第95話 時の止まった国と、完璧な外交官
翠嶺の国に、宿が一軒だけあった。
千年に一度、外からの使者が訪れた時に使われる迎賓館だ。普段は誰も泊まらない。掃除だけが続けられている。
通された部屋には、塵一つなかった。
寝具は真新しい。卓上の花瓶には、朝摘んだばかりの白い花が活けてある。窓際の机には、上質な羊皮紙とインクが用意されている。
歓迎としては完璧だった。
だが俺は、部屋に入った瞬間に違和感を覚えた。
花瓶の位置。机の角度。寝具の畳み方。全てが——マニュアル通りに過ぎる。
千年間、同じ手順で同じように整えられてきた部屋。客が誰であっても、どんな目的で来ても、出される歓迎は変わらない。
「ナギ」
隣の部屋から顔を出したフランが、眉をひそめていた。
「私の部屋の花瓶、あなたの部屋と全く同じ位置に置かれているわ。誤差〇・五センチ以内」
「測ったのか?」
「目測でもそれぐらい分かるわ」
フランが部屋に戻りながら、独り言のように呟いた。
「歓迎の手順すら、千年凍っているのね」
*
昼下がり、ティアラが一行を街の案内に連れ出した。
最初に通されたのは図書館だった。
白い石造りの建物。天井が高く、書架は壁面に螺旋状に積み上げられている。膨大な蔵書。だが——
「百年に一度、書架の並びを見直しています」
ティアラが説明した。
「ただし、配置は千年前から変わっていません。並び順を確認するだけです」
「……変わっていないことを確認するために、百年に一度?」
俺の問いに、ティアラは微笑んだ。
「ええ。それが伝統ですから」
ソフィアが書架の一冊を手に取ろうとして——指を止めた。
本の背表紙の上、空中に微かな魔力の膜が張られている。手を触れるだけで埃が立たないよう、本そのものが時間から守られていた。
「……保存技術として、王立学院の文献保存術より三段階上ですね」
ソフィアが眼鏡を押し上げた。
「これだけの技術があれば、研究は無限に発展できるはずなのに——なぜ、誰も新しい本を書かないのですか」
「新しい本は、必要ないのです」
ティアラが答えた。
「千年前に書かれたもので、十分だと考えられています」
ソフィアが何か言いかけて、口をつぐんだ。研究者として、その答えは受け入れがたいものだったのだろう。
代わりにフランが、本を一冊抜き出して開いた。古い書体で書かれた魔素理論の本。フランが頁を繰る。
「……千年前の時点で、私たちが知らないことが書かれているわね」
「そんなに進んでいるのか」
「進んでいるんじゃないわ。止まっているのよ。千年前のままで」
フランが本を閉じた。表情が硬い。
「卓越した見識が千年前から進まない。これは——もったいないなんて言葉では済まないわ」
研究者二人が、同じ顔をしていた。
次に案内されたのは、街の中央広場の市場だった。
果物屋。布屋。陶器屋。香辛料屋。整然と並んでいる。だが、商品の種類が——少ない。
「果物は今年も、林檎、葡萄、苺の三種類です」
ティアラが言った。
「千年前からこの三種類で、品種改良もされていません。エルフの嗜好は変わりませんから」
「……新商品、というものはないのですか」
俺が聞いた。
「『新商品』という単語に、エルフ語の正確な訳語は存在しません」
ティアラが少し困った顔で笑った。
「新しい商品を出す、という発想自体が、商人の側にも、客の側にもありません」
ルゥが市場の隅で、果物屋の籠を覗き込んでいた。
「お兄さん。このりんご、王都のと同じ味?」
「たぶん違うと思います」
「食べたい!」
「……許可を取ってからにしてください」
ティアラが店主に何か囁き、店主が頷いた。ティアラが林檎を一つ、ルゥに手渡した。
