第97話 逆流する問い
二度目の面会は、俺の方から申し入れた。
ティアラが段取りを整え、昼過ぎに記憶の間の扉が開いた。
エレノアは昨日と全く同じ場所、同じ姿勢で安楽椅子に座っていた。同じ茶器。同じ押し花。同じ止まった時計。
「おはようございます」
「おはようございます、ナギ様。今日もお茶を淹れますわ」
昨日と同じ微笑み。完璧な仮面。
俺は昨夜、考えた。問いが通じないなら、問わない。心を開かせようとするのではなく、対等に話す。和平の実務的な相談として。
茶を受け取り、俺は魔脈の調査データについて具体的な質問を始めた。エルフ国内の観測体制、世界樹と魔脈の関係、長老評議会の構成——政治と学術の話題に徹した。
エレノアは的確に答えた。穏やかに、聡明に。
十五分ほど実務の対話が続いた頃、エレノアがふと口元に笑みを浮かべた。
「今日は、お問いかけにならないのですね」
「……はい」
「昨日と、姿勢が変わりましたわね。今日は『問い』ではなく『対話』を選ばれた」
読まれている。姿勢の変化すら、見透かされている。
「賢明な判断ですわ」
エレノアが茶器をくるりと回した。
「ですが——少し、退屈ですわね。せっかくですから、今度は私から、一つ伺ってもよろしいですか」
「……どうぞ」
「あなたは、なぜそんなに、他人の心を開きたがるのですか」
俺の手が、止まった。
「それは——目の前に、困っている人がいるからです」
「本当に?」
エレノアが微笑んだ。千年の深みを持つ、穏やかな微笑み。
「私には、そうは見えません」
茶器を静かに置いた。
「あなたは——自分が誰かの役に立っていないと、自分の居場所がなくなると、恐れていらっしゃるのではなくて?」
俺の呼吸が、止まった。
「人を救うことで、自分を救っている。誰かの心を開くことで、自分の心を閉じていることから目を逸らしている」
エレノアの目が、まっすぐに俺を見ていた。
「違いますか」
違わなかった。
前世のナギは、患者を救うことに没頭することで、自分自身の問題から逃げていた。境界線を守ることに固執し、踏み込めなかった。その反動で、異世界では踏み込みすぎる方に振れた。
だが、根本は変わっていない。
誰かを助けていなければ、自分がここにいる意味がない——その恐怖は、前世からずっと、俺の底に沈んでいる。
「千年生きておりますと、色々な方を見てまいりますの」
エレノアが静かに続けた。
「あなたのような方は、最も厄介ですわ。善意が本物だから、周りが止められない。でも、その善意の根が——ご自身の空洞を埋めるためのものだと、ご本人だけが気づいていない」
俺は、何も言えなかった。
リゼが立ち上がりかけた。俺が手で制した。
エレノアは攻撃しているのではない。
これは——千年を生きた者の、本物の助言だった。
「私を治そうとなさるなら」
エレノアが、茶器を持ち上げた。
「まず、ご自身の空洞と、向き合われてはいかがですか」
完璧な微笑み。だがその中に——ごく微かな、優しさがあった。
*
退出した。
廊下を歩く足取りが、重かった。
リゼが袖を掴んでいた。いつもの半歩後ろ。
何も言わなかった。しばらく歩いてから、リゼがぽつりと言った。
「ナギ」
「はい」
「あたしには、ナギの心の中のことは、うまく言えない。エレノアが何を言ったのか、全部はわからない」
「……」
「でも、わかる人が、いると思う」
リゼが立ち止まった。
俺の袖を引いて、廊下の一つの扉の前で、足を止めた。
セラフィーナの部屋だった。
「リゼさん」
「あの人は、ナギの傷を、前に一度見てる。あたしより、ずっと前に」
リゼの目が、まっすぐに俺を見ていた。
「あたしは、剣でナギを守る。でも、心の中のことは——あの人の方が、わかる」
Aランクの剣士が、自分の限界を知った上で、適切な人に繋いだ。
