第98話 看病騒動と、世界樹の脈動
翌朝、俺は少しだけ寝坊した。
昨夜のセラフィーナとの会話が、頭の中でまだ響いていた。「役に立たなくても、あなたはここにいていい」。その言葉を反芻しながら眠りに落ちて、目が覚めたら陽が高かった。
扉を開けた瞬間、廊下に六人いた。
「ナギ! 顔色悪い! まだ寝てて!」
リゼが両手を広げて、部屋に押し戻そうとした。
「お加減はいかがですか、ナギ様。昨夜のお話の後ですもの、ゆっくりなさるべきですわ」
セラフィーナが聖母の微笑みで控えている。「昨夜のお話の後」という言い方に、リゼの耳がぴくりと動いた。
「昨夜? セラフィーナ、ナギと昨夜何かあったの」
「お話をしただけですわ」
「部屋で? 二人で? 夜に?」
「ええ」
「えびでんすは」
「心の治療に証拠は不要ですわ」
リゼの目が三角になった。
「ナギ様、朝食をお持ちしました。エルフの薬膳粥です。ティアラ様に教わりました」
アリスがお盆を抱えて割り込んできた。湯気の立つ器。だが、器の縁にフリルのナプキンが巻かれている。
「先生の胃に優しいフリル粥です」
「フリル粥……初めて聞きます」
「ナプキンがフリルなので、フリル粥です」
論理が独自すぎる。
「お兄さーん! ルゥが梨を剥いたよ!」
ルゥが皿を差し出した。梨が——原形を留めていなかった。
「ルゥ。これは剥いたというより、破壊したのでは」
「ルゥは不器用なの! でも愛情は器用だよ!」
次の瞬間、目つきが切り替わった。
「……毒見は済んでいるわ。産地も確認済み。安全よ」
「ルナさん、ありがとうございます」
「礼はいい。早く食べなさい」
フランが全員の後ろから、腕を組んで壁にもたれていた。
「ナギ。昨日のダメージが残っているなら、今日は完全休養を推奨するわ。パフォーマンスが落ちた状態で判断を下すのは、コスト効率が最悪よ」
「……フランさんは看病しないんですか」
「私の役割は判断の品質管理。看病は彼女たちに任せるわ。適材適所」
ソフィアが部屋の隅で、小さなメモ帳に何かを書き込んでいた。
「……ソフィアさん?」
「あ。いえ。ナギ様の体調不良時における各人の行動パターンを記録して——」
「やめてください」
「研究は誰にも止められません」
ティアラが廊下の奥から、銀の盆を持って現れた。
「エルフの回復茶を淹れてまいりました。千年の秘伝です。千年分の効能があります」
「千年分は胃が持たないです」
「ご安心ください。人間の胃の耐久年数も考慮して、百年分に薄めてあります」
「まだ濃い」
俺は結局、全員の看病を少しずつ受け入れることで事態を収拾した。フリル粥は意外に美味かった。回復茶は苦かったが効いた。破壊された梨は、食べやすかったといえば食べやすかった。
*
昼過ぎ。皆が散った隙に、俺は水晶球を取り出した。
魔力を注ぐと、霧の向こうに、椅子にもたれた影が浮かんだ。
「フェンリルさん」
「ああ。聞いている。エルフの女王に手も足も出なかったそうだな」
「……お耳が早い」
「フランから報告が来ている。『ナギが初めて完封された。判断力に影響が出る可能性あり。要観察』」
フランの業務報告が正確すぎて胃が痛い。
「で、どうする」
「どうすれば、あの方の心を——」
「やめろ」
フェンリルの声が、低く、短く、切った。
「お前はまだそれをやろうとしている。心を開こうとしている。それは彼女の仕事だ。お前の仕事じゃない」
「……」
「お前は和平の交渉団として、あの国に行っている。交渉団の仕事は何だ」
「相手国の実態を把握して、協力体制を——」
「そうだ。なら、国を見ろ。心じゃなく、国を。あの国の中枢がどうなっているか、お前はまだ把握していないだろう」
