第96話 千年の女王と、止まった時計
翌朝は、霧で始まった。
迎賓館の窓を開けると、白い霧が街を満たしていた。建物の輪郭が滲み、遠くの世界樹だけが、霧の上に頭を出している。
風がない。
千年間、この国の朝はこうなのだろうと思った。
「ナギ」
部屋の扉を叩く音と、声。リゼだった。
扉を開けると、リゼが旅装のまま立っていた。腰に剣。完全武装。
「……謁見、ですよ。剣は」
「持っていく」
即答だった。
俺は数秒考えて、諦めた。Aランク冒険者の護衛として同行する建前なら、武装はむしろ自然か。
「ナギ」
リゼが俺の上着の襟元を直しながら、低い声で言った。
「無理しないで。でも、ナギのことだから——通じない時こそ、踏み込むよね」
俺は答えなかった。
リゼがため息をついた。
「だから、剣、持ってく」
*
謁見の場へ向かう道中、フランが俺の隣に並んだ。
「エレノア女王の情報を整理しておくわ。実年齢は不明。一説では、世界樹と魔素的に同期していると言われている。世界樹が枯れない限り、彼女も死なない。逆に言えば——」
フランが眼鏡を押し上げた。
「彼女が変わらない限り、世界樹も変わらない」
「成立し得る理論ですね」
ソフィアが横から口を挟んだ。
「昨日見た図書館の保存術の延長線上です」
「ええ」
フランが短く肯定した。ソフィアが少しだけ表情を緩めた。フランは聞こえなかったふりをして、前を向いている。だが、口角がほんのわずかに上がっていた。
俺の後ろで、ディアブラが黙って歩いていた。いつもより、フードを深く被っている。
*
謁見の場は、玉座の間ではなかった。
ティアラが先導したのは、世界樹の幹に寄り添うように建てられた小さな建物だった。壁の一部が世界樹の幹そのものと一体化している。樹液が、建物の柱に染み込んで脈打っていた。
「『記憶の間』と申します」
ティアラが説明した。
「玉座の間は、もう何百年も使われていません。おばあさまは、ずっとこの部屋でお過ごしです。今回は——私的な客人として、お会いしていただきます」
扉が開かれた。
俺は、息を止めた。
部屋の中は、時間が止まっていた。文字通りの意味で。
壁の高い位置に、大きな振り子時計があった。古い木製の枠。振り子は——動いていない。
壁にずらりと並ぶ書架。膨大な蔵書。背表紙に埃は一切ない。
窓辺に、額縁が置かれていた。硝子の中に、押し花が一輪。白い花弁。色褪せた、薄茶。昨日、迎賓館の廊下で見たのと同じ花だった。
「ようこそ」
窓辺の安楽椅子から、一人の女性が立ち上がった。
外見は三十代半ば。長い銀髪を背中に流している。淡い翠のドレス。装飾は最小限。だが、姿勢の美しさだけで部屋の空気が変わる。
穏やかな顔立ち。優しい微笑み。
だが——目の奥に、途方もない時間の重さがあった。
「お初にお目にかかります、ナギ様。エレノアと申します」
「ナギです。お会いできて、光栄です」
「形式的な挨拶は結構ですわ。さあ、お座りになって」
エレノアは自ら茶器を手に取った。淡い緑の磁器。五百年前の様式。傷一つない。
「我が国の翠茶です。五十年寝かせたものを使っております」
「五十年、ですか」
「茶葉の年月としては、若い方ですわ」
エレノアが微笑んだ。穏やかで、完璧な笑顔。
だが——目だけが、何も語らなかった。
*
和平プロジェクトの説明。エレノアは聡明だった。的確な質問を挟み、フランとソフィアの回答に頷く。
だが、結論は出さない。
「興味深いお話ですわ。長老評議会に諮ってみましょう。もう少し、時間をかけて」
穏やかな声だった。
リヒャルト王の、初対面のときと似ている。優しい。聡明だ。だが結論は出さない。
だが、根本が違う。
リヒャルト王の決断回避は、「傷つけたくない」から来ていた。
エレノアは違う。あるのは——恐怖だ。動くこと自体に対する、根源的な恐怖。
誤診したら行き止まりになる相手だ。
俺は、慎重に踏み込むことにした。
「エレノア様。一つ、お伺いしてもよろしいですか。和平の話とは関係のないことです」
「どうぞ」
俺は、壁の高い位置を見上げた。
「あの時計、止まっていますね」
エレノアは——動じなかった。
茶器は微動だにしない。微笑みも揺らがない。呼吸も、指先も、視線の角度も、一ミリも動かなかった。