ルゥが齧った瞬間、目を輝かせた。
「美味しい!」
次の瞬間、表情が落ちた。ルナだ。
「……ただし、千年同じ品種だとすれば、遺伝的多様性が失われている可能性が高いわ。病気が流行ったら一気に滅びる。リスクヘッジがゼロね」
「るーなー、お兄さんの前でそういう怖い話しないで……」
ルゥに切り替わって膨れる。一秒で。
俺は内心で苦笑した。研修の成果が日常の些事にまで滲んでいる。
最後に通されたのは、街の音楽堂だった。
円形の広場の中央に、石造りの舞台。十数名のエルフが楽器を構え、合奏を始めるところだった。
奏で始められた旋律は——確かに、美しかった。
だが、奇妙だった。
展開がない。
最初の四小節が繰り返され、変化なく十分以上続く。盛り上がりも、転調も、終わりも見えない。ただ同じ旋律が、永遠に流れていくだけだ。
「千年ずっと愛されている曲です」
ティアラが小声で言った。
「『翠の永遠』という題名の交響曲です。一番長いものは、演奏に三日かかります」
俺は息を呑んだ。
三日間、同じような旋律が続く曲。それは音楽というより——時間を止めるための装置だった。
その時、観客席の隅で、何かが聞こえた。
若いエルフの男性が一人、地面を見つめながら、小さく鼻歌を歌っていた。
舞台の旋律とは違う調子だった。もっと軽快で、明るく、どこか跳ねるような。
俺は目を細めた。あれは、自分で作った旋律のように聞こえた。
次の瞬間。
隣に座っていた年長のエルフが、若者の肩を軽く叩いた。何も言わない。だが、視線だけが厳しい。
若者は、即座に鼻歌を止めた。
俯いた。
それから何事もなかったように、舞台の旋律に耳を傾けるふりをした。
俺はその一連を見ていた。
短い場面だった。誰も傷つけられていないし、誰も叱られていない。
だが、何かが、確かに——殺された。
「ナギ」
隣でアリスが俺の袖を引いた。
「あの人、自分の歌をつくってたんですよね」
「……たぶん」
「私も、フリルのドレスを自分でデザインした時、お父様に叱られました。『勇者の家系にふさわしくない』って」
声が、いつもより小さかった。
「あの人の気持ち、わかります」
俺は何も言わなかった。
ただ、若いエルフの背中を、もう一度見た。彼はもう鼻歌を歌っていなかった。
千年の重みが、たった一つの鼻歌を黙らせた瞬間だった。
*
夕方。宿に戻る道すがら、俺はもう一つの異変に気づいた。
ティアラが歩く。完璧な所作で、街の中央を堂々と進む。
しかし——すれ違うエルフの年長者たちが、微妙に距離を取る。
ティアラに視線を向けない。挨拶もしない。歩道のわずかに端へ寄って、何事もなかったように通り過ぎる。
ティアラはそれに気づいている。
気づいて、気づかないふりをしている。
完璧な微笑みは、一切揺らがない。だが、年長者とすれ違う瞬間だけ、足の運びが半歩だけ速くなる。
俺はカウンセラーの目で、それを拾っていた。
この街で、ティアラは「異端」だ。
外の世界に目を向け、人間の招待状を独断で出した若いエルフ。千年の停滞に風穴を開けようとしている。
その代償が、これだ。
*
夜。迎賓館の広間で、夕食が振る舞われた。
長い卓に、エルフ料理が並ぶ。森の野菜、川魚、果実酒。色彩は美しいが——どの料理も、味付けが「優しい」を通り越して薄い。
「……これ、塩、足してもいいのかな」
リゼが小声で俺に聞いた。
「外交上の問題が出ない範囲で」
「それってどれくらい?」
「要するに、我慢してくださいってことです」
ティアラが上座でグラスを掲げた。
「ようこそ、翠嶺の国へ。明日、おばあさまとの謁見の段取りが整いました。皆様にとって、有意義な滞在になりますように」
