜けて上手い」
ヴェントの目がすっと細くなった。
「だが、それで終わらないから私はここにいる。
——本物の予言者でなくても、人は君のひとことで旧水路を割る。荷を捨てる。明日は、剣を抜くかもしれない。だから、君は危険だ」
周りがざわついた。フィーナが「無礼な!」と腰の剣に手をかけるのを、俺は手で制した。
下手に騒ぐな。こいつは、騒げば騒ぐほど喜ぶ手合いだ。
「だから、確かめさせてもらう」
ヴェントは薄く笑った。口元は笑っているのに、目の奥は乾いたままだった。
「明日の正午、領主館へ来てくれ。今度は、あの娘にも、解釈屋にも、誰にも言い触らさせない。
君の言葉を聞いても、誰ひとり動かない部屋で——ひとつ、予言してもらう。群衆も、信心も、旧水路も、ない場所で。
それでも君の言葉が当たるのか、見せてもらおう」
「……当たらなければ?」
「不安な街から銅貨を巻き上げる詐欺師として、しかるべき処分を受けてもらう。——逃げても構わんよ。それはそれで、答えになる」
そう言い残して、ヴェントは泥の広場に背を向け、汚れひとつ踏まずに去っていった。
◇
残された俺は、泥を浴びた連中の歓声の真ん中で立ち尽くしていた。
誰ひとり動かない部屋で、ひとつ、予言しろ。
……冗談じゃない。
今日、俺は何ひとつ言い切らなかった。濁して、受け流して、完璧にやり切った。なのに水は流れ、荷は沈み、街は勝手に「予言通り」を作り上げた。
濁しても駄目なら、黙るか? 黙ったら黙ったで、あの解釈屋は俺の沈黙に注釈をつけて売るんだろう。
なら、明日。四方を壁に囲まれた部屋で、群衆も、フィーナも、トビもいない場所で、俺が何かを口にしたら。
今度こそ、誰のせいにもできないまっさらな結果が——出ちまうんじゃないのか。
「……俺、何も、言い切ってねえのに」
夕暮れの市場に、誰にも届かない呟きがぽつりと落ちた。
隣でフィーナだけが、なぜか頼もしげに深くうなずいている。
その横顔を、泥を片付けに通りかかった誰かがちらりと見て、鼻で笑った。
「アーシェンの娘が、三文占いの腰巾着とはねえ。落ちぶれたもんだ」
フィーナの肩が、一瞬だけ強張った。
けれど、こいつは言い返さなかった。ただまっすぐ俺を見ていた。自分の値打ちのぜんぶを、この胡散臭い予言者に賭けた、とでもいうみたいに。
……訊く気にはなれなかった。訊けば、こいつの厄介事までこっちが背負い込むことになる。
明日の領主館のことだけで、俺の頭はもう手一杯だってのに。