千年ぶんの完璧な仮面は、この程度の問いでは、傷一つ付かなかった。
「ええ。直す必要のないものですから」
穏やかに答えた。そして——
「ナギ様」
エレノアが、茶器を優雅に持ち上げた。
「あなたは、人の心の扉を叩く技術をお持ちのようですわね」
俺の背筋が、凍った。
「象徴的なものを指差して問いかける。止まった時計、飾られた花、古い茶器——そういったものに意味を読み取り、相手の防衛を揺らす。カウンセリング、でしたかしら。人間の世界の、新しい技術だそうですわね」
見抜かれている。
手札を、一枚残らず、読まれている。
「リヒャルト王にも、そうされたのでしょう?」
「……」
「千年生きておりますと、何人もの『あなたのような方』にお会いしてきましたわ。善意で、私の心を開こうとしてくださる方。ありがたいことです」
エレノアが、一口、茶を飲んだ。
完璧な微笑みのまま。
「ですが——私の時計は、私の意思で止めたものです。あなたに動かしていただく必要は、ございません」
完封だった。
ナギの持つ武器——共感的な問い、象徴の読み取り、段階的な踏み込み——が、全て事前に対策されている。
エレノアは「治されまい」と千年間決めてきた人だった。
俺の問いは、千年の壁に、跡すら残せなかった。
「……失礼しました」
俺は頭を下げた。それ以上、何も言えなかった。
「いえ。お気になさらず。和平の件は、検討いたしますわ」
優しい声だった。完璧な外交の声だった。
その完璧さが——拒絶そのものだった。
*
扉が閉まった瞬間、リゼが俺の袖を強く掴んだ。
「ナギ……今の」
「……完敗です」
「初めて見た。ナギが、何もできなかったの」
「はい」
俺は、正直に頷いた。
廊下を歩いていると、後ろからティアラが追ってきた。
「ナギ様」
ティアラの目が揺れていた。
「おばあさまが、あのようにはっきりと拒絶されるのを、私も初めて見ました」
「初めて?」
「いつもは、無視されるだけなのです。提案を聞き流して、微笑んで、話題を変える。それがおばあさまのやり方です。……でも今日は、明確に言葉で退けられた」
俺は、その意味を考えた。
拒絶は、無視より強い反応だ。
無視は「存在しないもの」として扱う行為。拒絶は「存在を認めた上で退ける」行為。
エレノアはナギを脅威と認識した。だから、事前に潰しに来た。
それは——少なくとも「効く可能性がある」と判断したから、壁を高くしたということだ。
だが、それを知ったところで、突破口は見えない。
*
控え室に戻ると、セラフィーナが俺の顔を見て一言。
「ナギ様、お疲れ様でしたわ」
優しい声だった。だが、すぐにその声がわずかに低くなった。
「それと——一つ、ご報告が」
セラフィーナが胸元から封書を取り出した。封蝋に教団の紋章。
「ギルド経由で王都から届きました。教団の定例議事録の写しです」
議題の最後に一行、追加されていた。
『議題第三十七号——聖女セラフィーナの出向に関する再審査について』
「ガレリウス枢機卿の手筋でしょう。予想より早いですわ」
セラフィーナが封書を畳み、俺の方に目だけを向けた。他の皆には——まだ、共有しないでほしい、という目だった。
俺は頷きを返した。
「……動き始めましたわね」
セラフィーナが、ぽつりと呟いた。声に、わずかな苦みがあった。
*
その日の夕方。ディアブラが俺の部屋を訪れた。
「……あの女王」
「はい」
「私と、同じ匂いがする」
「同じ?」
「全てを一人で抱えて、誰にも降ろせなかった者の匂いだ」
俺は椅子の背にもたれた。
「ディアブラ様。明日も行きます」
「同じことをするのか」
「いいえ。……何をすべきか、まだわかりません。ただ、同じ方法は通じないということだけは、わかりました」
ディアブラが退出した後、俺は窓辺に立った。
三人の王に、会ってきた。
リヒャルト王。優しさで決められなかった、迷いの王。
ディアブラ。決めすぎて、全てを壊した王。
そしてエレノア女王。
決めないことを決めた王。動かないことを千年貫いた王。
リヒャルトにもディアブラにも、俺の言葉は届いた。
だが今日——千年の壁に、俺の言葉は跡すら残せなかった。
今まで「踏み込むこと」を武器にしてきた。
踏み込めない相手に、俺は何ができる。
窓の外で、世界樹の梢が、夕風に揺れていた。
答えは、まだなかった。