それは——リゼの、成長だった。
*
扉を叩いた。
「どうぞ」
セラフィーナの声。部屋に入ると、彼女は窓辺で聖典を読んでいた。俺の顔を見て、聖典を閉じた。
「……お顔の色が、よろしくないですわね」
「はい」
「何がございましたか」
俺は、椅子に座った。少し迷ってから、話した。エレノアに言われたこと。自分が誰かの役に立っていないと居場所がなくなるという恐怖。善意の根が自分の空洞を埋めるためだという指摘。
セラフィーナは、黙って聞いていた。
全て聞き終えてから、彼女は静かに口を開いた。
「以前、私も同じことを申し上げましたわ」
「……」
「『壊れているのは、あなたの方です』と」
俺の胸の奥で、古い記憶が疼いた。
あの日。前世のトラウマを吐露した夜。セラフィーナが涙を流しながら俺の頬を両手で包み、叫んだ言葉。
「あの時の私は、あなたを救うことで自分を救おうとしていました。鳥籠に閉じ込めようとしました」
セラフィーナが、少しだけ苦笑した。
「あの頃の私は、まだ空っぽの聖女でしたから。あなたの傷を見つけたことが嬉しくて——あなたを癒やす対象にすることで、自分の存在意義を取り戻そうとしたのです」
「……はい」
「でも今は、違います」
セラフィーナが、俺の正面に座り直した。
「今の私は、あなたを救おうとは致しません」
声が、穏やかだった。
空っぽの聖母の声でも、共依存の恍惚でもなく——等身大の、一人の人間の声だった。
「救うのではなく、同じ傷を持つ者として、隣に立つだけです」
「同じ傷」
「ええ。私も同じでしたから。誰かの役に立たなければ、自分には価値がない——そう信じて、空っぽになるまで祈り続けていました。あなたに出会うまで」
セラフィーナが、微笑んだ。
「あなたが私に教えてくださったことを、今度は私から、お返しいたしますわね」
一呼吸。
「役に立たなくても、あなたはここにいていい」
短い言葉だった。
俺がかつてセラフィーナに言った言葉が、形を変えて、返ってきた。
同じ言葉のはずだった。だが、セラフィーナの口から放たれた瞬間、それは全く別の重みを持っていた。
自分が言う側でいる限り、この言葉の本当の重みはわからなかった。
受け取る側になって、初めて——
「……」
俺は、しばらく黙っていた。
泣きはしなかった。だが、何かが——胸の奥で、長い間張り詰めていたものが、ほんの少しだけ、緩んだ。
「セラフィーナさん」
「はい」
「……ありがとうございます」
「お礼には及びません。これは、利子ですわ。あなたからいただいた言葉に対する、五百日ぶんの利子」
聖女が、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「利率は、かなり高めに設定してございますの」
俺は、少しだけ、笑った。
*
セラフィーナの部屋を出た。
廊下に、リゼが立っていた。
壁にもたれて、腕を組んで、待っていた。
「……終わった?」
「はい」
「顔、少しだけ、まし」
「ありがとうございます。繋いでくれて」
リゼが、ふん、と鼻を鳴らした。
「えびでんすに基づく、適材適所」
使い方は相変わらず怪しかったが、今は少しだけ、正しかった。
部屋に戻る道すがら、俺は考えていた。
エレノアの問いは、正しかった。
俺の善意の根に、空洞がある。それは事実だ。
だが——セラフィーナの言葉も、正しかった。
役に立たなくても、ここにいていい。
二つの正しさを、同時に抱えたまま、明日もエレノアの前に立つ。
今度は——問いも、対話も、しない。
別のことをする。
何をするかは、まだわからない。
だが、一つだけわかったことがある。
エレノアの心を開くのは、俺の「技術」ではない。
千年の壁を溶かすものがあるとすれば、それは——たぶん、もっと単純な何かだ。