完璧な乾杯の挨拶。
全員がグラスを掲げ、果実酒に口をつけた。
果実酒は美味かった。塩味と違って、酒は伝統が強かった。
「ナギ様」
ティアラが俺の方を見た。
「一つ、お伺いしてもよろしいですか」
「はい」
「あなたは、どうして人間と魔族の和平を進めようと思われたのですか」
外交官としての質問だった。明日の謁見前に、相手の動機を確認する。基本だ。
俺は少し考えてから答えた。
「目の前に、困っている人がいたからです」
「……それだけ?」
「それだけです」
ヴァルター公爵にも同じことを聞かれて、同じことを答えた。あの時は「馬鹿だな」と返された。
ティアラは、しばらく俺を見つめていた。グラスをくるりと回し、果実酒の表面に映る魔灯の光を眺める。
「……興味深い方ですわね」
声が、外交官のそれから少しだけ素に近づいた。
「人間にしては、面白い方。千年かけて観察してみたいですわ」
俺の隣で、リゼの箸が止まった。
空気が、〇・三度ほど下がった気がした。
「——千年って何?」
リゼの声が、低かった。
「ナギの寿命、何年だと思ってんの」
「あら」
ティアラがグラスを置いた。微笑みのまま。
「人間の寿命を存じ上げております。およそ八十年。短いですわね。……でも、八十年なら、私の千年の中の一瞬。順番に観察すれば、十二人ぶん見られます」
「ナギは見世物じゃない」
「観察は侮辱ではありません。エルフ最高の敬意の表現ですわ」
「敬意で寿命数えるな!」
「論理的に、寿命差を考慮した時間配分の議論は合理的よ」
フランが横から参戦した。火に油だ。
「だが——その配分計算で『十二人ぶん観察』が成立するなら、私は同じ計算で『十二回連続独占』を主張できる」
「フランさん、それナギを物扱いしてますよね……」
アリスが頬を膨らませた。
ルゥがテーブルの下からひょいと顔を出した。
「ティアラさん、寿命の話するなら、ルゥとルナで二倍ぶん長く生きてあげてもいいよ!」
「いやそれ寿命じゃないでしょ」
俺は思わず突っ込んだ。
「お兄さんと一緒に居る時間が二倍になるってこと!」
「論理として破綻していないわ」
「フラン、援護射撃するな」
セラフィーナが胸の前で手を組み、聖母の笑顔のまま口を開いた。
「ティアラ様。お言葉ですが——ナギ様の隣を歩く権利は、すでに十分な人数で分配されておりますの。新規の参入には、それなりの審査が必要かと」
「——あら」
ティアラが、頬に手を当てた。
ほんのり、頬が赤い。
「あら、まあ。私……何を申しましたかしら」
俺たちの議論が一瞬で止まった。
ティアラが手で口元を覆い、目を伏せた。
「失礼いたしました。今のは……忘れてくださいまし」
声が、急に若返った。
完璧な外交官の声ではない。十八歳の少女の声だった。
「おばあさまの癖が、出てしまいましたわ。千年単位で物を考えるのは、おばあさまの口癖なのです。私自身は、そんなつもりは……」
頬がさらに赤くなった。
「お恥ずかしい。本当に、お恥ずかしいですわ」
俺はその顔を見ていた。
千年の停滞の中で生まれ育った若いエルフが、自分でも気づかないうちに祖母の時間感覚を受け継いでいる。世代を超えた価値観の継承——それは伝統と呼ばれるが、本人にとっては「自分の声」と「祖母の声」の境界が曖昧になることを意味する。
ティアラは「ただの自分」になりたがっている。
だが、自分の中の「祖母」の声に、何度も足を引っ張られている。
リゼがちらりと俺を見て、ぽつりと言った。
「……まあ、無自覚なら、許す」
「リゼさん、寛大ですね」
「あたしも昔、ナギに無自覚で抱きついてたから」
