第4話 予言者様、良かれと思って
昨夜は、ろくに眠れなかった。
俺の言葉は、狙った場所には落ちない。それでも必ずどこかに落ちると、ゆうべこの手で確かめちまった。いちばんでかい出まかせを張ったまま——あれだけは当たってくれるな、と柄にもなく祈った手前、目を閉じても寝つけないまま朝になった。
まだ夜の色が残るうちに宿を抜け出したのは、天井を睨んでいるのに飽きたからだ。戸口を出ると、半歩遅れて足音がついてきた。フィーナだ。俺の安宿の隣に部屋を取って、朝も夜もあったものじゃない。俺が抜け出せば、当たり前みたいに斜め後ろへ収まる。
通りの角で、屋台の親父が炭をおこしたばかりだった。客はまだ、俺たちのほかにいない。腹が減ってたわけじゃない。何か噛んでいないと、腹の底の冷たいやつがまた頭をもたげてきそうだった。俺は串を何本か見つくろって、銅貨を渡した。
親父が釣りを寄越すと、半歩後ろのフィーナがその手元をじっと目で追った。銅貨が一枚、また一枚。俺の釣りがちゃんと合っているかを、目だけで検分している。他人の商いのごまかしまで放っておけないたちらしい。
俺は串をちびちび齧った。味なんてしない。ただ、口を動かしていないと落ち着かないだけだ。三本目に取りかかった頃——ふいに、背中に視線が張りついた。
思わず振り返りかけた。
「セロ様」
という低い一言に、動きを止められた。
顔は屋台のほうへ向けたまま、フィーナは続ける。
「通りを挟んだ向かいの、荷馬車の陰。仕立てのいい地味な外套の男が一人。宿を出た時から、三十歩の距離を保って尾けております。歩幅も、曲がる角も、こちらに合わせて崩さぬ手練れです」
振り返らなくても分かった。
昨日、領主館の窓のない部屋で俺を締め上げ、鍵をへし折って出ていった男——監察官ヴェント。あの革表紙の手帳が、また開いているらしい。
あいつが、朝っぱらから俺の食う串の本数を数えていやがる。
冷えた腹に、その視線がもう一本、楔を打ち込んでくる。
——次は、こうはいかん。
去り際にそう言い残していったから、てっきり、もっと念の入った試験でも組んでくるのかと思っていた。
あいつの「次」は、これだった。試すのをやめて、数えることにしたらしい。
「……昨日の、監察官ですね」
「気づいてたのか」
「騎士見習いは、周囲の警戒を怠るなと最初に叩き込まれます。剣の型より先に」
……こいつ、剣は型どおりでも、こういうところは抜かりがない。
守備隊の見習いってのは、伊達じゃないらしい。
「お申し付けいただければ、あの者を問い詰めてまいります。主に付きまとう不審者を捨て置くのは、騎士の名折れです」
「やめろ。捨て置け」
俺は四本目の串にかぶりついた。肉は冷めかけて、脂が唇に張りつく。
問い詰めたところで、向こうは「街の見回りだ」としらを切るに決まってる。
むしろ「予言者の騎士が監察官に食ってかかった」と、また一行、あの手帳に書き足されるだけだ。
「あいつはな、俺を牢にぶち込みたいわけじゃない。俺がボロを出すのを待ってるんだ。
こっちが騒げば騒ぐほど、あいつの手帳が肥える。だから——放っておくのがいちばん腹が立つって寸法だ」
「なるほど、敵の仕掛けにはあえて乗らないのですね。さすがのご深慮です」
「ただの面倒くさがりだ」
◇
だが、放っておくというのが、これがまた無理だった。
占いの店を開けば、通りの向かいの軒下から手帳が動く。
昼飯に飯屋へ入れば、二つ隣の卓で水だけ頼んで、こっちの注文を書き留めている。
用を足しに立てば、さすがについては来ないが、戻る頃にはちゃんと元の位置にいる。
俺が客に「西の山が笑えば積め」と濁せば、さらさらと書く。
俺が銅貨を数えれば、また書く。
俺が欠伸をひとつすれば、それすら書く。
背中に一日じゅう視線が張りつくってのは、じわじわ効く拷問だ。
何ひとつ後ろ暗いことをしていなくても、串の数から欠伸の回数まで、いちいち罪の証拠に思えてくる。