俺は黙った。
確かに、そうだった。街を歩いた。市場を見た。図書館を見た。音楽堂を見た。だが——この国の心臓である世界樹そのものは、遠くから眺めただけだ。
「女王の心は、女王が決める。お前が決めることじゃない。お前は自分の仕事をしろ」
フェンリルの声が、静かになった。
「前にも言ったな。エルフは変化を恐れる種族じゃない。変化を忘れた種族だ。思い出させるのは、外からの刺激しかない。……お前が刺激になれないなら、別のものを見つけろ」
水晶球の霧が薄くなった。フェンリルが椅子から立ち上がる気配。
「それと、ナギ」
「はい」
「お前自身の空洞がどうとか、そういう話は後でいい。今は仕事をしろ。悩むのは仕事が終わってからにしろ。順番を間違えるな」
通信が切れた。
フェンリルの助言は、いつも通り簡潔で、いつも通り、的確だった。
*
夕方。
迎賓館の窓から、世界樹を眺めていた。
フェンリルの言葉を反芻していた。国の中枢を見ろ。心じゃなく、国を。
明日、エレノアに申し入れよう。世界樹の状態を直接確認させてほしい、と。外交の実務として。
そう考えていた時だった。
「ナギ」
低い声。ディアブラだった。
フードを被ったまま、窓辺に立っている。だが、その目が——外の世界樹を、じっと見つめていた。
「……何か、気づきましたか」
「わからん。だが——」
ディアブラが目を細めた。
「世界樹の魔力が、揺れている」
「揺れている?」
「昨日までは感じなかった。だが今日の昼過ぎから、ほんのわずかに——脈が、乱れている。健全な大樹の脈動ではない」
魔王の魔力感知は、この一行の中で桁違いに鋭い。人間には感知できない微弱な変動を、ディアブラは肌で拾う。
俺はすぐにフランとソフィアを呼んだ。
二人が魔素計測を始めた。窓辺から、世界樹に向けて、微弱な探査魔法を飛ばす。
フランの眉が、寄った。
「……検出した。出力変動。微弱だけれど、確かに不規則なパターンがある」
ソフィアが数値を読み上げる。
「外殻の魔素循環と、深部の脈動に、位相のずれが生じています。通常の季節変動では説明できません」
「原因は」
「外殻ではなく、内部——おそらく根に、何かが起きていると推定されます」
フランが眼鏡を押し上げた。
「ただの経年劣化なら、千年かけてゆっくり進行する。この変動は、もっと急性のもの。……何かが、最近になって、内部のバランスを崩した」
最近。
俺は、自分の胸に手を当てた。
最近、この国に何が起きたか。
俺たちが来た。エレノアに問いかけた。エレノアの感情を、わずかに揺さぶった。
彼女は完璧に抑え込んだ。仮面は一ミリも動かなかった。
だが——世界樹は、エレノアと同期している。
エレノアの意識が抑え込んだ動揺を、世界樹の方が、先に表に出したのだとしたら。
「フラン。ソフィア」
「何」
「明日、エレノア様に、世界樹の根の調査を申し入れます。データを揃えてください」
「了解。だけど——」
フランが俺を見た。
「彼女が許可するとは限らないわよ。千年隠してきたものがあるなら、なおさら」
「そうですね」
俺は窓の外を見た。
世界樹の幹が、夕日に染まっている。
だが今日は——その幹の、ほんの一箇所に、夕日とは違う暗い影が、一瞬だけ走ったように見えた。
見間違いかもしれない。
だが、ディアブラの目が、同じ場所を見ていた。
「……始まっているな」
魔王が、低く呟いた。
「何がですか」
「溶け始めだ。氷が溶ける時、最初に軋みが来る。……あの女王の中で、何かが動き始めている」
千年凍っていたものが、軋みを上げている。
その軋みが、世界樹を通じて、この国全体に伝わろうとしていた。