「自覚した今もしてますよね」
「うん。でも今は自覚してる。それが進歩」
研修の成果はこういう形でも出る。
*
夕食が終わり、デザートの果実が運ばれてきた頃。
セラフィーナの胸元で、淡い光が瞬いた。
一瞬だった。蝋燭の炎が揺らいだのと、見間違えるような微かな明滅。
だが俺は気づいた。
セラフィーナの聖印——教団の印章を象った銀のペンダント。あれが、自ら光ったのだ。
セラフィーナが、ほんの一瞬だけ表情を翳らせた。
そしてすぐに、聖母の笑顔に戻る。
何事もなかったように果実を切り、隣のアリスに勧める。アリスは気づいていない。
俺だけが、見ていた。
セラフィーナがちらりと俺を見た。視線が交わる。
彼女は微笑んだまま、首を小さく横に振った。
今は、追及しないでください。
目だけで、そう告げていた。
俺は頷きを返した。今は、ですね。
了解の合図だった。
*
夜更け。
夕食が解散し、皆がそれぞれの部屋に戻った後、俺は宿の廊下で偶然ティアラと出くわした。
ティアラは廊下の窓辺に立ち、外を眺めていた。月明かりが、銀緑の髪を青く染めている。
「ナギ様」
俺の足音に気づき、振り返った。
「眠れませんか」
「少し、外の空気を吸いに」
「私も、です」
ティアラが少しだけ場所を空け、俺もその窓辺に並んだ。
窓の外には、街が広がっている。月光に照らされた白い石壁。蔦が絡む橋。だが、人影はない。明かりすらほとんど点いていない。
千年の街は、夜は完全に眠る。
「……明日の謁見、よろしくお願いいたします」
ティアラが静かに言った。
「おばあさまは——変化を恐れています。五百年前のことが、まだ傷として残っているのです」
「五百年前」
「大断絶戦争。詳しいことは、私もよく知りません。おばあさまは語りませんから。でも——」
ティアラが、窓辺に飾られた額縁に目を向けた。
俺もそれに気づいた。
硝子の額縁。中に、押し花が一輪、収められている。
白い花だった。花弁は色褪せ、薄茶に近い色になっている。明らかに、何百年も前のものだ。
だが——形は完璧だった。
花弁の一枚一枚が、最盛期の形のまま残されている。萎れていない。崩れていない。生きていた瞬間の姿が、永遠に保存されている。
「五百年前のものです」
ティアラが言った。
「おばあさまの……お友達からの贈り物だと聞いています。誰だったかは、教えていただけません」
俺はその押し花を見つめた。
花は、とっくに死んでいる。
だが、形だけが——ずっと残されている。
それは美しいことなのだろうか。
それとも——悲しいことなのだろうか。
「ナギ様」
ティアラの声が、少しだけ震えていた。
「おばあさまを、変えていただくことは——できますか」
外交官の質問ではなかった。
孫娘の、祈るような問いだった。
「わかりません」
俺は正直に答えた。
「変えるのは、俺じゃない。ご本人です。俺ができるのは、ご本人が変わりたいと思った時に、その手助けをすることだけです」
「……そうですか」
「でも、一つだけ言えます」
俺は押し花を見つめたまま、続けた。
「凍らせて保存することは、永遠に残すことではありません。ただ、時が止まっているだけです。本当に大切なものは——時が流れる中で、何度でも思い出されることで、生き続けるんだと思います」
ティアラが、長い沈黙の後、小さく頷いた。
「……明日。よろしくお願いいたします」
深く一礼して、ティアラは廊下を去っていった。
俺は窓辺に残り、もう一度押し花を見た。
千年の停滞の象徴。
そして、五百年前に止まった、誰かの心の象徴。
明日、俺はその「誰か」と会うことになる。
ポケットの胃薬に、手を伸ばした。