あいつはたぶん、それを狙ってる。理屈で追い詰めるのと同じくらい、沈黙で人を追い詰めるのが上手い男なんだ。
昼下がり、俺はとうとう店じまいして、市場の雑踏に紛れることにした。
人混みに入っちまえば、さすがのお役人も見失うだろう。
市場へ下りる道すがら、旧水路の脇を通った。
先だっての騒ぎで群衆が突き崩した穴は、まだ塞がれていない。応急の板が渡してあるだけで、縁の石がまたひとつ欠けて、泥に落ちていた。
石工が足りないんだと。ドワーフたちは東門の塔の修理で手一杯なんだそうだ。
市場は、今日も飯と儲けの匂いで煮えていた。
石畳を埋める売り声。毛皮を担いだ獣人の狩人が「安いよ、山の恵みだよ」と肩で人波を割る。
ドワーフの鍛冶屋の店先じゃ、鍋ひとつの値段を巡って客と店主が「高い」「高かねえ」と髭を突き合わせている。
——甘かった。
その喧騒のどこにいても、俺の背中の三十歩後ろには、あの外套があった。
人が増えれば、あいつも人に紛れる。距離だけは、寸分も変わらない。
いや——一度だけ、妙な間があった。
市場の裏手、倉庫の並ぶ路地の口に、痩せた男がひとり、所在なげに立っていた。あいつの足がそこで止まり、手帳が俺じゃなく、その男のほうへ向いたのだ。
なんだ、俺以外も見てるのか。役人ってのは、まめなことだ。
「予言者様だ!」「今日のお言葉は!」
おまけに、市場は俺の顔を覚えていやがる。
どこへ行っても人が寄ってくる。おかげで俺は雑踏に紛れるどころか、雑踏の真ん中で光る的みたいなものだった。
そして、市場の隅の空き樽の上には、今日もあの男が立っていた。
「さあさ、聞いてらっしゃい! 大評判、監察官サマと予言者様の知恵くらべ、堂々の第二幕だよ!」
解釈屋のトビだ。
垂れ目にへらへらの愛想笑いを浮かべて、黒板を叩いている。
「昨日、領主館で鉄箱を封じた予言者様に、性懲りもなく食い下がる監察官サマ!
はてさて、今日の勝敗やいかに! 賭けは銅貨二枚から、当たりゃ倍返しだ!」
賭けの対象にまでされている。
俺とヴェントの我慢比べに、銅貨を積んでいる連中がいる。
「……おい、トビ。俺の尾行に値をつけるな」
「へへ、これも人気商売のうちでさあ、予言者様」
トビはちっとも悪びれず、揉み手をした。
それから、ふと声をひそめて、樽の上から顔を寄せてくる。
「……ところで旦那。景気のいい話のついでに、景気の悪い噂もひとつ、仕入れときなせえ。
この頃、市場の裏がどうも生臭くってね。夜のうちに、領主館の検印のねえ樽がこっそり空き倉庫へ運び込まれる。
中身はおおかた安酒でしょう。ああいうのに客の銅貨が流れると、うちの賭けの実入りまで痩せるんでさあ」
「よく言う。後ろ暗いのはお前も同じだろう」
「そこはそれ。風向きで飯を食う者ほど、風の匂いにゃ鼻が利くんで」
へらへら笑って、トビはまた口上に戻った。
……妙な荷、ねえ。
どこの市場にも、表の勘定に載らない裏の商いってのはある。辺境ならなおさらだ。金になる話には、必ず金にならない影がくっついてくる。
俺には関わりのない話だ。そう思って、聞き流した。
◇
人だかりの向こうで、ふと、フィーナが呼び止められているのが見えた。
武器屋の店先で、店主の親父と若い冒険者が言い合いをしている。
「研ぎ代はまけられん! 約束どおりの仕事だ!」「片面しか磨けてねえだろうが!」——どこの街にもある、金の揉め事だ。
その親父が、通りかかったフィーナの袖を引いた。
「見習いさん、ちょうどいい。あんた、剣の目利きができるだろう。この研ぎが約束どおりの仕事かどうか、見てやってくれ」
「……務めの途中ですが。手短になら」
フィーナは俺のほうを一度うかがってから、二人の間に立った。
双方の言い分を、順番に、最後まで聞く。それから件の剣を借り受け、刃を光に透かして、根元から切っ先まで生真面目に目を走らせた。
「刃こぼれの直しは、見事です。文句のつけようもありません。——ただ、磨きは片面で止まっている。その残した分だけ、研ぎ代を引くのが公平かと」
