第99話 学者の論理と、女王の沈黙
翌朝、俺はエレノアへの面会を申し入れた。
三度目。
ティアラが段取りを整え、記憶の間の扉が開いた。
同行者は、リゼ、フラン、ソフィア。そしてティアラ。ディアブラは廊下で控えている。
エレノアは、いつもと同じ安楽椅子に座っていた。同じ微笑み。同じ茶器。止まった時計。色褪せた押し花。
「三度目のお越しですわね、ナギ様」
「お時間をいただきありがとうございます」
「今日は、どのような姿勢でいらっしゃるのかしら」
「実務です」
俺は短く答えた。
「和平プロジェクトを推進するにあたり、この国の中枢である世界樹の状態を把握する必要があります。フラン」
フランが前に出た。
「エレノア陛下。昨日、世界樹の魔素出力を外殻から計測しました。不規則な変動を検出しています。外殻の魔素循環と深部の脈動に位相のずれが生じており、季節変動では説明がつきません」
ソフィアが補足した。
「原因は外殻ではなく根に起因するものと推定されます。根元の調査をお許しいただけますでしょうか」
学術的な要請だった。感情は入っていない。
エレノアの微笑みは揺らがなかった。
「ご熱心なことですわ。ですが、世界樹の根元は古くからの聖域です。王族以外の立ち入りには、長老評議会の承認が必要となります」
「評議会への申請を——」
「もちろん、私から話を通しますわ。少しお時間をいただければ」
優雅で、隙のない回答。丁寧に、完璧に、扉が閉じた。
フランが何か言いかけた、その時だった。
部屋が、軋んだ。
壁の柱——世界樹の幹と一体化した柱の一本に、暗い筋が走った。
ほんの一瞬。樹液の翠色が、柱の一箇所だけ灰色に変わり、すぐに戻った。蝋燭の揺らぎと見間違えるような、微かな変色。
フランの目は、見逃さなかった。
「——今の変色。陛下、この柱の内部で魔素循環が一瞬途絶しました」
「まあ」
エレノアは、穏やかに微笑んだ。
「千年も経てば、古い柱には時折そのようなことがございます。ご心配には及びませんわ」
声に、わずかな揺らぎもなかった。
五百年間、この嘘を吐き続けてきた女王の声だった。
「木材の経年劣化による魔素回路の一時的な滞りは、珍しいことではありません。建物の保全は定期的に行っておりますから」
「経年劣化ではありません」
フランが、一歩前に出た。
「私が観測した外殻の変動パターンと、今の柱の症状は一致しています。局所的な経年劣化なら、影響は柱単体に留まる。ですが外殻のデータは、世界樹全体の深部循環が不安定化していることを示している。これは根から来ているパターンです」
「フラン様。学者の方の慧眼には敬意を表しますが——」
「エレノア陛下」
ソフィアが、静かに、しかし明確な声で遮った。
俺は少し驚いた。ソフィアが目上の人間を遮るのは、初めて見た。
「私は王立学院で、魔素循環の異常パターンを七年間研究してきました。この変動は、放置すれば不可逆的な崩壊に至る型です」
ソフィアの声は震えていなかった。学者としての確信が、彼女の背筋を伸ばしていた。
「現在の進行速度が維持された場合——世界樹の魔素循環は、百年から二百年の間に臨界点に達します。臨界点を超えれば、根系の魔素供給が完全に停止し、翠嶺の国を支える生態系全体が崩壊します」
部屋が、静まりかえった。
「つまり——このまま放置すれば、国が滅びます」
ソフィアの言葉は、カウンセリングではなかった。
診断だった。
学者が、データに基づいて、冷静に下した、国の死の宣告だった。
エレノアの微笑みが——消えなかった。
消えなかったが、深くなった。
千年ぶんの微笑みが、一層深く、一層厚く、顔に張り付いた。
「……ご忠告、ありがたく承りますわ」
声は変わらなかった。穏やかで、優しく。
だが、茶器を持ち上げる手の、小指の先だけが——ほんのわずかに、震えていた。
フランが、鞄から一冊の報告書を取り出した。
薄いが、密度の高い装丁。昨夜のうちに二人でまとめたものだ。
「陛下。こちらに、観測データ、変動パターンの解析、進行予測、臨界点の算出をまとめてあります。お手すきの際にご確認ください」
フランが報告書を卓上に置いた。
エレノアの目が、一瞬だけ、報告書に落ちた。
そして、すぐに俺たちに戻った。
「お気持ちは受け止めましたわ。検討いたします」
それ以上は、何も出なかった。
俺は立ち上がった。
「ありがとうございました」
深く一礼して、退出した。
一言も、心の話はしなかった。
*
廊下に出ると、リゼが俺を見上げた。
「ナギ。今日は——何もしなかったね」
「はい」
「それで、いいの?」
「いいんです。今日は、フランとソフィアの仕事でした。俺の仕事じゃない」
リゼが、少しだけ驚いた顔をした。
それから、ほんの少しだけ、笑った。
「……ナギ、変わったね」
「変わりましたか」
「前のナギなら、自分で何とかしようとしてた。今日は、二人に任せてた」
俺は答えなかった。
フェンリルの言葉が頭にあった。セラフィーナの言葉も。
役に立たなくても、ここにいていい。
心を開くのは、彼女の仕事だ。
俺の仕事は、扉の前に立つことだけ。
扉を叩くのすら、今日はフランとソフィアがやってくれた。
*
夕方、ティアラが俺を訪ねてきた。
「ナギ様。おばあさまが——報告書を、読んでいます」
「……読んでいる?」
「記憶の間から、ずっとお出になりません。お茶のお代わりも断られました。……おばあさまがお茶を断るのは、私の記憶にはありません」
俺は黙った。
「あの報告書に、何が書かれているのですか」
「世界樹の現状と、このまま放置した場合の予測です」
「……おばあさまは、もしかして——ご存じだったのではないでしょうか。世界樹に、何かが起きていることを」
俺は答えなかった。答える立場にない。
「明日——何か、変わるでしょうか」
「わかりません。それはエレノア様が決めることです」
ティアラが、少しだけ、微笑んだ。
「ナギ様は、以前とは違うことを仰いますのね。初日は、ご自分で扉を叩こうとされていた」
「……叩いて、弾かれました」
「ええ。でも今日のあの報告書は——叩くのではなく、扉の下から差し入れたようなものですわ」
ティアラが、静かに頭を下げた。
「今夜は、祈ります。おばあさまが、あの扉を、ご自分で開いてくださることを」
*
夜が更けた。
迎賓館の窓から、世界樹を見た。
夜の闇の中、世界樹は淡く光っていた。翠色の魔素が幹を巡り、梢の先まで届いている。
美しかった。
だが、昨日ディアブラが見た揺らぎを、俺は今夜も感じていた。
光の中に、ほんのわずかに——脈が、乱れている箇所がある。
あの報告書を、エレノアは今、読んでいる。
五百年間、目を背けてきたものを、数字とグラフで突きつけられている。
明日、彼女がどう動くかは、わからない。
認めるかもしれない。
もう一度、白を切るかもしれない。
どちらであっても——俺は、待つ。
心を開くのは、彼女の仕事だ。
翌朝。
迎賓館の扉を叩く音で、目が覚めた。
ティアラだった。
目が、赤かった。泣いたのか、眠れなかったのか。
「ナギ様。おばあさまが——」
声が、震えていた。
「おばあさまが、皆様を、お呼びです。記憶の間へ、お越しくださいと」
俺は頷いた。
五百年かけて閉じた扉が——一晩の沈黙の後、ようやく、内側から、開こうとしていた。