店主が頭をかき、冒険者が笑って、それで終わりだった。誰も、ごねなかった。
「毎度助かるよ! あんたが言うと、話が早い」
店主の親父がそれでも隣の屋台から焼き栗をひと掴み買って、フィーナの手に握らせた。
フィーナは「務めですので」と一度断りかけて、それから栗の温かさに負けたのか、律儀に頭を下げて受け取った。
……なるほどな。
こいつは、俺が担ぎ上げられるずっと前から、この市場に居場所があったらしい。
剣は型どおりだと笑われる。家の名も揶揄される。
それでも、揉め事を抱えた商人たちにとっちゃ、この馬鹿正直な性格は金では買えない値打ちがあるんだ。
俺の出まかせより、よっぽど確かなもんだよ。
「お待たせしました、セロ様。……あの、これ、よろしければ」
戻ってきたフィーナが焼き栗を数粒、遠慮がちに差し出してきた。
俺はひとつつまんで、口に放り込む。ほくほくと甘い。
「稼ぎがいいじゃねえか、騎士サマ」
「務めです。……菓子は、役得ですが」
真顔で言うから、笑いそうになった。
◇
だが、栗の甘さも長くは続かない。
背中の視線は、相変わらず三十歩後ろに張りついていた。
俺は腹の底で、じわじわ考え始めていた。
このままじゃ、まずい。
ヴェントは焦って俺を捕まえる気はない。じっくり時間をかけて、俺が尻尾を出すのを待つ。
それを一行ずつ手帳に溜め込んで、いつか領主に突き出すつもりだ。理屈で固めた縄で、じわじわ首を絞めてくる。
だったら、こっちから何か手を打たなきゃならない。
手っ取り早いのは、あいつに一発、予言をぶつけて黙らせることだ。
昨日の坂道で、ダントってあの生意気な守備隊の男を、星回りの一言でびびらせたみたいに。
——だが、そこで俺の足が止まる。
思い出せ。俺が言い切った時、何が起きた。
「退ける」と見得を切ったら、東門の塔が崩れて、衛兵が二人下敷きになった。願望をこぼしただけで、街が旧水路を割って、ボルグの荷が泥に沈んだ。昨日の箱ですら、鍵が折れた。
俺の言葉は、当たる。当たるが、必ずどこかがねじれて、たいてい、誰かが損をする。
迂闊に予言をぶつけたら、また巻き添えを食う奴が出る。
ヴェントを狙ったつもりが、そばにいたフィーナが、市場の連中が、とばっちりを食うかもしれない。それはもう、こりごりだった。
……なら。
的を選べばいいんじゃないか。
昨日、俺は学んだ。何が起きるか分からないなりに、いちばん転びにくそうな的を選んで、そこに言葉を置く。あれで、当たった。
なら今度は、被害の出方を選べばいい。
俺は頭の中で、生まれて初めて、自分の呪いの設計図みたいなものを引き始めた。
ひとつ。悪いことは言わない。良いことだけを言う。
凶が転べば人が死ぬが、吉が転んだって、たかが知れてる。
ふたつ。街のことも、大勢のことも言わない。あいつ本人のことだけを言う。
大きな話は、大勢に飛び火する。飛竜も水路も、そうだった。あの監察官ひとりの身の上なら、こぼれたって、こぼれる先はあいつの中に閉じてる。
その良いことに、何を選ぶ。——手柄だ。手柄ってのは、すでに起きてる厄介事を片づけた時につくもんだ。新しい災いを生む言葉じゃない。それに、どれだけ周りが騒いだって、名が上がるのは手柄を立てた本人だけだ。俺の入り込む余地なんてない。
良いことを、あいつ一人に。二重に安全だ。当たっても無害、外れても実害なし。
人目のある所で言うことになるのは、承知の上だ。この街が俺の言葉に勝手に尾ひれをつけるのは、嫌ってほど思い知った。だが、監察官ひとりの身の上話じゃ、担いで騒ごうにも的がない。
我ながら、賢い。
三年、客の顔色だけで食ってきた三文占い師が、とうとうこの得体の知れない呪いに手綱をかけようとしている。
◇
俺は市場のいちばん人の多い十字路で、わざと足を止めた。
人が寄ってくる。「予言者様!」の声が上がる。
その人垣の外、三十歩の距離で外套の男の足も止まったのが、見なくても分かった。
舞台は整った。観客も、当の本人も、ちゃんと揃ってる。
あとは、台詞だけだ。
「なあ、監察官さんよ」
俺は群衆越しに、まっすぐそっちへ声を投げた。
ざわ、と人波が割れる。地味な外套の男が手帳を持ったまま、動きを止めてこっちを見た。
「そんな遠くから俺の欠伸を数えてないで、こっちへ来なよ。減るもんじゃないし」
ヴェントはしばらく俺を値踏みするように見て、それから、悠然と人垣を分けて歩み出てきた。
沸き立つ市場の真ん中で、その男のまわりだけが、しんと静かだった。昨日の泥の広場と、同じだ。
「大した人望だな。詐欺師にしては」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
「観察している。それだけだ。街の秩序を乱す者を記録するのは、監察官の務めでね」
ヴェントは手帳を軽く持ち上げてみせた。声を荒らげない。淡々と、退路だけを塞いでくる、いつものやり方だ。
「昨日の箱は、偶然だ。錠前が湿気で錆びていた。竜も、水も、いずれ説明はつく。君の周りに積み上がった奇跡を、一つずつ偶然に戻していくだけだ」
「そうかい。ご苦労なこった」
俺は、たっぷり間を取った。三文占いの基本。
水晶玉はここにはないから、代わりに掌をかざす仕草だけ、それらしく決める。
群衆が固唾を呑む。トビの樽の周りが、しんとなる。
——さあ、行くぞ。良いことを、あいつ一人に。
「なあ、監察官さん。あんたを見てて、ひとつ、星回りが見えた」
「くだらん」
「まあ聞けって。悪い話じゃない。むしろ、あんたにとっちゃ上々の話だ」
俺はできるだけ深く、できるだけ予言者らしく、言い切った。
「あんたは近いうちに、大きな手柄を立てる。この辺境で埃をかぶってるだけじゃ終わらない、そういう大きなやつをな。
——ほらな。凶事のひとつも言っちゃいない。感謝してほしいくらいだ」
言い切った瞬間、ひやりと来た。
いつものやつだ。俺が的を定めて言葉を置いた時の、あの寒気。
だが、今度は違う。今度は、俺が選んだ的だ。良いこと。あいつ一人。無害。
大丈夫。手綱は握れてる。……握れてる、はずだ。
ヴェントの眉が、わずかに寄った。
「……ずいぶんと安い餌だな。私を持ち上げて、取り込もうという腹か。
あるいは、外れた時に『まだ叶っていないだけだ』と逃げる算段か。占い師の常套手段だ」
「疑い深いねえ。せっかくの吉兆だぜ」
「私は、良いことも悪いことも、占わせるために来たのではない。——ただ、記録するだけだ」
ヴェントは手帳を開き、さらさらと何かを書きつけた。
たぶん、こう書いたんだろう。『予言者、監察官の出世を予言。取り込みの意図あり』とかなんとか。
……いいさ。書け。書いておけ。
これで当たりゃ、あんたは俺に一つ借りができる。
外れてくれるなら、それがいちばんだ。箱が一度開かなかったくらいで、俺の出まかせが全部当たると決まったわけじゃない。
我ながら、完璧な予言だった。生まれて初めて、誰も損をしない予言を撃ってやった。
◇
異変は、その日の夕方に起きた。
俺がそろそろ宿へ引き上げようとした頃、市場の東の外れが急に騒がしくなった。
悲鳴と、怒号と、何かがひっくり返る音。
「荷車が! 止まらねえぞ!」
見れば、獣人の荷運びが引いていた荷車は、坂の途中で引き綱が切れ、暴れ馬みたいに市場へ突っ込んでくるところだった。
積んでいた樽が、次々と転げ落ちる。
人波が割れる。屋台が薙ぎ倒される。俺はとっさに、そばのフィーナの腕を掴んで軒下へ引いた。
——と、その混乱に、別の影が乗っかった。
「スリだ! 誰か、そいつを捕まえてくれ!」
荷崩れの人だかりは、スリにとっちゃ書き入れ時だ。
痩せた男が財布を掴んで、人混みを縫って走り出す。——昼間、倉庫の路地の口に立っていた、あの男だ。まっすぐ、市場の裏手、例の検印のない荷が眠るという、あの薄暗い倉庫の並ぶ路地へ、迷いのない足で駆け込んでいく。
そして、その走る先に、あの外套の男がいた。
監察官ってのは、こういう時、体が勝手に動くものらしい。
ヴェントは俺を見張るのも忘れて、逃げる男の前へすっと踏み出した。
スリは慌てて身を翻し、取り落とした財布がヴェントの足元に転がる。
ヴェントはそれを拾い上げ、逃げ込んだ男を追って、迷わず薄暗い倉庫の戸を引き開けた。
——それが、まずかった。
樽が山と積まれていた。どれも、領主館の検印がない。
その奥で、樽を積み替えていたらしい数人の男が、ぎょっとした顔で戸口を振り返る。
夕日が、まっすぐ倉庫の中へ差し込んだ。
照らし出されたのは、監察官の外套を着て、片手に盗品の財布を握り、密輸倉庫の戸口に立つ、ヴェントの姿だった。
◇
後で分かったことだが、ヴェントはこの密輸を前から追っていたらしい。
辺境の市場の裏で、山向こうから流れ込む密輸品——質の悪い火酒だの、検印を受けていない香木だの——を捌く一味がいる。
領主館がずっと尻尾を掴めずにいた、厄介な連中だ。
ヴェントは監察官として、それを内々に嗅ぎ回っていた。俺を尾行するかたわらで、市場の生臭さも、ずっと手帳に書き留めていたんだろう。
だから、倉庫の戸が開いて、中の男たちと目が合った時——ヴェントの体は俺を見張っていた時とは別の速さで動いた。
「——動くな。領主館監察官である。この荷は差し押さえる」
声は、静かだった。
だが、その静かさが逃げ場のなさを一味に悟らせた。逃げ出そうとした男の一人を、ヴェントは足をかけて転ばせ、戸口を塞いだ。
そこへ、荷崩れの騒ぎで駆けつけた守備隊がなだれ込む。フィーナが真っ先に剣を抜いて、倉庫の裏口へ回り込んだ。
スリも樽の陰から引きずり出され、鮮やかに片がついた。
紛れもない、手柄だ。領主館が長らく掴めずにいた密輸の一味を、監察官がその手で押さえた。
……当たった。
俺は倉庫の戸口に立ち尽くすヴェントを見ながら、胃の底がすうっと冷えていくのを止められなかった。
あんたは近いうちに、大きな手柄を立てる。
言った、通りだ。よりにもよって、いちばん立派なやつを。
問題は、そこじゃなかった。
問題は——それを見ていた、市場の連中だった。
「見たか、いまの!」「監察官様が、密輸の一味を!」「予言者様だ! 今日の昼間、予言者様が言ってたぞ!」
わっと歓声が上がった。
トビが、目ざとく樽の上に飛び乗る。
「さあさ、大当たりぃ! 『監察官サマ、大きな手柄を立てる』——昼間の予言者様のお告げ、ずばり的中だよ!
賭けてた奴ぁ倍返し、賭けそびれた奴ぁ地団駄だ!」
……ああ。
ああ、そうか。そうなるのか。
俺は、頭を抱えたくなった。
良いことを、あいつ一人に。当たっても無害な予言。
確かに、死人は出なかった。大きな怪我人も出ていない。密輸は捕まった。ヴェントは手柄を立てた。全部、俺の言った通りだ。
だが、俺はたった一つ、勘定に入れ忘れていた。
この街が俺の言葉を放っておかない、ということを。
ヴェントの手柄は、その瞬間、ヴェント一人のものじゃなくなった。
「予言者様のお告げ通り、監察官様が手柄を立てた」。
街にとって、それは監察官の武勲じゃない。予言者の的中だった。
◇
歓声の渦の真ん中で、ヴェントはひとり立っていた。
密輸人の襟首を掴み、押収した香木の樽を足元に置いて——それは、彼が長いこと追い求めた、まぎれもない勝利の姿だった。
なのに、その顔には勝者の色がひとかけらもなかった。
泥を食ったみたいな顔だった。
自分の足で歩き、自分の頭で追い、自分の手で掴んだ手柄が——たった今、目の前で、あの胡散臭い占い師の「託宣の的中」に、まるごと化けていく。
神も託宣も信じないと言い張ってきたこの男が、よりにもよって、いちばん信じたくないものの手柄にされる。
あの無表情の下で、何かが軋む音がした気がした。
ヴェントは、しばらくそのままの顔で歓声を浴びていた。
それから、静かに手帳を取り出し、一行、書きつけた。
何を書いたのかは、遠くて見えなかった。
だが、そのあと彼はまっすぐ俺のところへ歩いてきた。人垣が、また割れる。
「見事な手柄だったな、監察官さん。当たっただろ、俺の予言」
俺は、精いっぱいの軽口で迎えた。内心は、悲鳴だ。
こいつを懐柔するどころか、俺はこいつの誇りに泥を塗っちまった。
「偶然だ」
ヴェントは、低く言った。声はこれまででいちばん静かで、これまででいちばん冷たかった。
「密輸は、私が三か月前から追っていた。あの痩せた男も、昼から目をつけていた。今日踏み込めたのは、荷崩れのどさくさで、奴が自分の巣へ逃げ帰ったからだ。
すべてに、説明がつく。君の言葉は、何ひとつ関係ない」
「……だろうな。俺もそう思うよ」
本音だった。俺だって、こんなもんが本物の予言だなんて、思いたくない。
「だが」
ヴェントは、俺の目をのぞき込んだ。
その目には、昨日までの「詐欺師を暴く」という熱すら、もうなかった。あるのは、もっと静かで、もっと執念深い、別の何かだった。
「監察官として、手帳に一行、書き足した。
——竜も、水も、箱も、そしてこれも、いずれ全部に説明がつく。ただし君の周りでは、なぜか良いことすら、ろくな終わり方をしない——とな」
ぐ、と喉が詰まった。
こいつは、俺が何をやったか、勘づいている。
俺が今日、わざわざ「良いこと」を選んで撃ったことを。そして、その良いことがこんな形に化けたことを。
「これからは、群衆のいる所では調べん」
ヴェントは背を向けながら、そう言った。
「もっと近くで、もっと静かに、君を見させてもらう。——今日のような見世物は、もう二度と御免だ」
それだけ言って、彼は歓声に背を向け、密輸人を引き立てて、夕暮れの坂を上っていった。
勝ったはずなのに、負けた男みたいな、冷たい背中だった。
◇
その夜、俺は宿の固い寝床で、天井を睨んでいた。
フィーナは今ごろ、今日の一部始終を「予言者様の深いお考え」として、また羊皮紙に書き留めているに違いない。
市場では、トビが「予言者様、お役人の出世まで言い当てる」の新看板を出しているだろう。
俺の名は、また一回り大きくなった。当たったんだから、当然だ。
だが、俺の腹の底には冷たい石ころが一つ、重く沈んで残っていた。
俺の読みは、半分は当たっていた。狙った通り、密輸は捕まり、誰も死ななかった。被害の出方は、選べた——つもりでいた。
だが、残りの半分で、俺は完敗した。
良いことなら安全だと思った。相手を一人に絞れば、巻き添えも出ないと思った。どっちも、きれいに外れた。
薙ぎ倒された屋台も、ぶちまけられた樽も、ヴェントの誇りも、俺の勘定からは漏れていた。
良いことを言っても駄目で、悪いことはもっと駄目。言い切っても濁しても駄目で、黙れば解釈屋が注釈を売る。
いったい、俺は、どう口を開きゃいいんだ。
……いや。
寝返りを打った拍子に、頭の隅で何かがちり、と光った。
良いか悪いか、じゃない。大勢か一人か、でもない。
問題は、どう言えば、どうねじれるか——ひょっとして、そこなんじゃないのか。
俺の言葉は、ただ当たるんじゃない。誰がどう受け取るかで、ねじれる先が変わる。フィーナが信じれば水路が割れ、街が沸けば手柄が予言に化ける。
だったら、言葉のほうを、受け取られ方まで見越して選んでやれば——。
「……いや」
俺は、慌ててその考えに蓋をした。
馬鹿を言え。何が言葉の設計だ。今日だって、良かれと思って撃った一発で、いちばん厄介な男を、いちばん厄介な形で怒らせたばかりだろうが。
手綱をかけたつもりで、また振り落とされた。しかも今度は、自分から鞍に乗ろうとして、だ。
窓の外、遠くの市場から、まだ俺の名を讃える酔っぱらいの声が流れてくる。
その声の届かない静かな場所で、あの監察官は今夜も手帳を睨んでいるんだろう。もっと近くで、もっと静かに、俺を見させてもらう——か。
勘弁してくれ。
昔の俺は、当たらないのだけが取り柄だった。
今の俺は当たっちまうのが取り柄で、そのたびに逃げ場が一つ、確実に減っていく。
まったく、大した出世じゃないか。
……この分だと、明日は明日で、どう口を開いたものか。考えると、今から気が重い。




